
仙台の追憶-座標空間上の北極星。萌ゆる。自然科学への憧憬-
みなさんの座標空間上に、北極星はありますか?
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私が小学生の頃です。仙台に住んでいました。もう20年も前のことになります。
当時3年間住んでいました。遠い望郷の彼方というほどの年齢ではないものの、輪郭がぼんやりしつつも淡いパステルカラーに包まれた風景は、頭の片隅ではなく、狭いながらも中枢に残像していました。のちに東京、大阪を経験するわけですが、賑わいの中にどこか静けさが潜んでいるかのような、あの特有の雰囲気は、残り香として、仄かにたゆたうようでした。
この形容は、遠からず、と思っています。初夏のすずめ踊りを一度ご覧いただければ、きっとお分かりいただけるはずです。踊りが終わってもなお、やわらかな空気は依然と定禅寺通りを満たし続けます。そしてこの壮麗なケヤキ並木における、新緑の木漏れ日は、人々に、平等に、降り注ぎます。杜の都のシンボルであるゆえんは、ここにあるものと思えます。「包容力」。個人的には、これこそが仙台の最大の魅力と感じます。
小学生だった頃も、この翠のやわらかなベールに覆われていたように思います。この街で、のびのびと、幾多の素晴らしい経験をさせてもらえたからです。時間軸に逆らい、彼岸に想いを馳せてみますと、当時のボロボロな鞄の中に、黄色い手帳を認めました。私を悠久の彼方へ、何度も連れて行ってくれました。世界を見拓く、開眼の大きなきっかけでした。
この手帳は、『どこでもパスポート』です。仙台市内の小学生、中学生全員に等しく配布されます。このパスポートを携帯していれば、市内中心に、博物館や植物園、動物園など40以上の公共施設に何回でも無料で入れるという、寛大なシステムです。他の自治体でも似たような制度があるようですが、配布対象や対象施設、時期などに制限がほとんどないのが大きな特徴です。この街の「包容力」が、よく体現された制度だと思います。
この小さい手帳から真っ先に想起されるのは、『地底の森ミュージアム』です。近所だったということもあり、10回くらいは訪れていた気がします。あの頃を、少し解像度を上げて回想してみようと思います。
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当時の生活圏は、地下鉄南北線の長町南駅近くでした。仙台駅から一本で行くことができる、交通の便に優れたエリアでした。改札とホームはいずれも薄暗く、壁からは鉄腐食に伴う錆汁が気味悪く垂れており、中には路線図を侵食するものもありました。不気味な空間だと感じていました。
電車の到来を告げる汽笛は、生ぬるいながらも激しい列車風を伴いながら、幼き私の五感に繰り返し作用しました。そのため今でも、対極にある別世界のような記憶が、強く残っているのです。このある意味で異様な、年季の入った地下空間をのぼり行けば、北側にはショッピングモール、南側には太白区役所という現実がありました。地下・地上の境界は、驚くほどに大きな意味を持っているように、当時は思えました。
北側の、通称『モール』と呼ばれるショッピングモールは、当時通っていた小学校の隣、あるいはスイミングスクールのすぐ傍ということもあり、機があるたびに、足繁く通った、濃厚な思い出の地です。週末には、モール1階のフードコートで、家族で食事をするのが習慣でした。子供のワクワクと、大人の束の間のリラックスが相乗していたためか、ゆったりとした時間の中、明るい希望が、常に空間を占拠していたように感じたのです。
確か3階だったはずですが、大きな本屋さんがありました。1階からエスカレーターでのぼるのですが、次の階に近付くにつれて、キャンディー屋さんの芳香が、鼻を喚起するシステムになっていました。何十種類にも及ぶであろう、カラフルな、そして中には荒唐無稽な形をした、いかにも外国由来のお菓子に、私を含め多くの子供が釘付けになっていました。3階に到達しても、おしゃれな文房具屋さんがありました。雑貨類も陳列してあった記憶がおぼろげながらありますが、なぜか化石発掘お楽しみボックスなるものなどがあり、好奇心のベクトルが向かざるを得ない子供の事情がありました。幾多の誘惑に打ち勝ち、なんとか本屋さんにたどり着くのです。
