
【長編小説】カフェ・シトラス 21[第七章_咲く花を揺らすのは③]
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第七章_咲く花を揺らすのは③
「パパ! 来てくれてありがとう! もお、ずっと待ってたんだから!」
佐藤(今夜こそ本気で連れ去るつもりなのかチカさんは一緒に来ていない)と、マッチョと、その他熱烈なあずさちゃんファンで埋め尽くされていたカウンターの中から飛び出すように、スナック・ドリームの化身が抱きついたのは、大樹父だ。
スーツをビシっとキメて、夜だというのに薄い色のサングラスをかけているから、とある筋の人に見える(が、「パパ」の実態はハウスメーカー所属の優秀な大工さんだ)。けれどニヤついているであろう目元を隠すのには効果的だ。サングラスで目元を隠し、気味が悪いくらい口元をニヤつかせているから、すごく、こわい。
セクシーでかわいいあずさちゃんが攫われて、どこかに売り飛ばされてしまいそうだ。
お目当てのあずさちゃんが「パパ」と飛び出したからか、カウンターの客は全員そちらを向いた。まるで猫じゃらしを追う猫の軍団のようにいっせいに。
抱きついた艶めかしい腰を抱きとめ、耳元で何かをささやいているサングラスをかけた、怪しげな雰囲気の男に「パパ」の意味を誤解したのであろう客たちはそっと目をそらしていた。
これから義父となるのだから「パパ」というのは正しい。しかし「パパ」にしてはその抱きとめ方はNGかもしれない。あの手の動きはちょっとだけおしりを触って(しかも、撫でて)いるのではないかと思われる。さすがはむっつりスケベの大樹の父親だ。
その「パパ」の後ろには、面白くなさそうな顔をした大樹と、にこにこと楽しそうな表情をしている僕の父がいた。父はお酒が飲めないわけではないけれど、母を筆頭に姉たちや僕もお酒が飲めないから、こういう店には付き合いでもないかぎり訪れることはない。
今夜は母ではなく、父たちが集っているらしい。開店前に京介とイチャついていた大樹は「用事があるから」とドリームを早々に立ち去っていた。
あずさちゃんの客として父たちが来たことに、京介もすぐに気が付いたのだろう。居ずまいを正し、頭を下げ挨拶しているのが見える。初対面でも「いらっしゃぁい」なんて調子の京介が「いらっしゃいませ」なんて頭を下げているからか、カウンターの客たちはさらに硬い表情をした。絶対にヤバい客だと思っているだろう。
ヤバい客ではないけれど、大切なお客様には変わらない。僕もカウンターから出て客人たちを迎えることにした。
「いらっしゃい、めずらしいお客さんだね。シトラスにも今度来てよ。時々、あずをシトラスまで送ってくれてるの知ってるよ?」
コートを受け取りながら笑みを向けると父は笑った。
「ジムは気をつかわず行けるけど、シトラスは女性客が多いから行きづらくってね。……あずさちゃんが喜ぶものを飲ませてあげたいんだ。なんでもいいよ」
「あずが喜ぶのはシャンパンだよ。水みたいに飲んじゃうけど」
「シャンパン、か。 ……そうか。うん、いいね。とびきりのをあずさちゃんに用意してくれるかい?」
ほんの一瞬。父は感傷にも似た表情をした。なにかシャンパンにまつわる思い出があるのかもしれない。けれど、僕だってもう大人の男だ。何も気づかないふりをして「かしこまりました」と席へ誘導している京介に父たちを託し、預かったコートを収めた。
あずさちゃんと「パパ」は腕を組んでリザーブ席に仲良く向かっていて、京介と大樹が呆れた様子でそれを見送っている。数時間前のなかなおりのおかげで二人の雰囲気は元通りだ。
富豪の父と酒豪のあずさちゃんのタッグで今夜のドリームの売り上げは過去最高となるかもしれない。すねかじりの僕は思って、シャンパンを出す前に、父のためにオレンジジュースを絞ってあげようと決めた。
シャンパンのチェイサーにウィスキーの水割りを飲むというめちゃくちゃなことをしているあずさちゃんの飲みっぷりと饒舌っぷりに父たちが喜び、二本目のシャンパンが開けられ、飲むペースを明らかに抑えている大樹が頭を抱えたころ、ふらふらのふにゃふにゃの状態のお姫さまが、カウンターのなかへやってきた。
