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占いは科学の彼岸か -古のビッグデータは、私の病気休職を予測できたのか-

    休職が決まったのは、不謹慎ながら清々しいものだった。概ね、想定通りの着地点である。優しく手渡された診断書は、諸々の罪悪感を引き起こした。しかし、安息の免罪符でもあった。卒然として生じた切れ目は、諦めを教えた。



    胃の暗がり、相反する衝突を認めながらも帰路に就く。地下鉄では息が詰まる。赴くままに、大阪環状線へと進む。春の陽気を期待していたのである。プラットフォームは、いつもより時間が緩んでいた。騒々しさがない。ノイズはこのとき珍しくも効果的に退けられていた。



    窓の外を見渡すゆとりがあった。桜の季節。そして葉桜。新緑の青々とした初夏の兆し。川沿いの木々は、おもむろに、しかし明瞭に生命力を喚起させた。このとき、自身内部で生じていた矛盾は、忘れ去られていた。



    しかし少しずつ、目にうつる世界は、彼岸の向こうへ。輪郭を溶かしながら、焦点を離れながら、フェードアウトする感覚を覚えた。移り行く風景を眺めながら、自身の行く末を案じた。年度初めのことである。




    休職は青天の霹靂。幸運の矢先の突然の不運であった。冷たい北風は、チャンスを携えて、思いがけず私に舞い込んだ。昨年終盤、新薬事業を成長させる上で、重要なプロジェクトを任せてくれた。工数に余白があったがために、私に白羽の矢が立ったのだろう。



    タイミングがよかった。創薬研究者として大きく成長できる、またとない絶好の機会だった。しかし、春先に予定していた大きな計画を実行に移す最中、病気休職することとなってしまった。オーバーヒートしてしまったのである。季節外れの北風は、私にしばしの休養を命じた。




    暗い雲の隙間からは、微かな淡赤色が射し始めた。烏は、来光を告げる。マンションは、次第に賑わい始めた。日常が始まろうとしていたのである。



    しかし、暗澹たる1LDKの空間には、ウォーターサーバーの機械音が、断続的に反響するだけである。次第にカーテンは、まばゆい、黄色のスクリーンと化した。そしてひたすら、一日がただ冗長に過ぎ行くのを、見送るばかりである。



    なだらかな時間は、内省を促すには充分だった。なぜ、このような運命となってしまったのか。これからが、大事なタイミングだったというのに。心は消え果てていた。これからの人生、どうなっていくのだろうか。



    漠然と、運命について考え始めた。布団の中で、休職という出来事に端を発した、運命に関する考察が、繰り広げられようとしていた。


    ***


    思い返せば、私はとても心配性だ。仕事では、実験工程に間違いはないか、コンプライアンスに抵触していないか、など心配の種は多岐にわたる。もちろん必ず確認し、当座は解決する。しかし、時間がたつと、すぐに反証可能性が湧いてくる。そして再度何回も確認する。神経が、磨り減る一方である。




    アサインされたプロジェクトは、大変だった。心配の種は、膨大だった。心配の種は、にわかに発芽した。芽は、私の頭の中に寄生し、栄養を奪い始めた。頭は、むしばまれ始めた。一つ一つ丁寧に芽を摘むものの、処理が追い付かない。




    そして、正常な思考に必要な栄養が、どんどん吸い取られていった。イライラが止まらなくなった。寝れなくなった。ストレスは、雪だるま式に増え続けていった。そして、ついに耐えられなくなってしまった。頭が、ショートした。適応障害、バセドウ病と診断され、休職に至った。




    過去にも、似たような出来事があった。大学時代、人とのかかわりに、とても思い悩んだ。しかし、頭をむしばまれていることには、当時、全く気付いていなかった。そして、自覚されないまま蓄積したストレスは、過呼吸発作として突如現れた。まさに青天の霹靂だった。パニック障害、うつ病の診断が下った。




