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海と山と、潮の匂いのする駅で―あの頃も今も、探している

    この文章は、もとは二つの駅にまつわる別々の記事でした。
    けれど私のなかでは、ずっとひとつの記憶として繋がっています。
    いつか、ひとつの物語として書き直したいと思っていました。
    以前の記事を読んでくださった方には、見覚えある場面もあるかもしれません。それでも、あらためてこの形で残しておきたいと思います。

    *

    駅のホームに降り立つと、ほんのり潮の匂いがした。その匂いに触れた途端、遠い記憶がそっと息を吹き返す。時間が、ゆっくりと巻き戻っていく。改札を抜けると、路地の向こうに、あの頃の私が顔をのぞかせる。

    はじめの一歩

    シーサイドロードの向こうには、碧い瀬戸内海が広がり、背中側には六甲に連なる緑の山並み。 夏になると、東隣の駅は海遊びの若者でにぎわい、ひときわ開放的な雰囲気になる。反対隣りの駅は、ベッドタウンの玄関口として、ショッピングモールや行政機関の建物が並ぶ。

    その両隣に挟まれたこの場所は、新快速も快速も停まらない、時間が止まったような小さな駅だ。大学を卒業して就職し、職員寮のある神戸の塩屋駅で、私は社会人として出発した。

    駅舎を出ると、まるでタイムスリップしたような昭和の風景。車が決して通ることのできない、狭い路地の商店街に、昔ながらの魚屋さん、果物屋さん、お肉屋さん、お豆腐屋さん、散髪屋さんが並ぶ。

    寮の小さなキッチンで自炊をするんだという、ささやかな意気込みはあった。でも結局、仕事帰りに買うのは、お肉屋さんの骨付きから揚げと、母の味を思わせるお惣菜。そして、ドイツで修行されたという、海沿いにあるケーキ屋さんの白いチーズケーキ。しょぼくれて帰った日は、甘いものを食べて、ちょっと元気になれるように。共同の冷蔵庫に、いつもそれは置いてあった。

    休みの日は、少し離れた繁華街がある駅で彼と会うため、いそいそと電車に乗りこんだ。東へ向かう電車の窓からは、優しい潮風と、キラキラ眩しい海が見送ってくれる。シフト制の仕事で、なかなか休みが合わず、久しぶりに会ったときは、もっと一緒にいたくて、何台もの電車を見送った。

    ギリギリ終電に飛び乗ったものの、とうに寮の門限を超えていたあの日。同期にお願いして、寮の裏口を開けてもらい、こっそり部屋に戻る。当番さんが、鍵が開いていることにびっくりして、あやうく警察を呼ばれそうになった、なんてことも。

    あるときは仕事で失敗を重ね、自己嫌悪。こんな日は足取りが重い。なのに、この駅にはエスカレーターがない。だから、どんなに疲れていても、とぼとぼ階段をいくしかない。駅舎に巣を作ったツバメがせわしなく飛び、なんだか笑われているみたいで、うらめしかった。

    久しぶりの連休で、実家に帰る日。夜勤明け疲れで商店街の路地を通ると、豆腐屋のおじちゃんが、「実家に帰るんやったら、これ持っていき!」と持たせてくれる、袋いっぱいの厚揚げや薄揚げ。感謝しつつも「これから電車に乗るのに~」と交わす笑顔。少しだけ気持ちを持ち直す。

    混乱のさなかに

    1995年冬の「あの日」
    年明けに、神戸を地震が襲った。

    職場や職員寮では、かろうじて人的被害はなかったが、建物は大きな被害を受け、ライフラインは完全にストップした。近隣市に住む家族も、命は助かった。でも、被害を受けた自宅には住めず、避難所に。心配ではあったけれど、対人援助職という仕事がら、職場を離れるわけにはいかず、私はずっと神戸にとどまっていた。

    被害の中心にいると、ラジオしか情報がなく、神戸はどうなっているのか、知るすべもなかった。それでも、少しずつ、水道、電気、ガスが使えるようになり、数カ月が経とうとしていた。

    ほんの少し状況が落ち着いたので、職場からも、一度実家に帰っては、と長めのお休みをもらえることになった。とはいえ、実家は住める状態になく、家族が祖父母宅に避難していたこともあり、私は、一路、兵庫県山間部の丹波に向かうことにした。

    当時、大阪方面に向かう交通はほぼマヒ状態。代替バスの発着駅まで何時間もかけて歩くか、兵庫県を北上する加古川線で、大回りする迂回ルートしかなかった。

    普段は数人しか乗らない、単線のローカル路線に押し寄せる、多くの人たち。みんな、リュックサックに運動靴。大阪方面に物資の調達に行く人、神戸に住む親類縁者のために、大阪から物資を運ぶ人…、みなそれぞれに思いを抱えながら、乗り換え駅で行き交った。

