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【完結】短編小説『誰も知らなかった鼻唄は、』 (4)

    【あらすじ】

     東京での生活に疲れ、田舎の街に引っ越した関口亮祐。
     しかし新しい街でも、バスの時刻表に追われ、誰とも話さない日々が続いていた。
     田舎に来れば自由になれると思っていた。けれど、求めていたものが何だったのか、自分でもよく分からなくなる。
     ある日、スーパーのレジで「いつもありがとうございます」と声をかけてきた店員の女性。彼女との出会いをきっかけに、街と少しずつ関わり始める亮祐。
     街の音、車のクラクション、知らない誰かの鼻唄。生活の細部が亮祐の中で重なり始める。
    田舎に引っ越しても、生きづらさは消えない。それでも亮祐は、街の中に自分の道を見つけ始める。



    (4) 連れてきてくれて、ありがとうございます。


     翌朝、カーテンを開くと川が見えた。思えば、いつの間にか毎朝あの川を見て安心している自分がいる。

     昨晩、暗闇に沈んでいたことが嘘だったみたいに、川は当然のような顔で流れていた。
     妙な話だが、晴れた日には川が何か話しているか、歌ってでもいるかのようにきらきらと光って見えていた。


     だけど、仕事を続けていれば、たぶん昨日みたいなことはこれからも起き続ける。むしろ、昨日は終電に間に合っただけ幸運だったのかもしれなかった。
     タクシーの料金はバスよりも高いけれど、東京でホテルに泊まるよりはずっと安いのだから。

    「東京とどっちが……」

     カーテンから手を離し振り返る。部屋は物が少ないせいで、とても清潔に見えた。ただ少し、プラスチックのゴミが多いだけだ。

     部屋の割に小さなテレビ、ソファ、テーブル。ほとんど物もなければ、物自体が小さ過ぎるこの部屋を占めるものは余白ばかりだ。余白が余白ではなく、ある種のものみたいな顔をして、部屋中を漂っている。
     おかげで部屋が整って見えるのだ。
     だけど、窓から見える景色とは裏腹に、僕はまだ、この部屋を好きになれていない。

     それでも部屋が整っていると、それだけでいい日が訪れるように思える。
     だけど、どれ程のいい日を繰り返したとしても、終バスを逃し続ければ、僕の気持ちは荒んでいくだろう。
     疲労が溜まり、溜まった疲労が思考を鈍くする。土日は眠るだけになるかもしれない。そうすればスーパーにも行けず、部屋は段々とプラスチックごみに侵略されていく。

     ベランダに出る。たくさんの車が走っている。その1つに自分が乗ることが意味するところを考える。考えてばかりいるから、僕はまだこの部屋の大きさに見合う家具を買えずにいるのだ。
     ただ確実なことは、車があれば終バスの心配はなくなるということだ。

     それに――。

     視線の先を流れる川。あの川を見に行けば、何かが変わるのだろうか。

    「そりゃ、遠くから見てるだけですもん」

     彼女の言葉が蘇る。
     確かに、ここから眺めているだけでは分からないことはあるのだろう。実際に行ってみてはじめて分かることがあるというのは、納得できる話だった。

     スマートフォンで調べる。川へ行くための幾つかの経路が示される。だけど、近くまでバスが出ている様子はなかった。


     迎えを待つ彼女の姿が思い浮かぶ。
     スーパーに行こうと思った。



    「川、行ってみようと思います」

     2週間ぶりのスーパーだった。彼女はいつもと変わりない。
     だけど、川、という言葉に反応したのか、いつもの完璧に計算され尽くした手捌きが少しだけ鈍る。

    「あの辺り、バス停ないですよ?」

     あとに待つ客に配慮しながらも、彼女はチラリと僕に視線をやって、小さな声でそう言った。

    「そうか……調べても出ないから、何か教えてもらえないかと思ったんですけど」

    「歩いたらだいぶ時間かかりますからね……でも、そうだな……」

     カゴの中はいつも通り、初めからこの形にされるよう計算されていたかのようにピッタリと商品が収められた。
     相変わらずの見事さと、彼女のアクセサリーが1つもつけられていない手とを見比べる。
     手はただただ機敏に、僕がろくに考えもせず選んだ商品を整然としまい込んでいた。