カウンターの客(主にマッチョ)の相手をしている京介は、たくましい筋肉(本人もそれなりに、しかも僕以上に筋肉はついているのだけれど)にはしゃいでいて、コウジはボックス席で女性客を相手に毒舌を披露している。
「てんちょ、オレンジを、しぼり、ます」
いくらなんでも飲みすぎだ。ろれつは回っていなく、焦点もあっていない。それがたまらなくかわいいから、ここにいては危険だ。狼どもが目をらんらんと輝かせて、かわいくてセクシーなあずさちゃんに熱烈な視線を送っている。
「僕がやるよ。座ってなさい」
「だめ。せいちゃんパパのだから、わたしが、するの。シャンパンで、酔っぱらっちゃったんだって」
せいちゃんパパ。上の姉をせいちゃんと呼んでいる(正しくは姉がそう呼ぶよう命じた)彼女らしいネーミングだ。ついでに「酔っぱらっちゃった」のはあずさちゃんも、だ。
僕がオレンジを取り出すと、あずさちゃんがペティナイフを握ろうとしたのでそれは京介がすばやく取り上げた。代わりに水のグラスを持たせ、マッチョときゃっきゃっと話しながらも鮮やかな手つきでオレンジを半分に切った。
「スーシェフって、やっぱかっこいいんだよね」などとつぶやきながら後ろの壁(ボトル棚とグラス棚のほんの少しの隙間)に挟まって、グラスを両手で抱えるように水を飲んでいる。すぐに飲み干したらしく、京介から受け取ったオレンジをセットするとジューサーと僕の間にするりともぐりこんできた。
「わたしが、するんだってば」
かちゃん。ふらつくあずさちゃんの身体を受けとめて
じゅうっ。レバーを握る手をやさしく包みこみ
かたん。ふふふと笑う、あずさちゃんの香りを吸いこんだ。
かちゃん。頼りのない細い指に、指を絡ませて
じゅうっ。心からあふれでる気持ちがこぼれおち
かたん。どうしようもない愛しさに、たまらずこめかみへ口づける。
ぽとん。ダストボックスに落としたオレンジの抜け殻は、僕の心のようだ。
「てんちょ?」
幼子のような口調におかしくなってしまう。「ん?」こめかみに唇を半分つけたまま次のオレンジをセットすると、あずさちゃんは唇がすべて触れるように顔を動かした。
「シトラスをなくさないでって、せいちゃんにも、せいちゃんパパにも、ゆみちゃんにもお願いしてるから――ずっといっしょに、オレンジをしぼろうね?」
なんてことだ。
僕の心はあずさちゃんにすっぽりと奪われてしまった。「ずっといっしょに、オレンジをしぼろうね?」だなんて。この娘はなんて罪深い恋泥棒なのだろう。
抜け殻になってしまった僕の心を、あずさちゃんはいとも簡単に、甘いオレンジジュースで満たしてしまった。
「――もちろん、だよ。あずはシトラスのお姫さまだからね」
「おばあちゃんに、なっても?」
恋泥棒のお姫さまは、くすくすと甘い笑みをふりまいた。オレンジジュースで満たされた心からあずさちゃんへの愛情が笑顔となって零れ落ちていく。
「あずがおばあちゃんになったら、僕もおじいちゃんになってるから、おあいこだよ」
どんな色になっても、僕が好きなあずさちゃんはあずさちゃんのままだ。僕がこれ以上愛する女性は、ほかには現れないだろう。
「店長は、とってもかわいいおじいちゃんになりそう」
無駄口をたたいて笑っていたあずさちゃんは、やがてオレンジジュースごと大樹に連れ去られてしまった。
三本目のシャンパンを父から勝ち取ったあずさちゃん不在のカウンター席がすっかり女性客(性別不詳のお客さんも含む)で埋まり、美女のアフターを狙う狼たちがあきらめて帰ってしまったころ「うちの姫はもう安全だな」と父たちも帰っていった。
予想通りドリームの過去最高売上額となったのだろう。京介は僕がドリームのレートで計算した伝票をみて顔色を青くした。「あずさは一生、日山家で働かせます」と頭を下げ、いつの間にかあずさちゃんを横に座らせ、腰を抱いていた父を笑わせた。
腰を抱いた父の指先は、ついでに太ももをくすぐるように撫でていた。涼しい顔をして触るところはしっかり触っているのだから、さすがは我が父だ。しかもいたずらをしている指先は角度的に大樹からは死角であろう。
そういう姑息なところも血なんだなぁと感服せざるを得なかった。けれどシャンパングラスを軽快に空けていく彼女を、まるで愛しいものでも見るかのように父は熱い視線を向けていたから、僕の胸は少しざわついてしまった。
