
【温泉ファンタジー】魔界湯士Sa・Ga 第4話 魔界の守り神

霧の奥から現れた“それ”は、どう見ても神ではなかった。
人が祈りを捧げる対象として思い描く姿から、決定的に外れている。
格式がない。
神聖さもない。
ただ、そこに存在しているという事実だけが、圧となって空間を支配していた。
輪郭が滲む。
最初に見えたのは影。
次に質量。
最後に、異様な表面。
巨体。
だが、“大きい”という言葉では足りない。
近づくにつれ、視界がそれに侵食され、距離感覚そのものが狂っていく。
体表は岩のようで、岩ではない。
皮膚のようでいて、生命感が薄い。
何かが長い時間をかけて堆積し、そのまま動き出した。
そんな印象だった。
足が下ろされるたび、地面が低く唸る。
土が押し潰され、腹の奥へ重い振動が響いた。
それでも――秘湯だけは静かだった。
湯気を立て、ただ穏やかにそこに在る。
その対比が、ひどく異様だった。
スパロウは目を細める。
「……神じゃないな」
声は低い。
だが震えてはいない。
恐怖がないわけではない。
それでも、先に来たのは理解だった。
こいつは、祈る相手じゃない。
倒す相手だ。
「でも、秘湯は渡さない」
言葉にすると、腹が据わる。
そういう種類の男だった。
カトラスを抜く。
刃が、霧の光をわずかに反射した。
スパロウが魔物へ飛び込む。
迷いなく、真正面からカトラスを振り抜いた。
ガギィン!!
火花。
「硬ってぇ!?」
斬撃は弾かれ、衝撃が腕へ返ってくる。
肉を斬った感触がない。
まるで巨大な岩を叩いたようだった。
スパ子も同時に動く。
苦無。
手裏剣。
連続して放たれた刃を、魔物はすべて弾いてしまった。
牽制は、ほとんど意に介していないようだ。
魔物がゆっくりと振り向く。
その動きだけで、空気が重くなる。
スパ子が小さく舌打ちした。
「硬い上に、怯みもしないとか最悪ね……!」
スパロウは後ろへ飛び退き、距離を取る。
秘湯の湯気が、その向こうで静かに揺れていた。
二人は視線を交わす。
言葉はいらない。
次の瞬間、同時に動き出した。
スパ子が横へ走る。
苦無を連続で投げ、注意を引く。
同時に、スパロウが一直線に駆けた。
狙うのは魔物ではない。
奥の秘湯。
いつもの勝ち筋だった。
「そのまま行って! 私が引きつける!」
「おう!!」
一直線。
霧を裂き、スパロウが駆け抜ける。
だが。
ゴッ。
鈍い音。
「……は?」
身体が止まった。
何もない空間で。
見えない壁に、真正面から激突したような衝撃。
「なんだこれ!?」
前には何もない。
なのに進めない。
次の瞬間。
魔物の腕が振り下ろされる。
轟音。
地面が爆ぜる。
スパロウは横へ転がり、辛うじて回避した。
「太郎!」
スパ子が駆け寄る。
「壁なんか無かったぞ!?」
「……幻覚?」
霧が揺れる。
湯気が歪む。
景色そのものが、微妙にズレている。
思い出す。
ここへ来る前に遭遇した、幻覚の秘湯。
見えているのに、本当は違う。
触れられると思った場所に、何もない。
あるいは逆。
「魔界の霧が、認識を狂わせてる……?」
スパ子が唇を噛む。
スパロウは再び走った。
今度は横から。
岩場を蹴り、死角へ回り込む。
だが。
ゴッ。
再び、見えない何かへ激突する。
「いってぇ!?」
秘湯が近い。
見えている。
なのに、辿り着けない。
その異常さが、じわじわと現実感を削っていく。
魔物が一歩踏み出す。
地面が沈む。
空気が押し潰される。
スパ子は即座に判断した。
「太郎、無理よ! 一旦引く!」
「……秘湯は逃げない」
悔しさを押し殺しながら、スパロウが答える。
その時にはもう、スパ子の煙玉が地面へ叩きつけられていた。
乾いた破裂音。
白煙が一気に膨張し、視界を覆い尽くす。
二人は距離を取り、決して背を完全には向けず、霧の外へ後退する。
追撃はない。
それが、何より不気味だった。
秘湯は、まだそこにある。
魔物も、そこにいる。
ただ、今は届かない。
霧の外へ出た瞬間、ようやく空気が軽くなった。
完全撤退。
敗北ではない。
だが、勝利でもない。
初めて、「勝てない」と判断した瞬間だった。
そして二人の中へ、同じ認識が静かに沈んでいく。
――あれは神ではない。
――だが、秘湯を守るに足る“何か”だ。
その正体を暴くまで、この旅は終わらない。