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短編小説|指輪は外さなかった


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    短編小説|指輪は外さなかった


    「佐伯さん、このキャプション、確認お願いします」
    「はい」
    「ありがとうございます」

    有馬冴は、拓真が書いたキャプションの一文字だけを直して、彼には何も言わずに入稿データに戻した。
    拓真がそれに気づいたかどうかは、わからない。

    打ち合わせのあいだ、二人の目が合うことはなかった。

    テーブルの上、資料を渡すとき、冴の左手と拓真の左手が、それぞれの指輪をつけたまま、触れずに交差した。

    三週間前まで、こんな距離の取り方はしていなかった。


    彼と私は、これまで何度も一緒に地方の仕事をしてきた。

    私は、有馬冴。
    グレーのスーツの袖から覗く手元で、万年筆を淡々と走らせる。
    透き通るような白肌に馴染むグレージュのストッキング、シルバーの眼鏡、そして綺麗に切りそろえたボブヘア。それが記者としての私の、崩してはならない戦闘スタイルだった。

    目の前のA4の取材ノートを、一文字ずつ丁寧な文字で埋めていく。融通が利かないと言われる私にとって、このノートに向き合う時間だけが、真実と誠実でいられる唯一の救いだ。正義感が強く、真面目。そうあり続けようとするあまり、私の心と身体は疲れ果てていた。

    彼は、佐伯拓真。
    彼が纏うのは、秋の気配をまとったような温かく深い色彩。
    柔らかくくすんだブラウンのジャケットの袖をまくり、無精髭に無造作なブラウンヘアの彼は、世渡り上手で、少しチャラそうな男という印象を周囲に抱かせる。けれど、彼がひとたびカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ瞬間、その空気は一変する。覗く瞳はいつだって、息を呑むほど真剣そのものだった。

    彼の撮る写真は、私の書く原稿の行間に、いつも静かに寄り添うような温もりを添えてくれた。
    写真と文章。一人きりの限界を知っているからこそ、二人でしか到達できない場所があるのだと信じられた。

    私たちは、言葉にせずとも互いのプロ意識を深く信用し、求めている。だからこそ、私たちの間には、誰も踏み越えてはならない境界線が引かれていた。触れれば壊れてしまうその線は、恋愛感情などというありふれた言葉より、ずっと古く、そして強固なものだった。


    あの台風の日。
    海の近くの寂れた地方で、私たちは海岸沿いに立ち並ぶ松林を取材していた。塩害で、内側から枯れかけた松だった。

    枝先はまだ、緑を保っている。けれど、容赦なく吹きつける潮風にさらされ、その足元と内奥は何年も前から静かに乾ききっていた。
    それでも、この寂れた海岸線を守らなければならないという義務感だけが、その体を支えている。終わりが遠くないことを感じながらも、松はただじっとそこに踏みとどまっていた。

    冴はノートに文字を刻んだ。
    『役目を果たすために立ち続けている』―そこまで書いて、万年筆を握る手がぴたりと止まった。インクがかすかに空白を滲ませていく。

    「冴さん、下がって!」

    突風が容赦なく海岸を叩いた瞬間、足元が大きくよろけた。
    万年筆と大切な取材ノートが手から滑り落ちそうになる。
    その瞬間、拓真の手が私の体を片手で強く引き寄せ、抱きとめた。

    「危ないっ」

    彼の大きな手が私の背中を支え、カメラを庇うように身を屈める。
    カチン、とシルバーのメガネが、彼のブラウンのジャケットのボタンに当たって小さな音を立てた。
    彼がまとうタバコの香りが潮風に混ざり、一気に胸の奥まで飛び込んでくる。

    「……すみません」
    「いや、無事でよかった。―これから雨が降りそうだな」

    そう言って離れた彼の背中を見つめながら、立ち尽くす。私の肌には、彼の温かい体温が、消えないかすかな痺れのようにいつまでも残っていた。


    台風は、予報を嘲笑うかのように早くやってきた。予定していた電車はすべて不通になり、街の機能は完全に麻痺している。スマートフォンの画面に冷たく並ぶ「運休」の赤い文字が、私たちの退路を断っていた。