しかしここからが、「本番」でした。親が買い物をしている間に、その小宇宙を冒険し、難しそうな本を探索するのが、大変楽しかったのです。大学受験の参考書や、あるいは宇宙や鉱物•岩石、植物等の科学書などなど。最終的には漫画にたどり着くのが常ではありましたが、意図せぬセレンディピティに漂流することもあり、それがまた面白くありました。広大な店内には、ロッキーのテーマソングがBGMで繰り返し流れていましたが、今はどうなのでしょうか。
モールは、眩しい夢の国でした。そして、好奇心をくすぐる小宇宙でもありました。しかし、駅を挟んだ真向かいには、南側の区役所の裏には、住宅街の中に、ひっそりと太古の音が潜んでいるのでした。時空という概念を払拭するほどに、静かな異彩を放つ小宇宙が、鎮座していたのです。『地底の森ミュージアム』です。
躑躅だったでしょうか、背の低い藪を境に、北側に広場がありましたが、小学生がサッカーをするには充分のスペースがあったように思います。ジャングルジムで遊ぶ黄色い声が木霊する、蜘蛛の巣公園の隣には、現代建築のような佇まいながらも、針葉樹をはじめ古を彷彿させるような森で囲まれた、明らかに浮いた空間が静かに坐っていました。
穏やかながらも芳しい蝉の声、あるいはさやかな木枯らしを耳に、ミュージアムの入り口までの微妙に湾曲した舗装道に従い降り、重厚に思えた扉をつとめて開けば、白く佇む静寂の空間に切り替わります。寛ぐ受付のデスクを高く見上げ、パスポートを手渡せば、すなわち広大な「宇宙」空間を感じることができたのです。
第一印象は完璧でした。途方もなく感じた奥行きと高さ、そして暗いとも言い切れない茶褐色の微かなライトに照らされて、黒いニューロンの集合体のような、そんな古代の杜が迎え入れてくれたのでした。細長く不規則に伸びる、あるいは途切れている炭のような物体は、不気味ながらも、確かに木のように見えました。沈黙を貫き通す森のようでしたが、今にもタコの触手のように動き出し、私を襲ってはこないかと、幼いながらの不安が惹起された記憶があります。
平静をなんとか取り戻せば、ちょうど楕円形にかたどられた地底の森において、木の隙間を埋める土壌に、注意を引く展示がありました。焚火の跡は、旧石器時代の人々の生活を、鹿の糞の跡は、太古の森と共生する動物の画を想起させました。眼前でも執拗く語ろうとしない古の森は、幼き水晶体を介して、網膜上に、そして視覚野に、約2万年前の広大な原風景として投影されました。
暗澹たる幻想的な空間の外壁には、地層の断面がむき出しに展示されていました。非常に縦長のミルフィーユと表現すればいいかわかりませんが、10~20メートルほどの多重層構造になっているのが一目でわかりました。各層の色合いや材質は、少し離れて見つめているものの、確かに異なっているように思えました。下層ほど、古い年代の地層に相当するわけですが、ちょうど目の高さあたりだったかうろ覚えですが、江戸時代あるいは平安時代の地層がありました。一番上の現代層の薄さや、次に古い層までの年数、そして断面全体の高さを慮る限りでは、幼いながらにも、月並みな表現かもしれませんが、歴史の重みを強く感じたのです。
当時の私にとって、この古代の遺跡は、非常に異質な世界そのものでした。また、私は限りなく小さい存在であることを悟りました。今言語化すれば、目の前の薄暗い四方には軸が限りなく伸び続け、外界に対して、はじめてに近い、ある種の意志が形成されていたように思えます。
この特殊な原体験は新鮮であったがために、それをまた確認するように、なぞるように、以降何度も訪れることになりました。そしてその度に、自然に対して、あるいは膨大に積み重ねられた時間に対して、スピリチュアル体験に近いかもしれませんが、畏敬の念が形成されていったのです。そしてそれは、私が自然科学を志向する、大きなきっかけとなったのです。