    この度休職になったことは、タイミング的には唐突で不運であった。しかし、心配性が招く、自身の道理にかなった、再現性の高い、必然の出来事であった。




    しかし、私は、心配性になりたくてなったわけではない。生まれつきかはわからないが、心配性という気質が、根深く刻まれている。努力で、無頓着になれるわけでもない。心配性という気質は、制御不能な、一種の運命なのではないかと思った。




    では、心配性は、休職という運命をどれほど規定するのか。心配性なだけでは、休職には至らなかったはずだ。新しくプロジェクトを任用されるまでは、大きく体調を崩したことはなかったからだ。プロジェクトという要因が、休職という運命に寄与しているだろうと思われた。大きなストレスが、休職の決め手となったからだ。




    ここで、端緒を得た気がした。運命は、「遺伝子ガチャ」、「環境ガチャ」という二つの要素で規定されるのではないか。いたってシンプルかもしれないと思った。




    遺伝子ガチャとは何か。一言で言えば、生物学的な初期値のガチャだ。先天的な、「ノーチャンス」のガチャだ。




    私たちの体は、ゲノムという設計図により導かれる。この設計図は、遺伝子という、パーツの詳細図面で構成されている。各パーツが有機的につながることで、細胞は生きる。そして、組織ができ、臓器ができる。最終形態が、設計図の具象としての、生体だ。




    つまり、生体は、設計図をもとに、パーツを忠実に繋げて完成されたと言えよう。しかし厳密には、生まれてから、後述する環境に、影響を受ける。環境の影響を受ける前の設計図≒ゲノムを初期値、受けた後を最新値と呼ぶことにする。




    遺伝子というパーツは、約三万ある。しかし、どのパーツを選べるかは、「ガチャ」である。もちろん他の人と全く同じパーツを持つこともあるが、双子という例外を除けば、多くのパーツは微妙に異なる。パーツが変われば、機能も変わる。



    これら各パーツ機能のゆらぎの総和が、固有の初期値となる。この初期値の選択は、自由意志で制御不能な、「遺伝子ガチャ」といえよう。





    進化生物学の巨匠 リチャード・ドーキンスは、著書『利己的な遺伝子』の中で、私たち生物のことを、遺伝子の生存機械と表現した。私たち生物は、各々固有のゲノム≒設計図を有している。しかし、主体は飽くまでゲノムであり、私たちはそのゲノムが運転するvehicle=車にすぎない、ということを端的に表現した。


    遺伝子≒パーツガチャは、初期値ではあるものの、私たちの生物学的運命に大きく寄与しているといえよう。





    では、環境ガチャとは何か。文字通り、環境のガチャである。後天的な、「ワンチャン」のガチャだ。




    環境とは、私たちの周囲を取りまくものだ。例えば、家庭や学校、文化やルール、芸術やスポーツなどだ。私たちは、こういった環境から不断に入力を受け、アップデートする。そして、時にイベントが生じる。しかし、環境はランダムである。私たちに、良い影響を与えるかは蓋を開けてみないとわからない。したがって、「環境ガチャ」と言えるだろう。




    ニュートンの逸話を交えながら、説明したい。リンゴが落ちるさまを見て、ふと重力の概念をひらめいたというエピソードは、広く知られるところである。リンゴがニュートンの目の前で落ちたということは、一種の環境ガチャである。




    環境ガチャが、偶然そのタイミングでニュートンに作用した結果、重力の着想に至ったということになる。力の単位になっているほどの偉人であるニュートンだが、これは環境ガチャが導いた運命といっても過言ではないと思う。




    ここで、ニュートンは、重力の概念を『プリンキピア』に著した。これは、環境ガチャが導いた自由意志である。りんごが落ちなかったら、執筆を試みることはなかっただろう。また、自然哲学や数学の素養がなかったら、リンゴが落ちても、アイデアが思い浮かばなかったと考えられる。