    「……一緒に歩きませんか? よかったら。たぶん今日、このあとは早上がりになっちゃうんで」

     呟いたが早いか、合計金額を告げる。

    「それに、亮祐さんが車買っちゃったら、もう歩いていくことなんてなさそうですし」

     ほんの僅かな間だけ笑顔を浮かべて、「2時間後に」とまるで噂好きの住人の耳を避けるように、彼女は早口でそう囁いた。
     僕がこの街に居続けると素直に考えている彼女を前に、僕は頷くしかなかったし、そうでなくても頷いていたはずだった。


     一度荷物を置きに帰る。適当に買ってきた食材たちを冷蔵庫にしまう。
     いつもよりやけに窮屈そうな冷蔵庫の中をよくよく見てみると、インスタントカレーやカップ麺まで中に入れてしまっていた。

     冷蔵庫にしまう必要のないものたちを外に出す。シンクの下の収納にしまう。
     しまっている途中で、脇にあった調味料を倒してしまう。それをまた整理する。
     癖で手にしかけたビールを冷蔵庫にしまいなおす。

     気づくともう約束の時間が近かった。バスを逃してしまえば、遅刻は確定だ。
     そしてその場合、僕は彼女にそれを伝える術を持ってはいない。僕はまだ、彼女の名前以外、連絡先すら知らなかった。

     片付けきれなかったカップ麺たちを、放置していた来客用のクッションの上にひとまず置く。俄かに賑やかさが加えられた部屋を横目で眺めつつ、僕は急いで家を出た。


     それでもギリギリだったから、バス停まで走った。

     バスの中で息を整えることはできたが、心臓がまだ全力疾走をした後の、激しい動きのままだった。
     前にもこんなことがあったかもしれない。スーパーのゴミ箱脇に設置された灰皿の横で、煙草を吸いながら考える。空の広さに見惚れていると、前にどんなことがあったのか、記憶は霧散していった。
     吸い終えた煙草を灰皿に捨てようと横を見ると、いつの間にか彼女が横に立って電子タバコを吸っている。

    「空、ついつい眺めちゃいますよね」

     彼女が煙草を吸うのを見るのは、多分2度目のことだと思う。
     だが、妙な既視感がそこにはあった。

    「ですね……東京とはずいぶん違う」

     人懐っこい笑顔を浮かべて、彼女は「じゃあ、行きましょっか」と軽い足取りで進んでいく。
     彼女は今日、スプリングコートを着ていなかった。



     いつものバス停を通り過ぎて、2人横並びに歩いていく。テーブルほどの距離はなかった。彼女がコートを着ていないからかもしれない。
     薄い色のジーンズに、白地に青のストライプシャツを着て袖を捲った彼女は、全身真っ黒い服の僕とは違って、初夏を謳歌しているように見える。

     僕たちの他に、歩道をいく人影はほとんど見受けられなかった。時々、部活帰りらしい中高生が、自転車を勢いよく走らせるだけだ。
     車道を走る車の分だけ、歩く人が減らされているみたいだ。僕は久しぶりに、故郷の街を思い出す。
     ただ、故郷の街に川は流れていなかった。

    「亮祐さんは、歩くの得意ですか?」

    「まあ、東京はなんだかんだと歩きますしね」

    「確かに。東京の人は、田舎の人よりも歩くって、よく言いますもんね。私たちはどこに行くのも車ですし」

    「…………夏織さん、は、免許持ってるんですか?」

     彼女は言葉にいつもの笑顔を浮かべた。そして右手の人差し指を口元に当てる。

    「ちょっと前にぶつけちゃって。お兄ちゃんが――いつも迎えにきてるあの色黒なんですけど――、中古車販売とか、修理してるので、直してもらってるんです」

     「秘密ですよ」と言う彼女は、きっとそれが秘密になり得ないことを十分に知っていた。

     タクシーでの出来事を思い出す。運転手は事故現場を通り過ぎる時、「ありゃ、これ佐藤さんところの車じゃねえか」と独り言を口にしていた。
     どこかにぶつけただけとはいえ、きっと彼女がそれをやってしまったことはすぐに広まったことだろう。居酒屋でも、そのことについて揶揄われたかもしれない。