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最初は、石への憧憬でした。石というのは、岩石や鉱物、化石、隕石等を指します。旧石器時代の巨大な遺跡は、地球における何億年もの積み重ねを想起させました。幼き私にとっては、地球はとてつもなく巨大な石を礎として、成り立っているように思えました。したがって、地球に対する畏怖は、石への関心を高める要因となったのでした。
通っていた小学校では、1年生と6年生が三神峯公園という公園に、遠足する伝統があったのですが、この公園からは縄文土器が多数出土されていました。地底の森ミュージアムと同じく、頑張れば土器の欠片が見つかるんじゃないかと胸を躍らせたものでした。結局見つかることはありませんでしたが。それがきっかけだったかはっきりとは覚えていませんが、土器は石ではないものの、漠然と発掘するという行為に憧れを抱くことになりました。同時に、どこで、どのような「宝」石が眠っているのかということに、強く関心を寄せるようになったのです。
偶然かはわかりませんが、当時教頭先生だったI先生は、石のコレクターでした。I先生は、休み時間に私含め生徒を引率して、外に案内してくれました。校舎は「コ」の字になっていて、私の学年は1階でした。教室にある、外に通じるガラス扉を開ければ、「コ」の字の隙間から、校庭へ通ずる解放空間に直で出ることができたのです。校庭へ向かう途中には、クラスみんなで丁寧に飼育していた金魚の墓がわずかにマウントしており、過ぎ去れば、大小さまざまの植木、そして各学年が手入れしていた畑がありました。甲高い声を伴った走行風のあおりを受けながらも、淡いピンク色をした躑躅は、青天の空に見守られ、凛々しく、美しく咲き誇っていました。
I先生は、躑躅の花を根本から丁寧に剥がし、花びらの曲線が収斂する底の一点を口にすれば、すなわち「ラッパ飲み」さながらでした。楽器のように音を立てながら吸えば、甘い味がすると、私たちに教えてくれたのでした。眼鏡をかけていらっしゃった気がしますが、とにかく自然界のトリビアを、柔和な笑顔で優しく説明して実践してくれたのは、素敵でした。
どのタイミングで、どのようなきっかけでお話したのかは、はっきりとは覚えていません。しかし、何かしらの成り行きで、I先生が石を収集していることを知ったのでした。行動が早かったと記憶しています。突然、職員室に呼ばれました。
2階の、ベルマークを集めるペットボトルが、まるでウツボカズラのように不気味に陳列されたガラス棚を横目に見ながら廊下を通り過ぎれば、職業として働く先生方の「隔離空間」がありました。当然緊張します。ドアを開けたとしても、左奥の重鎮席にいらっしゃるわけですので。数万年前の遺跡を巡るのとは別の次元の、現代的な、有り体の畏怖があったのです。なんとかして丁重に入れば、ニコニコのI先生がお出迎えしてくださりました。
先生からは、プレゼントをいただきました。手のひらサイズの白い箱を丁寧に開けば、薄い紙で慎ましく覆われた、黒曜石が顔を出しました。当時ポケモンのゲームに勤しんでいましたが、最初に伴侶となるポケモンを三択から選ぶ際に、ポケモンは、そのボールからつぶらな瞳でじっと見つめてくるわけですが、その時に生じる愛くるしい心情に近いものを感じたのです。
上箱の裏には、岐阜県の○○山から採集された旨が、確か記載されていたと思います。黒曜石は、旧石器時代にナイフに加工され、狩りや調理等に重宝された石です。日本の、まさに山を象徴するような地域で眠っていた、そして大昔には実用化されていたであろう、艶めかしい光沢を放つ岩石が、自身の手元に、眼前に存在していたのでした。遥かな時空を垣間見る、大きなfirst impressionとなったのです。