    泥のついた靴のまま、辛うじて一室だけ空いていた古い温泉旅館へ駆け込んだのは、夕闇が迫る頃だった。窓の向こうには、先ほどまで撮影していたあの松林が、暴風に激しく身をよじらせているのが見える。

    「素泊まりでよろしいですか」
    「大丈夫です」

    夕食を調達しに近くのコンビニへ向かう途中で、とうとう雨が激しく降り出した。

    「ホットコーヒーでいい?」
    雨に濡れ、コンビニの寒さに身を震わせる私を見て、拓真が言った。

    「夜はカフェイン取らないことにしてるので」
    「ああ、そうだった」

    そして彼が渡してきたのは、ホットココアだった。

    「……ありがとうございます」

    受け取る手が、わずかに強張る。缶から伝わるじんわりとした温かさが、かじかんだ指先を伝って体へ流れ込んできた。

    以前にもらったものと同じだった。もちろん、あのときとは違う。
    それでも、覚えていることが、少しだけ怖かった。


    宿に戻ると、濡れた身体を拭き、湿った衣服を浴室に並べて掛ける。
    完全には乾かないかもしれない。明日は帰って仕事をしなければならないのに。私はただ、そのことばかりを考えていた。

    部屋の真ん中にある、立派な漆塗りのテーブル。その重厚な佇まいの上には、コンビニのプラスチック容器が並んでいた。
    私のヘルシーなサラダとお弁当、そしてペットボトルの水。対照的に、拓真はボリューム重視のお弁当と、缶ビール、それからタバコを買っていた。

    「帰れなくなって、大丈夫ですか?」

    「家族には伝えたよ。台風で電車が動かないから、一泊していくって。嘘はついてない」

    「うちも。大丈夫です。」

    夫には、「電車が止まったので一泊します」とだけ送った。
    画面に返ってきたのは、「了解」の二文字だった。
    その文字を見つめた瞬間、胸の奥底へ冷たい何かが沈んでいくのを感じた。


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    コンセントは部屋に一つしかなかった。私の白いスマートフォンの充電コードと、拓真のカメラバッテリーの黒いコードが、畳の上で交差した。