    ニュートンが誕生して、家庭や学校、文化といった環境ガチャが作用した結果、高度な学術的知識を獲得できたのだろう。そしてそのうえで、リンゴという環境ガチャが作用することで、概念提案という、ニュートン独自の自由意志が生じたのだろう。


    したがって、自由意志は、幾多の環境ガチャに依存するといえよう。これを踏まえると、自由意志は、実のところ「自由」ではなく、環境ガチャに内包された、一種の運命といえるのではないかと思う。



    以上を踏まえ、遺伝子ガチャと環境ガチャにより、運命がどのように規定されるか考える。




    遺伝子ガチャは、生物学的な初期値と述べた。これは、生まれ持った設計図≒ゲノムにより規定される。一方、この初期値は、環境ガチャによる入力を絶えず受ける。


    生まれてから、まず家族、家庭環境から入力を受ける。その後、保育園や幼稚園、小学校や中学校、高校、大学、会社等のコミュニティにおいて、様々な人から入力を受ける。国あるいは居住地域の文化や伝統、ルールからの入力も受ける。



    このような、数々の環境ガチャによる入力により、初期値は影響を受ける。その結果、初期値はアップデートされ、最新値となる。ここで、最新値から導かれる、私たち固有の生物学的要素の総体を、「私」と呼ぶことにしよう。




    「私」は、遺伝子ガチャによる初期値という運命に、環境ガチャという運命が連続的に作用した結果として、今ここにいる。「私」は、これからも環境ガチャによる入力を受けることになるだろう。これは、未知の運命といえよう。




    まとめると、運命とは、下記のように説明できるのではないか。これを、私による、運命の仮説としておこう。



    『運命とは、遺伝子ガチャで規定される私たちの初期値に対し、環境ガチャが絶えず入力をすることによって、導かれる。』



    これを踏まえると、病気休職という運命に至った背景は、下記のように説明できるはずだ。



    『私には、固有の初期値がある。この初期値に、環境ガチャが絶えず入力されることにより、心配性の「私」が形成された。「私」に、環境ガチャの結果、プロジェクトによる入力が続いた。その結果、不幸にも、病気休職という運命が導かれた。』


    ***


    一息ついた。ウォーターサーバーの機械音は、この瞬間、久しぶりに意識された。ベクトルは、内の世界に収斂しすぎたようだ。そういえば、喉が渇いた。小休憩をとるには、ちょうどよいだろう。



    ゆっくり伸びをしながら、エネルギー補給に向かう。ガラスのコップには、時折しぶきをあげながら、冷たくも瑞々しい潤いが、満たされる。喉を、軽やかに、通過する。目の前にあったはずの水は、私に生命力を与えた。




    空は、茜色に染め上げられていた。烏は、一日の終わりを告げる。マンションは、次第に賑わい始めた。気が付けば、もうそんな時間である。



    そういえば、おなかも空いてきた。さっぱりしたものが食べたい。昨日行った、街中華のお店の真向かいに、うどん屋さんがあった。そこにしよう。




    道中は、平和だった。帰路につく人たち。晩御飯を考えているのだろうか。あるいは、今晩みる映画を考えているのだろうか。家族に会うのを、心待ちにしているのだろうか。


    春のせいか、来るべき明るい未来が、透けて見えたような気がしたのである。少しでもいいから、一瞬でもいいから、幸せが訪れてほしい。蚊帳の外ながら、微力にもそう願った。




    ここで思った。この瞬間は、交点である。私と、家に帰る人たち。このタイミングで、みんなが同じ空間にいるのは、おそらくこれが最初で最後である。明日になれば、各々の道を進む。これから会う人もいれば、会わない人もいるだろう。




    時間は、「私」を不断に更新する。先々に遭遇する環境ガチャは、運命を左右するだろう。私は、これから良き運命に恵まれ、良き人生を辿れるだろうか。来るべき運命が、気になったのである。




