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<小説> FORTUNE TELLER 第3話

    (あらすじ)
    世田谷の半地下にある喫茶店「Café Fortune Teller」。店主の朱雀尊には、人にまとわりつく「影」が視えてしまう。「世界は汚れている」──幼い日にそう絶望したが、世界を信じるために自分の方が壊れていることにして、視える力を認めないまま生きてきた。そんな彼の前に、不思議な娘・天野雛が現れる。彼女のそばでだけ、世界のノイズは消えるのだった。手相に「ダイブ」し、人の心に沈んだ澱みを読み解く尊。その力を求めて、政治家や配信者、かつての友が訪れる。一話ごとに誰かの秘密を解きほぐすうち、物語は次第に、尊自身の血に刻まれた宿命と、店の地下深くに囚われた者へと近づいていく。視える男と、無自覚にすべてを祓う娘の二人が「影」を照らす──現代怪異譚。

    ※本作はフィクションです。登場する人物・団体・企業・施設・事件等はすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。

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    第3話 太陽丘の「星」

    その夜、Café Fortune Tellerは閉店の準備に入っていた。
    半地下の店内には、焼き菓子の甘い匂いと、コーヒーの苦みがまだ薄く残っている。
    天野 雛(あまの ひな)は、慣れない手つきでカウンターを拭きながら、店の奥に立つ朱雀 尊(すざく たける)の様子をちらりと見た。

    尊は、いつものように無表情でカップを磨いている。
    出会ってから少し経ったとはいえ、雛にはまだ、この男との距離感が掴めない。
    優しいのか冷たいのか、頼っていいのか近づきすぎない方がいいのか……。

    店に来た客の手を観て、時折、本人でさえも言葉にできないことを言い当てる。
    それなのに、尊は決まって「霊もオカルトも信じない」と言う。
    いったい何を観ているのか。
    雛には、まだ分からなかった。

    最近では、店じまいの前にタロットを一枚引くのが、二人のちょっとした習慣になっていた。
    今日、雛が引いたのは「星」だった。希望、癒しと再生、本当の自分。
    そんな暗示に似合う客は、今日は来なかったけれど──。

    その時、店の扉が開いた。
    入ってきたのは、サングラスをかけた、くたびれた革ジャンの似合う男だった。
    年齢は六十を少し越えているだろうか。
    肩幅はまだ広く、若い頃はさぞ人目を引いただろうと思わせるものがある。
    けれど、その体のどこかから、昔なら当然のようにあったはずの圧だけが抜け落ちていた。

    雛は、最初、その男が誰なのか分からなかった。
    だが尊は、ほんの一瞬だけ手を止めた。

    「黒崎 蓮司(くろさき れんじ)」

    尊が低く言った。
    雛は目を瞬かせた。名前だけは聞いたことがある。
    かつて日本のロック史を変えたと言われる伝説のミュージシャン。
    若い頃、RUST n RAINという二人組のバンドでデビューし、その後ソロで国民的なヒット曲を何曲も放った男。

    黒崎はサングラスを外し、カウンター席に腰を下ろした。
    「手相で声が戻るなら、医者はいらねえな」
    最初の一言から、喧嘩を売るような声だった。
    尊は淡々と返す。
    「医者で戻らないから、ここへ来たんだろう」
    黒崎の口元がわずかに歪んだ。笑ったのか、苛立ったのか分からない。

    「ライブ前に縁起でも見てもらおうと思ってな。昔から太陽丘がいいと言われてきたんだ。スターの手相ってやつだろ?」
    尊は黒崎の右手を取った。

    薬指の付け根にある太陽丘──名声、人気、芸術的才能。そして、自分の内側にあるものを、誰かへ届ける喜びを司る場所だ。
    黒崎の運命線は太陽丘に向かって大きくカーブしている。
    かつてそこに名声が流れ込んでいたことは分かった。
    ──だが、今は涸れていた。
    線は残っている。
    それなのに、丘に艶がない。焼け跡のように涸れている。

