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「四十二歳、巡り直す。ー町家と身体の養生小説ー」第2章:帰る場所の調律ー「心脾」と養生【読む鍼灸院】

    こんにちは。鍼灸師の naoko です.

    第2章「帰る場所の調律 ― 心脾と養生 ―」

    8月の京都。
    嵯峨野の実家へ帰省した葉月は、姉・一花とともに、子どもの頃から親しんだ清涼寺へ向かいます。
    静かな廻廊を歩き、風を感じ、写経をし、そして懐かしい湯豆腐屋で味わう「からし豆腐」。
    心が少し疲れたとき、人は「帰る場所」があるから、また前へ歩き出せるのかもしれません。

    読んで、ほっとひと息ついていただけたら嬉しいです。

    【前回までのお話】
    祇園祭を控えた京都。42歳の不動産会社員・高瀬葉月は、四条烏丸に残る一軒の町家再生プロジェクトを任される。しかし、効率を重視する同僚・佐藤が提案した図面は、町家の魅力である通り土間や坪庭を失わせるものだった。葛藤する葉月は六角堂の「へそ石」と出会い、大極殿本店で赤紫蘇の琥珀流しを味わう中で、「人がほっと帰れる場所」を残したいという想いを確信する。そして、その想いは少しずつ佐藤の心も動かし始めていた。



    お盆の頃、葉月は嵯峨野の実家へ帰省した。

    うだるような街中の熱気を離れ、久しぶりに姉の一花と並んで、近所の清涼寺へ向かう。

    境内へ一歩足を踏み入れると、青々と茂る木々が強い陽射しをやわらげ、涼やかな風がすっと頬をなでた。

    子どもの頃から慣れ親しんだこの場所は、訪れるだけで自然と呼吸が深くなる。

    本尊のお釈迦さまの体内には、絹で作られた五臓六腑が納められている。

    その姿を見つめていると、子どもの頃、父が静かに話してくれた言葉がふとよみがえった。

    「人の身体の中にはなぁ、小さな宇宙がちゃんと宿ってるんやで。自然と仲ようしてたら、身体もちゃんと応えてくれるんや。」

    あの頃は、その意味がよく分からなかった。
    けれど今なら、少しだけ分かる気がする。

    あの頃から、私は空間に惹かれた。

    その場所に立つだけで気持ちがやわらぐ空間。

    安心して深呼吸できる空間。

    あるいは、凛とした静けさに身が引き締まる空間。

    人は、どんな空間で過ごすかによって、気の巡りまで変わっていく。
    建物は、人の暮らしを包み込むだけでなく、その人の「気」を養う場でもあるのかもしれない。

    二人は本堂の裏手に広がる庭園へと足を向けた。

    本堂から続く木造の廻廊を、ゆっくり歩いていく。

    放生池に浮かぶ弁天堂。

    風に揺れる木々。

    足裏へ伝わる木のぬくもり。

    一歩、一歩と歩みを重ねるたび、不思議なくらい身体が軽くなっていく。

    最近は仕事に追われ、こんなふうに地面をしっかり踏みしめて歩くこと、忘れてた。

    そんな葉月の足元を見ながら、一花が微笑む。

    「葉月、足の裏の『湧泉(ゆうせん)』って覚えてる? 」

    「もちろん。元気が湧くツボでしょう?」

    「そう。その名の通り、生命力が泉みたいに湧いてくる場所。木の感触をちゃんと感じながら歩くと、頭にのぼった熱がすうっと下りていくのよ。」

    葉月はそっと足裏に意識を向けた。

    「……本当だ。木がひんやりして、気持ちいい。」

    二人は写経ができる静かな部屋へ、用意された机を前に腰を下ろした。
    葉月は筆ぺんを持つ。

    聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、庭を渡る風の音だけ。

    一文字、また一文字。

    呼吸を整えるように筆を運ぶ。

    書き終えた写経を奉納し、再び廻廊を歩き始めたときだった。

    葉月は思わず立ち止まる。

    さっきと同じ床を歩いているはずなのに、足取りがまるで違う。

    頭の中の霧が晴れ、景色の輪郭までくっきり見えていた。

    (心に余白を作るって……こういうことなんだ。)