    運命を予測することは、21世紀の今、果たして不可能なのだろうか。私が病気休職する運命は、あらかじめ予測することはできなかったのだろうか。予測できたら、意志で運命に抗えたかもしれない。運命の将来予測について、考えを巡らせた。


    ***


    私は、運命の将来予測が一定程度は、可能だと思っている。



    まず、科学的アプローチを考えてみたい。運命は、遺伝子ガチャで規定される初期値に、環境ガチャが作用することで、導かれるのではないかと述べた。


    ここで、「私」はアップデートし続けるので、生まれてから新しく変化した、設計図≒ゲノム部分の物理的変化を+αとして、定数+αと置けるだろう。環境ガチャは不確定なので、変数と置けるだろう。そうすると、ある時点における運命は、簡単に表現すれば下記のようになるだろう。



    運命=(定数+α)×変数  (×は相互作用を表す)




    運命は、変数との関係性の中で導かれることを踏まえると、定数+αによらず、不確定性を帯びると言ってよいだろう。
    変数は、現行の科学で予測することは困難である。


    あることがその時点で生じる背景にあるパラメータおよびその因果関係が、極めて複雑だからだ(身近にある環境パラメータもすべて加味する必要がある。これは、プライバシーの観点からも許容されないだろう)。




    したがって、科学では、少なくとも私の提示した運命の仮説に当てはめる範囲では、運命を予測することは困難であるといってよいだろう。




    では、さじを投げなければいけないか。私は、占いに可能性を見出したいと思った。




    占いと聞くと、方法論的に、科学と対極にあると思われるかもしれない。つまり、信用ならないイメージが先行するかもしれない。私も、そう思っていた。




    一方で、テレビを見た。占い師が、有名人を鑑定する番組だ。その人の潜在的な性質や傾向、また過去の大きな出来事、さらには今後の運勢に関して、占う。つまりは、運命を占う。それも、かなり具体的に、である。その結果、有名人は、驚く。なぜ、そこまでわかるのか、と言わんばかりの反応である。「的中」は、一つや二つではないから、より熱がこもる。




    他の回を見ても、占い師は見事に「的中」させ、驚かせる。信頼性はありそうである。ここで、「的中」とカギかっこで表現するのは、端の他人からは、的中したかは判断がつかないからだ。本人にしかわからず、客観性がないためだ。




    しかし、私には、そのリアクションが、とても嘘をついているとは思えないのである。占いには、何かしら信頼に足る、方法論的根拠があるのではないかと考えた。占いで、運命を予測することの妥当性に関して、考察しようとしたきっかけである。




    占いにも、色々ある。四柱推命や西洋占星術のように、生年月日・時間をもとに占うもの、手相のように、手のひらの筋をもとに占うもの、姓名をもとに占うものなど様々である(タロットは、現段階の深層心理を解きほぐすツールという意味合いが強いので、省略する)。



    これらは、それぞれの個人データを入力して、それぞれの手順に従い、出力する。出力結果とは、運命の予測結果である。一方で、この過程、つまりは占うこと自体、迷信めいていると感じる人は多くいると思う。



    私は、占いが信用ならないゆえんは、科学的根拠の欠如、つまりは因果関係や再現性、反証可能性の欠如にあるのではないかと思う(以降、占いは、個人データを入力する占いに限って考察する)。




    まず因果関係について考えたい。まず占いは、おおよそ下記のような手順で行われるといってよいと思う。



    ①個人データを入力値として、方式に通す。
    ②個人データが、別の形式に変換される。
    ③変換されたデータを、モデルにしたがい、意味を当てはめる。



    ここで、②から③に関して、そのモデルで、なぜ特定の意味を導出できるのか、その根拠が不明瞭である。その導出背景に、論理的妥当性はない。占いは、方法論的根拠が薄いといえよう。したがって、占いは、今日においては、因果関係が明瞭とはいえない。



