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きっと明日も二人で死にたい 第八話

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    ◇ ◇ ◇

     今日は比較的涼しい気候だと、岸辺と別れたあと、川沿いの歩道を歩いている中で知った。
     僕たちはれっきとした未成年で、かつ岸辺に至っては制服姿なこともあって、ホテルからは周囲の人間がいないタイミングを見計らいつつ、それぞれ時間差をつけてから出た。先に出ていった岸辺が最後に振り向いて、「じゃあまた明日ね」と言ったので、僕はホテルから離れてからも彼女を探さずに歩みを進めた。
     もう既に街は目を覚ましていて、何度かサラリーマンらしき人の波ともすれ違った。深夜徘徊というには度が過ぎた外出だったけれど、僕の心に罪悪感なんてものはなかった。
     ただ奥底で疼いていた不安の沈殿物を吐き出したくて、僕はふとポケットに入っていた携帯の画面に触れる。急に呼び出したら、また不気味だと言われるだろうか。岩田の顔を思い浮かべていると、なんだかおかしくなってきた。まだアルコールが抜けきっていないのか、なんて思っているうちに、僕は先日、岩田を呼び出したバーガーショップの前まで辿り着いていた。
     結局、彼に連絡するのもあと一つ踏み出せなかった僕は、大した考えもなしに店の中に足を踏み入れた。
    「いらっしゃいませ~」
     語尾の伸びた挨拶が気持ちよく思えるくらいに、僕の情緒は傾いていた。
     別にそこまで腹も空いていなかったので、アイスコーヒーとポテトの一番小さいサイズだけを頼んで、普段ならばまず座らないカウンター式の席に腰を掛けた。普段なら、というのは、ここに来る時は常に岩田と一緒なので、いつもなら考える余地もなくボックス席に座るという意味だ。
     カウンター席といっても正面はただの壁で、二口目のアイスコーヒーを含むころには、案外この閉塞感は悪くないんじゃないかと僕は思っていた。最小サイズのポテトというのも、コーヒーの肴位に食べるならこれ以上ないくらいに丁度よく思えた。体内に残ったアルコールのお陰か、僕は気味が悪いくらいに前向きな思考で物事を捉えられていた。もしかするとこっちが本来あるべき人間としての感性なのかもしれないと錯覚を覚えるほどに。
    「隣、いい?」
     気分よく舌鼓をうっていた僕に、控えめな声が尋ねた。首を声の方に回すと、そこには見覚えのない女子がいた。髪は薄く茶色に染まっていて、まるでビターチョコみたいな色だった。僕から見える方、つまり左側の首筋に規則的に三つ黒子が並んでいて、その几帳面な配列は、彼女の纏う整頓された雰囲気とうまく馴染んでいた。
    「うん、お好きに」
    「ありがとう。ちょっとね、待ち合わせてて」
     僕の無愛想な返事に彼女は動じず、宣言通り僕の隣の席に上品な所作で腰を下ろした。制服もこの辺りで見かけるようなデザインではないし、他校の友人とでも待ち合わせているのだろうか。声をかけられたことへの動揺も手伝って、思わず僕は余計な詮索をしてしまう。
    「何このポテト、見たことない」
     僕のトレーの上を見て、彼女が驚きの声を上げる。別にサイズが小さいだけで中身は一緒なのだが、こんな風に反応されると何か言わないといけないような気持ちになる。
    「僕も今日、初めて頼んだ。案外いいよ、持て余さなくて」
    「そう。私も今度、頼もうかな」
     微かな違和感。そこで僕は気づいた。彼女の前方に何も商品が置かれていないということに。
    「君はまだ何も頼んでないの?」
     僕が訊くと、彼女は悪びれもせず頷く。別に今まで指摘されたことはないからと。
    「……まあいいか」
     落胆の色をなるべく抑えながら、僕はまだ半分残ったアイスコーヒーを彼女の目の前にトレーごと移動させた。
    「友だちが来るまでそうやって置いてるだけでいいから。話したくもないやつに変な声をかけられるよりは、マシだと思う」
     それだけ告げてから、残りのポテトを口の中に入れて席を立った。彼女は少しの間無言で固まっていたけれど、意味を理解したのか微かに笑みを浮かべて僕に言った。
    「ごめん、私色々と疎いの。君は、優しい人だね」