店内が女性客で占められているからか、ボックス席の片づけをすませるとあずさちゃんはバックヤードに引っこんでしまった。カチッと音が聞こえたので煙草に火をつけたのだと思う。そういえば彼女が煙草を吸っているのを見るのは久しぶりな気がする。レモン水を持ってバックヤードに行くとうっとりした表情で煙を吐いていた。バックヤードは下げたプレートとグラスであふれている。
「あず、お水飲みなさい」
「あとで。……いま飲んだら、漏れちゃう」
煙を吐きながらあずさちゃんはいたずらっぽくお腹を撫でた。不自然なくらい膨らんでいて、妊娠でもしているのかと思えるほどだ。
「煙草はあとにして、先に行っておいでよ」
呆れた声とともに奥にあるトイレを示すと、えへへと笑ってから煙草の火を消した。
まずは割れやすい華奢なシャンパングラスからだな。スポンジに泡をたてると、あずさちゃんのいる個室から流水音に交じり「あっ……んっ」という艶めかしい声が聞こえ、思わず僕は振り返った。もちろん扉は固く閉ざされていて中が見えるわけもなく、もちろん大樹がいるわけでもない。彼は二人の父を見送るべく外に出ているし、個室の中は一人入るのがぎりぎりだ。とんでもなくえっちな声だったけれど、これは間違いなく彼女の声だ。
スポンジを握りしめたまま何か手伝えることはないか訊いてみようかと邪なことを考えてみるけれど、やがて流水音とともに姿を見せたあずさちゃんは顔色も特に変わった様子もなく、固まったまま動かない僕を不思議そうにみつめた。ふらふらのふにゃふにゃになっていたというのに、もうその足取りはしっかりしている。
「お腹ぺったんこになった。 ――どうしたの? 疲れちゃった?」
「あのさ……すっごい、声が聞こえたんだけど。ひとりで、いいコトしてたの?」
手に泡を立てながらあずさちゃんは肩を竦ませた。本人の宣言通り、お腹はぺったんこだ。あのポッコリ出ていたお腹がすべて水分だったとは驚きだ。
「きこえちゃった? ご想像に、おまかせします」
「必要ならお手伝いしようかなって、思ったんだけどなぁ」
「そういうのは、間に合ってますから」
ふふんと得意げにあずさちゃんは笑って「ですよね」と僕はグラスに泡をのせた。
「あずちゃーん、お客さんよー」
声に眉根を寄せたあずさちゃんはホールへ向かった。けれどすぐに戻ってき、レモン水を一気飲みしてからグラスタオルを手にした。せっかくお腹がぺったんこになったというのにまた新たな水分を取り込んでしまったようだ。
「お客さん、いいの?」
「ヒロキだったからほっとく」
水滴のついたグラスを手に取って「そのうち手伝いにくるし」と、きゅっきゅっと小気味いい音をたててグラスを拭きはじめた。
二人でくっつくように並んでグラスを片付けていたけれど「カクテルオーダーたまってるぞ」という不機嫌な声により早々にカウンターに戻ることになり、あずさちゃんの隣は大樹に譲ることになってしまった。それでもすぐに彼女もバックヤードから出てきた。同じく、仕事しろと怒られたのかもしれない。
「コウジー飲むわよー。あずさでーす。おじゃましまーす」
「本名で呼ぶな! こっちくんな!」
「コウジは、おねーさんたちの間に座らせてもらったら?」
「オンナなんて、だいっきらいよぉっ!」
なぜか、ボックス席が爆笑の渦に呑みこまれた。カウンターの中から見守っていた僕と京介は失笑する。二人のかけ合いは身内でも理解不能なことがある。
「なんだかんだ、仲いいのよね。……あのふたり」
「それにしても、いつ見てもあずさちゃんの精度って高いわよね。本物の女の子みたい」
京介の客のオネエが羨ましそうに息を吐いて、驚いた僕たちは顔を見合わせた。そういえば僕も、はじめはあずさちゃんのことを男じゃないかと疑っていたのだった。
「そう、なのよぉ。ホント、奇跡のコなの、あずちゃんったら」
それはそうだろう。女を好きになれないはずの京介がここまで惚れ込んだのは奇跡だ。あずさちゃんは奇跡のコ。僕にとっても、京介と大樹との仲をつないでくれる奇跡の存在かもしれない。
昔とは違った姿をした親友がからからと笑うのを追うように「シャンパンいただきましたー!」とはしゃいだ声がして、僕はこの日、何度漏らしたかわからない失笑を浮かべた。