    仲居さんが敷いていった二つの布団は、部屋の真ん中でぴったりと並んでいる。

    「……ちょっと、離します」
    私はそう言って、彼がカメラのレンズを磨いている背中を見ながら、布団の端を両手で掴んだ。

    ずる、ずる、と畳が鳴る。
    部屋の対角線上まで引きずった。

    拓真は手を止め、振り返り、私の離した布団を見て、少し寂しそうに、でも小さく笑って言った。
    「そうだね」

    その真面目さが、かえって私の胸の奥を細く締め付けた。

    部屋の隅と隅。
    それが、私の最後の防衛線だった。

    けれどこんなふうに距離を取る前は、もっと近くにいた。


    以前、拓真の写真が編集部で揉めたことがあった。
    地元の小さな工場を取材したときの写真だった。

    作業着の男性が、工場の入口で笑っている。
    背景には古い機械が並び、午後の光が斜めから差し込んでいた。

    「これ、使う?」
    編集長が写真をめくりながら言った。
    「もう少し、わかりやすい写真ないの?」

    拓真は何も言わなかった。

    冴は机の上に置かれた写真を一枚取り上げた。
    「私は、こっちがいいと思います」
    「どこが?」

    「この人、笑ってますけど」
    冴は写真の端を指で押さえた。
    「笑ってる顔を撮った写真じゃないから」
    編集長が顔を上げる。

    冴はそれ以上説明しなかった。
    拓真も、何も言わなかった。
    結局、その写真が使われた。

    数日後、撮影帰りの電車の中で、拓真が言った。
    「よくわかったな」
    「何がですか」
    「俺が撮りたかったもの」

    冴は資料を読んだまま答えた。
    「仕事ですから」それだけだった。

    けれど拓真は、そのときのことを覚えていた。

    自分の写真を褒めてくれた人は、これまでにもいた。
    けれど、写真そのものを見てくれた人は、あまりいなかった。

    「写真って、撮った瞬間にはわからないことがあるんだよ」
    拓真がカメラを弄りながら言った。

    「そのときは何でもないと思ってた一枚が、あとになって、一番大事な写真だったって気づくこともある」

    「じゃあ、撮るときには全部わかってなくてもいいんですね」
    「そう」

    拓真はファインダーを覗いた。
    「むしろ、全部わかってたら、撮れないものもある」

    冴は少し考えてから言った。
    「写真って、撮った人の目が残るんですね」

    拓真が笑った。
    「そういうこと」

    冴は、その言葉をなんとなく覚えていた。


    拓真が冴の小さなことを覚えていたこともあった。

    夜まで取材が延びた日。締切は翌朝だった。
    冴はパソコンに向かって、何度も同じ文章を書き直していた。

    拓真がコンビニから戻ってきた。
    「はい」
    机の端に、ドリンクを置く。

    「コーヒーですか?」
    「違う」
    蓋を開けると、ココアだった。

    「なんでですか?」
    「前に言ってたじゃん。夜コーヒー飲むと眠れないって」

    冴は一瞬、黙った。
    「……よく覚えてますね」

    「覚えてるよ。そのくらい」
    拓真は自分のコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。

    「寝ろよ、とは言わないんですね」
    「言っても寝ないだろ」

    「まあ、そうですね」
    冴は少しだけ笑った。

    その夜、二人はそれ以上、何も話さなかった。
    冴は原稿を書き終えた。

    帰り際、
    「ありがとうございました」
    と言った。

    「何が?」
    「ココアです」

    「そんなことで礼言うなよ」
    拓真は笑った。

    それだけのことだった。


    食事のあと、私たちは別々に温泉に入った。

    湯上がりの廊下で、拓真と鉢合わせた。
    「あ」

    細い廊下。拓真の着崩した浴衣の隙間から、温泉の熱で上気した逞しい胸板が見えた。彼の体温が、私の白い肌にふわりと届く。

    「あったまった?」
    「はい」

    部屋に戻る前から、私たちはお互いの身体を意識してしまっていた。

    就寝前の短い時間、私たちは淡々と今日の取材を振り返り、互いの仕事を評価し合っていた。
    きっと、いい記事になる。明日は早く帰ろう。すぐにでもデスクに向かって、この仕事を仕上げよう。だから、今夜はもう早く寝よう。そういう結論に至った。

    古びたエアコンの乾いた風が、天井の近くで低く唸りを上げている。
    私は布団に潜り込み、固く目を閉じた。けれど、意識は冴え渡る一方で、眠気はいっこうに訪れてくれない。

    突然の嵐に足止めされたハプニングのせいか。それとも、仕事仲間という安全な肩書きの男と、同じ部屋にいるからか。

    自分の髪から漂う、涼しげなフローラルの香り。そこに、彼の浴衣から染み出すように広がる、乾いたタバコの匂いが混ざり合っていく。

    仕方なく起き上がり、缶ココアを手に取った。
    まだ、かすかに温かさが残っている。
    その缶を両手で包み込んだ、まさにその瞬間だった。


    突然、すべての灯りが消え去った。停電だった。
    エアコンの唸りが止まり、外の暴風雨の音だけが、薄い壁の向こうで大きく鳴り響いていた。

    私は暗闇の中でスマートフォンを探り、画面を点灯させた。
    青白い液晶の光が私の顔を冷たく照らす。夫からの『了解』の二文字がまだそこにあった。
    画面を消した指の中で、緩くなった指輪がくるりと回った。