     別にそういうのじゃない。僕は誰にでも同じことをするし、いつか誰かに今までしてきたことを倍にして返してもらいたいと思っている。見返りを求めている時点で、それは純粋な優しさじゃない。
     心の中で、僕は自称無知な彼女にそう返した。
     つかの間の安息の地をしぶしぶ後にした僕は、さすがに疲労を隠せない体を休めるため、家までまっすぐ帰った。霞み始めた視界で、昨夜のあれは睡眠と呼ぶにはあまりにもお粗末だったことを思い知る。
     家のドアの前で、僕は足踏みした。扉の向こうから話し声が聞こえてきたからだ。何を言っているかは分からないけれど、声色が二つあるのは明らかだった。声の主を探っているうちにドアノブがゆっくりと捻られ始め、僕は咄嗟に死角に隠れる。
    「それじゃあ、また日を改めます」
     扉が開いて、鮮明に声色を判別できるようになったことで、高い女性の声の正体が明らかになった。低めの位置で一つ結びにした髪の先端がドアからはみ出して見える。間違いなく彼女は、僕の担任教師の倉本だった。
     なんで倉本が家に来ているのか、まず僕はその疑問に頭を巡らせる。しかし、もう一人の声を聞いた途端、そんな思考は見事に停止した。
    「すみません。私からもよく言い聞かせますので」
     丁寧な口調で倉本に平謝りをしているのは、母親の連れのあの男だった。つい昨日、僕の部屋にずけずけと上がり込んできた、あの男。
     僕のことを虫けらか何かとしか思っていないような目をしていた彼は、平然と僕の保護者として、担任教師と会話を交わしていた。
     まるで、本当の父親みたいな顔で。
     少しして、倉本の姿が見えなくなると、扉はまたゆっくりと閉まった。その音を聞きながら、逃げ場のない蝉時雨に煽られるように、僕は激しく焦っていた。
     考えていたよりもずっと、あの男は僕の近くにいるのだ。賢く、狡く、それでいて、図々しく。
     増長していく不安の種が芽を出す前に、何か行動を起こさなければいけない。近いうち、あの男がいないタイミングを見計らって母親をなんとか説得するのが一番確実だろう。というより、そんな安易な発想しか、今の僕には思いつかない。ひとまず今は、なんとか自室に篭ってしまえばやり過ごせるはずだ。あの部屋に入って鍵さえ掛けてしまえば、あの男も過剰に介入してはこないだろう。あの男からすれば、僕に構っている時間ほど無駄なものはないだろうから。
     息を殺してドアノブを捻ると、予想と反して鍵はかかっていなかった。僕の加えた力に対して素直に扉は開いて、隙間から覗いた玄関に人の姿はなかった。鍵すらかけていないあたりが、あの男の傲慢さを物語っているような気がした。
     リビングの方からテレビの声が聞こえてきていたので、なるべく反対の壁に沿って廊下を渡る。経験則的に、こうするとリビングからはほとんど音が聞こえないはずだ。
     みしり、みしり、微かな軋みすらも最小限に、僕は足を動かしていた。しかし、あと数歩も進めば自室に辿り着くというところで、僕の歩みは止まった。正確にいえば、リビングの扉にもたれ掛かるように立っていた男の声によって止められた。
    「おかえり」
     一抹の感情さえ感じないトーンで、彼は僕に言った。たった四文字のその言葉の意味を、僕は数秒立ち尽くして考えた。自分が使った記憶のない言葉を唐突に投げかけられると、頭が真っ白になる。おかえり。そうだ、家族が帰ってきたときに迎えるための言葉だ。でもなんで? 僕とこの人は家族でもなんでもないのに、記憶にある限り、家族にだって、そんなことを言われた覚えはないのに。おかしい。おかしい。おかしい。
     すべてが、おかしい。
    「おいでよ。ちょうどコーヒーでも飲もうかと思ってたんだ」
     内心パニックを起こしている僕に、男はそんな誘いをして、そのままリビングに戻っていった。男の声も、表情も、あくまで穏やかなものだった。
    「いや、あの、ちょっと疲れていて」
     無意識の中、消え入りそうな声で僕はそう答えていた。自分でもあれだけのことでここまで狼狽えるとは考えてすらいなかった。だからこそ、この現状から立ち直るすべも、僕は知らなかった。
    「君はさ、こそこそ虫みたいに暮らしているけど。何にも知らないままでいいのかな」
     男が言っていることの意味はさっぱりわからなかった。しかし、この誘いを断るべきではないという予感が、僕の背筋で音を立てながら走っていた。いや、正確には、断るという選択肢が、僕には許されていないのだ。