僕とあずさちゃんは、朝一番のオレンジたちのおめかし作業中、マスクの下で大きなあくびをずっとしていた。
寝不足にはビタミンCと信じているさすがの僕も、一晩で計五本のシャンパンを売り上げた人物の「寝不足にはカフェインこそ正義」という主張に屈してしまった。
開店前に二人で豆乳カプチーノ(あずさちゃんが大好きなシナモンシュガーをたっぷりと振ってある)を飲みながら、シトラスに注ぐ朝光を浴びる。豆乳は白くてほんのり甘くておいしいけれど、ビタミンCが含まれていないのが何よりの問題点だ。
カプチーノを飲んだ後、あずさちゃんはサンドイッチ用のマーマレードチキンを焼くことになっている。焼き終わって少し冷めたら(ちょうどバゲットが届く時間になるだろう)僕がサンドイッチを仕上げていく。僕たちの連携はいつもの通り、完璧だ。
二人で作業台に寄りかかってあくびをしながら同じコーヒーを飲む。カップはおそろいのコーヒーカップだ。定休日以外、毎日繰り返されていることだけれど、こんな幸せなことが他にあるだろうか。
「ごちそうさまでした」先にコーヒーを飲み干したあずさちゃんがするりとカウンターを抜け出してカーテンを開けるから、僕もコーヒーを飲み干してショーケースの灯りをつけて釣銭の確認をする。いつもとおなじカフェ・シトラスの開店前の風景だ。
まるで泥棒のように、扉をそぉっと開ける動作は毎朝見ているけれど、とてもかわいい。べつに鐘が揺れてしまってもかまわないというのに、慎重に扉を開けてお店の前にごみが落ちていないかのチェックをして、落ち葉などを片付ける掃除をしてくれる。道行く人にあいさつをふりまく姿ももちろん、かわいい。
毎朝、毎昼、毎夕と、僕はあずさちゃんに四六時中恋をしている。
カラン。休日一番のお客さんは近所のご婦人だ。「すっかり寒くなったわねぇ」なんてあずさちゃんとおしゃべりをしながらお店に入ってきた。
「店長さん、おはよう。オレンジジュースをいただける? やっぱり朝はシトラスさんのオレンジジュースを飲まなくっちゃ」
「おはようございます。今日のオレンジも、とっても甘いですよ」
仕込みをした時の甘い香りを思い出し、僕もオレンジジュースが飲みたくなる。手早く手を洗ったあずさちゃんが手袋をしてオレンジを取り出す。切込みにそって半分にちぎると手早くジューサーにセットした。
かちゃん、じゅうっ、かたん。
かちゃん、じゅうっ、かたん。
彼女は僕の心を簡単に奪ってしまうけれど、すぐにオレンジジュースで甘く満たしてくれる。だからお返しに無心の愛をこれからも注ぎつづけるだろう。僕の小さな城、カフェ・シトラスのお姫さまであるあずさちゃんに。
「お花、咲くといいわねぇ」
ご婦人があずさちゃんのサボテンをみつめて目を細めた。
「何年もかかっちゃうみたい、なんですけど」
「何色のお花が咲くのか、今から楽しみね」
はい。と返したあずさちゃんがゆかりさんみたいな表情でまんまるのサボテンに視線をむけた。そのなんともいえない幸せな笑みにうれしくなった僕もつられて笑みを浮かべる。
「――でも、真っ赤なお花じゃないといいなって」
「あら、赤は嫌い?」
あずさちゃんが返答に困り、黙ってしまったから愛しさがこみ上げてくる。
「僕が、赤よりも白が好きなので」
「そうなのね。じゃあ、店長さんが好きな白いお花が咲くといいわね」
お客さんに元気よく頷いたあずさちゃんの耳が赤くなっている。いつ咲くか、本当に咲くかわからない花の色のことをそんなに気にするなんて。しかも僕のことを考えて赤じゃないといい、だなんて。
「お待たせいたしました」
あずさちゃんがとびきり甘くておいしそうなオレンジジュースをご婦人に手渡した。そのビタミンⅭの香りは僕を幸せな気持ちにしてくれる。
たくさんの愛情をあずさちゃんに注いでいるつもりでいたけれど、愛を注がれているのはもしかすると、僕の方なのかもしれない。
「やっと、きづいたんだね」
ぼんやり想った僕に、オレンジたちが歌うように笑った。
〈了〉
21話お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
前日譚が気になる方はこちらも、どうぞ……。