    「そんなに面白いですか?」

     彼女がさっきと同じ笑顔のまま、僕を見ていた。
     つられてしまったのか、いつの間にか僕は笑っていたらしい。何がそんなに嬉しいのか、こんなに笑うのは久しぶりだった。

     彼女は実家に住んでいると言っていた。あの黒い車に乗っているお兄さんやご両親と、川辺でバーベキューをする姿を想像する。

    「いまから行く川は、川辺でバーベキューとかできたりするんですか?」

     腕を組んで彼女は首を捻る。背中まで伸びた髪が、風でなびいた。なびいた先に視線がつられる。車の流れが止まって、誰もいない道が広がっていた。

    「できるかもですけど、私はやったことないですね。というか実は、偉そうなこと言ったくせに、いつも橋の上から眺めてるだけなんです」

     坂とも呼べないような坂を登ると、段々と畑や田んぼが増えてきた。
     田んぼは分かったが、畑に植えられた野菜が何かは分からない。ただ、濃い茶色の土が放つ穏やかな匂いは心地好い。畑は走り去る車の影に隠れては消え、消えては現れてその穏やかな匂いと濃い色を映し出す。

    「あそこの高校に通ってたんです。ここら辺だと、普通校はあそこしかなくて、あとはもう1つ、工業高校しかないんですよね」

     彼女が指差したその先で、広い校庭の一角で野球部が練習をしていた。野球部というものは、地域を問わず声がデカい。
     そう口にすると、彼女は「そんな、野球部っていう生き物じゃないんだから」と笑う。

    「兄は工業高校の方出身なんですけど、働いてる兄を見てると、あっちの方がツブしきいたかも、とか最近思います」

     元々は別の仕事をしていたのだろうか。少しだけ気になる。だけどそれは、僕が聞いてしまってもいいことなのか分からなかった。
     それにもしかしたら、大学に進学して、やりたいことが見つからずに帰ってきただけかもしれない。人の過去なんて、想像しようと思えばいくらでも想像してしまえる。

    「あの公園、私が通ってた高校の生徒たちのデートスポットで……」

     広い公園だった。ベンチが2つとシーソー、ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、そして遊具のない空間。いまは小学生が鬼ごっこをしていた。元気な声が雲の少ない空に広がっていく。
     僕はそういう声を聞いているのが好きだった。休日、気づけば聞こえてくる子どものはしゃぎ声。それは無条件な肯定の色をしていて、聞くたびに団欒の最中のテレビの音を思い出す。

     そんな公園の中、彼女がセーラー服姿で、背の高い、いかにもスポーツマン然とした男とベンチに座っている姿を想像する。
     僕にはなかった、フィクションみたいな青春。子どもの声とは対照的に、それは団欒もテレビの音も思い起こさせはしない。

    「……私は一度も行けなかったんですけどね」

     何かを言わなければ、と思ってしかし、僕は何も言うことができなかった。
     彼女は綺麗だった。だけど、僕は彼女のことを知らない。
     古屋夏織という名前。スーパーで働いていること。電子タバコを吸っていること。居酒屋の人と仲がいいこと。実家に住んでいて、お兄さんが中古車販売をしていること。川が好きなこと――。

     公園を通り過ぎるその瞬間、子どもの歓声が響いた。

    「あれじゃあ……カップルも落ち着かないですね」

     僕の言葉に彼女が微笑む。僕は少しだけ安心した。


     それからも彼女は、まるで映画か何かの話をするように、街と彼女の歴史を語り続けた。そしてそれを語る間、彼女はずっと笑顔を浮かべていた。
     思えば僕は、彼女の笑顔以外の顔をほとんど見ていない。

    「あ、ほら、もう川が見えますよ」

     少しだけ歩くスピードが早まる。彼女が指差した方向にはまだ、川は見えない。
     でも確かに、水が流れる音がしていた。車の走行音の隙間を縫うように、確かに聞こえている。

    「ほら、見えた」

     僕の先を歩いていた彼女が振り返る。すると、その背後に大きな川があった。
     流れにそって、日の光が踊っている。毎朝見ている川。流れによって形を変え続ける川の水面を、太陽が反射する声。
     山の間に挟まれるようにして流れるその川は、僕がこれまでに見たことのある川の中で、最も大きく、穏やかだった。