I先生との交流は、私が東京に転校することになる小学校3年生の終わりまで続きました。高尚な先生と盛り上がりたいこと、職員室という大人の世界で背伸びがしたいことも、子供ながらあったのは事実でしたが、それ以上に、好奇心を満たしたい想いが、強くなったのです。あの黒光りする、太古の音が今にも聞こえそうな黒曜石は、氷山の一角であることは間違いないように思えました。時には、この黒い物体に鼻を近づけ、何万年かはわからないにせよ非常に長い年月眠っている間に醸成されたであろう香りに、悦に入っていたのでした。しかしすぐに、「次」を欲するようになりました。
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図鑑に手を伸ばすことにしました。校舎2階に、静けさで満たされた図書館がありました。入り口を抜ければ、すぐ右に司書デスクがあり、そこで本を借りる手続きをしていたと思います。このデスクの背には、整列している本が棚三つ分ほどあったと思いますが、そこは禁出、すなわち持ち出し禁止の本のエリアでした。したがって、一般的な図書のように、貸出カードは内包されておらず、図書館でしか読むことが許されなかったのです。石の図鑑を探していたのですが、なかなか私を満足させるものが見つかりませんでした。そこで、ダメ元で、この禁出コーナーを探してみたところ、まばゆい万色の輝きを放つ、形容しがたい芸術性を帯びた表紙に、遭遇しました。堀秀道先生が著した『楽しい鉱物図鑑』(草思社)です。「弁明の書」に思えました。
恐る恐る開けば、短い人生で体感したことがない陶酔感に満たされました。各ページには、地球で「熟成」された、まばゆい鉱物が、まるで宝石の一流写真集のように、美しく収められていたのでした。宝物を掘り起こしたような気がして、手放したくありませんでした。しかし、背表紙には、禁出の赤いシールが存在感を放ちます。確か、担任の先生に駄々をこねたと思います。なんとかして貸してほしい、と粘り強く交渉しました。その結果、期間限定ではありましたが、わが物にすることができたのでした。大変嬉しく思いました。
毎休み時間のルーティンであった校庭でのドッチボール、あるいはサッカーの時間をなげうって、騒々しい教室の中で図鑑に夢中になっていました。仙台どころか、日本でも採掘ができないような煌びやかな鉱物の数々が、二次元の紙面上に確かに存在しており、いわば一ページ一ページが、世界を見開く「窓」も同然でした。まるで、外国の、日常からは大きく乖離した、浮いた世界を、broadcastを通じて眺めるような感覚に近しいものがありました。とにかく、新鮮な味を噛みしめていたのです。一方、今しがた、できるだけ当時を客観的に評価すれば、遊び盛り真っただ中の日焼けた小学校低学年が、その貴重な休み時間に、机に難解な図書を繰り広げていたのは、シュールな光景だったに違いありません。
しかし、そんな非日常も、ほんの束の間でした。返却せねばなりませんでした。渋々ながらも、応えざるをえませんでした。特例に一定の感謝をしつつも、石への憧憬の一筋の糸は切れるどころか、むしろより求めるようになっていました。気が付けば、かの現実の小宇宙であったモールの本屋に、足が赴いていました。難しいジャンル棚への漂流経験が活きる時がきたのです。
『楽しい鉱物図鑑』は、大海原の中、澪標として確かに存在感を放っていました。確か4000円くらいはしたと思います。漫画は、当時10冊弱は買える計算ですので、いかに高級な書であるかは容易に理解できました。しかし、購入して一生の私物にする価値は、間違いなくありました。したがって、尊いお年玉の袋を丁重に開け、大人の嗜みとも思われた本を、等価交換する決断に至りました。購入後は、ファミレスでの外食や、旅行先にも携帯するなど、手放せない相棒でした。今は、実家の私の部屋の本棚に、他の図鑑と共に、埃を被っているでしょうか、しかし立派に陳列されているのです。
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さて、鉱物への興味はのちに、さらに膨らみ続けました。当時、仙台市の中枢をはしる定禅寺通り沿いに、141というデパートがありました(今は三越になっていますが)。この親しみ深い百貨店に、ジュエリーや鉱物などの石を販売するお店がありました。週末のサッカースクールの帰りに限定されましたが、地下で親が買い物をしている間は、6階あたりにあったと記憶する本屋か、この鉱物のお店を漂流していました。
