
『新羅』という國
『新羅』についても、中国史書にどう書かれているかを、調査してみます。【三韓の位置⑥ 新羅國と好太王碑】の続きですが、これは百済を中国史書から検討した際に同じく確認したものです。
他にも【『百済』という國】【『高句麗』という國】と「三国時代」について再検討をしています。
【三国志まで】
この中には「新羅」は出てこない。
【晋書】
晋書では2ヵ所で出てくるのだが、これは全く別の場所である。
晉安郡〈太康三年置統縣八戶四千三百〉
原豐新羅宛平同安候官羅江晉安溫麻
「晉安郡」とあるが、これは今の福建省あたりの話である。
登收合餘兵退據胡空堡遣使齎書加竇沖大司馬驃騎將軍前鋒大都督都督隴東諸軍事楊定左丞相上大將軍都督中外諸軍事楊璧大將軍都督隴右諸軍事遣沖率見眾為先驅自繁川趣長安
登率眾從新平逕據新豐之千戶固
使定率隴上諸軍為其後繼璧留守仇池
又命其并州刺史楊政冀州刺史楊楷率所統大會長安
萇遣其將軍王破虜略地秦州楊定及破虜戰于清水之格奴阪大敗之
登攻張龍世於鴦泉堡姚萇救之登引退
萇密遣其將任瓫宗度詐為內應遣使招登許開門納之登以為然
雷惡地馳謂登曰
「姚萇多計略善御人必為奸變願深宜詳思」
登乃止
萇聞惡地之詣登也謂諸將曰
「此羌多奸智今其詣登事必無成」
登聞萇懸門以待之大驚謂左右曰
「雷征東其殆聖乎!微此公朕幾為豎子所誤」
萇攻陷新羅堡
萇撫風太守齊益男奔登
登將軍路柴強武等並以眾降於萇
登攻萇將張業生於隴東萇救之不克而退
登將軍魏褐飛攻姚當成於杏城為萇所殺
こちらには「新羅堡」と出てくるのだが、この話は「秦州」などが出てきており、中原西部の話になる。
【宋書】
この中で出てくるのは「日本からの使節」の中です。
倭國在高驪東南大海中世修貢職
高祖永初二年詔曰
「倭讚萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」
太祖元嘉二年讚又遣司馬曹達奉表獻方物
讚死弟珍立遣使貢獻
自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
表求除正詔除安東將軍倭國王
珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔並聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以為安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故
并除所上二十三人軍郡
濟死世子興遣使貢獻
世祖大明六年詔曰
「倭王世子興奕世載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職
新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」
興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰
「封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋涉山川不遑寧處
東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歲
臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道逕百濟裝治船舫而句驪無道圖欲見吞掠抄邊隸虔劉不已每致稽滯以失良風
雖曰進路或通或不
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣
居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷
至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧
若以帝德覆載摧此強敵克靖方難無替前功
竊自假開府儀同三司其餘咸各假授以勸忠節」
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
