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「見えるようになるまで」 心筋梗塞篇 前篇

救急車が来る前、救急外来は静かだ。
でも自動ドアが開いた瞬間から、世界が変わる。

倒れた43歳男性。
妻のバイスタンダーCPR。
AEDによる除細動。
そして始まる、若手医師の闘い。

※本記事は創作大賞応募期間中のため全文公開しています。応募期間終了後は一部有料公開へ戻す可能性があります。


まえがき

「見えるようになるまで」第3弾をお送りする。
今回は“心筋梗塞篇 前篇”である。

これまで書いてきた、第1弾

そして第2弾

そして今回は、新たな登場人物が活躍してくれる。

私はこの「見えるようになるまで」シリーズで、“若手に伝えたいこと”を物語で表現するという挑戦を続けている。

だが、これは単なる医学教育の物語ではない。

極限の緊張の中で判断し、支え合い、育っていく。
そんな医療現場のリアルを通して、若手を育てる立場の人や、何かを必死に学んでいる人達にも、何かを感じてもらえたら嬉しい。

部長のOn/Off

Audibleで物語を聴きながら、毎日毎日同じ高速道路を走る。
いつものインターで下りて料金所に向かうと、高速道路を跨ぐ高架橋から見渡す山々の景色は、毎日見ていても飽きることはない。
山々は、頂きにまだ少し雪が残り、目の前に広がる高原の畑と深い河岸段丘の向こう側に大きく広がっている。
病院のある川のほとりまで坂を下ると、水を張り、田植えを終えたばかりの田んぼに、先ほど遠くに眺めていた山々が映り込んでいる。

朝の清々しい青空と、目の前を山と川に囲まれた景色と合わせて、本当に美しい。

通勤時間は約1時間。
ドライブ好きの私にとっては、とてもいい時間である。

帰宅時間の高速道路から見える夕焼け時の景色も素晴らしい。
淡いピンクがかったグレーから少しずつ濃くなる山並みのグラデーション。
そして山の向こうに日が沈み、まだ明るい空には宵の明星が輝いている。

こんな景色を見ながら頭がリセットされると、自宅ではリラックスした時間を過ごすことができるのだ。

以前、職場のすぐ近くに住んでいた時には、仕事とプライベートの切り替えがうまくいかなかった。
自宅に帰っても、その日にやったカテーテル治療が頭に浮かび、救急車の音が聞こえれば、心臓の急病者が病院に運ばれているのではないかと想像してしまう。
それが今は1時間弱の通勤時間に、美しい景色を見ながら物語の世界に入り込むことで、頭がリセットされる。

やはり私達のような、緊張を強いられる仕事に携わる人には、OnとOffを切り替えるスイッチが必要なのだと痛感する。
たとえどんなに忙しい時でもあってもだ。

しかし、時には自宅に帰り着いた瞬間を狙ったかのように...
時にはベッドでうとうとと寝ついた頃に...
大きな音で呼び出しの電話が鳴る。

最近は、他の用事で電話が鳴ることは滅多にないし、着信音はずっと変えていない。
だからあのメロディーが鳴れば、病院からと、ほぼ決まっているのだ。

そして、あのメロディーが聞こえれば、頭のスイッチは勝手にOnになる。

電話に出ると、向こうでモニター音が「ピッピッ」と鳴っているのが聞こえる。
救急外来か、もしくはハイケアユニットからだろう。
そんな時、相談だけで終われることもあれば、急いで駆けつけなければならないこともある。

もし相談だけで済んだとしても、一度Onになった頭はそう簡単にはOffになってくれない。
どうしても、「自分の判断が正しかったのか?」「その後の経過はどうなった?」と気になってしまいベッドに戻ってもなかなか寝付けない。

どれだけ経験を積んでいても、こればかりは駄目なのだ。
よく考えると、過酷な職業である。

一方で、もし病院に行くと決めれば、電話が鳴った時から、頭はずっとOnのままとなる。

この時ばかりはAudibleで物語を流していても、全く頭に入ってこない。
そして実はこの時、頭の中ではすでに治療を始めているのだ。

電話で聞いた症状経過や年齢、既往症など、そして送られてくる一枚の心電図。
たったこれだけの情報で、病院に到着してからの治療のシミュレーションを開始する。
そして1時間後、病院に到着する頃には、既に様々なケースをシミュレーションし終えていて、これからどうするかは、ほぼ決めている。

これが、病院から少し遠くに住む、循環器内科の責任者としてのオンコールの実態である。

今日も、高速道路を走って自宅に帰りついた瞬間、大きな音であのメロディーが鳴った。

今月は妙に呼び出しが多い...

