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【短編小説】シャンパンとチョコレートと、それからすこしの情熱を/前編


    シャンパンとチョコレートと、それからすこしの情熱を/前編



     ベッドにおいてけぼりにされるひとりの夜は、いつもよりうんと浅はかだ。

     かしゃん、きぃ、ごとっ。

     玄関で響いた音を合図に、息をひそめ耳を澄ませた。ドアの開閉音と微かなエンジン音と、逃げるように走り去る音を確認してから、寝たふりをしていた気だるい身体を起こす。二時間前に脱がされたセクシーなスリップドレスには目もくれず、まるで色気のないパーカーを着てのろのろと玄関へ向かった。

     扉にへばりついている郵便受けを開け、もう何年も前に目のプリントが消えてしまった、鳥のマスコットがぶら下がっている鍵を拾い上げ、熱のない息を吐いた。

     これは二人きりの卒業旅行で買った揃いのキーホルダーだ。いまあるのは、醜い未練のもと大切に保管していたほうで、彼が当時の自宅の鍵につけて持っていたほうの白い鳥がどうなってしまったのか、その行方を私は知らない。

     眠ってしまった私から腕を引き抜き、身支度を整えた彼は玄関の壁にぶら下がっている鍵で施錠し、それを郵便受けに落としていく。これはいつもの、帰るときの一連の定石だ。そして、体温が離れてすぐに目を覚ますけれど、寝たふりをしつづけるのは私の定石だ。

     彼はここの鍵を持っていない。持ってくれても一向にかまわないのだけれど、彼は自分の家の鍵以外を、持つことは許されない立場だ。

     ほんの時々、定石を破り私は彼に意地悪をする。まるで何も知らないように、付き合っていた頃のように「泊まっていかないの?」なんて攻撃を、ベッドの中から白々しく、着替えている背中に投げてやるのだ。

    「明日も仕事だから、帰るよ」なんてそそくさと逃げるように帰ってしまうのだけれど、実のところは「妻とこどもたちが待ってるから、帰るよ」なのだから、はっきりとそう言えばいいのに、妻という言葉を彼の口から聞いたことはない。

     こどもという言葉を彼が口にしたのはたったの一度きりだ。しかも最悪のタイミングでそれは発せられた。

    「熱が出てるなら、なんで言わないの?」

    「ごめんなさい。……でも、こちらから連絡をしてはいけないと思って」

    「うちのこどもたちに、うつるじゃないか」

     乱暴に放たれた言葉に、熱に浮かされていた私は「ごめんなさい」と繰り返した。やがて逃げるように出ていった背中をただ虚ろに見送って、狭いソファの上でひとり泣いた。

     ふらついた身体はベッドまでたどり着けなかった。熱が出たのは職場で同僚かお客さんにうつされてしまったのだと思う。体調管理にもっと気をつけていれば、突然訪れる彼をいつものように向かい入れることができたのに。ひと時の甘い愛に溺れることができたのに。というばかげた思いにその時の私は支配されていた。

     今となってしまえば。

     所定の位置に鍵をもどしてから安物のシャンパンの瓶と金縁の装飾がされたオレンジ色の箱を取り出す。シャンパンのグラスは、迷った末に二脚、手にした。どうせまともに眠れないのだから、二人で飲んでいる気にでもならないと夜が永遠になってしまう。

     当時、彼の家には三人目のこども、念願の跡取り息子が生まれたばかりだった。やっと授かった男の子を家族総出でかわいがっているらしく、そんな家に高熱を出す菌を、彼は持ち帰るわけにはいかなかった。

     今となってしまえば、だったら寄り道などせず、愛する妻と子のいる家にまっすぐ帰ればいいだけの話だった。わざわざこちらが泣いて許しを請う必要なんてなかった。しかも熱があって、あんなに具合の悪かった時に。

     金色のぺらぺらを剥がし、コルクに食い込んだ針金をゆるゆるとほどいていく。このときほど女の独り身でいる孤独を味わうことはない。本来であれば、シャンパンのキリリとした頑丈な包装は男がほどくべきで、女がこわごわと、たどたどしい手つきでほどくべきものではないと思う。栓を抜くのだってそうだ。