『倭』の後に『百済』とありますが、どうもこれは九州の小国群を指しているようです。これを『倭』と見ている中国からは『朝鮮百済』は『慕韓』と書かれており、『新羅』『秦韓』とありますが、これは北方ではなく、朝鮮半島南方にある小国を指しています。この正体は、『金印』で判りますが、
「魏率善韓佰長」銅印:朝鮮半島慶州でAD3世紀頃に弁韓の豪族の首長が官爵を受けている(意味は「魏として(弁韓人=倭人が)韓(辰韓人)を良く管理しているので佰長と認める」です)。
「晉率善穢佰長」銅印:朝鮮半島浦項市でAD4~5世紀に、やはり弁韓の豪族の首長が官爵を受けている(意味は「晋として(弁韓人=倭人が)濊(濊人)を良く管理しているので佰長と認める」です)。
という地域の小国の話ですね。
それに対して中国の言葉「臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道逕百濟裝治船舫而句驪無道圖欲見吞掠抄邊隸虔劉不已每致稽滯以失良風」に出てくる『百済』はどうも『遼西百済』を指しています。
【南斉書】
此方も同じく、日本の使節の中だけですね。
倭國在帶方東南大海島中漢末以來立女王
土俗已見前史
建元元年進新除
使持節
都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事
安東大將軍
倭王武號
為鎮東大將軍
【梁書】
梁書には、「新羅」の位置がしっかりと書かれています。
書かれているのは2ヵ所。
新羅者其先本辰韓種也
辰韓亦曰秦韓相去萬里傳言秦世亡人避役來適馬韓馬韓亦割其東界居之以秦人故名之曰秦韓
其言語名物有似中國人名國爲邦弓爲弧賊爲寇行酒爲行觴
相呼皆爲徒不與馬韓同
又辰韓王常用馬韓人作之世相係辰韓不得自立爲王明其流移之人故也
恒爲馬韓所制
辰韓始有六國稍分爲十二新羅則其一也
其國在百濟東南五千餘里
其地東濱大海南北與句驪百濟接
魏時曰新盧宋時曰新羅或曰斯羅
其國小不能自通使聘
普通二年王募名秦始使使隨百濟奉獻方物
『梁』の時代ですので、AD502~557年の話ですね。
地理として、
①百済の東南五千余里
②東は大海に面している
③南は高句麗に接しており、北は百済に接している
④魏代では『新盧』という國号
⑤宋代では『新羅』あるいは『斯羅』という國号
⑥AD537年に百済に随行して初めて朝貢
と書かれています。
⑥で「初めて」というので分かるのは、「新羅」と名称の國自体は日本に随行して宋代・南斉代にも来ていますので、この『新羅』はそれとは別の國だという事です。
また、①②③が位置として重要ですね。
①の「百済の東南五千余里」は、"『百済』と『新羅』"が朝鮮半島にある"『朝鮮百済』と『朝鮮新羅』"の事だとすると、方角も成立しませんし距離も近すぎます。ですので、この『百済』は『遼西百済』だと判ります。この当時の『百済』とは遼西から以北の主に鮮卑系の部族の事を言っています。
かといって『遼西百済』と『朝鮮新羅』では方角は合いますが距離はまるで合いませんし、北が『遼西百済』に接するような位置には間に高句麗があるのでなりませんし、その高句麗が南になる位置にはなりません。
ですので、ここで書かれている『新羅』というのも『北方新羅』の事だと判ります。

②で東沿岸沿いの何処かにあったのは確かです。
そして③は「南北接」で説明されていますので、「南北與句驪百濟接」ですので、説明にある先にあるのが「南に『高句麗』に接し」ていて、「北に『百済』が接し」ています。『朝鮮新羅』であると、東は海ですが、南はやはり海か、あるいは倭・加羅・任那等になりますので、『朝鮮新羅』だと③の場所説明も成立しません。
これが「北與句驪 南與百濟接」と書かれていたなら違っていたのですが。
『梁史』ではAD502年までは「百濟亦據有遼西晉平二郡地矣自置百濟郡」と遼西地域にあったと書かれています。更に、朝鮮半島の『百済』は日本の使者としてあり、そこに『新羅』も入っていますが、その使者を送った時期は中大通六年(AD534年)・大同七年(AD541年)であり、⑥のAD537年ではありませんので、「別の國の使者」です。また、その頃の『朝鮮百済』は『慕韓』という國号で中国史書にはあります。