2年目後期研修医の救急外来

救急外来の自動ドアの向こうに赤色灯が光っている。
病院の敷地内に入ると、救急車は音もなく、赤い光だけを煌めかせて救急外来へやってくる。
自動ドアが開くまでは、ドアの向こうの救急車内がどれだけ修羅場であっても、とても静かである。

救急隊の現着時には心肺停止の状態であったようだ。
胸を苦しがって倒れたところに居合わせた妻が、心臓マッサージをしてくれていたと情報が入っている。
救急隊の心電図波形は心室細動で、すぐにAEDによる除細動を行って心拍が再開したようだ。

島口夕子は緊張していた。

昨年の後期研修1年目の当直では、なぜか重症患者さんが多かった。
重症過ぎて手に負えず、院内に残っていた高尻先生を何度呼んだか分からない。
でも今日は、高尻先生は昨日の菊岡の当直のサポートに呼ばれていて、今日は2人とも早めに上がってしまった。
そして部長も、1時間くらい前に仕事を終えて帰っていくのを見た。

今、島口は1人だ...

4月に部長から
「後期研修2年目になったのだから、できるだけ一人で、自分にできることを考えて実行しないといけないよ。」
と言われた。

「自分一人で考えることを、たくさん経験するしかないんだ。近道はないからな。」
この前もそう言われたことを思い出す。

それは分かっているが、やはり心細い。
赤い光が自動ドア越しに見えて、涙が出そうになる。

心拍が再開しているらしいから、少しは考える時間があるだろうか?
でも、働き盛りの43歳男性、絶対に救いたい。

そんなことを考えていると救急外来の自動ドアが開いて、救命士が興奮した様子で近寄ってくる。

「現着時心肺停止でしたが、近くにいた奥さんが倒れてすぐにバイスタンダーCPRをしていました。心室細動を確認してAEDの除細動一回で心拍再開しました。その後意識はまだ混濁していて意思疎通はできていませんが、血圧は100で脈拍45の徐脈です。」

“完璧な申し送りだ”と感心しつつ、
「倒れる前の状況は聞いていますか?」
と問うと、

「仕事から帰って風呂に入ろうとしたところで、胸を苦しがって冷や汗をかいていたそうです。」
救命士が答える。

「持病は聞いていますか?」
島口が聞くと、

「近くの診療所で血圧の薬だけもらっていたそうです。」
と答えが返ってきた。

少しぼーっとしているが、バイタルはギリギリ保たれている。
これなら落ち着いて処置ができそうだ。

「心電図、レントゲン、血液検査して。」
島口は救急外来当直の中堅看護師、大森元美に伝える。

「ルートはリンゲルでいい?」
「凝固と血糖、Vガスも取りますか?」
「挿管する?」

矢継ぎ早に聞かれて島口は焦る。

ちょっと待って、待って...

たくさん考えることがあり過ぎて、何から手をつけていいのか思い浮かばない。

「誰か呼びますか?」
大森に言われるが、“まだダメだ”と自分に言い聞かせる。
そしてその言葉を言われて冷静になれた。

あえてそれには答えずに、
「心筋梗塞かもしれないから、まずは早く心電図、そしてエコーやるから準備して下さい。」
と島口は言った。

心電図ではⅡ、Ⅲ、aVFでSTが上昇していて洞徐脈だった。
下壁梗塞から心室細動になったのは間違いなさそうだ。

エコーを当ててみると、患者さんはぽっちゃり体型の身体で、壁運動は見えづらいが、それでも下壁の動きが悪いことくらいはすぐに分かった。

血液検査の結果はまだ出ていない。
でも、これはどう考えても緊急カテーテルで治療しないといけない。

「大森さん、心電図をすぐに部長に送って、連絡して下さい。」

「多分、緊急カテーテルになるから、放射線技師さん、臨床工学技士さん、それとカテーテル検査室の看護師さんにも連絡して下さい。」

そう言ってから島口は思った。
もし部長が来られなかったらどうしよう?
もし来られなかったら、高尻先生に連絡するしかないか。

もし高尻先生も来られなかったら、そしたら自分にできることがあるだろうか?