    次に、再現性に関して考えたい。再現性とは、第三者が同じ試行をした際に、その結果が再現できる性質をもつか、ということである。ここは、具体例を交えて考えたい。



    例えば、姓名判断では、名字と名前の画数などをもとに、占う。この算出手順は、流派にも依存はするが、統一されている。占い師の間で、結果を出力するプロセスは一致し、再現性は高いかもしれない。

    しかし、パラメータが豊富であるがゆえに、結果の解釈には幅が生じる可能性がある。これは、四柱推命をはじめ、全く同じ個人データ(生年月日など)を有する占いにおいても、同じことがいえる。


    したがって、占いの結果は、そこまで再現性が高くないといえるだろう。



    反証可能性についても考えたい。反証可能性とは、モデルに適合しない反証例が生じる場合、そのモデルが棄却できる論理的構造のことである。



    占いでは、その結果に対し反証不可能な点がある。占いには、仕事運や結婚運や健康運といった様々なパラメータがある。例えば、仕事運はモデルに従えば、今年大きなチャンスが巡ってきて、出世の第一歩となる、といった結果が出るとしよう。



    一方で、実際にはそうではなかった、とする。このとき、占いのモデルが間違えである、という帰結には、必ずしもならないだろう。例えば、健康運が悪く、それが仕事運に作用したのだろう、といったように、後付けで解釈することが可能である。反証が不可能になってしまうのである。




    以上のように、占いは、一般的に科学的根拠を構成する、因果関係、再現性、反証可能性という3つの要素を、ほとんど満たしているといえない。


    したがって、占いは、科学的根拠を持たない。科学と比べた場合、その方法論的な信用性は低いといえよう。これが、占いが信用ならない、と言われる理由なのではないかと思う。




    では、この占いという手法は、「全く」信用ならないのだろうか。私は、占いの種類にもよるが、四柱推命のような、古の膨大な個人データから帰納的にモデルを構築したものに関しては、一定の予測妥当性を持つのではないかと考える。




    なぜなら、このモデルを構築する一連のプロセスは、現代における、ビッグデータから傾向を見出し、モデルを提示し、そのモデルに当てはめて予測するという、統計学的手法に近い性質を帯びているからだ。





    具体的手法として、四柱推命という占いを例に挙げたい。この占いは、古代中国で生まれた、運命学の王様と呼ばれる、有名な占いである。これは、膨大な個人データ(生年月日・時間)をもとに、帰納的に導いた法則を用いた占いである。簡単に導出背景を記すと以下のようになる。



    ①個人データ(生年月日・時間)を他のパラメータ(五行)に変換する。
    ②膨大な個人データ(人生の出来事)と、個人データ(五行)を紐づけられないか試行錯誤する。
    ③法則(五行データと、人生の出来事を紐づける)を見出し、一般化する。



    ここで、①はすでに古代中国で発案されていた所与の概念である。五行とは、「木」、「火」、「土」、「金」、「水」を指し、それぞれに固有の性質が定義されている。②が、帰納的なプロセスである。つまり、個人データから、人生の出来事(仕事や結婚、年ごとの運勢など)を予測するための、体系的なモデルを、経験則的に導くプロセスである。



    例えば、五行に変換された個人データを一万人分集める。一万人の人生と照らし合わせて、どのモデルであれば、その人の人生をより正確に反映できるのかを繰り返し検証する。


    その試行錯誤の結果、選りすぐりのモデルのみが生き残り、運命予測に活用される、といったような流れである。ビッグデータからモデルをつくる観点でいえば、統計学的帰納プロセスに近いといえるだろう。



    占いのモデルは、科学的根拠を持ちえない。しかし、統計学的帰納プロセスに近い背景を持っている点を踏まえると、一定の信用性はあるといえるのではないか。



    ここで、「一定」と消極的に表現したのには、科学的根拠の欠如に加えて、三つ理由がある。 




    第一に、このモデルは、あくまで入力値(=個人データ)と出力値(=人生)の相関により導き出されているからだ。科学的理論のように、因果関係をもとに導き出されたモデルではないことに注意が必要である。予測が当たらない可能性がある。