つまり、この「⑥AD537年に百済に随行して初めて朝貢」で出てくる『百済』は、やはり『遼西百済』という事です。
そうすると、よく聞く「高句麗の拡大」という自体が『三国史記』によるものですので疑わしいという話になります。Wikipediaなどでも高句麗は北にある扶余まで高句麗の領域としているのだが、

しかし、改めて中国史書を確認すると、扶余は慕容部に支配されたという事は書かれているが、高句麗が扶余を占領したという記述は特に見つからない。
ということは、これも『三国史記』による歪曲創作であり、実際は満州から長白山の北部は『遼西百済』、つまり鮮卑系が支配していた地域だったのではないでしょうか?(遼東半島西側は営州で、ここも支配していなかった事は判っている)

それで『高句麗の土地』を考えてみると、「定説とされている高句麗の面積」の約2/3程度となる。また、これだと、なぜ平壌に都を移したかもよく分かりますね。常に北方、遼東の地域は古くは周代・秦代から、慕容部や前燕・後燕・北燕などに近く、魏に都を移転させられ、と高句麗の領土の中央だからです。
もう1ヵ所あるのが、
冬十一月百濟新羅國各遣使獻方物
これが「普通二年」ですのでAD521年の事になります。
これはやはり『遼西百済』の事で、⑥「AD537年に百済に随行して初めて朝貢」という事は、このAD521年は貢物だけを遼西百済に渡していたという事ですね。
そもそも、この時代だと『朝鮮百済』は中国からは『慕韓』と呼ばれていたようですし。
【陳書】
これは4か所に「新羅」は出てくる。
秋七月景午輿駕親祠太廟
戊申新羅國遣使獻方物
壬戌立皇弟伯智為永陽王伯謀為桂陽王
光大2年ですからAD568年の事ですね。
六月戊子新羅國遣使獻方物
辛卯大雨雹
乙巳分遣大使巡行州郡省理冤屈
戊申車騎將軍開府儀同三司章昭達進號車騎大將軍安南將軍廣州刺史沈恪進號鎮南將軍
これは太建2年ですのでAD570年の事。
五月戊申太白晝見
辛亥遼東新羅丹丹天竺盤盤等國並遣使獻方物
これは太建3年ですのでAD571年の事。
秋七月戊戌新羅國遣使獻方物
乙巳以散騎常侍兼吏部尚書袁憲為吏部尚書
これは太建10年ですのでAD578年の事。
これですが、こちらは朝鮮半島南東部の『朝鮮新羅』でしょう。
というのも、
AD551年に朝鮮百済と朝鮮新羅が同盟し、高句麗を攻撃し漢江周囲まで押し戻し、漢城(今のソウル)を朝鮮百済の支配下とします。占拠した地を考えると、正面から戦っていたのは朝鮮百済の戦力ですね。
しかし、AD553年に新羅は朝鮮百済を裏切り、朝鮮百済を救援するとして漢江下流域に入り、高句麗との戦いで疲弊した朝鮮百済を攻撃して漢江域6郡をも占拠します。西海岸を初めて手に入れた朝鮮新羅は中国に独自に使者を送るようになり、高句麗や朝鮮百済を攻める事を唆します。
という歴史があるからです。
ここで初めて、日本が関与をしない朝鮮新羅として独自な使節が出てきます。今の定説で言われる『新羅』が中国史書の中に出てくるのが、最古で日本の使者の随行としてだとAD451年、単独の使者だとAD568年となります。
困った事に『百済』にしろ『新羅』にしろ、同じ名前で複数の地域にあるのでややこしくなっています。
【消えた『北方新羅』】
すると、北方にあった『新羅』はいつ消えたか?高句麗に吸収されたか?です。
『中原高句麗碑』というのは今の忠清北道にある石碑であり、AD474年に高句麗がここまで南下し百済を侵略していたという事です。これに新羅は協力していたことが記録されています。
また、「AD537年に百済に随行して初めて朝貢」というのもあるので、このAD537年までは『北方新羅』は存在していたようです。
ただ、南下したのは、AD400年に高句麗により追い払われた『濊貊新羅』ですので、簡単に考えれば「高句麗の一地方となって吸収されて消えた」という可能性が高いのではないかと思います。