頭の中は、フル回転だ。

溢れそうになっていた涙はいつの間にかどこかへいっていた。

すぐに部長からコールバックがあった。
「心電図見たけど、下壁の心筋梗塞だな。すぐに戻るから、カテーテルの準備しておいて。」

「ところで、発症からどれくらいなんだ?ちょっと徐脈だけど、血圧は大丈夫か?」

「心肺停止で救急要請になって、バイスタンダーCPRありです。
10分で救急隊がAEDで除細動して心拍再開したそうです。
それから10分で病院に到着しました。
今はまだ意識は混濁していますが、自発呼吸も体動も問題ありません。」
島口は答えた。

「患者さん、何歳?」
部長に問われ、大事な情報を伝え忘れていたことを思い出す。

「43歳です。」
「え、若いな、既往症と今飲んでいる薬は分かる?」
「高血圧で降圧薬だけ飲んでいるそうです。」
と答える。

「血液データはまだか?」
と部長に問われ、
「心電図とエコーだけやってすぐに連絡したので、まだ結果は出ていません。」
と答えた。

「よし分かった。カテーテルのオーダーとか、家族にインフォームドコンセントとか、できるよな。」
「アスピリンとプラスグレル飲ませて、カテーテル検査室の準備ができたら消毒までやっておいて。」

「島口、今のところ完璧に対応できているぞ。じゃあ次のステップな、俺が到着するまでに、もし“何か”があるとしたら何だ?」

「“何か”が起きるかもしれないと想像して、その時にどう対処したらいいかを、今の時点で考えておくんだ。“何”も起きていない今じゃないと意味がないんだ。“何か”が起きてからでは遅い。これから先の1時間の間に起こるかもしれないことは、自分の中では“すべて想定の範囲内”という状態にしておくんだ。」
部長はそれだけを言って電話を切った。

島口は一瞬頬が緩んでしまった。
でもモニターを見ると一瞬で現実に引き戻される。

脈拍は40、そしてモニターで見ても明らかにSTは上がりっぱなし。
時々心室性期外収縮も出ている。

まずはインフォームドコンセントだ。

待合室で青い顔をしている妻を診察室に入れる。
こういう心筋梗塞の緊急治療を行う時の話は、あまり楽観的に伝えてはいけないと、高尻から教わった。
とはいえ、こんなに青い顔をしている妻になんと言ってあげればいいのだろう?

そんなことを思いながら、あえて淡々と事実を伝える。

一般的なリスクを伝えた後に、心筋梗塞の治療がいかに危険かも話さなければならない。
島口は自分で話をしながら、その惨たらしさに、妻の顔を見ることができなかった。

でも迷っている時間はない。
今は、とにかく治療に進まなければならない。

医者のこの辺りの匙加減は本当に難しい。
医者はリスクがあるという事実を伝えた上で、患者や家族の同意を得たという証拠としてサインを求める。

ここに“医者自身の保身のため”というリスク管理目的があるのも否定はしない。
しかしこの突然の悲劇の時に、大切な人のために何かを決断する家族の気持ちを考えると、本当に心が痛むものなのだ。
それでも、これは“医者が患者に対する責任を追う”という覚悟の儀式でもあると部長から教わったことがある。

「お願いします。」

書類を整理しながら、ちらりと目を向けると、隣で深々と頭を下げる妻の顔は、本当に真っ青だった。

島口が準備をしようとカテーテル検査室へ向かう途中、中堅看護師の大森が奥さんを待合室に案内しているところだった。

「先生達を信じて待っていましょうね。」
と優しく肩を抱いて声をかけているのが聞こえた。

治療した記憶がない

カテーテル検査室に入ると、カテーテル検査室のお姉さん看護師、澤部知代が準備万端整えていた。

「もう患者さん連れて来ても大丈夫ですか?」
島口が聞くと

「大丈夫よ。ところでバイタルは大丈夫?」
「穿刺は右手からでいい?でも鼠径も準備するよね?」
「除細動器のパッドは貼る?一時ペーシングはする?」
ここでも矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