    カチン―。暗闇を切り裂く小さな音。
    拓真がライターでタバコに火をつけたのだった。
    小さなオレンジ色の炎が、彼の横顔を一瞬だけ照らし、また深い闇に沈んだ。

    「停電ですね」

    「海が近いと、よくあるんだよな」

    「真っ暗ですし、もう寝ましょう」

    拓真はゆっくりと立ち上がり、私の布団のそばまで歩いてきて、畳の上に腰を下ろした。
    タバコの煙の、苦くて乾いた匂いが、私のすぐ近くに漂う。

    「眠れないんですか?」

    「まあな」

    しばらく、何も言わなかった。

    その沈黙の中で、彼の手が眼鏡に触れた。
    フレームがゆっくり外され、視界がぼやける。

    「ちょっと、何するんですか」

    拓真は少し黙った。

    「……なぁ」

    落ちてきたのは、聞いたこともない低い声だった。

    「俺に抱かれてみないか。仕事みたいに、相性がいいかもしれないぜ…なんてな」

    冗談の仮面を被った、あまりにも本気な誘い。
    私はその言葉を振り払った。

    「何言ってるんですか。そんなこと、できるわけないでしょう。お互いに、結婚してるんですよ」

    「そうだよな。冗談だよ」

    そのとき、ふっと電気が戻った。
    けれど、部屋が眩しい白さに満たされることはなかった。
    戻った光は寝る前の、セピア色の薄暗い間接照明だけだった。
    部屋の隅々に濃い影を残したままの、曖昧な明るさ。

    その鈍い光が、すぐ目の前にいる拓真の横顔をなぞる。眼鏡を失った私の目には、彼の表情までは読み取れない。
    私は、自分の呼吸が乱れていることに気づいた。

    電気が戻っても、部屋は明るくならなかった。ただ、二人の間にある「超えてはならない線」の輪郭だけが、暗がりのなかにくっきりと浮かび上がっていた。

    「本当に、大丈夫なんですか?」

    「何が?」

    「そんなこと、気軽に言う人だったなんて」

    彼は答えなかった。

    薄暗い光のなか、私は眼鏡を外されたままのひどくおぼつかない視界で彼を見た。

    「奥さん、気の毒だなぁ」

    拓真の気配がさらに近づき、視界のすべてが彼で埋まる。

    「メガネ取ると綺麗だ─」

    「やめてください。酔ってるんですか。ふざけないで」

    「酔ってないよ」

    「近いです」「ちょ─」

    抗議の言葉は途中で途切れた。
    眼鏡を外した、私の本当の素顔。仕事のときには決して見せることのなかった無防備な顔を、至近距離で見つめられている。

    彼の大きな手が、そっと私の頬に触れた。
    温かくて、少し乾いた手のひらの感触。―私は、それを避けなかった。

    身をかわさなかったその瞬間、初めて、自分が今何を選択しようとしているのかを突きつけられ、心臓が跳ねた。

    「こんなことして、大丈夫なんですか」

    掠れた声で訊ねる私に、拓真は少しだけ間を置いた。

    「大丈夫なわけ、ないだろ」

    低く呟いてから、彼は続けた。

    「でも、バレなきゃいいんだよ」

    彼の低い声が、私の耳元で、甘い毒のように溶けていった。

    その言葉の響きには、嘘も、取り繕うような優しさもなかった。
    大丈夫なんかじゃない。
    彼も、私も、それぞれに冷え切った日常と、世界に対する諦めを、その身体に重く抱えて生きていたのだ。

    その言葉を、拓真がどこまでの意味で口にしたのか、私にはわからなかった。

    私だって、わかっていた。
    バレるか、バレないかだけの話ではない。
    一度越えてしまえば、昨日までの生活には戻れない。
    それでも、そのときの私は、その先のことを考えたくなかった。

    そうか。バレなければいい。誰にも知られなければいい。
    世界中の誰もが、裏では、そうやって汚れて生きている。
    みんな、そうやって生きている。だったら―。

