
【連作短編】騒ぐな踊るな先を見ろ 第四話 騒ぐ人たちの隣で
〜独断と偏見のエンジニア・キャリア論〜
騒ぐ人たちの隣で
帰国した翌年、クラウドへの移行が社内で本格的な議題になり始めた。
経営会議では「クラウドファースト」という言葉が飛び交うようになった。コンサルタントが来て、ロードマップを描いた。IT部門は突然注目を浴びた。花形プロジェクトが立ち上がり、人員が集められた。
田中は、そのプロジェクトのリーダーの一人になった。
誠一はそれを横目で見ながら、MDMの選定をしていた。
MDM、モバイルデバイスマネジメント。スマートフォンやタブレット、ノートPCを一元管理するためのシステム。クラウドが進めば進むほど、社員が使うデバイスからどこにでもアクセスできるようになる。そのデバイスの管理がセキュリティの要になる。
誰もそこに注目していなかった。
クラウドへの移行を騒ぐ人たちは、サーバーとアプリケーションのことを考えていた。デバイスとネットワークのことを、インフラの付属品として見ていた。
誠一にとって、それは好都合だった。
静かに、着実に、誠一はMDMの知識を深めた。国内外のベンダーを比較した。Intuneが台頭してきた時期に、誰より早くその仕様を理解した。ゼロトラストという概念が語られ始めたとき、誠一はすでにその実装を試みていた。
周囲は騒いでいた。
誠一は騒がなかった。
踊らなかった、というより、踊る必要がなかった。自分がどこにいるべきかが、見えていたから。
ある日、上司に呼ばれた。新しい上司だった。木村は異動になり、代わりに来た中堅管理職、吉岡という人物だった。
「橘さん、正直に聞くけど、このゼロトラストの推進、本当にうちの会社に必要だと思う?」
誠一は少し考えてから答えた。
「五年後に必要になります。今やると早すぎると思われますが、五年後に慌てるより、今の静かな時期に基礎を作る方がいい」
吉岡は黙って考えた。
「…わかった、続けてくれ」
それだけだった。大きな承認でも賞賛でもなかった。しかし誠一には、それで十分だった。
次の話(つづき)
【目次】 連作短編小説 「騒ぐな踊るな先を見ろ」
【まとめ】小説と妄想エッセイ一覧(DP6創作記録)