    「風が通るでしょ?」

     橋の中間で僕たちは足を止めて、目を閉じた。風が髪をさらう。海風と違い、山の空気を閉じ込めたその風は碧く柔らかかった。

    「山のにおいがする」

    「亮祐さんは、山が好きなんですか?」

     閉じていた目を開けると、欄干にもたれ掛かるようにして、彼女が僕を覗き込んでいた。

    「そうかも……しれないです。言われてみれば、ずっと好きだったのかもしれません」

     「ずっと“山が”好きだったのかもしれない」と言うはずだった。
     だけど意図せずその言葉は抜け落ちた。

     でもそんなことは関係なく、彼女は嬉しそうに目を細めて、川を見つめている。

     スーパーを出て、1時間は歩いたはずだ。だが、身体を包んでいるのは心地好い疲労感だけだった。
     そしてその疲労感を、風が川底へ誘っていく。

    「こうして眺めていると、それだけで元気をもらえるんですよね……なんでなんだろ」

     そう話す彼女は、上半身を欄干に任せて、砕けた表情で川を眺めていた。
     他に人の姿はなく、行き交う車は僕たちの存在に気づいていないかのように、猛スピードで過ぎ去っていく。この場所には他の誰もいなかった。

     無言のまま、彼女は川を眺めている。彼女の穏やかな表情を見て、車の値段を思い起こした。
     車を買えば、ここにもすぐ来れるのだろう。自分がこの街で、車を運転する姿を想像する。

     どこかで聴いたことのある曲を、彼女が鼻唄で歌い始めた。
     どこで聴いたのか思い出せない。でも最近聴いたものだった。

    「毎日歩きで心配だって言われてましたけど、歩きもいいもんですよね」

     居酒屋……そしてタクシーだった。常連の誰かが歌っていた。タクシーの運転手も。

    「それ、何ていう曲なんですか?」

     途端に彼女の頬が、耳まで紅潮する。

    「……曲じゃないんです」

    「……どういうことです? 前に、あの居酒屋の常連さんが歌ってて……タクシーの運転手さんも歌ってたりしたから、流行ってるのかなって」

     彼女は両手で顔を隠すようにして、それからすぐに指の隙間から僕を見つめた。

    「……実は、私の手遊びみたいなもので」

     堪えきれない笑みが溢れる。

    「そうなんだ、知らないで僕もたまに口ずさんじゃってました」

     彼女は俯いて、それから小さく息を吐いた。欄干に頭頂部をぶつけるようにして、それから段々と膝を折ってしゃがみ込んでいく。

    「いつもは注意してるんですけど、ここに来るとどうも油断しちゃって」

     ゆっくりと立ち上がって、彼女は手を合わせて僕に「言わないでくださいね」と、いつもより少しだけ大きな声でそう言う。

    「何か嫌なことがあると、いつもここに来るんです。まさか、ここに来た後にこんなに恥ずかしい思いをするとは思いませんでしたけど……。
     どこかで聞いた話みたいだけど、川が流れているのを見ると、一緒に悩みまで流されていくみたいで」

     彼女は眼下の川に、微笑みかけていた。
     彼女と同じように欄干にもたれかかる。川が少しだけ近くになる。澄んだ水を光が反射している。水が流れる音が、確かに聞こえてきている。

    「僕は昔、嫌なことがあると、小さな山に登って街を遠くから眺めてました。
     どこかで聞いた話かもしれないけど、そうしていると、嫌なこともずっと遠くにいってくれる気がして」

     学校のすぐ裏にある山だった。家と学校の間にある山で、20分ほどで登れてしまう、小さな山だ。
     その山の中腹に、木々がなくなって街を見下ろせる場所があった。そこから見える街に人の姿は見つけられず、車が走っている音だけが響いていた。
     街は他に何の音を立てることもなく、ただただ静かにそこに存在していた。
     そういう在り方に、僕はいつも安心させられていた。

     彼女がこちらを見る。ほんの僅かな時間だけ固まって、しかしそれからすぐに笑い出す。

    「真似しないでくださいよ。ただでさえ今、恥ずかしいんですから」

    「でも、本当のことだから」

     笑い過ぎたのか、滲んだ涙を指で拭う。彼女は鼻唄のことを話した直後よりも少しだけ、柔らかい表情に戻っていた。
     川が日の光を反射する。車の音が遠ざかっていくような錯覚に陥る。