疲れた時は、地下に降りたエスカレーターのすぐ近くにあった質素すぎる椅子に腰かけ、デパ地下クオリティのジュースかソフトクリーム、あるいはお菓子をほおばって待機していました。すぐ傍に、懇意にしていた鮭?のお店が活力にみなぎっていたのを、よく覚えています。一時期は1/3以上の確率で、鉱物を探索していたのでした。財布と相談して、親に許可を得て、購入することもしばしばでした。もちろん、魔除けの巨大な紫水晶のようなものは買わず、手のひらサイズよりもさらに一回り以上小さい、質素ながらも異彩を放つ、個性的な石を収集しては、満ち足りていました。
仙台を超える冒険もありました。私の当時のバイブルであった鉱物図鑑の著者、堀先生の研究所に訪れたことがあります。夏の日だったはずです。東京都練馬区は、いまの記憶でも、ひどく暑かった印象が濃く残っています。ただ、研究所の中は、都会の喧騒、あるいは蝉のやかましさとは対照的な、慎ましいながらも華やかな空間でした。石の匂いがする。それが、第一印象でした。嗅覚が真っ先に刺激されるとは、驚きだったのです。
眼前には、コンパクトながらも膨大な、彩り豊かなコレクションが広がっていました。図鑑では、一平面ごとの限られた角度からの観察になりますが(それでもこの世とは思えないほど美しかったわけですが)、このとき視界には、お花畑のように幾多の色、形、つまりは個性をもつ鉱物が、総和として、調和した映像として訴えかけてくるのでした。まさに、夢心地でした。
そして、堀先生とお会いすることができました。少し寡黙ながらも、ご丁寧にもお話の機会をいただけた記憶が微かにあります。柔和で優しそうなお人柄は、I先生とも重なるところがあったように思います。各鉱物固有のキャラクターを、魅力を最大限に引き出し、まるで美術館の古典作品を眺めているかのような恍惚感を感じることができる、そのような素晴らしい図鑑=鉱物のアート作品集をつくりあげられたのが、目の前にいらっしゃる先生であることは、容易に納得できました。
そして私はふと、『地底の森ミュージアム』で生じた畏敬の念は、自然を敬う、あるいは是が非でも理解したいという、愛という名のベクトルなのではないかと、ぼんやりと悟ったのです。先生は、鉱物に秘められた深淵な美しさに、鉱物に向き合い続けることで、限りなく肉薄されたのではないかと思ったのです。先生がお亡くなりになられたのを知ったのは、つい最近のことでした。実家の、誰もいない私の部屋の、机の引き出しの中では、いまだに静かながらも、鉱物のハーモニーが続いています。
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地底の遺跡を起点に、私の、自然界に対する憧憬は、まるで躑躅の花のように、根元から美しい曲線をなぞりながら発散していくかのようでした。そして、蕾が開く原動力になったのは、『楽しい鉱物図鑑』をプロトタイプとする、数多の本でした。本は、彼方の世界をみる優良な「窓」であり、眺める過程で、より知りたいという気概が、正のサイクルに従い増幅されていきました。そして、鉱物は、あくまでピンク色を呈する花の一部、つまりは一枚の花びらにすぎませんでした。例えば、黒い神経細胞を想起させた数万年前の木々は、植物に対する関心を誘いました。そもそも、杜の都であり、翠を眺めることで生じる漠然とした陶酔感は、生まれつき具備されていたように思えました。
「窓」からは、鉱物と同じく、千差万別の個性をもつ植物が、この世に確かに存在することを教えてくれました。すなわち、私が10年にも満たない人生の中で観察できた木々や小さな花などは、ほんのわずかであることを悟りました。そして、鉱物と同様に、ぜひともこの目で、実際に見てみたいと強く思ったのです。