    尊は、しばらく黙ってそれを観ていた。
    「これはもう、名声の丘じゃないな。墓標に近い」
    黒崎の顔色が変わった。

    ちょうどその時、再び店の扉が開いた。
    オーナーの草薙 冴栄(くさなぎ さえ)が入ってきた。
    彼女がこの時間に現れる時は、たいてい面倒な話がついてくる。
    今回は、その面倒な話が先に店へ来ていたらしい。
    夜の店内に、彼女の華やかさは少々過剰だった。
    上質なコートを肩にかけ、赤い唇に薄く笑みを浮かべている。

    「タケル。悪いけど、この人が壊れると困るの」
    尊は黒崎の手を離した。
    「商売なのか」
    「そうよ。今回は、私のお金が派手にかかってる」
    冴栄は当然のようにカウンター席へ近づいた。

    黒崎蓮司の復活ライブは、冴栄が再開発に一枚噛んだ音楽ホールのこけら落としとして組まれていた。
    しかもその場所は、かつて黒崎と相棒の青羽 真人(あおば まさと)が若い頃に立っていた地下ライブハウスの跡地だという。
    小さく、汚く、熱気だけがあった場所。そこを冴栄が買い、再開発し、音楽ホールにした。

    「壊したわけじゃないわ。形を変えて、残したの」
    冴栄が言うと、黒崎は鼻で笑った。
    「相変わらずだな、冴花。壊す時も、綺麗な顔をする」

    雛は、思わず冴栄を見た。
    ──冴花(さえか)。
    その呼び名に、冴栄は特段反応しなかった。尊も平然としている。
    冴栄には、いくつもの顔がありそうな気配がある。雛はそう思って、それ以上詮索するのをやめた。

    冴栄は黒崎を見下ろすようにして言った。
    「レン。あなた、最近曲が歌えないんでしょう」
    黒崎は黙った。

    「代表曲だけじゃない。昔の曲も、新しい曲も。ギターまで駄目になってる」
    「余計なことを言うな」黒崎の声は低かった。
    冴栄は笑みを消さなかった。
    「余計なことじゃないわ。あなたの復活ライブなのよ。曲が歌えないなら、何のためにあの場所にホールを建てたのか分からないじゃない」

    ──あの場所。
    その言葉に、黒崎の指がわずかに動いた。

    「冴花……忙しいんだろう。俺の子守りはいいから帰れ。俺は一人で大丈夫だ」
    冴栄は、少し心配そうに笑った。
    「タケル、レンのこと、くれぐれも頼んだわよ」
    それだけ言うと、来た時と同じ華やかさで、風のように去っていった。
    この件の調整でまだ動くのだろう。派手な装いは、そのためだったのかもしれない。

    「若い占い師さんよ」黒崎は仕切り直すように、尊へ向き直った。
    「俺の人生を、そんな簡単に読めると思うなよ」
    尊の目が冷たくなる。
    雛は咄嗟に、カウンターの奥から焼き菓子の皿を持ってきた。店じまい前に残っていた、試作品のフィナンシェだった。

    「あの、これ普通のフィナンシェより、焦がしバターを強くしてるんです。少し苦いところも美味しいんですよ」
    黒崎が鼻で笑う。
    「苦いところも、ね」
    「はい。甘いところだけだと、たぶん飽きちゃいます」
    雛は深く考えずにそう言った。

    黒崎の動きが、わずかに止まった。
    甘い、という言葉にではない。
    苦い、という言葉に反応したように見えた。
    尊は、そこに黒崎の心の隙間があると踏んだ。

    「それじゃあ、しっかり観ようか」
    尊は黒崎を連れて、地下二階へ降りた。
    地下二階へ降りるたび、尊は空気の重さを感じるようになっていた。
    そして、どこからともなく「影」が漂い込んでくる。中には無害と思われるものもあるが……。

    地下二階の「特別室」。
    尊は、冴栄の厄介な相談事はこの部屋で観るようにしていた。
    なぜかここでは、手相の奥に沈んだものが、地上よりも鮮明に像を結ぶ。
    ただし、鮮明に観える分だけ、深く引きずり込まれる危険も大きい。
    雛が近づけば、像そのものが薄れてしまう。だから観相のあいだは壁際にいてもらう。
    それでも、戻れなくなった時は手を取ってもらえるように、同席だけは頼んでいた。

