
小役人日記 新規採用編おまけ①ウイスキー
宮本課長が本省庁へと帰還した後、後任として本省庁からやってきたのが、同じく五十代前半頃の真地課長であった。かなり大柄の方であったが、穏やかで趣味の良い課長であり、当時、二十代前半の小僧であった私は、模倣すべき大人像として大いに影響を受けたのである。
真地課長の趣味の一つが、グルメであった。地元民である私が知らないような名店の数々を、東京から来たはずの真地課長はよく知っており、逆に課員ともども連れて行ってもらっていたのである。
ある日、私は真地課長と二人で飲みに行くこととなった。その日は、何故か駅周辺の繁華街とは真逆の、どちらかというと住宅街の方へと繰り出したのである。お店があるような雰囲気はなく、私はどこへ行くつもりなのかと訝しげに思っていた。
10分ほど歩いたころだろうか。真地課長はアパートとアパートの隙間のような場所を見つけると、大きな体をねじ込むように、小道の奥へと進んでいった。私が通行人だったら、間違いなく不審者だと思っただろう。そのまま、小道を進んだ先には、昔ながらの民家の玄関があったのである。
真地課長は、何のためらいもなくその玄関の引き戸を開け、中に入っていった。慌てて後ろからついて行った私が見たのは、カウンター越しに店主が酒や料理を振る舞う和風のバーであったのである。私は、こんなところに店があるのかと驚愕した。いわゆる、「看板のない店」というやつである。
真地課長は既に常連なのか、店主と親しげに話をしている。よく見ると、カウンター席の他にも、囲炉裏を思わせるような四人席が一つだけある。しかしながら、その席を使ったとしても、この店に入れるのは十人程度がやっとであろう。
真地課長は、私にはビールを勧めてくれた上で、自身はウイスキーを注文していた。そして、旬の焼き魚やポテトサラダなどが、木製の品の良いテーブルに並んだのである。
当然であるかのように料理はいずれも美味で、私はこのバーをすっかり気に入ってしまった。
その時、真地課長が自身のウイスキーを私にも勧めてくれたのである。炭酸割りではないのはもちろん、ロックですらなく、ストレートであった。
注がれているグラスも、実に変わった形状をしていた。細長いスリムなグラスの中頃に球状の空間があり、そこでウイスキーと空気をかき混ぜて飲めるようになっているのだ。
見様見真似で、くるくるとそのグラスを回したあとに口元に近づけると、凄まじい香りがした。例えるなら正露丸のそれである。
私は怖いものみたさで、そのまま飲んでみることにしたのだ。これが、私とラフロイグ(スコッチウイスキー)の出会いであった。喉が熱くなり、すぐさまチェイサーとして置かれていた水を流し込んだが、なんとも言えない味であった。
おそらく、別の出会い方をしていれば二度と飲まなかったかもしれない。
強烈な香りと、その香りを引き立てるために存在する独特のグラス。
喉を熱くするほどの高いアルコール度数。
ゆえに、チビチビとこれを飲み、チェイサーで口の中を洗う一連の所作。
まさに私は酔っていたのであった。
その後も、この店には何度も真地課長や他の同僚とも一緒にいった。そして、例の囲炉裏風の席にも座ってみたのだが、やはり、ここは一人かせいぜい二人程度で来るべき店であった。
ワイワイ騒ぐだけではない、大人の飲みというものを教わった気がしたのである。
今でも、私が一番好きな酒はラフロイグである。同じ系統のボウモアというウイスキーも美味しいのであるが、やはり、初めて飲んだウイスキーには格別の思いがある。
そして、例のグラスは、私の霞ヶ関出向時の送別の品として、真地課長と課の先輩職員方から贈られ、今も、私の家でくるくると回されているのである。