    私は今まで、何を守ってきたのだろう。
    何のために、正しくあろうとしてきたのだろう。
    その結果が、この冷え切った夫婦関係なのだとしたら―。
    私の努力は、一体、なんだったのだろう。

    バカみたいだ。もう疲れた。私も、みんなと同じことをするだけ。
    この人のタバコの香りに包まれてしまおうか─。

    けれど、『バレなきゃいい』という拓真の言葉に、私はまだ迷っていた。
    それでも私は、その言葉に縋った。

    「……他の人にも、こんなことしてるんですか?」

    「してないよ」

    あまりにも簡単に返ってきた。
    その一言が、胸の奥に残った。
    私は目を伏せた。

    「本当に、バレませんか?」

    私は左手の緩んだ指輪を強く握りしめ、次の瞬間、彼の浴衣を掴んだ。
    くしゃり、と布が鳴った。


    冷房が効き始めた空気の中で、お互いの皮膚の温度差が際立っていく。
    私の涼しげな白い肌に、彼の深く温かい手のひらが重なり、滑る。

    その熱を、私は長い間忘れていた。
    自分の身体がまだ生きていること。そして、女として誰かに激しく求められること。その二つを、否応なく思い知らされるような、恐ろしく生々しい証だった。

    「声、出しちゃダメだよ」

    古い木造旅館。廊下をパタパタと歩くスリッパの気配や、風に軋む建物の音が、暗闇の中で驚くほど近くに聞こえる。

    私は絶対に声を出さないと決め、口を固く閉じた。
    ここで声を漏らしてしまったら、私がこれまで必死に積み上げてきた何かが、木っ端微塵に砕けてしまうような気がしたからだ。

    けれど、彼は私のその頑なな「防衛」を見ていた。
    彼は私の耳元に、熱くなった呼吸を押し当てながら、わざと優しく、そして意地悪に、私の呼吸の乱れを誘うように触れた。

    何かを壊している気がした。
    何が壊れているのかは、わからなかった。
    妻としての自分なのか。記者としての自分なのか。
    それとも、これまで「正しい」と思っていた自分そのものなのか。

    私はただ、そこにいた。
    彼も、私も、言葉では説明できないものを抱えたまま。

    浴衣が擦れる乾いた音が、暴風雨の音と共に部屋に響く。
    呼吸が乱れ、声が漏れそうなった時。彼の大きい手のひらが、私の口元をそっと塞いだ。
    「……んっ」