    「……街を離れない理由、少しだけ分りました」

     何の話、といった表情で彼女は僕を見ている。当然の反応かもしれない。

    「ほら、この川が好きでこの街にいるって。そうやって1つのものが好きだから街にいるっていうのが、ようやく分かった気がして」

     言葉に彼女は笑って、また欄干にもたれかかる。見つめる先で数度、彼女が頷く。
     再び歌われ始めた鼻歌が、優しく風に流されていく。
     たくさんの車が、僕たちの背後を通り過ぎていた。

    「ああ、煙草を吸ってるときだ」

    「え?」

     鼻唄を歌いながら、彼女が首を傾げる。

    「引越して間もない頃、いつも夏織さんがお兄さんを待ってるあのコンビニで煙草を吸ってたら、夏織さんが鼻唄を唄ってたんです。声が綺麗だったから、よく覚えてる」

     また、彼女の頬と耳が赤く染まる。
     そうだった。僕は居酒屋で耳にするよりもずっと前から、この鼻唄を知っていた。彼女が楽しげに空を眺めながら唄っていたのを、そしてその声を僕は確かに覚えていた。

     恥ずかしそうにしながら、彼女はしかし、今度は唄を止めなかった。
     少しだけ僕とは反対の方向に顔を向けて、それでも川が見えるような位置を取りながら、彼女は唄い続けている。


     中古車のことを、彼女のお兄さんに相談しようかと考えた。
     だけど、これから僕たちは、もう一度2人並んでいま来た道を歩いていく。

     野球部はまだ練習しているだろうか。公園にはもしかしたら、カップルがいるかもしれない。だいぶ歩いたから、コンビニで飲み物を買って、2人並んで煙草を吸うのもいい。
     川について話しながら、彼女の思い出に触れながら2人歩くことは、多分それだけで1時間なんてあっという間に過ぎ去ってしまうことだった。

     そんな風に考えると、車のことはまだ早いのかもしれないと思えた。少なくとも帰りの道をゆっくり歩いて、その後に考えても間に合うことだろう。

     それに、使われていないままの来客用のクッションがある。物置にされてしまった可哀想なクッションだ。
     あれを使わないままこの広くて狭い街を出ていけば、僕が東京からこの街に引っ越した意味さえなくなってしまうような気がした。
     僕はまだ、この街のことを遠くから眺めているに過ぎないのだ。

    「連れてきてくれて、ありがとうございます」

     夏織さんはゆっくりと頷く。いつの間にか、彼女はまた正面を向いていた。赤みの落ち着いた頬に、風で流された髪が一房張り付いている。

     僕も少しだけ汗をかいていた。
     見上げると日差しが鋭い。もうすぐ本格的な夏がやって来るのだろう。

     入道雲と山に囲まれた川を想像する。碧色の水と、もっとずっと濃い色の空に入道雲。たくさんの蝉が鳴いている山。
     その景色を見るとき、僕はどこから誰と見るのだろうか。

    「夏がきますね。私、夏って好きです」

     イタズラっぽい様子で、夏織さんは口を開いた。僕は夏の様子を想像しているだなんて、口にしていないはずだった。
     彼女は特に何事もなかったかのように、川を眺めている。また鼻唄を歌い始める。

     とりあえず僕は、まだこの街に暫くいようと思った。車のこともクッションのこともおいておけばいい。
     彼女の横顔を見ていると、職場と家、それにスーパーを往復するだけの日々だけでは、この街に引っ越してきたとは言えないような気がした。


     川の音が聞こえている。蝉はまだ鳴いていない。雲はほとんど見当たらない。背後を走る車は今も多い。
     そのすべてに耳を澄ますような様子で、彼女は唄っている。

     誰も知らなかった鼻唄は、背後を走る車の音にかき消されそうになりながら、それでも僕の隣で唄い続けていた。


     
     
    掌編小説を3日に1本ペースで更新。※公募期間ペース鈍化 日常の違和感や距離感をテーマにしています。 気になった作品からどうぞ📚 目標は新人賞→芥川賞受賞 2020年『濾過』出版 Twitter→ https://mobile.twitter.com/contrast_novel

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