この質問から、すでに色々な情報収集を済ませていることが分かる。

さすがにカテーテル室専門の看護師さんだ。

もう部長とは長く一緒に仕事をしているらしい。
病院の近くに住んでいて、緊急時には一番に飛んできてくれる。
そしてどんなに緊急事態でも、ふとした時に笑顔を見せてくれる、カテーテル検査室の頼もしいお姉様だ。

この前部長が言っていた。
部長が健診で胃カメラを受けた時に、澤部さんが担当だったらしい。

「一番辛いところを超える時、どうしても涙が出てくるんだよ。その時にさ、澤部さんがすごく自然に背中に手を当ててくれていたんだ。何も言わずにただ手をあてていただけなんだよ。でもそれがさ、すごい安心感でな。うわー、看護ってこういうことかって、患者さんの立場になって、ちょっと感動したんだよね。」
「これ、本人には言ってないから、一応内緒な。」

この話を聞いた時、部長が澤部さんを信頼していることが分かって、少し羨ましかった。

今は緊迫した状況だ。
しかも、さっき言われた宿題も、まだ答えを出せていない。

今“何か”が起きたら?
やはり心室細動の再燃か?それとも呼吸困難?血圧の低下?
どれも起こりうる。

その時自分は対処できるだろうか?

緊急時の除細動は? 多分できる。
挿管は? まだ少し自信がない。
血圧は? 薬でなんとかなるはずだ。

そんなことを考えていたら、澤部さんの姿が目に入った。
その瞬間、先日の部長の話を思い出して、少し緊張がほぐれてきた。

周りを見渡すと臨床工学技士の福川さんも、色々と準備をしてくれていた。
万が一の時の、除細動器や一時ペーシング、大動脈内バルーンパンピングもきっとすぐに出してくれる。

よし、私は一人じゃない。
できるところまで頑張ろう。

その時、ポータブルモニターの音が扉の向こうに聞こえてきた。

「先生、さっきまた少し胸が苦しいって言い出して、その後、脈が遅くなりました。血圧は90位です。」
大森さんが慌てた様子で言いながら、患者さんをカテーテル検査室に連れてきた。

「じゃあ検査台に移して、すぐに心電図をつけて下さい。」
一気に緊張感が戻り、島口は叫んだ。

心電図では、Ⅱ、Ⅲ、aVFのSTがまた上がっていて、洞徐脈だった。

「アトロピンとノルアドレナリンを準備して」
と言って、急いで清潔ガウンを着て手袋をはめた。

「一時ペーシングも必要そうだから、5Frの鼠径用のシースと、6Frの手首用シースを下さい。」
と言いつつ、消毒液を手に取り、鼠径と右手首を勢いよく消毒する。

清潔な覆い布を患者さんにかけたところで、
「アトロピン1A 静注して下さい。ノルアドレナリンは20倍ですか?1ml 静注して下さい。」
と澤部に伝える。

しばらくすると脈拍が50台に戻り、血圧も100を越えた。
でも念の為、一時ペーシングは入れるべきだろう。

カテーテルをやっている最中に徐脈になっては困る… 気がする。

そう決意して、鼠径の麻酔をしたところで、背後の操作室に人の気配を感じた。

部長が着替えてプロテクターをつけて、こちらを見ていた。

「もう気づいちゃったか…ちょうど今来たんだ。島口が頑張っているから、どこまで一人でやれるか、もう少しだけ見ていようかとも思っていたんだけどな。でも緊急だから、実は俺も、もう待っていられないんだけど…」

と言いながら、

「すぐ清潔ガウン着るから、このまま一時ペーシングまで入れちゃおう。」
「澤部さん、10倍のノルアドレナリンの持続作って、時間2mlで始めてくれる?」
と部長は言った。

島口は部長に言われた通りに麻酔をして鼠径にシースを入れた。
そこまでやったところで部長が隣に来てくれた。

「一時ペーシング、はい、入れて。」
「いいよ、そのままどんどん入れて。そこでクロック。バルーン抜くからそのまま押そう。」
「じゃあ福川くん、VVI60 output 5Vで設定して。」
「これでとりあえず脈と血圧は大丈夫かな。」

「よし、じゃあここから本番だよ。一刻も早く再灌流しないといけないから、手は止めない。次は手首のシース。はい麻酔。」
部長は、少しも迷うことなく次々と指示をくれる。

