
台湾好兄弟6
病院の自動ドアが開いた瞬間、中から涼しい風が流れ込んできた。身体にまとわりついていたじめじめとした熱気が吹き飛ばされ、美玲はホッと息をついた。
消毒薬の匂いのしみついた広々とした受付。順番待ちをしながら隣の人と世間話をする人々。受付ではひっきりなしに電話が鳴り、人々が足早に行き交っている。
小児科の子供たちが描いた家族の絵が貼られた掲示板。ポールパーテーションで仕切られたグランドピアノ。自動販売機を通り過ぎ、美玲は慣れた足取りでエレベーターに向かう。阿恩は美玲に手を引かれるまま、御影石の床に映る自分の影を踏むようにして歩いている。
美玲は阿恩を母の病室に連れて行くと、ドアを開いて阿恩に言った。
「おばあちゃんに絵本を見せてあげてね」
「うん!」
「お母さん、お医者様にお話を聞いてくるから、ちょっとだけ阿恩を見ていてくれる?」
ドアを開けて母に声をかける。思ったより元気そうだ。
母は頷くと、
「恩恩、よくきたねぇ」
と、猫なで声で阿恩を手招いた。
美玲はそれを見届けると、電話をかけるために再び外に出て、携帯の電源を入れた。
母にはああ言ったが、毎日見舞いに来ているから、容体はわかっている。叔母に電話をしたかった。自分一人で、仕事と介護と子育てを両立するのは難しい。
藁にもすがる気持ちで電話帳を開き、叔母の電話番号を表示する。だが電話をかける決心がつかず、十字キーの上下ボタンを押しては、何度も叔母の連絡先を通り過ぎた。
断られたら、迷惑がられたら、そう思うと怖くてたまらなかった。
でもーー。
あの時自分が轢いたのが、もし人だったら?
阿恩も母も見てくれる人がいなくなる。
美玲は意を決して、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
「もしもし」
受話器越しに叔母の声が聞こえた瞬間、鼓動が跳ねた。携帯をつかむ手に力がこもる。
「……おばちゃん」
「阿玲かい?」
名前を呼ばれた瞬間、のどが震え、心が決壊した。涙が後から後からこぼれ、美玲は慌てて電話口を押さえ、必死に息を整えた。
「もしもし? もしもし?」
「もしもし。うん。おばちゃん、私。久しぶり。元気だった?」
「元気元気。お陰さま! 阿玲はどうだい?」
「私は何とか……。でも、お母さんが脳梗塞になって」
「ええっ? 大丈夫なの?」
「命に別状はないの。でも、ちょっと麻痺が残って……。来週の経過次第では、リハビリ病棟に移れるみたいなんだけど……」
「そう。大変だったのねぇ」
叔母の口調が固くなった。
「うちもねぇ、お父さんが仕事をクビになって……、鬱になっちゃってねぇ。私も今仕事を二つ掛け持ちしているのよ」
早口で言う叔母に、胸がぎゅとなった。
「そっか……。おばちゃんも大変ね」
「そうなのよ。大舅《兄さん》には、もう連絡をした?」
「ううん、まだ」
「そう。電話をしてごらんなさい。大舅は人脈も広いし行政にも詳しいから、何か力になってくれるかもしれない」
「うん、そうするね。お医者様が、2年前に公的サービスができたって言ってたから、どうやって申請したらいいのかも含めて、よく相談してみる」
「そうだね。それがいい。阿玲、あんたも忙しいだろうけど、身体にだけは気を付けて。今度、阿恩を連れて遊びに来なさい」
「うん、ありがとう」
「今度お休みの日に、姉さんのお見舞いに行くわね」
「うん。でも、お母さん、脳梗塞の影響でちょっと性格が変わっちゃったから。もしかしたら、失礼なこと言っちゃうかもしれないけど、その時はごめんね」
「大丈夫、大丈夫。あんたも疲れてるでしょう。阿恩なら見てあげられると思うから、一日うちに連れてきて、ゆっくりしなさい」
美玲が目を伏せ笑った。
「うん。ありがとう。じゃあ、切るね」
事故を起こした日から、今日で七日だ。
美玲は、力なく手を下ろすと、ため息をついて空を仰いだ。
何も考えられない。考えたくない。ただ、心がぽっかりとなくなって、軽くなっている。
ざぁと一斉に椰子の葉が揺れる。近くの高速道路から漂う排気ガスの匂いに混じって、爆竹の匂いがする。