    塞がれた手のひらの下で、私の喉の奥から、かすかな、湿った熱が漏れる。
    その音を聞き取った瞬間、彼の指先が、私の浴衣の帯を容赦なく解いた。

    私は声を押し殺すために、彼の胸に顔を埋めた。
    タバコの乾いた匂いと、皮膚の熱が、いっぱいに広がる。

    「愛してる」

    そう囁く彼の言葉を、私は信じたかった。
    仕事のパートナーとして。
    一人の女として。
    誰かに愛される人間として。

    けれど、その言葉と身体のあいだには、埋められない距離があった。
    愛という言葉を口にしながら、私たちはそれぞれ、自分の渇きを満たそうとしていた。

    彼は私を救いたかった。
    私は、愛されたかった。

    その違いに気づかないふりをしたまま、私たちは嵐の音に紛れて、何度も重なり合った。


    朝早く、台風は嘘のように去っていた。

    窓の外を見ると、澄み切った空が見えた。
    一本の松の枝が、途中から折れて、濡れた地面に落ちていた。

    青い空。強い光。昨日の嵐なんてなかったような朝だ。

    先に起きた私は、浴衣を直し、一人で温泉へと向かった。
    遠くで聞こえる波の音。鳥たちの鳴き声。美しい景色。
    海は、何事もなかったように美しかった。

    部屋に戻ると、拓真が起きていた。
    「おはよう、温泉行ってたの?」

    彼が私に近づき、昨夜の続きをするような顔で、近づく。
    その瞬間、身体の奥に冷たい拒絶が走った。

    気持ち悪い。

    それがなぜなのか、すぐにはわからなかった。

    「少しは、楽になった?」
    拓真が、いつものように笑った。

    私は動きを止めた。

    楽になった?何が。
    私の何を、知っているつもりで?
    私を元気づけたとでも思ったのだろうか。

    拓真の手が、浴衣の帯に触れる。
    私は、とっさに身体を引いた。

    「……やめて」
    自分でも驚くほど、冷たい声だった。
    拓真の手が止まる。

    昨日は、あんなに欲しかった手だった。
    なのに今は、その手が触れることが、たまらなく嫌だった。
    理由は、わからなかった。

    「……やめてください」
    きっぱりとその手を払い、シルバーの眼鏡をかけた。

    視界がクリアになった瞬間、畳の上の絡まったコードや、シワになったシーツ、昨夜の痕跡が、目に飛び込んでくる。

    私はグレージュのストッキングを履き、グレーのスーツを着た。ボタンを一つずつ留める。鏡の中に、いつもの有馬冴が戻ってくる。
    けれど、もう同じ人間ではなかった。

    昨日コンビニで買っておいた水を飲み、おにぎりを食べた。

    早く帰らなくては。
    なんなんだろう、この焦燥感は。

    昨夜のことを後悔しているのかと聞かれたら、たぶん違う。
    気持ちよかった。もう一度、彼の腕に抱かれたいと願ってしまうほどに─。
    そのことだけは、否定できなかった。だから余計に、嫌だった。

    「佐伯さん。仕事に戻りましょう」

    拓真の顔から、少しだけ笑顔が消えた。

    「……ああ」


    「チェックアウトをお願いします」

    「電車、動くみたいで良かったですね」

    私たちの様子を見て、仲居さんが微笑みながら言った。

    「はい、ありがとうございます。朝早くにすみません」

    足早に駅へと向かった。

    朝から電車は動き始めていた。
    駅のプラットフォームで、並んで電車を待つ。

    ふと自分の左手を見る。指輪がある。
    拓真の左手にも、指輪がある。
    昨夜、どちらも外さなかった。
    それぞれの家庭につながる銀色の輪が、朝の光を反射していた。

    ガタゴトと、電車は定刻通りに動き出す。
    車窓から差し込む朝の強い光が、私の肌を白く照らした。

    車窓から、海沿いの松が見えた。
    ところどころ、茶色く変色している。

    「松って、強いと思いますか?」冴が聞いた。

    「強いだろ。海沿いで、あれだけ風にさらされても立ってるんだから」

    「でも、枯れてるんですよ」

    「そりゃ植物だからな」

    「そうじゃなくて」冴は窓の外を見た。
    「枯れているのに、立っていることもあるんです」

    拓真は、少しだけ黙った。

    「……それ、強いって言うんじゃないのか?」

    「強いように見えるだけかもしれません」

    冴はそう言って、また窓の外を見た。

    私たちは、仕事の話をした。
    いつも通り。まるで何もなかったように。
    その完璧な日常への復元力が、恐ろしかった。

    窓の外を、人々が歩いている。
    サラリーマン。買い物袋を下げた人。踏切。学校へ向かう子ども。
    街も、世界も、他人の正しい生活も、何事もなかったかのように当たり前に動いている。

    冴は窓に映る自分の顔を見た。
    眼鏡をかけ、グレーのスーツを着て、指輪をしている。どこから見ても、いつもの自分だった。

    けれど、もう戻れないところがあることも、わかっていた。
    私はもう、あの嵐の前の、正しい私には戻れない。

    指先を見る。
    昨夜、彼の浴衣をつまんだ指。そこにはもう、何の温度も残っていない。
    それなのに、身体の奥が、あの乾いたタバコの香りと、手のひらの熱を、今も狂おしく求め、疼いていた。