     これは女がやってはいけない行為だ。

     シャンパンの栓を立派に、臆することなく抜いてしまう女なんて閉店間際のスーパーに並ぶ、割引のシールが何枚も貼られているような惣菜となんら変わらない。それの何が悪いの?と言えるほどの度胸は私にはまだない。こんなことを考えるのは時代錯誤だということはわかっている。けれど、女として生きてきた実績から、そう思えてしまうのだから仕方がない。

     二脚のシャンパングラスに艶やかな色をしたパチパチと弾ける液体をたっぷりと注ぐ。これは昔、二人で過ごした夜によく飲んでいたもので、彼が泊まっていくといつ言ってもいいように用意してあるシャンパンだ。

     これには生チョコレートがよく合うことを私たちは知っているから、冷蔵庫にはいつもシャンパンと生チョコレートと、オレンジ味のタブレットチョコレートが入っている。だけれど、彼がこれらを口にしたことは再会後、一度もない。水ですら持ってきているものを飲むのだから、あきれてしまう。

     独りで飲むシャンパンに生チョコレートは本来、不要だ。でも今夜はせっかくグラスを二脚用意したのだし、と閉めたばかりの冷蔵庫から紺色の平たい箱を取り出し、華奢なガラス皿に生チョコレートをならべた。一人で食べるにはそれで十分だ。

     差し向かいに置いたグラスに意味もなくグラスを合わせてから長い脚に指を絡ませ、弾ける液体を体内に流しこんでいく。ぬちゃりとする生チョコレートはひとりで食べるにはやはり向かない。それでもこのシャンパンを飲みながら、しぶとく口の中に居座るチョコレートを食べるのはすこしの優越感を味わうことができる。彼の妻はお酒が飲めないから、シャンパンを飲みながら生チョコレートを食べて残酷なほど甘いキスをすることはできない。コーヒーや紅茶でもできるかもしれないけれど、シャンパンとチョコレートの味がする高揚感に包まれた甘いキスは、お酒を飲んでいるからこそ楽しめる。これはお酒が飲める人間の特権とも言えるだろう。

     学生時代に付き合っていた私たちは、就職をしてそれぞれに貯金がある程度できたら結婚をするという約束をしていた。学生ならではの甘っちょろい約束だったと思う。

     学生時代にはほぼ毎日していたデートが、社会人となってからは一週間に一回のデートになって、徐々にひと月に一回になった。貯金ができるくらいの余裕をもたなくてはと、仕事をがむしゃらにしていたら、気が付けば、彼は勤め先の社長令嬢に見初められていた。

     それなりに仕事もがんばっていたのだとは思うけれど、彼は社長令嬢の心を射止めることであっさりと大出世してしまった。もちろん、いつの間にかデートをすることはなくなり、メッセージを送り合うこともなくなった。

     結婚の口約束までしていたというのに、さようならの一言もなく学生時代の恋は自然消滅となった。

     そんな彼と再会したのは今から六年前、二人目の女の子が産まれた後だった。豪邸と言っても過言ではない彼の住まいの小規模なリフォームをすることになり、その依頼が私の務め先にきたのだ。

     私が所属しているセクションの担当は各部屋の照明器具とクロスとカーテンの選定および提案だった。クライアントの素性にいち早く気づくことができたので、その大きな仕事には加わらず、皆のフォローに回ることにした。そういった役割を担う人員は必要だったから、私の申し出は上司にも同僚にも歓迎された。

     自然消滅で別れた相手だ。夫婦生活が営まれる主寝室を含めたプランニングなど考えたくもないし、できるわけがなかった。チームに加わるだけでなく関わりもせず、たっぷり予算のある、はたから見れば魅力的な仕事から私はただ逃げた。

     小さな仕事をたくさん抱え、一切関わらないよう細心の注意を払っていたのに、何度目のプラン変更なのかわからないクロスサンプルを、妻の代わりに受け取りにきた彼の対応をすることになってしまった。運悪く、休みや打ち合わせで担当の全員が不在だった。どうして郵送にしなかったのかと担当の無能さを心の中で責めた。