    「ほら」
     吸い込まれるように、というのがぴったりな表現だと思う。僕は滞った思考のまま、男の促すままにリビングの中央に置かれたソファに腰を下ろした。鈍重な頭と対照的に皮膚は敏感さを増していて、手のひらに触れる布地の細かな編み目まで感じ取れそうだった。
     僕の一連の動きをどこか満足そうに見ていた男は、台所へ移動して、それから慣れた動きでインスタントのコーヒーを二人分、ゆっくりとつくってから戻ってきた。
    「これな、最近見つけたんだけど、中々美味いよ。……いや、君は子どもだし、そういうのは伝わらないか」
     自分の前に差し出された黒い液体を、僕はまだ信じられなかった。目の前で慎重に湯気の立つコーヒーを啜っているこの男は、僕のことが心底鬱陶しそうな態度をとっていた男と確かに同一人物なのだ。しかし、これはなんだ? 先程見た倉本への対応も、あの四文字もそうだ。何かがおかしい。けれどその違和感の正体は想像もつかなかった。
    「いい知らせがある」
     正しくは、僕はこのときその正体について、想像することを拒んでいた。男が湿っぽい音を立てて口を開いた後、何を続けるのか、僕はきっと知っていたのだ。
    「今日から俺は、君の父親になったんだ」
     窓が割れたような音が、頭の中で響いた。きっとこの感覚は、世界が終わるときと同じだと思った。
    「本当はもっと早くにって話だったんだが、まあ色々とね。とにかく、煩わしいことが片付いてきて、やっと落ち着けそうなんだ」
     いまいち掴めないことを言って、男は笑う。なんだか既視感を覚える顔で。そうだ、まだ僕はこの男の名前も知らない。名前も知らないこの男が、僕の父親になるらしい。この男の方は僕の名前を知っているのだろうか、ふとそんなことを考える。
     そろそろ煙草を吸うのだろうか、とぽつり思い浮かんだ。そしてそれとほとんど同じタイミングで、男は尻ポケットから電子タバコを出して、短いカードリッジを差してからそれを口に咥えた。
    「十時か。もう少しで買い物から沙耶さんが帰るころだ。ちょっとばかし、話を急ごうか」
     なんで。男がゆったりと吐いた白煙を視界いっぱいに眺めながら、自分に問う。なんで今僕は、この男が煙草を吸うとわかった?
    「――そういえば自己紹介が遅れてしまったね。俺の名前は、住吉惇生。だからつまり、そう。君の実の父親、住吉誠二の弟にあたる」
     言葉が、出なかった。
     ただ出処の分からない寒気が背中から全身に広がって、体の底から震えが湧き上がってきて堪えられなかった。上下の歯が居心地悪そうにカチカチと鳴る。今すぐ喉から血が出るほど叫びをあげたいのに、恐怖でそれを踏みつけにされているような感覚だった。
     あいつの、弟。
     つまり、あいつはまだ僕の目の前にいる?
    「ははっ、そんなに怯えなくてもいい。動揺するのはわかるが、俺は君にとって恩人といってもいい人間だよ。なんたって俺がこの手で、君を地獄から救ったんだからね」
     得意気な様子の惇生は、これまでに見たどんな人間より不気味だった。アンバランスな彼の顔のパーツが、膨らんだり萎んだりしながらこちらに視線をやる。吐きそうになるのを、僕は奥歯を噛み締めることで耐えていた。
    「どういう、ことですか。……あいつは、轢き逃げにあったって、確かに聞いて……」
     最後まで言えなかったのは、やはり質問の答えを予期できてしまったからだ。おぞましくて、汚くて、信じたくない答えを。
    「ああ、兄貴は俺が轢いてやったんだ。あんなに綺麗な奥さんがいながらろくでなしなんてやってるから悪いんだよ。俺がやらなくても誰かがやってたさ。そういうやつだって、君も痛いくらいに知ってたろ?」
     ひどく淡白な言い方だった。言っている間、惇生の目はこちらではなくどこか隅の方を見ていた。不意に僕は岸辺の言葉を思い出す。当事者意識、多分この人には、それがなかった。
    「兄貴の結婚式に行ったときから思ってたんだよ、彼女は助けを求めてるってさ。だから俺は式場で彼女と連絡先を交換するのを怠らなかったし、ときたま電話口で相談に乗ってあげたりし続けた」
     まるでどこか遠くの、知らない人間の話を聞いているみたいだった。あの人が僕を産む前からこの男と関わりを持っていたなんて。僕は自分に叔父という存在がいたことすら、たった今まで知らなかった。