    けれど私は、その渇きを愛とは呼ばないと、決めた。


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    東京に戻って十日ほどした頃。
    記事の初稿が上がった。

    松の写真に添えるキャプションを、拓真が書いてきた。
    「潮風に耐えながら、役目を果たし続ける松」

    冴は、その一文をしばらく見つめた。
    そして、

    「耐えながら」を消して、「枯れながら」に直した。


    あの日。

    私の中の、あの「正しく、整っていたはずの生活」だけが、あの嵐の夜に置き去りにされ、永遠に止まってしまった。

    私たちは、二度とあの一線を越えない。
    仕事の相棒として、これからも顔を合わせ、信頼し合い、普通に言葉を交わすだろう。だからこそ、あの「たった一度きり」の嵐の夜が、日常の隙間で一生消えない棘となった。

    夫に「おかえり」と言い、いつもの生活を送る隙間で、皮膚の底から、あの嵐の夜の畳の擦れる音と、私の口を塞いだ彼の温かい手のひらの熱が、毒のように疼き続けるのだ。

    私は、あの夜のことを、まだ、うまく説明できない。

    畳の匂い。扉の向こうを誰かが歩く音。エアコンの風。
    タバコの匂い。浴衣の擦れる音。自分の呼吸。

    声を出さなかったのは、知られたくなかったからだ。
    夫にでも、仕事を失うことにでもない。もっと単純に。
    それを聞かれたら、「正しい自分」が本当に終わってしまう気がしたから。

    汚されたかったのかもしれない。
    でも、その言葉だけで自分を説明する気にはなれなかった。

    疲れていたのかもしれない。
    壊れたかったのかもしれない。
    女として求められたかったのかもしれない。
    ただ欲しかったのかもしれない。

    どれも少しずつ本当で、どれも全部ではない。
    だから私は、その感覚を答えにはしなかった。


    拓真が「少しは楽になった?」と聞いたとき。私の中で何かが冷えた。
    一晩、身体を重ねただけで、彼は私を「助けた」ことになっている。

    何年もかけて積み重ねてきたものも。これから抱えていくものも。
    私の夫も。私の生活も。私自身の弱さも。
    彼は何一つ知らないのに。

    結婚は、身体だけを受け止めることではない。
    一晩だけ誰かの隣にいることでもない。
    相手の弱さや面倒な部分。老いていく時間。その人の過去と未来。
    そういうものまで含めて、その人の人生に関わり続けることだと、私は思っていた。

    だから。彼が私を「救われた女」として理解していることが、気持ち悪かった。私は、彼に救ってほしかったわけじゃない。


    拓真は、昔からそういうところがあった。
    目の前で誰かが困っていると、放っておけない。
    仕事でもそうだった。

    取材相手のために予定を延ばす。
    誰かが困っていれば、自分の時間を使う。
    それを恩着せがましくすることもない。
    だから私は、そういうところを信用していた。

    けれど。優しさは、ときどき境界線を越える。
    「自分なら、この人を助けられる」そう思った瞬間から。
    相手が何を望んでいるのかより、自分がしてあげたいことのほうが大きくなる。

    あの夜の拓真は、たぶんそれだった。
    私を欲しかった。それと同時に、私を救ったつもりだった。
    その二つは、彼の中では矛盾していなかった。
    だからこそ、私は気持ち悪かった。

    私の人生そのものを引き受ける覚悟もないくせに。
    たった一晩、私の身体を受け止めただけで。私を救ったつもりになっている。


    それでも私は、自分を被害者にはできなかった。
    私は、自分の意思で手を伸ばした。自分の身体で欲しがった。
    そして、自分で、境界線を越えた。

    だから、その泥を、罪悪感を、抱えて生きていくしかない。
    「誰かに壊された」と言えば、少しは楽になるのかもしれない。
    でも、そうはしなかった。

    鏡に、自分の顔が映る。
    もう、あの嵐の前の私には戻れない。

    私は、自分を裏切った。
    そのことが、きっと、一番許せなかった。

    それでも。

    欲しかった。嫌だった。
    もう一度触れてほしい。もう二度と触れてほしくない。

    そのどれも、本当だった。
    そのうちの一つだけを選んで、残りを嘘にするつもりはなかった。

    その渇きは、愛ではない。
    それでも、もう一度触れたいと思った。自分の欲望を、なかったことにはしない。
    でも、その欲望を「愛」と呼んで誰かを傷つけることもしたくない。