    たくさんの人を乗せ、ゆっくり進む、2両列車。途中から、さらに緑は深まり、聞こえるのは、ガタンゴトンという電車の音ばかりだった。

    *

    兵庫県丹波の谷川駅。当時住んでいた自宅からは、電車を乗り継いで3時間以上かかり、お世辞にも、観光名所とは言い難いところだった。どこまでも広がる山と田園風景。点々とそこにある、昔ながらの家屋。たまにわらぶき屋根も。

    汽車の窓を開けて入り込む心地いい風と、運ばれてくる、なんとも言えない草っぽいにおい。山の匂いと優しく吹く風の音で、大人の私はたちまち小さな女の子に還る。

    小学校にあがりたての、初めての夏休み。昭和50年代なかばのころ。共働きだった両親のもとを離れ、祖父母の住む丹波で1カ月以上を過ごしていた。最寄り駅まで母に送ってもらい、まだ電化されていなかった汽車に、リュックサックを背負って、ひとり乗り込んだ。

    寝入ってしまい、なかなか降りてこない私を、駅でおじいちゃんが待っていた。入場券なんかなくても、ホームに入ってきて、母から聞いた車両の窓から私の名を大声で呼んでくれた。

    「よう来た、よう来た」

    そして、おじいちゃんに手を引かれて、駅舎を後にした。軽トラックの後ろに乗りたがる私を、困ったような笑顔で抱き上げる。本当は子どもなんか乗せちゃいけなかったんだろうけど、軽トラの荷台で風を切るのは本当に心地よかった。少し大きくなってからは、一つ先の駅まで乗り、無人駅から走って祖父母の家に向かったものだ。

    強がりじゃなく、全然さびしくなかった。祖父母と毎日田んぼに出て、農作業のお手伝いをしたり、飽きたらムシロの上で本を読んだり、ひとりおままごとをしたり。疲れたら、木陰でお昼寝。夏休みの自由研究は、おばあちゃんと摘んだ野の花の押し花。夏休みが終わるころになっても、家に帰りたくないな、といつも思った。

    けれど、中学生にもなると、夏休みは毎日部活で学校に行くようになり、祖父母宅に長期滞在することは、ほぼ無くなった。

    *

    ぎゅうぎゅう詰めの二両列車に乗った私は、ひとつ手前の駅で下りることにした。もうずいぶん前から、ここは無人駅だった。でも、立っている人が見える。ここから谷川駅へいく乗客だろうか。

    無人駅に近づく電車。小屋のような駅舎から姿を現したのは、私のおじいちゃんだった。手を振るその姿を見た途端、目の奥が熱くなって、涙で辺りがぼやけてきた。

    「よう来た、よう来た」

    小学生の夏休みに駅で迎えてくれた、あの日のままの笑顔だった。

    「…来たよ。人いっぱいだった」
    何かしゃべらないと、涙がこぼれてしまう。
    この数カ月、我慢していたものが、一気にあふれ出しそうだった。

    「こんなに人いっぱいなの、見たことないね」
    「加古川線はじまって以来や」
    おじいちゃんは笑って、昔と同じに、私の荷物を持って歩き出す。
    遠くでピーっという警笛が聞こえた気がした。

    今はスマホでいつでも誰とでも繋がれる時代。
    けれど、あのときは、スマホはおろか、公共交通機関は使えず、車も通行止め。会いたい人に会えず、行きたい場所にも駆けつけられなかった。

    やっとの思いで、つながった鉄道に乗り、何時間もかけてたどり着いたとき、駅は、変わらぬ顔で迎えてくれた。会いたい人との再会を一緒にわかち合ってくれた。この駅と路線がなかったら、私は、もっともっと、会えない時間が長く続いていたことだろう。

    立ち上がりゆく街、でも私は

    つかの間の再会のあと、私はまた、海と山に囲まれた、塩屋に戻ってきた。あの壊滅的だった神戸の街が、人たちが、少しずつ、少しずつ「がんばろう神戸」の合言葉とともに、必死に立ち上がろうとしていた。いまだに「しあわせ運べるように」のメロディが流れると自然に涙が出てくるほどに。

    そんなとき、いつも浮かんでいた風景がある。

    「よう来た、よう来た」

    駅で迎えてくれたおじいちゃんの笑顔と、塩屋駅から見える緑の山々。そこに私は丹波の風景を重ね合わせ、元気をもらっていた。今日も一日がんばれた。明日もがんばれますように、と。

    けれど、そんなときにいわれた、クライエントからの痛烈な一言。
    「あんたみたいに、ぬくぬくと守られてきた人間には、うちの気持ちはわからんわ」
    この言葉に私は打ちのめされた。

    対人援助の教科書に、当たり前のように書かれてある「共感」「傾聴」。けれど、たいした苦しみも味わったことのない私が「共感」だなんて、わかったつもりになっているだけ。自分は安全圏で守られているくせに、ただの傲慢じゃないか。