    「沙耶さんは育ちがいいからか、強情でね、どれだけ兄貴が酷いことをしても、それを俺以外の人間には言わなかった。一年や二年ならまだしも、兄貴と結婚してから十年以上も耐えられるだなんて、正直思ってなかったよ。でも君が中学生に上がるころには、俺は彼女と頻繁に密会するようになってて、生き物本来の弱さっていうのかな、それが透けて見え始めてた。俺は都合のいい男として彼女のはけ口になりながらさ、いつ手に入るんだろう、いつ手に入るんだろうって、指折り数えて待ってたよ」
     こめかみのところを人差し指でトントンと叩きながら、惇生は記憶の引き出しの中身を見せつけるみたいに語りを続けた。自分の知らない母親の存在に、僕は意識を吸い込まれるような感覚を覚えながら、彼の話と自分の記憶を照らし合わせるのに必死だった。
    「俺と沙耶さんが会うようになって三年が経ったある日、それは蝉も嘆きの悲鳴を上げるくらいの茹だるような、そうそう、ちょうど今年の夏くらいの暑さだった。いつもみたいに沙耶さんはベランダから俺に電話をかけてきていた。不思議と、彼女の電話口から聞こえてくる蝉の声には品があるように感じてさ、確かそんな話を振ったあとだった。『夫を殺してくれ』って、体の底から懇願するような泣き声でそう、頼まれたんだよ」
    「……じゃあ、その、母さんが?」
     喉が驚くほど渇いていた。本当はすぐコーヒーを飲みたかったが、右手がそれを拒むみたいに痙攣していた。
    「ああ、君のおかげだ。君がいてくれたから、沙耶さんはずっと躊躇っていた一歩を踏み出せたんだよ。それまで何をされようが、耐えて、耐えて、耐え忍んできた彼女は、君のために人を殺す決心をしたんだ。いやあ、お手本みたいに泣ける話だよな」
     惇生の語気が増す。もう煙の出なくなった電子タバコをフローリングの上に投げて両手を机につき、彼は僕の顔に自分の顔を近づけた。煙草の臭いと、あの面影のある顔、体中に手垢をなすりつけられているみたいな蹂躙感に、僕は声を失う。
    「なのに君は」
     重くのしかかる声でそこまで言って、惇生は発言を中断した。なぜ彼がそうしたのかはすぐにわかった。あの人の足音が、外から聞こえてきたからだ。
    「沙耶さんが帰ってくる。君は部屋に行きなさい」
     惇生は凍りそうなほど冷たい目をしていた。僕が咄嗟に動けないでいると、「行けと言っているんだ!」と憤りながら僕の体を無理やりに立たせ、彼は部屋の扉の前に僕を追いやった。
     僕は他人のものみたいな足をなんとか動かして、自室のベッドに頭から着地した。部屋の鍵は掛け忘れていた。
     何も考えたくなくて、僕はそのまま目を閉じた。

    ◇ ◇ ◇

     夢を見た。岸辺と心中するあの夢とは違って、実際に僕の記憶にある映像を追体験するような夢だった。
     見慣れた壁に、見慣れた床だった。右手にはマジックを持っていて、窓に反射した僕の顔は泣き腫れていた。幸いなことに服は着ていたけれど、案の定、シャツからは嫌いな煙草と、汗と、わざとらしいくらいのアルコールの臭いがした。夢なのに嗅覚まで再現する必要があるのかと、僕は客観的に考える。
     今僕が見ている映像が、一体いつの日のことなのか、それは右手に握られたマジックを白い壁に押し付けた段階で察しがついた。そうだ、この日僕は初めて、『助けて』をかたちにしたのだ。
     震える腕をもう片方の手で抑えて、殴りつけるように、この絶望が伝わるように、僕は部屋の壁に文字を書いていく。ひとつじゃとても足りなくて、目に見える範囲全部に、僕は助けを求めるメッセージを書き続けた。自分の力じゃどうしようもない現実から、どうにかして逃げる術がほしかった。
     助けて、お願い、知ってるんでしょ、なんで僕だけが、おかしい、苦しい、嫌だ、痛い、悔しい、情けない、汚い、みっともない、救われない、抗えない。
     死にたい!
     僕の叫びが白い壁を汚く塗りあげて、押し潰れたペン先が一度書いた文字の上にも重なるようになってきたころ、僕は気を失うみたいに眠った。溜めて、溜めて、溢れたものを全て吐き出したから、空っぽになってしまったのだと思う。長い夜が明けて、朝日が微かに顔を見せ始めていた。
     次に目が覚めた時、壁の文字は綺麗に消されていた。


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