    「名刺を、いただけますか?」

     サンプルが入った紙袋を手渡すと彼はにこやかな笑みを見せた。

    「私は担当ではありませんので、担当者の名刺を」

     機械のように口を動かし、恐らくすでに持っているであろう、上司の名刺を紙袋に滑り込ませようとした。けれど彼は私の手にそのあたたかな手を重ね、首を横に振った。

    「あなたの、名刺を」

     数年ぶりに触れた手と手。たったそれだけをきっかけに、今の関係にまでなってしまった。

     彼との空白の期間に恋人がいなかったわけではない。けれど、どの人も一緒にいるときの空気も肌も合わなかった。彼ほど空気が合って、呼吸も肌もピッタリと重なり溶けあう人はいなかった。彼と再会してすぐに当時付き合っていた恋人とは別れてしまったし、その後、新しい恋人もできていないから、彼以上の存在には未だ出会えていない。

     泡が静かにはじけているグラスをみつめ、手元のグラスから安物のシャンパンを飲む。よく考えてみれば、学生時代に二人でお金を出しあい買っていたこんな安物のシャンパンなど、今の彼が飲むことはないに違いない。

     もう、住んでいる世界が違う。彼が結婚してもう八年も経つ。一番上の子はすでに小学生で、彼が婿養子に入ってから会社はどんどん大きくなっている。私の勤務先も、いつの間にか彼が経営する会社の傘下企業となり、ぐんと業績を伸ばした。

     あと何年、誰も幸福になれない関係がつづくのだろう。

     週に一回、たった数時間、肌と呼吸を重ねるだけの関係がもう六年近くも続いている。その間に彼の家には息子が産まれた。たったの数時間の行為のために、私は残りの時間のすべてで心をすり減らしている。

     甘いのか苦いのか、酸っぱいのか辛いのか、もう味もよくわからなくなってしまった。

     どうせ百年後、千年後になれば、誰も生きていない。私も、彼も、彼の奥さんも。この地球が今まで見てきたものに比べたら、私たちの時間など一瞬のことだろう。その一瞬のたった一晩、眠れなかったとして、いったいなんだというのだろう。一瞬のことでこんなに苦しむなんてバカげている。バカげているとわかっているくせに、やめることができない。ただずるずると惰性で甘い毒を吸い、毒に冒され、もがいている。

     百年後、千年後に生まれ変わったら、今度は彼と一緒になれるだろうか。
     
     もう一度、手に触れてくれるだろうか。

    「会いたかった」と、きつく抱きしめてくれるだろうか。

     生まれ変わって、また出会って、今度こそ朝まで一緒にいることが許される関係になれるだろうか。

    「――また、バカみたいなこと、考えて」

     グラスと瓶の中身がなくなり、すっかり泡が減ってぬるくなってしまったグラスの中身を私は飲み干した。容量を超えてしまったのか、涙がこぼれ視界が揺らいだ。これだけ酔えれば、二時間くらいは眠れるだろう。空虚のなかでただ永遠を感じるより、酔いつぶれてしまった方がよっぽどましだ。目覚めたらまた、心をすり減らす時間が待っているだけなのだけれど。


     彼が来ない夜は矛盾に満ちた夜となる。

     週末と週明けは彼が突然訪ねてくることはない。典型的な不倫男の行動だ。ただ幸いなことに、彼が都合の悪い日は「幸福を育み、癒しの時間を過ごすお手伝い」の仕事が忙しい。

     皮肉なものだ。今夜も終電ギリギリで帰ってきたけれど、今日中に返すべきメールをまだ処理できていない。

    「好きに囲まれて過ごす時間は、お金には代えられない、なによりのものだと思いますよ」

     わざとらしい笑みを浮かべ、夢に酔う施主(主に女性だ)にブランドものの高いクロスやカーテンや照明器具をそれとなく勧める。それまで極限に抑えてきた予算を一気にオーバーさせて、隠していたなけなしの金を引き出してやるという悪趣味なことが私は得意だ。