    第二に、個人データが完全一致した際の、予測のゆらぎを内包しているからだ。帰納プロセスにおいて、その人の人生には、遺伝子ガチャの影響も含みうる。一方で、科学的な遺伝的要因は、前提として加味されていない。



    理想は、設計図≒ゲノムのデータと個人データの両方を踏まえて、入力値の特殊性を深めて予測精度を上げるように努めるべきだが、古に築かれたモデルでは、遺伝子ガチャの影響を加味できていない。したがって、同じ個人データを用いた場合の、予測結果の信用性を担保できない。ここに、占いの、方法論としての限界があるといえよう。




    第三に、帰納的プロセスに、統計学的性質が不足しているからだ。生データや、帰納的プロセスといった記録はほとんど残っていない。また、出力結果が定性的であるため、誤差や傾向があいまいになってしまう。したがって、統計学的方法と比較すると、占いの帰納プロセスには課題があるといえよう。




    このように、方法論的な限界を有する占い。どれほどの予測精度を有するか気になったので、私は試しに、今年の健康運と仕事運を、四柱推命で占ってみた。その結果を、一部記す。




    まずは、健康運。非常にエネルギーに満ち溢れる年であるが、知らず知らずのうちに疲労が蓄積しやすい性質を持っている。また、「火」の気が強くなるため、自律神経が乱れる可能性がある、とのことだった。プロジェクトに腐心したことがきっかけで、適応障害やバセドウ病を発症した事実に、一致している。




    次に、仕事運。これまでしてきたことが評価され、周囲の目に留まる。リーダーシップの発揮や、人脈の拡大が期待できるが、自分のキャパを超えてしまうかもしれない、とのことだった。これも、プロジェクト関連の仕事をリードしてきたことや、病気休職が示唆されており、一致している。私の病気休職という運命は、予測可能だったのかもしれない。 



    私は、この結果を踏まえると、あくまでn=1、つまりは私のみの実証ではあるが、古のビッグデータが導いたモデルは、それなりに信用できるのではないかと思っている。



    以上のように、占いは、統計学的素養を少なからず踏まえた、信用に一定程度は足る、古のすばらしい知恵なのではないかと思う。確かに、科学的根拠は持たない。方法論的な限界もある。


    しかし、私はむしろ、ここに希望を見出す。何かしらの方法論で、運命は規定されるものではない、という安息が得られるからだ。




    仮に、科学的根拠をもつ理論が構築されたとして、そのモデルに、自身の個人データを当てはめたいと思うだろうか。その予測結果は、自身を受け身にしないだろうか。運命が先にあり、その後に私がある、となると、生に対し消極的になる可能性はないだろうか。占いのように、科学的ともいえず、一切信用できないともいえず、むしろその間に位置することは、私たちにとっては、最適な方法となるのかもしれない。




    ここで、運命予測に関して、簡単にまとめてみたい。


    科学的アプローチでは、要素還元主義にもとづき私が導いた、運命の仮説の不確定性が示唆された。占いのアプローチでは、要素還元主義の方向とは逆の、帰納的な方法で、一定の予測妥当性を提案した。私は、科学的プロセスで運命の仮説を提示したが、科学者としてのバイアスがかかっていたように思える。




    運命という大きな対象に対して、科学は、アプローチの一手段に過ぎないといえるかもしれない。古のビッグデータは、科学では説明できない事象を一定説明できると考えると、科学という方法論に固執するのは、一種の視野狭窄だろうと思われた。



    科学は、物事を説明する絶対的な手段とはなりえないのだろう。


    ***


    うどんをすすりながら、かのような考察に耽っていた。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


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