    胸の奥で張り詰めていた糸が、静かにほどけていく。

    「なんだか急に、お腹が空いてきちゃった。」

    葉月が笑うと、一花もつられて笑った。

    「さっきまであんなに疲れた顔をしてたのに。」

    「自分でもびっくり。」

    「湿気の多い京都の夏に、冷たいものばかり飲んでたんでしょう?」
    葉月は苦笑いする。

    「図星やわ。」

    「お腹(脾)も少し疲れてたのね。でも、ゆっくり歩いて身体が巡り始めたから、お腹もちゃんと目を覚ましたんだと思う。」

    葉月は下腹にそっと手を当てた。

    確かに、お腹の奥がじんわり温かい。

    「じゃあ、お腹に優しいものを食べに行こか」

    「もしかして……。」

    「うん。あのお店。」

    顔を見合わせた姉妹は、子どもの頃と変わらない笑顔で、二人は嵯峨野の夏の道を歩き出した。


    暖簾をくぐると、懐かしい店主の笑顔が出迎えてくれた。

    「いらっしゃい。久しぶりやねぇ、元気にしてたかい?」

    「お久しぶりです。 はい、おかげさまで。」

    そこは葉月が学生時代にアルバイトをしていた、清涼寺のすぐそばにある湯豆腐屋だった。京都の料理人からも厚い信頼を寄せられる「森嘉」のお豆腐を、心ゆくまで味わえる店である。

    ほどなく葉月の前にお豆腐の入った土鍋がテーブルのコンロの火にかけられる。

    土鍋から湯気が立ち上がるまで、ほかの料理に箸を伸ばした。

    艶やかな胡麻豆腐、丁寧に煎りつけられた卯の花。
    透き通る刺身こんにゃく。
    出汁をたっぷり含んだひろうすと季節の炊き合わせ。
    生湯葉に、揚げたての天ぷら。

    そして、土鍋の湯豆腐が食べ頃に。
    森嘉のお豆腐は、木綿でありながら、驚くほどスルッと滑らかな舌触りを持つ。夏であっても湯豆腐は絶品だ。

    そして…この季節のもう一つの楽しみは、冷たい「からし豆腐」。丸く仕立てられたお豆腐の中心に和辛子が忍ばせてあり、ひと口頬張ると、爽やかな辛みが大豆の甘みをふわりと引き立てる。

    「……ん!おいしい。」

    思わず葉月の頬が緩む。

    「身体に、すうっと染みていくみたい」

    「ふふ。相変わらず、いい食べっぷり。」

    一花が笑う。

    「私のソウルフードやからね。」

    葉月は甘梅の天ぷらを口に運び、思わず目を細めた。

    「これも変わらない。甘酸っぱくて、本当においしい。」

    その様子を見ながら、一花は静かに湯呑みにお茶を注ぎ足した。

    「帰ってきたときは、ずいぶん思い詰めた顔をしてたけど……少しは楽になった?」

    葉月は箸を置いた。

    「うん。実は仕事で迷ってることがあって。」

    四条烏丸の町家。

    再生計画。

    効率を優先する設計。

    そして、自分が守りたい空間。

    葉月は胸の内を、少しずつ言葉にしていった。

    一花は途中で口を挟むことなく、静かに耳を傾けている。

    話し終えると、一花は窓の外の縁へ目を向けた。

    「歴史ある建物ってね。」

    穏やかな声だった。

    「そこには、何十年、何百年っていう時間の中で、人が暮らしてきた記憶が積み重なっているの。便利さだけではつくれない温かさって、きっと、その『人の気配』なんやと思う。」