     隠し予算が実はある。そんな人間を見抜く力があるようだ。

     たかが壁紙、たかがカーテン。確かにいいものはいいけれど、真実を言えば、本当の「好き」など容易くみつかるものじゃない。どんなにブランドのもので周りを固めても流行もあるし、経年劣化もあるし、なにより人の「好き」はうつろうものだ。バッグや靴のようにホイホイと買い替えることができない代物だから選定は難しい。
     万物は流転する。

     それに柔軟に対応するには、人間側の忍耐というモノが必要になる。一度自分で決めた「好き」を貫くしかないのだ。理想の家は三回建てないと叶えられないとよく聞くけれど、それを成し遂げた顧客に会ったことはない。

     あれも、これもよくて、でも、全体のバランス的にどうかと思って。とか、SNSで見たものに少しのアレンジを加えたい。という、結局、何をしたいのかさっぱりわからない施主のメールにうんざりして、キッチンの床に足を投げ出し、座ったままで缶ビールのプルトップを起こす。

     こんな仕事をやっつけるには飲まないとやってられない。キリとした苦みはうんざりを冷静に変えてくれる。

     飲みかけの缶を床に置く。膝の上で端末をひろげ、お花畑のど真ん中で好きを叫んでいる施主に宛てたウソだらけの文章を打っていく。

     今日の相手は新婚ほやほやの、まもなく子どもが産まれる幸福の絶頂にいる夫婦だ。ひとつのメールに夫妻それぞれにあてた文章を打っていかないといけないから、こちらは多重人格者にならざるを得ない。

     暗闇に包まれた何の飾り気もないキッチンの床に座って、端末が放つ光だけを頼りに、おしゃれでかわいくて、それでいてかっこよくて癒されるという無理難題てんこ盛りの空間についての提案をしているのだから、私はなにからなにまで矛盾している。

     私は顔にはりついた笑顔の裏で、この世の夫婦や恋人や、とかく幸せというものに満ち、無遠慮にそれを周囲にまき散らしている人間の全員が不幸になればいいと思っている。

     楽しいと思っていることが楽しくなくなって、苦痛にさいなまれてしまえばいいのだ。この世の全員がそうなってくれさえすれば、私の苦痛はきっとやわらぐ。なんて身勝手なことを、と言われなくてもわかっている。でも普段は笑顔の仮面を被っているのだから、お腹の中で抱えているモノくらい自分勝手なモノでもいいはずだ。

     万物は流転する。

     だとしたら、どうして彼への想いは流転していかないのだろう。

     暗闇に光る液晶を焦点の合わないままみつめた。なにをしても答えは出ないというのに。

     ピンクに塗った足の爪に食い込んだストッキングが、わずかに伝線していたのを思い出す。どんなに強いストッキングでも爪の鋭さと、つま先がとがったハイヒールの圧力にはかなわない。

     手を伸ばし、わざと伝線しているところに爪をかけて引っ張った。それをきっかけに、するするとほころびは広がっていき、あっという間に外には履いていけない廃棄物となった。ウィルスもこうやって伝播していくのだろうかとぼんやり思う。

    「よいしょっと」横着をして座ったままでストッキングをおろすと、床に置いていた缶ビールが倒れてしまった。慌てて缶をもどすと、膝に置いていた端末がゴトと音を立て、床に落下した。

    「なんなの、もう」

     ビールは運よく零れなかったし、端末も無事だった。まるで私の人生を、ぎゅっと凝縮したようなできごとだ。

     まだ脱ぎきれていないストッキングをひざに集結させたままで残っていたビールを飲む。まぬけな姿のままで少しぬるくなった液体を口に含んだところで、空腹だったことにやっと気が付いた。

     毎日の不摂生の勲章である、口内炎を撲滅するためのビタミン剤を残りのビールで流し込む。これが「いつも素敵な佐藤さん」の正体だ。お客さんたちは私がこんな人間だとはつゆほども思っていないだろう。