    「ヒナさん。もし俺が呼んだら、手を握ってくれ」
    「え?」
    「いいから。頼んだ」

    尊は黒崎に両手を広げさせ、その精神を手相の中にダイブさせた──。

    ──

    ──尊が降り立ったのは、照明の消えた巨大なステージだった。
    頭上には、星のように無数のスポットライトが吊られている。
    かつては、そのすべてが一人の男を照らしていたのだろう。
    だが今は、どの灯りも消えている。
    薬指の付け根──太陽丘の中央には、深い井戸があった。石組みはひび割れ、底には水の気配すらない。
    才能も、名声も、誰かへ届ける喜びも。
    すべてを汲み上げてきた井戸は、もう涸れていた。
    ふと、尊は、その井戸の奥から聞こえてくるギターの音を追った。

    ──気がつくと、狭い部屋の中にいた。
    そこには、若い黒崎蓮司と、青羽真人もいた。
    二人は床に座り込み、ギターとノートを広げて曲を作っている。
    ほとんどすべてを真人が作り上げ、それに蓮司が意見を言う。
    真人は時折頷き、蓮司の錆びた声に合うように、メロディを削り、言葉を変えていく。
    激しい雨のようでありながら、どこか繊細な曲だった。
    若者のやるせなさを、叫びに変える歌。

    部屋の隅には、ひとりの女性がいた──真人の恋人。
    彼女は二人を優しく見つめている。
    蓮司は時折、その綺麗な横顔を眩しそうに盗み見ていた。
    まだ、誰も裏切っていない。
    まだ、誰も死んでいない。
    まだ、才能も恋も友情も、同じ部屋の中に置いておけると信じていた頃の空気だった。

    ──場面が変わった。
    尊は、かつてのライブハウスの中に立っていた。観客はいない。
    ステージには破れたRUST n RAINのポスター、錆びたマイク、弦の切れたギター。
    床一面には、無数の紙が散らばっている。
    歌詞。コード譜。メロディの断片。
    紙が風もないのに舞い上がり、刃のように尊の頬を切った。
    文字が音になり、音が罵声になる。
     俺の曲だ。
     俺の言葉だ。
     俺の愛した人だ。
     お前はそれを盗んだ。
     お前は俺を殺したんじゃない。死んだ俺をもう一度殺したんだ。
    曲の断片が津波のように押し寄せる。
    黒崎のヒット曲が、黒崎の声ではなく、真人の声で鳴っていた。

    ステージの上に、青羽真人が現れた。
    若いままの姿。ギターを抱えた青年。ただし、その目は憎しみに濁っている。
    「そいつを救いに来たのか」
    真人が言った。
    「救われるかどうかは、本人が決めることだ」
    尊は答えた。
    「なら、無理だ。あいつは逃げる。昔からそうだ。俺が死んだ時も、彼女が泣いた時も、自分の声が出なくなった時も、ずっと逃げてきた」
    真人の声が低くなる。
    「あいつは俺から全てを奪っていった」
    「死ぬまで後悔しろ」

    ──尊は、違和感を覚えた。
    その怒りは本物に見えた。だが、どこかおかしい。
    憎しみの言葉が、真人のものにしては黒崎の内側を知りすぎている。
    尊は真人に近づき、胸ぐらを掴んだ。

    「本当は、お前は誰だ──」
    真人の顔が徐々に崩れていく。
    目元が歪み、頬の形が変わり、口元に見覚えのある皮肉な笑みが浮かぶ。
    そこにいたのは、黒崎蓮司だった。
    黒崎を責めていたのは、真人ではない。真人の姿を借りた、黒崎自身の罪悪感だった。
    尊は黒崎を押しのけ、ステージ奥へ進んだ。楽屋の扉を開ける。
    そこには、黒崎が隠してきた記憶があった。

    青羽真人の死後、彼女からノートを託された夜。
    彼女の手は震えていた。蓮司は泣いていた。
    あの時点では、本当に真人の曲を世に出したいと思っていたのかもしれない。
    「レン。マサトは、あなたのギターが好きだった。あなたの声が好きだった。だから、あなたなら、この曲をどこかへ連れていってくれると思う」
    そう言って、彼女はノートを渡した。