運が良いことに、学校にはたくさんの植物が、顔を覗かせていました。生徒が胸ポケット付近に名札をしていたように、彼らにも、丁寧にも、何者であるかを示すネームプレートが備え付けられていました。大地に根を張り、天にむかって鉛直方向に、地道に成長を試みる植物たちに魅了され、サッカー友達のS君を誘い、鶏小屋の隣にあった庭に咲き誇る花々を、スケッチしていたこともありました(無理やりだった気もするので、今思うと申し訳ない気がします)。
しかし学校では飽き足らず、秋保温泉のすぐ近くにある、天守閣自然公園に、親に何度も連れて行ってもらえました。確か、入園受付口で、さぎ草や水芭蕉、桜草をはじめとした植物のポートレートを安価でセット売りしてあり、無料のパンフレットとともに携えて、拝観していました。この写真は、A4サイズだったと思うのですが、背景の黒は、その草花を深淵化するには十分すぎており、鉱物図鑑を思い出させました。
四季折々移り行く景色を、連続的に投影する園内は、長町ではあまり聞くことができない鳥の鳴き声や、土壌、葉、花々が織りなす十重二十重の芳しい香りをはじめとした五感入力を通して、自然と一体化するリアリティを提供してくれるのでした。翠を浴びたあとには、隣接する市太郎の湯という温泉に浸かることで〆て、帰りの車のなかでうたた寝するのが、とある週末の、非日常の日常でした。
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『地底の森ミュージアム』は、私の日常を矮小化するほどに、巨大な座標空間でした。あの薄暗い神秘の世界は、森羅万象に対する深遠な感情を呼び起こし、宇宙空間のように、幾多の軸方向に無限に膨張し続けることを、つまりは終わりなき旅を、直感的に示唆しました。ちょうどz軸方向、すなわち鳥瞰すれば、瞳のような楕円形で囲われた太古の杜は、私の中に潜在的に眠っていたであろう薪に、火種として作用しました。そして、あまりにも広大な時空に対して最早ゼロにも等しい私の10年弱の未熟な心象に、本は、豊富な酸素を含んだ空気を不断に送り込み、自然界に対する畏怖の念と同じく、好奇心の炎を立て続けてくれました。
そのプロセスの中で、私は誠に素晴らしい、いくつもの経験をすることができたのです。鉱物の座標エリアにおいては、I先生との出会い、形容しがたい黒曜石の威光、鉱物図鑑との偶然の遭遇、堀先生との出会いをはじめとした、数々の経験が、「点」として連続的にプロットされました。これは、植物や動物、宇宙といった座標エリアでも、同じことがいえます。千変万化する赤い灯は、お互いに相互作用する引力がはたらく「点」を、時には各座標エリアを越えて、経験という一点として連続的に打つエネルギーとなったのです。
そして、私の座標空間上には、数えきれないほどの「点」が存在します。私は、これら「点」の集団の大局的な近似傾向、つまりは回帰曲線が、自然科学を志す大きな「軸」として機能しているように思われるのです。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』では、アロナクス教授が、19世紀では考えられないほどの未知に遭遇するわけですが、その時々における驚嘆は、当時の私にも、一定の親和性があったように思います。博物学が自然科学の源流となったように、私も、時の波に従い、より濃密になる「軸」を通して、科学者への志が少しずつ芽生えてきたのでした。私は、義務教育を経て、大学では農学を学び、運が良いことに、今や創薬研究者となることができました。自然科学研究を生業とすることができているのも、強い「軸」があったからこそだと思うのです。
『地底の森ミュージアム』は、私の座標空間上における「軸」の延長線上、遥か彼方に煌めく北極星でした。杜の都でプロットされた数多の「点」は、北極星を「軸」に回転します。そして、暗い夜空で、鮮やかに輝きを放ちます。この星空は、すなわち、私が自然科学を憧憬する心象そのものなのではないかと思うのです。
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