     廃棄物となったストッキングを捨てて、冷蔵庫の前(しかも扉をあけたまま)でオレンジ色の箱を開け、パリパリと歯触りのいいチョコレートを咀嚼する。まるでスナック菓子のように食べられるチョコレートは独りで食べるのに相応しい。

     やっぱり夜は眠れない。ぐるぐるまわる矛盾に支配されてしまう。昼間はあんなに眠いのに、昼休みの一時間は何も食べずただ寝てしまうことも多いのに、どうして夜は眠れないのだろう。

     冷蔵庫を占拠している、いつもらったのかも思い出せないワインを睨みつける。さっさと飲んでしまおうと思いつつも、コルクを上手に抜けないかもしれないと逡巡してしまい、飲めないままでいるワインだ。

     どうせ私はコルクの栓すら抜けない、覚悟も意気地もない女だ。妻子ある男との関係はだらだらとつづけられるのに、そんなこともできないなんて。どこまで中途半端で、出来損ないの女なのだろう。
     
     好きだとか愛だとか、そんな情熱はきっともうない。空気が、相性が、と都合の良い言い訳を並べているだけで、これはただの依存だ。別れるとか拒絶するとかいう情熱の持ち合わせが、あいにく、私にはないだけだ。


     土日はとくに、くたくたになる。

     月曜日も休日の三連休なんてこの世から消え失せてしまえばいいのにと思ってしまう。三十分刻みで打ち合わせの予定を組んでいるのにもかかわらず、お客さんはちょっと体調が悪くてとか、子どもがぐずったとか、なにかと理由をつけて平気で三十分以上遅刻してくることがある。そうなると私のお昼休みはなくなる。すべての予定が後ろ倒しになり、当然のように残業となる。

     世の中が浮きたつ三連休。私の勤務先でのそれは、打ち合わせが押し寄せる最悪のものでしかない。妻子と幸せあふれる三連休を過ごすのであろう男のことはもちろん、考えている暇などない。

     若い夫婦の遅刻と優柔不断のせいで、私は三連休初日から心身共にぼろぼろだった。その日最後の客が帰り、ショールームのシャッターをおろし、その場にいた全員がどっと疲れた顔をした時点で、私はかまうことなくデスクで化粧落とし用のコットンを使って顔を拭いてしまった。キラキラ光り、まつげが重たい目で資料をまとめたり、電気図のチェックをするのはまっぴらごめんだったからだ。

     周囲はそんな私をみて苦笑するけれど、気にしない。この行いは、わざわざ社員通用口の裏口まで押しかけてくるような迷惑な客の対応は、今日はもう、私は絶対にしません。という周囲への宣言も含まれている。

     きっと今日は家に着いたらすぐに眠れる。今夜こそブツ切れでもいいから睡眠をとる。それだけを考え、これから生まれてくるこどもはピンクが好きなのか水色が好きなのかという途方もないことを考えている施主宛ての返信を打っていく。

     では、アクセントクロスはやめておきましょうとか、エメラルドグリーンやラベンダーを好むお子様もいらっしゃいますよ、なんてことは間違っても打ってはいけない。

     いつもは後ろ髪引かれつつも、我慢するタクシーに迷うことなく乗った。もうなにもかもが限界だった。空腹な気もするけれど、いまは何よりも眠ってしまいたい。今日は昼間の眠気を夜までひきずったままでいられた貴重な日だ。

     そんな貴重な日に限って神様はいたずらをするものだ。

     タクシーの中ですでに鍵を握りしめていたくらいなのに。鍵を開けてそのまま玄関にバッグを放り捨てて、ベッドに飛び込もうと思っていたのに。

    「ユカ、おかえり」

     遅かったね、お疲れさま。鍵穴に鍵をさしたところで、ひょっこりと彼が笑顔を見せた。幻覚なのかと思った。もう眠ってしまっていて、夢を見ているのかと思った。

    「ヒジリ……? なんで?」

    「ユカこそ、なんでスッピン?」

     驚きのあまり、鍵をさしたまま手を離してしまったから、彼がその後を引き継いで、鍵をあけてくれた。持っていたバッグも受け取ってくれたけれど、ちょっと待って。家の中が彼を受け入れる体制ではないかもしれない。