    葉月は黙って聞いていた。

    「もちろん、新しく変わることも大切。でも、受け継いでいきたいものもあるでしょう。身体も同じなの。」

    一花は湯呑みを包み込むように持った。

    「検査や手術、投薬で病気を治すことは、とても大切。でも、それだけでは心が追いつかない人もいる。

    そんなとき、昔から受け継がれてきた養生の知恵や、人の手の温もりが、その人を支えてくれることがあるの。」

    少し間を置いて、一花は葉月を見つめた。

    「そうするとね。『今の私にも、まだできることがある。』そんな気持ちが、少しずつ戻ってくるの。」

    葉月は静かに頷いた。

    「だから葉月。」

    一花は微笑む。

    「もし、その町家を守れる立場にいるなら…そこに残っている『人の気配』まで、大切にしてあげて。」

    葉月は小さく息を吐いた。

    「……古い建物の力、か。」

    胸の奥に引っかかっていたものが、からし豆腐の爽やかな辛みとともに、ゆっくり溶けていく。

    「ただ建物を残すんじゃない。」

    ぽつりと葉月がつぶやく。

    「人が、また帰って来られる場所を残すんだ。」

    その言葉に、一花は何も答えなかった。

    ただ嬉しそうに微笑んだ。

    食事の締めは、炊き立てのご飯と味噌汁。

    最後に生麩まんじゅうを口へ運ぶ。

    「ごちそうさま。」

    自然と笑みがこぼれる。

    身体が満たされると、不思議なくらい心まで軽くなる。

    帰ってきてよかった。

    葉月は、心からそう思った。


    お盆が明け、オフィスにはいつもの日常が戻ってきた。

    休み明けのどこか緩んだ空気とは対照的に、会議室に張り詰めた静けさが漂っている。

    葉月は上司と佐藤の前に立ち、ゆっくりと息を吸った。

    実家で過ごした時間。

    清涼寺の静かな廻廊。

    姉の言葉。

    そのすべてを胸に、葉月は口を開いた。

    「先日、四条烏丸の東側を、もう一度歩いてきました。」

    会議室の視線が集まる。

    「町家は次々と姿を消し、マンションやオフィスビルへ建て替えられていました。時代の流れと言えば、それまでかもしれません」

    少し間を置いて、葉月は続けた。

    「でも、その新しい建物を見上げながら、ふと思ったんです。
    私たちは効率のいい『箱』をつくることには成功しても、そこで暮らす人の心まで満たせているのでしょうか。」

    上司は黙ったまま聞いている。

    「町家には、表から裏へと続く通り土間があります。

    風が抜け、光が巡り、人が自然と奥へ導かれていく。

    そこへ本があり、珈琲の香りが漂い、それぞれが思い思いの時間を過ごす。

    言葉を交わさなくても、同じ空間を心地よく共有できる。

    そんな場所だからこそ、人は少しだけ呼吸を深くして、自分を取り戻せるん
    じゃないでしょうか。」

    葉月はまっすぐ上司を見つめた。

    「私は、この町家を再生することは、一棟の建物を残すことではないと思っています。京都の真ん中に、人が安心して帰ってこられる『居場所』を、もう一度つくることだと思うんです。」

    言葉が静かに途切れ、会議室は、水を打ったように静まり返った。

    ビジネスとしての採算、更地にした方が確実な利益が出るという現実の天秤。重苦しい沈黙が、部屋の空気をじわじわと重くしていく。

    上司は腕を組んだまま動かない。

    そのときだった。

    椅子の引く音が、小さく響いた。

    「……僕も。」

    佐藤だった。

    「高瀬さんのその意見に、賛成です。」

    いつも冷静沈着な彼の声が、少しだけ緊張で震えている。
    上司が驚いたように眉を上げた。

    「佐藤、お前が更地案を推していたんじゃないのか。」

    「はい。」

    佐藤は静かに頷いた。

    「でも、六角堂へ行って、あの町家を歩いて……ようやく分かりました。」

    眼鏡の奥の瞳は、まっすぐ前を見据えている。

    「効率だけを追いかけても、人は集まりません。この町家には、通り土間という一本の軸があります。その流れを残すからこそ、この場所にしかない価値が生まれる。」

    佐藤は自分の手元の図面へ目を落とした。

    「あの軸を生かしたまま、現代の機能と耐震性を両立させる設計を考えたい。百年先まで、この場所が『居場所』であり続けられるようなリノベーションを、僕にやらせてください。」

    会議室に再び静寂が訪れる。

    しかし、その静けさは、先ほどまでの重苦しいものではなかった。

    葉月は思わず佐藤の横顔を見つめる。

    六角堂で「へそ石」を見つめていた彼。

    大極殿で、琥珀流しを前に「効率ですね」と真顔でつぶやいていた彼。

    あの日、小さく動き始めた何かが、今、確かな形になっていた。

    葉月は胸の奥で、小さく微笑む。

    風を通したいと願ったのは、町家だけではなかった。

    人の心にも、きっと同じように風は通る。

    窓の外では、お盆を越えた京都の空が、ほんの少し高く澄み始めていた。

    その風は、これから始まる新しい町家の物語を、静かに後押ししているようだった。


    ▶︎第3章:決断のblue printー肝胆の実行ーに続きます。


    🌿第1章はこちらです

    🌿シリーズ1はこちらです


     
     
    鍼灸師。総合病院の東洋医学研究所を経て、現在は古都里山で地域の方々に寄り添う鍼灸院をしています。鍼灸院で、ママ講座で、日々みなさんにお話しているセルフケアを一冊のノートに。そして、読むことで東洋医学やツボのこと、ケアのことがわかるようになる『読む鍼灸院』をこのnoteで開院中。

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