台湾好兄弟5
あの日は雨が降っていた。
街灯のない暗い夜道だった。
通い慣れていたはずのその道は、夜中に通ると雰囲気が一変し、車のライトの当たる小さな範囲より外は全て闇に沈んでいた。
美玲はひどい脱力感にさいなまれ、座席に重い体を預けてハンドルを握っていた。
救急車で運ばれた母は、なんとか命の危機を脱した。幼い息子は、同じ保育園に通うママ友に預かってもらっている。
「明日お礼に行かないと……」
忘れないよう、自分に言い聞かす。
その時だった。
視界に急に人の姿が浮かび上がる!
フロントガラスに一瞬にして走る蜘蛛の巣!
散らばる絵の具。
何かがボンネットに当たり、屋根を転がるようにして、落ちる。
こめかみが破れんばかりに脈動し――
「林小姐《リンさん》、林小姐!」
美玲は名を呼ばれ、ハッと我に返った。
ここはーー?
一瞬自分のいる場所がわからなかった。美玲は恐怖の浮かぶ顔であたりを見回した。
チャイナドレスを着たマネキン。壁に所狭しと貼られた芸能人の写真。上品に並んだたくさんのシルクの反物。
『宝凰旗袍店』母が勤めていた、チャイナドレス専門の仕立て屋だ。
美玲はため息をついて目を閉じた。膝の上に重ねた手が震えている。焦燥感に首の後ろがちりちりとする。
向かいに座る店主が茶杯を茶托に置き、静かに美玲に声をかけた。
「大丈夫かね? 顔色が悪い。それに随分やせたようだ」
いつもは気難しげにしかめられている店主の顔に、心配の色が濃く漂っている。美玲は何度かつばを飲み込むと、顔を上げて笑みを浮かべた。
「すみません……。母があんなことになって、少し忙しくて――」
「急に倒れて入院になったんだ。無理もない。……それで、林さんの容体は?」
「命に別状はありません。ただ、少し麻痺が残っているのでリハビリが必要で……すぐに仕事に復帰するのは、ちょっと難しいかもしれません」
美玲は姿勢を正すと、店主に頭を下げた。
「お医者様からは、処置が早かったから寝たきりにならずにすんだと聞きました。救急車を呼んでいただき、ありがとうございました」
「いや、とりあえず、命が助かってよかった」
「急に仕事に穴をあけて、ご迷惑をおかけして……バタバタしていて、お礼に伺うのも遅くなって、申し訳ございません」
「いや、顔を上げてください。大丈夫。あまり思いつめず、何かあったらいつでも相談してください。林さんは長くうちで働いてくれているし、私たちの家族も同然なんですから」
表情は変わらない、だがその声に真摯な響きを感じて、思わず涙がこぼれそうになる。
美玲はもう一度、深く頭を下げた。隣では幼い息子——阿恩が、つまらなそうに椅子に座った足をぶらぶらとさせている。
冷房の効いた店内は少し肌寒く、締め切られたガラス戸の向こうから、市場に向かう人々の喧噪やスクーターの音が聞こえてきた。
「さぁさぁ、林小姐、お礼はもう受け取りましたから、そんなに気になさらないで。阿恩、エッグロール、食べる?」
「たべるー!」
女将さんがにこにこと笑って、8の字型にひねられた伝統菓子を阿恩の前に置いた。
阿恩が顔を輝かせ、美玲を見上げる。
「ありがたくいただきなさい」
阿恩が満面の笑みで女将さんを見上げた。
「はい、阿恩! 児童節快楽《子供の日おめでとう》!」
女将さんが後ろ手に隠していた、クレヨンのセットを阿恩に差し出した。
阿恩の顔がぱぁっと輝き、大事そうにクレヨンセットを受け取る。
「謝謝《ありがとう》!」
美玲の息が詰まった。
雨で滑るタイヤ。アスファルトを焦がす匂い。
フロントガラスに走った鋭い衝撃。
思い切り踏むブレーキ。
身体が前のめりになり、シートベルトが食い込む。息ができない。
美玲は顔を上げることができなかった。目を見開き、肩で息をしながら、ぶつぶつと神に祈り、自分の太ももを凝視する。
鼓動がうるさい。恐怖に心がくしゃくしゃになる。
「確認しなきゃ……」
もしかしたら、看板か何かにぶつかってしまったのかもしれない。
「ううん、もしかしたら、大きな石を跳ね上げたのかも」
指が白くなるほどハンドルを握りしめ、恐る恐るバックミラーを見る。だが、ライトの当たる範囲には何もない。暗くてわからない。
重たい雨の降る外は静寂に包まれていた。辺りには誰もいない。
どっと汗が吹き出し、ブレーキを踏む足ががくがくと震えた。
ぐらり、と体が傾いだ。
「媽《ママ》!」
阿恩が美玲を呼ぶ。
