
【読む鍼灸院】「四十二歳、巡り直す。ー町家と身体の養生小説ー」第4章:聖域の丹田 ── 「肺」と深い呼吸
こんばんは、鍼灸師の naoko です。
京都も梅雨明け。本格的な夏到来です。
季節を感じながら。第4章は晩秋ですが、季節先取りで読んでいただけましたら幸いです。
【第3章までのあらすじ】
四条烏丸に残る町家の再生を任された不動産会社員・高瀬葉月(42)は、効率だけでは測れない「人が帰ってこられる居場所」を守りたいという想いを胸に、再生計画を進めていく。六角堂や嵯峨野での時間を通して心身の巡りを取り戻した葉月の想いは、効率を重視していた同僚・佐藤の心も動かした。さらに、新オーナーとなる五条との出会いによって、町家は「本屋×カフェ×サテライトスペース」という新しい形で生まれ変わることに。売主・松原から町衆の想いを託された三人は、この場所を次の時代へつなぐことを誓う。
第4章:聖域の丹田ーー「肺」と深い呼吸
全ての交渉と社内承認が終わり、松原さんの町家は正式に五条さんへと引き継がれた。
それから──。
佐藤が心血を注いだ本気のリノベーション工事が完了し、オープンを数日後に控えた、晩秋の静かな夕暮れのことだった。
葉月は最終確認のために、一人でその場所を訪れていた。
夕陽に染まる四条烏丸の喧騒を背に、生まれ変わった町家の、新しく設えられた表の格子を抜ける。
一歩、通り庭(土間)へと足を踏み入れた瞬間、葉月の胸の奥に、かすかにインクと紙の瑞々しい香りが立ちのぼった。
見上げれば、古い黒い梁と、最新の断熱構造を内包した白い壁が、驚くほど自然に調和している。
手前のミセノマには、五条さんが全国から集めた本が整然と並び、カフェのカウンターからは、珈琲を淹れた余韻がまだ空気にやわらかく残っていた。
奥へ進むほどに、空間はなだらかに静けさを増し、発送手続きやデータ管理を行うサテライトスペースへと、一本の背骨のように滑らかにつながっていく。
ふと、中庭に目を向けると、そこに一人の男性がいた。
新しいオーナーとなった、五条さんだ。
彼は、葉月が一番こだわった「風の通り道」であり、かつて松原さんが守り続けたあの縁側に腰を下ろし、夕暮れの淡い光の中で一冊の本を静かに開いていた。
サラリ、とページをめくる指先の細やかな動き。
そして、夕暮れの澄んだ空気を吸い込み、ゆっくりと深く吐き出される呼吸。
東洋医学において、「肺」は天の気を取り込み、全身の気の巡りを整える臓腑とされる。そして、取り込まれた息は、やがてお腹の底の「丹田」へと静かに収まっていく。
その佇まいは、この町家そのものが彼の丹田となり、都市の喧騒で乱れた気が、静かに落ちていく聖域へと変わったことを物語っていた。
葉月は息をひそめ、その光景を見つめていた。
そのとき、足元の古い床板が、小さくきしりと音を立てた。
五条さんが顔を上げ、葉月に気づくと、ふっと目元を和らげた。
「あ、高瀬さん。気づかなくてすみません。今、ここの風がすごく心地よくて。」
「いえ、お邪魔してしまって。……本当に、いい風が通りますね。」
葉月が歩み寄ると、五条さんはトントン、と隣の縁側を軽く叩いた。
「よかったら、少し座りませんか」
「ありがとうございます」
少し緊張しながら、葉月は五条さんと並んで縁側に腰を下ろした。
二人の間に、心地よい秋の風がすうっと通り抜けていく。
「ここを歩いているとね」
五条さんは本を閉じ、中庭の木々を愛おしそうに見つめた。
「実家の古い書庫にいたときみたいな、変に気負わなくていい安心感があるんです。でも、バックヤードに回ると、佐藤が仕込んでくれた最新のシステムがちゃんと動いている。古いのに新しい。不便なのに、すごく滑らかで……。
一度言葉を切り、五条さんは葉月の方を見た。
「高瀬さん。あなたがこの『通り土間の軸』を残してくれなかったら、僕はここで新しい一歩を踏み出す勇気が出なかったかもしれない」
その瞳は、静かに真っ直ぐだった。
「ここは、僕にとって『帰ってこられる場所』になりました。本当に感謝しています。」
不意に投げかけられた言葉に、葉月の胸の奥がトクン、と小さく跳ねた。
「……私は、ただ、この場所に流れる人の気配を繋ぎたかっただけです。でも、そう言っていただけるなら、あきらめなくて本当によかったです」
「あきらめないでいてくれて、よかった。」
五条さんは少しだけ笑みを深めた。
「これからは僕がこの場所を育てていきます。だから高瀬さん」
少し茶目っ気のある声。
「オープンしてからも、ちゃんと生存確認しに、ここへ『帰って』きてくださいね。あなたががいないと、この場所の風が止まってしまいそうだから」
「ふふ、生存確認、ですね。サボっていないか見にきます」
そう言って笑い合いながら、葉月は自分の頬が、夕暮れの光のせいだけではなく、ほんのりと熱を帯びていることに気づいていた。
五条さんの言葉は、優しく、けれど確実に、葉月の心の奥に新しい温度を残していった。
「では、私はこれで。オープンの日、楽しみにしています。」
「ええ、またすぐに」
葉月は立ち上がり、静かに門を出た。
一歩外へ出ると、ビル群の隙間を抜ける秋の風が頬をなでた。
かつて喉の奥に抱えていた、消えないつかえ(梅核気)は、もうどこにもない。
自分の身体の中心──おへそのあたりに、かつてないほどどっしりとした、そしてわずかに甘さを感じながら、葉月は前を向いて歩き出した。
▶︎第5章:最終章 五臓が巡る町に続きます。
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