    「……お客さんが帰ってすぐに、会社で落としたの。窮屈だから。……ちょっと待って、入らないで。片付けるから」

    「別に、片付けなくていいよ。ユカのことは昔からわかってるし」

     週末の油断しきった部屋の惨状は、思ったよりひどくはなかった。

     前日に飲んだビールの缶が洗われることなく三つほどシンクに放置されていて、昨日脱いだスカートがソファの背もたれにかかっているくらいだった。

     昨夜は仕事の資料が部屋中に散乱していたけれど、今日の打ち合わせのためにすべて、搔き集めて会社に持っていったから、カタログやサンプルブックなどがテーブルを占拠しているくらいだった。

     冷蔵庫の中を見られない限りは平気だ。思ったのはつかの間で、彼は構うことなく、持っていたビニール袋の中身を入れるべく冷蔵庫を開けてしまった。酒とチョコレートしか入っていない、お世辞にもいい内容とは思えない冷蔵庫を。

    「これ、今日のよるごはん?」

    「一昨日と昨日の、ごはん。買ったけど結局、食べれなくて。……明後日のごみの日まで入れておこうと思って」

     一番手前に入っていた、手つかずのコンビニ弁当を二つ手に取り、眺めた彼はふぅんとこぼしてから、やがてニヤリと笑みを浮かべた。

    「これが、いつも素敵な佐藤さんの実態ってことだね」

    「……からかいに、来たのなら帰って」

     うんざりした気持ちでカタログを所定の位置に戻し、重たいカーテンのサンプルバッグのスナップボタンを止めてサイドテーブルの収納にしまう。大工さんに特注で作ってもらった、カーテンのサンプルバッグがピッタリとおさまる特別なサイドテーブルだ。

    「帰らないよ。ユカにあいたくてきたのに」

     言葉と共に背後から抱きしめられて、ああ。と、私は諦めてしまった。

     ああ、やっぱり私はこの腕に抱きしめられるのが好きだ。もう、抵抗などできない。

     そのあとは何から何まで昔通りで、されるがままだった。抱きしめられた後はそのまま二人でキスをしながらシャワーを浴びた。いつもはここでシャワーを浴びることはないのに。いつか使うことがあったらと用意していた彼用のバスタオルが何年か越しに使われることになった。バスタオルへの想いを馳せる間もなく肌を重ねて、私は甘い微睡みに身をまかせた。
     
     今日は彼が帰るのをこっそり待つことなどできないだろう。目覚めたら独りという絶望が待っていることをわかってはいたけれど、深い眠りに落ちていくのにただ身をまかせた。

     どれだけ長く眠れたとしても三時間が限界だ。それは酔っていても疲れていても同じことで、目覚めたら帰っているだろうと思っていた彼は、眠ってしまった時と変わらない体勢で健やかに寝息をたてていた。

     時間は四時を迎えようとしている。これはまずいと私は腕からすり抜けて彼を揺り起こした。

    「ヒジリ、起きて。……帰らないと」

    「帰らない、よ」

     眠りの中ではあったけれど、はっきりとした意思を示し、腕の中に私を強引に閉じこめた。

    「ユカ、好きだよ」

     固まる私をよそに、彼はそのまま眠りに落ちていった。

     最低な言葉だと思った。

     妻子がいるくせに、好きだなんて言葉で簡単に縛りつけて。おまけにそんな言葉を吐いた腕の中で、もう一度眠ろうとしている私だって最低だと思う。

     六年間、私が待ち望んでいたものは、こんな程度のものだったのだろうか。

    「私も、ヒジリが好き」

     こんな時まで私の心は矛盾している。いつかきっと、バチがあたるだろう。わかっているくせに、甘い毒に包まれた微睡にただ溺れた。



    後編へつづく

     
     
    小説と短歌と読書だけで生きていきたいひと。 でもムリだから、お菓子とパンをつくってたべる社畜公募勢。 短歌同人誌「琥珀糖」所属

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