
【連作短編】騒ぐな踊るな先を見ろ 第三話 シンガポールの夜
〜独断と偏見のエンジニア・キャリア論〜
シンガポールの夜
2014年、誠一はシンガポール事務所のITサポートを半年間担当することになった。
社内では小さな辞令だった。花形の人材がアサインされる仕事ではない。アジア太平洋地域のオフィスのネットワーク整備と端末管理。現地スタッフへの技術支援。誰もやりたがらない仕事だった。
誠一は行くことにした。
シンガポールで、誠一は初めて別の時間軸の中に入った。
現地の取引先企業は、すでにほぼ全面的にクラウドに移行していた。オンプレミスのサーバーを自社で持つという発想が、そこにはなかった。ファイルはすべてクラウドストレージに。業務システムはSaaS。バックアップもクラウド。
日本ではまだ「クラウドは本当に安全か」という議論をしていた頃に、彼らはすでにその次を議論していた。
誠一の目が、少し開いた感覚があった。
アハヌという現地エンジニアがいた。三十代前半、細身で、常に何かを考えているような目をしていた。
誠一が「日本ではクラウド移行がまだ議論段階だ」と言うと、アハヌは少し驚いた顔をした。
「でも、クラウドに行くのは決まってるよね。問題はそこじゃなくて」
「何が問題なんだ」
「誰がエンドポイントを管理するか、だよ。クラウドに行けば行くほど、デバイスとIDが境界になる。そこを誰が持つか。それが次の戦いだ」
誠一は黙った。
アハヌの言葉は、柴田の問いに対する答えの一つだった。
デバイスとIDが境界になる。
ネットワークの物理的な境界がなくなり、クラウドが中心になるとき、セキュリティの境界はどこになるか。それはデバイスであり、ユーザーのアイデンティティだ。
誠一は、自分がいる場所の意味を初めて構造として理解した気がした。
夜、ホーカーでビールを飲みながら、誠一は日本のオフィスのことを考えた。
同期の田中は今頃、何を作っているだろうか。基幹システムの刷新は完了しただろうか。その基幹システムは、5年後もオンプレミスで動いているだろうか。
自分は今、誰も注目しない仕事をしている。しかし、この仕事が向かっている場所の重要性は、これから上がる。
誠一は確信とまでは言えないが、ある種の静けさの中にいた。
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【連作短編】騒ぐな踊るな先を見ろ 序章+目次
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