美玲はハッと体を起こすと、隣に座る小さな息子を見た。
「林小姐」
心配そうな顔で、女将さんが呼ぶ。
息が苦しい。美玲は震える唇を引き結び、鼻で呼吸をしながらなんとか笑みを浮かべた。ぴりと唇が裂けるのがわかった。
「すみません」
「ちょっと休んで行ったらどう? 明日は清明節だし、市場はだいぶ混雑していたでしょう? 阿恩、ママが休んでる間、おばちゃんと一緒に本屋さんに行こうか? 児童節だから、いろんなイベントもしているよ」
サクサク崩れるお菓子のカスをいっぱいに付けた顔で、阿恩が美玲を見上げた。
「ダメです!」
空気が凍った。
「あ……すみません、あの……本当にいろいろとよくしてくださって、ありがとうございました。この後は、母の所に行かないといけないので……」
美玲は顔を伏せたまま早口で言うと、阿恩の手を引いて無理やり立ち上がらせた。
「林小姐」
店主が腰を浮かし何事かを言いかける。だが表情を見ることはできなかった。
美玲はもう一度頭を下げると、逃げるようにして店を後にした。
頭がくらくらする。
足が震える。市場の周りにある路面店から漂う食べ物の匂いが、やけに気持ち悪い。
今にも目の前に誰かが現れて「見たぞ!」と声を荒げそうで、美玲は顔を伏せながら、阿恩を引きずるようにして足早に歩いた。
近くの廟から漂う香の煙が、体に巻き付くような心地がして恐ろしい。
美玲の足がだんだん速くなる。最後には走るようにして市場に逃げ込むと、潤餅屋《台湾風春巻き屋》へ向かった。
「いらっしゃい」
潤餅屋の店主が、ぶっきらぼうに言った。
「何にする?」
「あ……すみません、カレー味と、オリジナルと、海苔を一つずつ」
店主が一つ頷いて、焼き上げた丸い皮の端を重ねるようにして置き、煮込んだキャベツ、人参、もやし、パクチー、肉そぼろ、荒く砕いたピーナッツを乗せ手早く丸める。
その横では、慣れた仕草で店員が皮を焼いていた。つきたての餅のような弾力のある生地を丸い鉄板に押し付け、くるりと薄く焼き上げる。阿恩が面白そうに背伸びをしてじっと見つめている。さらさらの髪、可愛く巻いたつむじ。柔らかな頬。
美玲が思いつめた目で見つめていると、視線に気が付いたのか、阿恩がキラキラと輝く瞳で美玲を見上げた。
呼吸が――正常に戻っていく。
美玲は焼きあがった潤餅を受け取ると、今度は優しく阿恩の手を引いた。
「おばあちゃんの所に行って、食べよう」
「不要《いや》!」
「どうして? 潤餅おいしいよ? ほら、潤餅さんが言ってる。『恩恩、冷めちゃうよ』って」
「不要!」
「小恩!」
思わず怒鳴り、凍り付いた息子の顔を見て美玲は立ち尽くした。市場中の人が自分を見ているような気がする。急いで市場を出て、道路に片膝を付き、うつむく阿恩の顔を覗き込む。
「どうして嫌なの?」
「……いく」
「なぁに?」
「ほんやさん、いく!」
阿恩が右足で道路を強く踏みつけた。
涙をいっぱいにたたえた目。ぐっと引き結んだ口。阿恩の顎は、力を入れすぎてしわくちゃになっている。
美玲の目に愛しさと同時に寂しさが浮かんだ。
「そっか。じゃあ、行こうか」
「うん!」
この手を離したら、もう二度と一緒にはいられないような気がして怖かった。もしもあの時車にぶつかったのが看板じゃなかったら、何度もそう考え、頭を振ってその考えを追い出した。自分が捕まったら、阿恩はひとりぼっちになってしまう。
小さな本屋は、子供の日らしくカラフルな色に溢れていた。
ハートの風船、ガーランド、たくさんのぬいぐるみ。
阿恩の好きな絵本を選んで買って、中庭を挟んだ奥にあるカフェで一休みする。
「ほら、ちゃんと座りなさい」
椅子に膝立ちになって、ストローからブクブクと息を吹き込んでいた阿恩の腕を軽く叩くと、渋々と阿恩が座り直した。
頭の位置が低くなった阿恩が、水の入ったグラスを縁取るように盛り上る結露を見つけ、人差し指で引っ張り線を描く。
結露をいっぱいにまとったパパイヤミルクのグラスに、阿恩の小さな指跡が三つずつ残っている。
子供の日だからだろう。壁には、子供を抱きしめ額を合わせ、嬉しそうに微笑む母子の絵が飾られていた。細められた瞳、いとおしげに微笑む口元。子供は大きな口を開け、嬉しそうに笑っている。
その絵を見て、胸が苦しくてたまらなくなった。
何があっても、絶対にこの幸せを失ってはいけない。阿恩の、手を決して離してはいけないと。