顔を巡らせば、騒々しい音楽を鳴らすトラックが見えた。
「おい、あれ! 電音三太子だ!」
駐車場で若者が叫び、車をそのまま歓声を上げながら走っていく。テクノミュージックに合わせ、神様の着ぐるみを着た一団が歩いて行くのが見えた。
美玲は急いで携帯をしまうと、逃げるように病室に向かった。
「恩恩、これはなぁに?」
「兎兎!」
「じゃあ、これは?」
「猫!」
病室から漏れる、母と阿恩の声に、こわばっていた体から知らず力が抜けた。
「お待たせ。お母さん、恩恩を見ていてくれてありがとう。恩恩いい子にしてた」
「してた!」
「先生は何だって?」
「あと一週間くらい様子を見て、何ともなかったらリハビリ病棟に移れるって」
「そう。お店にはお礼に行ってくれた?」
「うん。お母さんのこと心配してたよ。処置が早かったから、軽くて済んだって言ったら安心してた」
「そう。退院したら、お礼に行かないとね」
「うん。だから、ゆっくり休んで、早く良くなってね」
母が嬉しそうに笑って頷いた。
「おばーちゃん、はやく良くなってね!」
「ありがとう、恩恩。おばあちゃんが退院したら、恩恩の平安紅縄《ブレスレット》を買いに行って、土地公にお参りに行こうね。いつの間にかこんなに大きくなって、ちぎれそうになってるじゃない」
「後ろのひもを引っ張って、調節して?」
「恩恩、手をパーってして、おばあちゃんに見せてくれる?」
阿恩が両手をパーにして見せた。母がてこずりながらひもを引っ張るのが見える。美玲はバッグからパジャマや着替えを出すと、代わりに洗濯物を詰め込んだ。
「ねぇ、お母さん、今日は児童節でしょう? 市場でお母さんの好きな潤餅《台湾風春巻き》を買ってきたよ。恩恩、おばあちゃんに渡してくれる?」
「うん」
阿恩がピンクのストライプの袋を掴み、バサリとベッドの上に置く。
「どーぞ!」
「あら、ありがとう」
「お母さんはカレー味にしたけどよかった?」
「ええ。カレー味が一番だから」
「原味《オリジナル》は?」
「原味も一番」
母が、人差し指で阿恩の頬を撫で、阿恩がくすぐったそうに笑った。
「恩恩、児童節快楽」
「児童節快楽!」
元気よく阿恩が言い、大きな口で潤餅にかぶりつく。
「ほらほら、恩恩こぼさないようにね」
自分が食べるのもそこそこに、美玲が阿恩のズボンにこぼれたピーナッツを手で払った。
「ん-!」
煩わしそうに肩を揺らした阿恩が、びっくりしたように目を丸め母を見た。
母は震える手で、潤餅を握り潰さんばかりに持っていた。麻痺した口を大きく開けて食べようとするが、右手が逃げてうまく食べることができない。阿恩はふざけていると思ったのだろう。弾けたように笑いだした。
「何がおかしいの!」
母が声を荒げた。
「言ってみなさい。何がおかしいの!」
白いシーツの上に、潤餅の中身がたくさんこぼれている。
「お母さん……」
ここまで麻痺していると思わなかった。美玲が、目を見開いて立ち尽くした。
「何、その目は! 何がおかしいの? 美玲!」
"なんだその目は!"
瞬間、別れた夫の声が脳裏によみがえった。
「お前はいつもそうだ。私を馬鹿にして!」
「そんなつもりは……」
”出ていけ!”
「出て行って! 帰って! もう二度と来ないで!」
息ができない。
美玲は阿恩の手を引っ張ると、無理やり椅子から立ち上がらせ、逃げ出した。
「本!」
後ろに手を伸ばし、阿恩が叫ぶ。
母が本を拾い上げ、こちらにむかって投げるのが見えた。
間一髪閉めたドアに本が当たる音がする。
息が苦しい。
美玲は、自分の手の中の小さな手をたどり、阿恩の顔を見た。
心の中で童謡を歌って、必死に落ち着こうとする。
「媽《ママ》」
異変を感じたのだろう。阿恩が頼りなげな声を出した。
「大丈夫」
息を吸うのを我慢して、細く長く吐き出す。
ドアの向こうで、母が声を殺して泣くのが聞こえてきた。
「大丈夫」
阿恩の手を引いて、歩き出す。
「媽ー?」
「大丈夫。恩恩。かわいい恩恩。プリンを買って帰ろうね」
「プリン!」
呼吸が落ち着いてきた。
美玲は震える口元に笑みを浮かべると、病院を後にした。
入口にある、慈母の像から目をそらして。