そしてシースが入ると、ヘパリン静注の指示を出す。

「じゃあ、造影しよう。」
島口がカテーテルをシースに入れると、部長がガイドワイヤーを一気に大動脈弁まで進める。

そして、「はい、いいよ。ここまで進めて。」と指示をくれる。
「少しクロックに回して、ちょっと引いて」と言ったと思ったら、突然ガイドワイヤーを抜いた。

「これ繋いで、もう多分入っているから、造影するよ。」

ピピピピピ。
造影剤の自動注入機から造影剤が流れ出ると、左冠動脈が写ってきた。

4方向造影したところで、島口にも左冠動脈には狭窄がなさそうなことが分かった。
「あー、やっぱり右が詰まってるね。」
なんとなくそうかな?と思っていた血管は、やはり右冠動脈へ流れる側副血行路だったようだ。

「じゃあ、右行こう。でも一発でいいよ。」

「少し、抜いてクロック。そこで押して、はい、入った。あ、圧が出てないから、少し引こうか。はい、造影。」

造影剤が流れたが、少しだけ血管が見えて、カテーテル先端から1cm程度のところで閉塞していた。

「じゃあ、もうガイディングカテーテルに変えよう。澤部さん、右冠動脈#1の心筋梗塞。これから治療します。ヘパリン追加。ガイドワイヤーはいつものね。患者さんの意識は大丈夫かな?抗血小板剤は飲めたんだっけ?もし飲めてないなら飲ませてみよう。」

そうやって指示を出しながら、治療用カテーテルは、準備万端な状態で島口に渡された。

「行くよ。ガイディングカテーテルを進めて…」

島口は、気がつくと綺麗に流れ出した右冠動脈の最終造影検査をしていた。心電図のST上昇はだいぶ落ち着き、徐脈も改善している。
血圧は少量のノルアドレナリンの持続点滴だけで大丈夫そうだ。

部長は患者さんに、
「無事に治療できましたからね。胸は大丈夫ですか?」
「でも、しばらく入院ですよ。奥さんが助けてくれたから、感謝しないとですね。」
と説明していた。

「今は大丈夫です。分かりました。」
と、患者さんもしっかりとした口調で答えていた。

どうやら治療は上手くいったらしい。

治療が始まってからのことは、正直よく覚えていない。
気がつくと、右冠動脈は綺麗に流れていた。

どこで血栓吸引をしたのか。
いつIVUSを入れたのか。
スコアリングバルーンをいつ膨らませたのか。

断片的にしか思い出せない。
私は、ただ必死に部長の言葉を追いかけ、手を動かしていただけだった。

結局治療のペースについていけず、主体的にはほとんど何も考えられなかった。

私が治療したなんて、とても言える状況ではない。

でも、部長は褒めてくれた。
「おめでとう、心筋梗塞のカテーテル治療、一応完遂したな。」

「手が止まったら、代わろうと思っていたんだけど、言った通りにできてたじゃないか。」
これには、どこまで本気で言っているのだろう?と疑問に思ってしまう。

病棟に行って指示を出したら、部長に聞きたいことがたくさんある。

部長は教えてくれるだろうか?

想定内の理由

「部長、今日の治療のところ、全然分かりませんでした。」
島口は正直に言ってみた。

「ん?どこから?」
「治療の初めからです…」

「え?できてたじゃん。あー、でもあれか。自分で色々判断した訳じゃないもんな。」
「まずさ、一時ペーシングとノルアドレナリンは分かったか?」

「俺はね、車で心電図確認しながら来たんだけど、多分右冠動脈の入口近くの閉塞で、それが再疎通した時に心室細動になったんだって予想してたんだ。」

「上がってるST部分がね、再灌流後っぽい形なんだよ。心室細動って再灌流の時が多いしね。」
島口は分かったような、分からないような顔をした。

「で、徐脈だろ。右冠動脈の徐脈って、房室ブロックが多いイメージだと思うけど、入口部近くの場合はさ、洞結節枝が絡んでて洞徐脈になるんだよね。」
「その状況だと、必然的に右室枝も虚血になって、右室梗塞的な血圧低下が起こると予想してた。」

部長、ちょっと待ってくださいよ…
徐脈の種類から詰まってる場所を想像してたってこと?

しかも血圧が低くなる原因まで、分かってたって言うの?
これって後出しで言ってるだけじゃないの?