    曲は素晴らしかった。
    だが、人は欲を持つ。レコード会社も、プロデューサーも、周囲も囁く。
    青羽真人の遺作ではなく、黒崎蓮司の新曲として出した方が売れる、と。
    最初に口にしたのが誰だったかは、もう覚えていない。
    だが、最後にうなずいたのは蓮司だった。
    そして曲は売れた。

    蓮司は歌い続け、走り続けた。
    まるで罪悪感から逃げるように、人生の苦味から目を逸らすように。
    繰り返される不毛な女性遍歴。
    だが、甘いところだけを選び続けても、何も満たされない。
    そして自分に言い聞かせる。
    「最後まで立っていた奴が、生き残った奴が──勝者なんだ!」

    しばらくして、彼女が蓮司に会いに来た。責めない。怒鳴らない。ただ、彼を見る。
    「あなたが歌ってくれると思ってた。でも、あなたのものにするとは思わなかった」
    「世に出したんだ。マサトの曲を、俺が──」
    「違う」
     彼女は静かに遮った。
    「あなたは、マサトを消したの。私の中にいたマサトまで」

    その声が落ちた時、世界から音が消えた。
    黒崎の意識が、そこで途切れたのが分かった。曲の津波も、罵声も、ぴたりと止んだ。

    ──そこに、青羽真人が現れた。

    尊は、はっとした。さっきの真人とは、質が違う。
    憎しみはない。だが、赦しもしない。ただ、静かにそこにいた。

    真人は年老いた黒崎に近づき、それから、ゆっくりと口を開いた。
    「レン……。あのノート、最後のページに、お前の名前を書いておいたんだ。お前に歌ってほしい曲をまとめていた。……渡すつもりだった。俺が生きてても、いつか」
    黒崎の顔が凍りついた。知らなかった、という顔だった。

    尊は、思考が一瞬止まるのを感じた。
    観相の像は、本人の内側から編まれる。
    黒崎の記憶にないはずのものが、どうしてこの手相の底から立ち上がるのか……。

    答えは、あった。あったが、尊は口にしなかった。
    それは"分からない"のではない。分かることを、認めたくなかっただけだ。

    真人は、静かに黒崎に背を向けた。
    「二度と歌えなくなった俺の代わりに……、ほかの誰のものでもない、俺の歌を……歌い続けろ」
    そう言い残し、真人は消えた。

    途端に土砂降りの雨が降り始める。
    ライブハウスは急速に錆びつき、崩れ始めた。
    尊は激しい雨の中で叫んだ。
    「ヒナ! 手を!」

    ──

    現実に戻った時、尊の手は氷のように冷たかった。
    雛がその手を握っていた。自分が何をしているのかは、まだよく分からない。ただ、言われた通り、呼ばれたから握った。
    握った手のひらから、冷たさが少しずつ引いていく。氷が水に戻るように、尊の指に熱が戻ってくる。

    理屈は分からない。分からないのに、雛の手のほうが、何をすればいいのかを知っているみたいだった。
    それでも──役に立っている。
    根拠のない、けれど確かな手応えだった。雛は、その手を離さなかった。

    「朱雀さん、大丈夫ですか?」
    尊はゆっくり目を開けた。
    「……ああ、大丈夫だ」
    「大丈夫じゃない人みたいな顔してましたよ」
    尊は少しだけ息を吐いた。

    黒崎は、尊が何を見たのか察していた。
    サングラスを外した顔は、来店した時よりずっと老けて見えた。
    「あんたの声を止めているのは、青羽真人ではないな」
    尊が言った。
    「じゃあ誰だ」
    「あんただ」
    黒崎は激しく顔を歪めた。

