【破】川越、夏のはじまりに|Alba
Parodyect MOON No.14-2
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彼女から、フォローされた。
たった一件の通知を、
三か月も待っていた気がする。
画面に浮かんだアイコンを見て、
持っていたコーヒーを置いた。
間違えるはずがない。
彼女だ。
三か月前から、ずっと探していた名前。
――いや。
名前は、今も知らない。
あの夏。
川越は、息苦しいほど暑かった。
蔵造りの黒い壁に午後の日差しが照りつけ、
通りには日傘を差した人たちが溢れていた。
僕は暑さから逃げるように、
通り沿いの小さなカフェに入った。
アイスコーヒーを頼み、
窓際の席へ向かう。
そこで、彼女を見つけた。
正確には、
彼女が読んでいる本を見つけた。
見覚えのある表紙。
僕は一度通り過ぎて、
足を止めた。
鞄を開く。
同じ本が入っていた。
偶然だったのは、
そこまでだった。
僕は本を取り出し、
彼女の隣に座った。
気づいてくれないかな。
そんなことを考えながらページを開く。
でも、文字なんてほとんど頭に入ってこない。
結局、僕から声をかけた。
「それ、好きなんですか?」
たったそれだけ。
なのに返事を待つ数秒が、
やけに長かった。
彼女は本から顔を上げ、
僕の手元を見る。
「あ、同じですね」
小さく笑った。
それだけで、
声をかけてよかったと思った。
そこから少し話した。
彼女は聞かれたことには答える。
でも、自分からはあまり話さない。
だから僕が話した。
仕事のこと。
休日に走っていること。
暮らしている街のこと。
さすがに喋りすぎだろう。
自分でもそう思った。
それでも、話した。
名前を聞く勇気もないくせに、
いつか僕を探せるくらいの手がかりだけは、
彼女の中に残しておきたかった。
そんな勝手な期待を、
会話の隙間にひとつずつ置いていった。
やがて、店を出た。
夕方になっても、
川越には昼間の熱が残っていた。
傾いた陽が、
蔵造りの町並みを照らしている。
彼女とは帰る方向が反対だった。
このまま歩けば、終わる。
名前を聞けばいい。
連絡先を聞けばいい。
たったそれだけなのに。
二、三歩が、妙に遠かった。
僕は振り返った。
彼女もこちらを見た。
「また、どこかで」
結局、出てきたのは
そんな言葉だった。
彼女は少しだけ笑った。
「そうですね」
それで終わった。
彼女にとってはきっと、
ひと夏の思い出。
そのくらいだったのかもしれない。
でも僕は、
あの日を夏に置いてくることができなかった。
――だから、探した。
帰った日の夜から。
覚えている言葉を、
何度も検索した。
読んでいた本。
会話の中で聞いた、わずかなこと。
思いつく言葉を組み合わせて、
SNSの検索窓に打ち込んでは消した。
一週間。
一か月。
二か月。
三か月が過ぎる頃には、
検索する回数も少しずつ減っていた。
もう見つからない。
たぶん、あの日だけの人だった。
それでも時々、
あの日読んでいた本を開く。
ページをめくると、
冷房の冷たさも、
氷が溶けて薄くなったコーヒーも、
本から顔を上げた彼女の表情も、
不思議なくらい蘇った。
どうでもいいはずだった一日が、
いつまでも消えなかった。

そして今日。
何気なくスマホを手に取ると、一件の通知が届いていた。
知らないアカウントからのフォロー。
いつもなら、そのまま流していたと思う。
でも、アイコンを見た瞬間、指が止まった。
一度、画面を閉じる。
もう一度、開く。
見間違いじゃない。
彼女だ。
「……見つけた」
声に出してから、少し違うと思った。
見つけたんじゃない。
見つけてもらった。
三か月前、僕があのカフェで話した仕事のこと。
走っている場所のこと。暮らしている街のこと。
僕が何気なく置いてきた手がかりを、
彼女はひとつずつ拾って、ここまで辿り着いてくれた。
思わず笑った。
あの日から何度も思い出した。
蔵造りの黒い壁。夕暮れの時の鐘。汗をかいたアイスコーヒー。
そして、名前すら聞けないまま別れた彼女のこと。
三か月分の後悔が、一気にほどけていくようだった。
すぐにフォローを返そうとして――指が止まる。
僕のプロフィール写真。
隣には姉。
その腕には、小さな姪。
三人で笑っている。
「……あ」
背中が、少し冷たくなった。
彼女も、この写真を見たはずだ。
もし、違う関係に見えたとしたら。
三か月かけて僕を見つけて、この写真を見て、
それでもフォローしてくれたのだとしたら。
今度こそ、
僕が黙っている理由はなかった。
三か月前みたいに、
言えなかったことを「仕方なかった」で終わらせたくない。
フォローを返す。
メッセージを開く。
入力欄を前にすると、また指が止まった。
自分でも少し笑ってしまう。
三か月経っても、こういうところは変わらない。
でも今度は、
それを逃げる理由にはしない。
窓の向こうでは、夜がゆっくり明け始めていた。
僕は短い一文を打つ。
「今度こそ、名前を聞いてもいいですか?」
一度だけ読み返して、
送信した。
あの夏。
僕たちは名前も知らないまま、
川越の町を反対方向へ歩いていった。
「また、どこかで」
あのときは、
ただの別れの言葉だと思っていた。
でも今度は、
名前を知るところから始められる。
ひと夏の思い出で、
終わらせるつもりはない。
窓の向こうに、新しい朝が見える。
僕は、あの日と同じように
手にしていた冷たいアイスコーヒーを飲み干した。
ふと、あの夏の川越が浮かんだ。
黒い蔵の向こうに、
朝の光が差していく。
もう一度あの町を歩くときは、
反対方向には歩かなくていい。
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