【序】川越、夏の終わりに|Crepuscolo
Parodyect MOON No.14-1
名前も知らない人を、
三か月も探すことになるなんて、
そのときは思ってもいなかった。
夏の川越は、暑い。
蔵造りの黒い壁が陽射しを吸い込み、
通りには日傘を差した観光客が途切れることなく流れていた。
私はその人波から逃げるように、
通り沿いの小さなカフェへ入った。
冷房の効いた店内。
窓際の席に座り、
アイスコーヒーを一口飲む。
ようやく息がつけた。
そのとき、
隣の席の男性がこちらを見ていることに気づいた。
正確には、私ではない。
テーブルの上に置いた本を見ていた。
彼の手元にも、
同じ本があった。
一瞬、目が合う。
彼は少し迷うように視線を外し、
それから、もう一度こちらを見た。
「その本、好きなんですか?」
そこから、
ほんの少しだけ話をした。
仕事のこと。
休日には走っていること。
暮らしている街のこと。
彼は話すたびに、
アイスコーヒーのストローに触れながら、
私の反応を確かめるように笑った。
初対面なのに、
ずいぶん自分のことを話す人だと思った。
私は、その逆だった。
聞かれたことだけ答える。
余計なことまで話して、
あとから恥ずかしくなるのが嫌だった。
それでも不思議と、
彼との会話は心地よかった。
たぶん、
旅先だったからだ。
こういう出会いは、
日常まで持ち帰らないほうがいい。
旅先で出会って、
少し話して、
そのまま別れる。
それくらいが、ちょうどいい。
だから私は、
名前を教えなかった。
彼の名前も、聞かなかった。
やがて、
店を出る時間になった。
外へ出ると、
傾き始めた陽が蔵造りの町並みを照らしていた。
彼は私とは反対の方向へ歩き出す。
二、三歩進んだところで、
ふと振り返った。
「また、どこかで」
私は少しだけ笑って、
「そうですね」
と返した。
たぶん、これでいい。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
もう二度と会わないかもしれない。
それも含めて、
ひと夏の思い出。
そのときの私は、
本当にそう思っていた。
――なのに。
自宅に戻った翌日の夜、
私は検索窓に「川越」と打ち込んでいた。
何をしているんだろう。
そう思って、
すぐに画面を閉じた。
三日後。
今度は、
彼が話していた仕事を検索した。
一週間もすると、
走っていると言っていた場所まで、
ちゃんと覚えていることに気づいた。
別に、
会いたいわけじゃない。
ただ、
見つかったら少し面白い。
それくらいのつもりだった。
けれど、
見つからない日が続くほど、
検索する回数は減るどころか増えていった。
電車で似た横顔を見かけるたびに、
一瞬だけ目で追った。
何気なく開いたSNSでも、
気づけば彼につながりそうな言葉を探していた。
それでも、見つからない。
一か月が過ぎ、
二か月が過ぎた。
もうやめようと思うたびに、
なぜか数日後には、
また検索窓を開いていた。

そして三か月後。
その日は、
突然やってきた。
見覚えのある横顔に、
指が止まる。
彼だった。
やっと見つけた。
その瞬間、
思っていたより嬉しい自分に気づいて、
少しだけ戸惑った。
プロフィールを開く。
けれど次の瞬間、
その小さな高揚は、
きれいに消えた。
写真には、
彼とひとりの女性。
その腕には、
小さな女の子が抱かれていた。
三人とも、
楽しそうに笑っている。
私は画面を見たまま、
しばらく動けなかった。
そうなんだ。
口に出すほどでもない言葉が、
静かに胸の中へ落ちた。
何も約束していない。
名前すら知らない。
勝手に探して、
勝手に見つけただけ。
がっかりする理由なんて、
最初からどこにもない。
それなのに。
画面には、
「フォローする」
の文字。
親指をそこまで動かして、
止める。
数秒だけ見つめて、
私はスマホを伏せた。
窓の外には、
細い月が浮かんでいた。
あの日の川越も、
こんな夕暮れだった気がする。
人の声。
黒い蔵の壁。
汗をかいたアイスコーヒー。
そして、
二、三歩先で振り返った彼。
「また、どこかで」
今になって、
その声だけが妙にはっきり蘇る。
私は伏せたスマホに、
そっと指を置いた。
それから、
小さく息を吐く。
ひと夏の思い出は、
夏が終われば泡のように消えるものだと思っていた。
窓の外では、
細い月だけが、
静かに揺れて見えた。
▶︎続編はこちらです。
🐰りりぃさんの企画、
「#裏りりぃの秘密箱」 に参加しています。
そして
宵空さん主催の企画
「ひと夏の思い出」にも参加しています。