    「俺は生き残ったんだ。生き残った奴が、歌うしかなかったんだ!」
    「ずっとそうやって、自分を守ってきたのか」
    尊の声は淡々としていた。

    霊などいない、と言い続けて自分を守っている尊。生き残った者が勝つ、と言い続けて罪から逃げてきた黒崎。
    二人は似ていた。ただ、向いている方向が違う。

    「あんたが盗んだのは曲だけじゃない。その歌の中で生き続けるはずだった、相棒──青羽真人そのものだ」
    黒崎は黙った。

    その沈黙の中で、雛がぽつりと言った。
    「でも、歌わなかったら、その人の歌は、また置いていかれるんじゃないですか?」
    尊も黒崎も、雛を見た。
    雛には、真人のことも、黒崎の罪の重さも分からない。
    ただ、誰かの残したものが、行き場を失う寂しさだけは知っていた。
    「あ、すみません。偉そうに……」

    黒崎は小さく笑った。
    「お嬢ちゃん、残酷なこと言うな」
    けれど、それが答えだった。
    歌えば罪が蘇る。歌わなければ、真人の歌はまた沈む。ならば、罪ごと歌うしかない。

    黒崎蓮司は、何事かを決めた顔でCafé Fortune Tellerを後にした。

    ──

    かつて地下のライブハウスがあった場所に建てられた音楽ホールは、その夜、こけら落としの日を迎えていた。
    冴栄は主催者のひとりとして華やかに立ち回っていた。
    関係者、スポンサー、メディア、古いファン。
    その裏で、黒崎のコンディションは最悪だった。

    それでも、黒崎がステージに出ると、観客は熱狂した。
    何十年も彼の歌を聴いてきた人々だった。
    黒崎はマイクの前で、長く沈黙した。舞台袖で、冴栄が表情を消している。

    やがて黒崎は口を開いた。
    「これから歌う曲を、俺の曲だと思ってくれている人が多い」
    客席が静まる。
    「だが、実は違う」
    会場の空気が硬くなった。
    「この曲は──いや、俺の代表曲と呼ばれてきた何曲かは、俺が作ったものじゃない。俺の相棒だった、青羽真人が作ったものだ」
    どこかで息を呑む音がした。

    「俺は、あいつが死んだあと、ノートを預かった。あいつの大事な人から、世に出してくれ、と信じて託された」
    黒崎は笑おうとして、失敗した。顔が不自然に歪む。
    「俺はその信頼を裏切った」
    誰も声を出さなかった。
    「赦されるとは思っていない。赦されないことも、分かっている。それでも、今、この曲を、あいつの曲として歌わせて欲しい」

    言い訳はしなかった。
    ただ、自分が裏切ったと認めた。
    そして、歌い出した。

    最初は声が震えた。出ない。観客も戸惑っている。
    だがある瞬間、黒崎には、ステージの隣に若い青羽真人が見えた。
    黒崎にだけ見えているのか、それは分からない。
    真人はギターを構えた。
    黒崎の姿が、若い頃の姿に重なっていく。
    盗む前。裏切る前。ただ音楽が好きだった頃。
    二人の音が重なった。
    真人は笑わない。赦した顔ではない。
    だが、ギターは弾いている。

    黒崎は泣きながら歌った。
    声は完璧ではなかった。若い頃のような声量もない。
    それでも、今までで一番深い声だった。
    罪を消す歌ではない。
    罪を背負ったまま、初めて誰かに届く歌だった。

    客席の一角に、初老の女性が座っていた。
    「彼女」──白石 澪(しらいし みお)だった。
    彼女は小さな写真を抱いていた。
    ライブハウス時代の、少し照れたように笑っている、若い青羽真人の写真。
    澪はステージを見ている。けれど、見ている先は黒崎ではなかった。
    真人がいつもギターを弾いていた場所。黒崎の右側。
    彼女には、真人が見えているかのようだった。

    黒崎は歌い終えた。
    会場はすぐには拍手できなかった。沈黙が落ちる。
    その後、ぽつり、ぽつりと拍手が起きた。
    それは称賛というより、受け止めきれないものへの反応だった。
    席を立つ者もいた。腕を組んだまま動かない者もいた。
    それでも拍手は少しずつ重なり──やがて、怒りとも悲しみともつかない音になって会場を満たした。
    澪は写真を胸に抱き、下を向いて涙を流していた。