頭の中でハテナがたくさん並んでいる。

「だから、一時ペーシングとノルアドレナリン、補液も大事だな。」
「ところで“何か”が起こるとしたら?って言ったのは、何か分かってたか?」

「心室細動の再発か、心不全とか呼吸困難を想像していました。」
と島口は答えた。

「うーん、心室細動の再発はあり得るけど、若くて冠動脈疾患のリスクは少ないから、心不全は起きないんじゃないかな。多分1枝病変で、右の病変だけな気がしてたしな。」

「もし右室梗塞になっていたら、左心不全よりも右心不全が問題になるだろうし…」

「だから、今回の場合は呼吸困難にはならないし、挿管の必要もない。大事なのは徐脈の管理と、血圧の維持だな。俺はそう思ってた。」

「でも、もし血圧が全然上がらなかったら、大動脈内バルーンパンピングの覚悟はしていたかな。」
確かにそう言われれば、その通り納得できる。

「だから島口に覚悟しておいて欲しかったのは、まず心室細動の再発。そして血圧低下と徐脈。この場合は除細動と、一時的ペースメーカーと、大動脈内バルーンパンピングを想定しておくことが正解。」

「ちなみにだけど、俺は、患者さんが若くてリスクが少ない人だって聞いて、冠動脈の動脈硬化は石灰化があまりなくて、血栓とプラークの破綻が中心の病変だと想像してた。だからステントレスでの治療がいいなって、そこまで考えながら来たんだ。」

部長、それ、もう治療方針決まってるじゃないですか?
島口は頭の中でツッコミを入れる。

「だから、今回は血栓吸引が上手くいって、短い病変だと判明した時点で、血管内超音波検査で適切なサイズを決めて、スコアリングバルーン+薬剤コーティングバルーンでの拡張で終わることを考えた。」

「実際、その通りにできただろ。大動脈バルーンパンピングも必要なかったしな。本当にラッキーだったよ。」

「今の時点で、俺らはできることは全てやった。」
「あとはリハビリして、どう日常生活に戻って、どう生活して、どんな楽しみを持って、長生きしてもらうか。それをきちんとマネージメントできるかどうかが腕の見せ所なんだぞ。」

島口は訳がわからない。

部長は、車の中でそんなことまで考えていたなんて。
同じ心電図を見ているはずなのに、部長には“現在と未来の血管”まで見えているようだった。

まだ患者さんを診てもいない。
冠動脈造影もしていない。

それなのに、詰まっている場所も、その後に起きる循環動態も、治療方針まで予測していたのだ。

私が伝えたあれだけの情報から、部長にはどうしてそんなことが見えるのだろう?

島口がそう考えていると、
「それにしても今日、まだみんながすぐに来られる時間で本当によかった。倒れたのが奥さんの目の前だったっていうのもラッキーだよ。神様に感謝しないとな。今日は俺もお礼参りして帰ろうかな。」

部長はそんなことを言って病院を後にした。

あとがき

呼び出しがあった時には、片道1時間弱を1日に2往復することもあって、そんな時はやはりつらい。
そして遠くにいて間に合わないことも、用事で行くことができないこともあって、”罪悪感”と折り合いをつけるのには苦労する。

これまでこうして頑張ってきたが、“この先いつまで続けられるか”と不安になる。
だからこそ若手を教育していきたいと思うようになった。

しかも一人では駄目だ。
“働き方改革の時代”には“一人の無償の奉仕の精神”に頼ってはいけない。
私は彼らにそんなことを強制したいとも、期待したいとも思わない。

少なくとも、プライベートを維持することで感じる罪悪感を最小限に、やりがいを持って、長く続けることで、結果として“最も多くの人を救うこと”につながってくれればいいと思うのだ。

そんなことを考えている私が、“本当に伝えたいこと”は、教科書には書いていないことばかりだ。

心筋梗塞篇 後篇でも、私の想いを乗せて物語を綴っていこうと思う。
登場人物達の活躍を楽しみに待っていてほしい。

 
 
Thoughts_Inside Heart 医療x物語xランニング 1975年生まれ/田舎の循環器内科医 /趣味 マラソン,テニス,スノーボード,スポーツ観戦,読書 若い医師など、次世代の担い手達の未来を、心から応援したい。 時々妻の実心の日常のエッセイも。

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