    言い尽くせない経験を重ねてきたクライエントから、そんな浅はかな自分を見透かされた気がして、もう、いたたまれなかった。もっともっと大変な被害を受けている人がたくさんいる。私はこうして生きて健康で仕事もできるのに、人の心に届くことを何もできていない。

    やりたくて選んだ仕事だったのに。大変なのは承知でやり抜く覚悟だったのに。でも、頑張れば頑張るほど、から回っていく自分。

    指摘を受けることが苦痛なんじゃない。自分が思い描いていた自分に、いつまでたっても追いつけないことが、どうにも苦しかった。援助職といいながら、誰でもなく、私自身が、救われたいだけだった。

    「もう、頑張らなくてもいいよね…。」
    実家へ向かう電車のなかで、ここ数カ月の出来事を思い返す。海はどんより暗い。しょっぱい涙が目にじんわり滲んで、海の向こうの島の輪郭がぼやけて見える。乗り換えまでの各駅停車は、いつもより長く感じられた。

    それから少しして、私は、潮の匂いのする駅を離れることにした。新たな夢に向かっていくんだ。そう自分で自分に約束して、遠ざかる山と海を見送った。次にこの駅に来るときは、こんな私になれたよって、言えるようになっていたい———。

    あの頃をたどって

    あれから何年も経つ。久しぶりに聞く電車のアナウンスは、昔に聞いた、あの音と同じ。改札口から続く階段を下りた私は、そよぐ潮風と緑に、ちいさく「ただいま」と告げた。 

    長い年月が過ぎたのに、この駅は流れる時間から忘れ去られたみたいに、細い路地はあのままだった。けれど、いつも店先に座っていたおばちゃんと果物屋はもうない。魚屋さんは?散髪屋さんは?あ、豆腐屋さんがある。おじちゃんはいるのかな?でも、こんなに年齢を重ねた私が声をかけても、あの、若く、多少は可愛かった女の子が思い出されることはないのだろう。 

    この駅と街には、20代の私が、今もどこかに残っている。期待と希望と、笑顔と涙、挫折も悔しさも。ここで大人として歩み始め、人と出会い繋がり、今に続く夢を見つけた。けれど、いつも、この駅に忘れ物をしてしまったような気がしていた。

    遠い昔に、この街から逃げ出すように離れたけど、約束ちゃんと守ったよ。心でそうつぶやきながら、その昔、門限に間に合うよう駆け抜けた路地を、今日は、ゆっくりと踏みしめる。 

    時は過ぎる、人も場所も変わりゆく。なのに、この駅の変わらなさはなんだろう。路地を歩くと、あの頃はなかった看板が掲げられていた。店舗をリノベーションした建物に、カフェや雑貨屋さんがいくつか並んでいる。中身だけが変わっている! 

    そうか、ここにいる人はみんなこの駅が好きなんだ。だからこうして、昔の佇まいを大切に残したまま、今も時を重ねている。あの、ノスタルジックで、ちょっと切なくなるような風景はそのままに、新しい命を吹き込んでくれている。ありがとうの気持ちで、路地を後にした。  

    *

    私も、この街と同じに、ちゃんと年月を重ねられているだろうか。潮の匂いとともに、あの高揚感と痛みを思い出す。あの頃の私に恥じない仕事をしたい、と走り続けてきた日々は、正解だっただろうか。

    何年たっても、本当の、哀しみや苦しみはわからない。いつまでたってもたどり着けない。
    わからないから、わかろうとする。
    それが私にできる精いっぱいなんだと思う。

    落ち込んだ自分のために買っていたあのケーキを、今日は、家族の人数分、箱に詰めてもらった。電車の窓から海と山を見送ると、胸の奥にぽつりと灯がともった気がした。まだ全部は見つかっていない。けれど、探すことをやめない自分がここにいる。

    ケーキどこで買ってきたの?と子どもたちは尋ねるだろう。
    そうしたら私は、話をしよう。
    私を形作ってくれた、海と山に囲まれ、潮の匂いのする、小さな駅の話を。

    ここから全てが始まり、今も探し続けているのだと。

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    最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

    ※この作品は、以前に公開した二つの記事を再構成したものです。

    ※タイトル画像は、神戸公式観光サイト「Feel KOBE」さまより使用許諾をいただき掲載しています。

    ※2026/7/18 追記
    この記事に登場した、「しあわせ運べるように」の作詞・作曲をされた、臼井真さんが、亡くなられたとのニュースがありました。けれど歌は残り、私たちの心にいつまでも生き続けると思います。
    ご冥福をお祈り申し上げます。


     
     
    一男一女の母|対人援助職|迷いや揺らぎのなかで希望を探し、歩みを共にする仕事に、長らく携わってきました。その過程で出会う、言葉にならない感情や静かな息づかいが、創作の源泉です。好きな本のこと、日々のこと…等身大の自分で書き綴っています。

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