    黒崎の名声は、この夜から崩れるかもしれない。
    批判も報道も、あるいは訴訟もあるかもしれない。
    だが、それを受けることが、彼の選んだ罰だった。
    彼はようやく、逃げるのをやめた──。

    ライブ後、黒崎は楽屋で燃え尽きたように座っていた。
    自分の右手を見る。
    太陽丘は、まだ涸れている。名声の線は傷だらけだ。罪は消えていない。
    けれど、丘の奥に、小さな星がある。

    黒崎は目を閉じ、Café Fortune Tellerからの帰り際、尊がこの手を観て言ったことを思い出した。
    「薄いが、星が出つつある。まだ出たわけじゃない。あんたが逃げなければ、の話だ」
    どういうことだ、と尋ねると、尊は少し考えて答えた。
    「涸れた井戸の底に、新たな星が映ったんだろう」
    「詩人だな、占い師」
    「俺は理系だよ」
    そう言って、口先だけで笑っていた。

    黒崎は、青羽真人の名を、これからすべて元の場所へ返すと決めた。
    権利も、栄光も、償えるものはすべて。
    ただし、だからと言って許されるわけではない。

    「それでも……遅すぎたな」
    あの夜、黒崎はCafé Fortune Tellerの天井を仰いで呟いた。
    「確かに」尊は冷静に応えた。
    「そこは慰めろよ」
    「慰めで済ませられる話ではないさ」
    黒崎はしばらく黙り、それから静かに頷いた。
    「そうだな……」

    ──


    それから、半月ほどが過ぎた。
    Café Fortune Tellerでは、尊と雛が閉店後の後片付けをしていた。
    「そういえば、この前の黒崎さんのライブ、私たちも見届けに行った方が良かったんじゃないですか?」
    「さあな。結果はどうあれ、本人が覚悟したことだ。それに俺たちが客席にいたところで、あの人の罪は軽くならないさ」
    雛は、そうですね、と小さく頷いて、また布巾を動かした。

    尊はふと思い出した。
    黒崎のライブの数日後、不意に冴栄が店に来たことがある。
    「あの後、レンが曲を書けるようになったの。まるで、せき止めていたものがあふれ出てくるみたい」冴栄はそう言って、珍しく真面目な顔をした。
    「タケル、ありがとう。助けてくれて」
    そしてデモ音源のリンクを尊に渡し、また風のように去っていった。

    ──バラードだった。
    RUST n RAINの若く激しい曲ではない。今の黒崎にとって等身大の曲だった。
    過去の栄光も過ちもすべて抱えて、それでも生きていこうという静かな覚悟が、沁み渡っていた。
    (──俺は、今のあんたの曲の方が好きだぜ)
    尊は心の中でつぶやき、口先だけで小さく笑った。

    気がつくと、雛はちょうどテーブルを拭き終えたところだった。
    尊がふと口を開く。
    「あの時は助かった」
    雛は目を丸くした。
    「え、今、褒めました?」
    「事実を言っただけだ」
    「それ、朱雀さん的には褒めてますよね」
    尊は答えなかった。

    雛は少し笑って、カウンターの中を見た。
    掴めなかったこの男との距離が、今夜は少しだけ近い。この半地下に、自分の居場所ができ始めている──そんな気がした。
    「じゃあ、明日もよろしくお願いします。……マスター」
    尊が少しだけ動きを止めた。
    「……急に何だ」
    「だって、ここではそう呼んだ方がいいかなって」
    尊はカップを拭きながら、目を逸らした。
    「好きにしろ」

    その夜、Café Fortune Tellerのカウンターには、閉店後の静けさと、焼き菓子の甘い匂いが残っていた。
    雛が初めて「マスター」と呼んだその声だけが、まだ少し、店の奥に灯っていた。

    《第3話 太陽丘の「星」 終わり》

    (リンク)
    第1話 木星丘の「皇帝」
    第2話 金星丘の「太陽」
    第4話 月丘の「恋人たち」


     
     
    気ままに、エッセイ、SF、などの漫画や文章を創作している自由人。 三軒茶屋を中心に 世田谷近辺の居酒屋をぶらぶら巡っています。 お問い合わせをしたい という奇特な方は brazo.bura@icloud.com までお願いします。

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