偽史書『三国史記』にモデルがあるとすると、その中に書かれている内容であれば、
・AD480年:靺鞨が北部へ侵入
・AD481年:高句麗と靺鞨が侵入
とあるのですが、このAD480~481年頃に高句麗と靺鞨が戦いになり、その戦場が『新羅國』を挟んだものだと考えられます。これは続きに「百済と伽耶が援護をしてくれたので撃退した」とあるのですが、思うに、元は「『倭(濊貊)』が援護して高句麗を撃退」だったのではないかと思います。
『三国史記』を見ると「高句麗は靺鞨を攻撃して支配下においていた」とあるが、その続きにある「靺鞨の中でも西端に位置した粟末靺鞨のみは高句麗の支配に服さず」という偽史は、これをモデルにして歪曲・創作しているのではないでしょうかね。
これ以降に出てくるのが「AD537年に百済に随行して初めて朝貢」なのですが、これが「高句麗に随行して」ではないので、AD481年で勝ったのは靺鞨側なのでしょう。
それ以降はどうだったかは、まだ見つけていません。
ちなみに、馬韓や辰韓は東晋に朝貢をしています。
馬韓は、AD280年、281年、286年、287年、289年、290年、401年、402年と晋に朝貢している。辰韓は、AD280年、281年、286年に朝貢しています。
ここで判るのは、『馬韓』というのはAD402年までは、『辰韓』はAD286年までは存在していた事は確かという事です。
三韓
韓種有三
一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓
辰韓在帶方南東西以海爲限
馬韓居山海之間
(中略)
武帝太康元年二年其主頻遣使入貢方物七年八年十年又頻至
太熙元年詣東夷校尉何龕上獻
咸寧三年復來明年又請內附
辰韓在馬韓之東
(中略)
武帝太康元年其王遣使獻方物
二年復來朝貢七年又來
この「馬韓はAD402年までは朝貢が確認できる」「辰韓はAD286年までは朝貢が確認できる」というのは、ある出来事に符合します。
・「辰韓はAD286年までは朝貢が確認できる」
AD246年に東沃沮まで逃げた高句麗。AD247年には魏に臣従し元の位置に戻るが、東沃沮に残った高句麗人が國を立ち上げています。
この高句麗人の國の立ち上げがAD286年以降、つまり魏の滅亡以降であり、魏の支配から抜け出せたと思った東沃沮に残っていた高句麗人が北東沿岸部の辰韓をある程度支配してしまったのでは?と思います。
ここから、『北方新羅』こと「新盧国」を興したのは、AD286年までは「馬韓」に随行して晋に朝貢していた「辰韓」が消えたAD287年頃に消えるのですが、その朝貢を始めたAD280年頃ではないかと推測されます。また、この「新盧国」を「新羅」あるいは「斯羅」と称したのはAD342年頃です。
・「馬韓はAD402年までは朝貢が確認できる」
これは高句麗の南下ですね。AD407年には臣従していた高句麗を支配していた後燕が滅亡し、高句麗に好意的な北燕になります。そのため、後燕が支配し、管理は高句麗に任せていいた馬韓地域を、高句麗が併呑し自領地とするのを北燕が許可をしたのではないか?と思います。
逆に言えば、それまでは、AD385年の高句麗の南侵もあくまで「後燕の指示によるもの」であり「後燕の領土である馬韓を通って」のものでしかない、という事です。
ここでもう1つ認識を改めなくてはいけないのは、弁韓は別に中国に朝貢をした記録はないという事です。
「三韓」とあるが、辰韓は馬韓に従属しており、その支配(管理)者も馬韓である事は他の史書にも繰り返し記録されています。
しかし、弁韓については馬韓や中国などに従属していた事は書かれていないのです。
「弁韓は馬韓から出てきたのだろう」という事は書かれているが、その生活文化が大きく違い、別の民族と考えた方が整合が取れます。
『馬韓』は茅葺の墓のような家屋だった事も書かれており、そこから分かれた『辰韓』も似たような家屋でしょう。それに対して『弁韓』地域は高床式の木造建築があった事が書かれています。
文化度合いが明らかに弁韓(そして日本)の方が高いのですね。