    その二つを、同時に抱えて生きていくと、決めた。


    俺は、写真と文章が一体になったときが、一番いい仕事をしたと思う。

    写真だけでも、いい写真はある。
    文章だけでも、いい文章はある。
    でも、一人では届かないところまで、二人なら届くことがある。

    冴さんは、クソ真面目な女だ。でも、いい文を書く。
    正しいだけじゃない。読んだあとに、まだ世界を信じてもいいような気になれる。だから一緒に仕事をするのが楽しかったし、尊敬もしていた。

    でも最近、かなり疲れているように見えていた。
    無理してるんじゃないかと思った。

    そんな時、あの海の近くでの取材が入った。

    予想外に早く台風が来て、その日に帰れなくなった。
    宿も、一部屋しか空いていなかった。

    最初から下心があったわけじゃない、本当だ。

    彼女が布団を部屋の隅に引きずっていくのを見た。
    その必死さが、なんだか愛おしくて、少し切なかった。

    温泉から上がった彼女は、いつもとは違う顔だった。
    浴衣姿で上気した、いつもとは違う無防備な素顔を見たとき、真面目に、綺麗だと思った。

    停電した時。彼女の布団のそばに歩み寄った。
    落ち込んでいるなら、励ましてやりたいと思った。
    俺なら、元気にしてやれるんじゃないかと思った。

    だから、冗談で言ってみた。「抱かれてみるか?」と。
    断られると思っていた。

    だが──意外な反応だった。
    彼女の手が、俺の浴衣を掴んだ。

    あの瞬間、俺にはわからなかった。
    彼女が、何を考えていたのか。
    俺はただ、自分なら彼女を楽にできると思った。

    翌朝、彼女の顔色が少しよく見えた。
    だから、ほっとした。
    よかった、少しは元気になったんだと思った。

    でも。
    東京に戻ってからの冴さんは、前よりずっと遠い。
    仕事の話をする声は淡々とした敬語で、打ち合わせ中、目が合うことすらなくなった。前は、こんな距離の取り方はしなかった。

    俺は、あの夜、彼女を救ったと思っていた。
    その気持ちに、嘘はない。

    最初から、彼女を抱こうと思っていたわけじゃない。
    ただ、疲れている彼女を見て、自分なら何かできると思った。

    けれど、彼女に触れたとき。
    「救いたい」だけではなかったことを、俺自身が一番よくわかっていた。

    彼女のあの、冷徹なまでに完璧な敬語を聞くたびに、俺のほうが、胸の奥を激しく掻きむしられるような渇きを覚えている。

    一度きり。バレなきゃいい。そう言ったのは俺なのに。
    今は、俺のほうが、あの夜から抜け出せなくなっている。


    冴は、左手を見る。
    指輪がある。

    あの夜も。
    朝も。
    今も。
    外さなかった。

    それが何を意味するのか、まだわからない。

    結婚を守りたいのかもしれない。
    守れなかったことを、忘れたくないのかもしれない。
    自分がしたことを、自分自身から隠したくないのかもしれない。

    あるいは。
    ただ、外す理由がなかっただけなのかもしれない。

    だから、答えにはしない。

    指輪は指にある。

    それだけだった。







     
     
     
    夫婦で飲食店を営みながら、実体験をもとに創作と記録のあいだを綴っています。 スキとフォローの返しはしておりません、すみません。 INTP-T / Cool Winter(旧名:深海のアンコウ女)

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