メインコンテンツへスキップ
見出し画像

小説「アルバトロスの伝言」連載第18回(最終回)

     佐和子のもとに英恵から電話があったのは、この日から三日ほど経ってからだった。言いたいことは山ほどあるものの、いったい何から言えばいいのか。佐和子は混乱していた。
    「修ちゃんは?」といきなり英恵が聞く。
    「知らないわ。英恵のほうが知ってるはずでしょ」と佐和子は固い声で返した。
    「佐和子!」と英恵が大きな声を上げた。佐和子は受話器を耳元から少し離した。

    「女だわ。修ちゃん、女と逃げたのよ。たぶん銀座の女」
     今さら修平に新たな女性が出来たからと言って、佐和子はまったく関心が持てなかった。
    「佐和子、探して、お願い、私、困るわ」
     英恵は本当に修平が好きなのだ、と佐和子は思った。修平の女性関係に目くじらをたて、嫉妬の炎を燃やし、わざわざ妻である自分に連絡をとってまで事の展開を望む。その原動力は愛情以外のなにものでもないだろう。一方で佐和子の中には、修平に対する愛という原動力が皆無である。最初から持ったことがない。だから気持ちが動かない。嫉妬も、哀しみも、嘆きも、原動力がないことには動くはずがないのだ。
    「英恵、悪いけど、私はいいわ。彼を追う気はないから」
    「私だって、もういいわよ」
     あっさり英恵が引いて、佐和子はちょっと肩透かしを食った。
    「でも、修ちゃんに貸したお金は返してもらわなきゃ」
    「貸した?…って修平さんがあなたにお金を借りたの?」
    「そうよ、一千万」
    「一千万円?」
     佐和子はいつもの英恵の悪い冗談だと思った。そんなものに付き合う気はさらさらない。
    「だったら本人に請求してちょうだい。悪いけど切るわ」
    「佐和子、大変なことになっているかもよ。修ちゃん、もう一文無しよ」
     昔からわあわあといろいろなことを大げさに騒ぐ英恵であるが、なんとなくその口調が、いつもの人を食ったような話しぶりではない。英恵が続ける。
    「修ちゃん、会社、どうなったかしら?」
    「え?」
    「まだ会社に籍があるのかしら」考え込むようにいう英恵の言葉に、佐和子の心臓がとくんと鳴った。
    「それ、どういう意味?」
    「修ちゃんねえ、会社のお金に手をつけてると思うわ」
     思いがけない英恵の言葉に、佐和子は言葉を失った。

     柳田雪子から連絡を受けたとき、佐和子は判決を聞くような気分で受話器を取った。
    「佐和子さん、お元気?」という柳田夫人の甲高い声がなんとなく不吉な予感をあおる。
    「大貫がなにかご迷惑をおかけしたのではないですか?」と佐和子は自分から尋ねた。
    「佐和子さん、何か聞いてるの?」
    「お恥ずかしいことに、大貫とはもう長い間、夫婦として生活しておりません。ただ知り合い…いえ、大貫が一緒に暮らしていた女性から、もしかしたら最近会社に行っていないかもしれないと連絡を受けまして…」
    「だったら話は早いわね。ちょっと待ってちょうだい。主人に変わるわ」
     柳田平八が電話に出たものの、込み入っているから直接話したいと言われ、佐和子はすぐに柳田家に向かった。

     和風に設えた柳田家の冠木門をくぐったとき、佐和子は汗びっしょりになっていた。
     インターホンを押すと「はい」とすぐにドアを開けてくれた柳田雪子が穏やかに迎えてくれる。とりあえず成城の駅前で求めた焼菓子を差し出し、佐和子は応接間に通された。
     待ち受けていた柳田平八は大変厳しい表情である。修平がとんでもないことをしでかしたのかもしれない、と佐和子は覚悟を決めた。
    「大貫くんは家に帰っていないそうだね」という柳田の声は佐和子にはやさしい。
    「どこにいるか、心当たりはないかね」
    「申し訳ございません。決まった女性がいたようですが、どうやら最近になって別れたようで…」
    「彼のご両親は健在だったね」
     健在ではあるが、実家を処分して伊豆の老人施設に入所させた段階で、修平はあたかも自分の義務は果たしたとばかりに、一度も両親を訪ねようとしていなかった。行ったところで泊まる部屋もない。修平が今、伊豆にいるとは考えにくかった。
    「少し困ったことになっているんだ」と柳田は言いにくそうに切り出した。

     一時間あまりかけた柳田の説明によると、社内のパソコンの全面入れ替えに関して、修平が機種の選定に携わったのだが、その金額について業者と癒着して二重価格を設定し、差額を横領したという。もちろん多額の贈賄も受けていた。
    「それだけならまだしも、ついに代金の支払いも滞ったのだ」業者からの申告により、初めて事が明るみに出た。修平は即座に行方をくらませた。すると彼が町の金融業者にも借金があることも判明した。
     いったい修平はなぜそんなことに手を染めたのか…。佐和子は柳田に頭を下げた。
    「本当になんと申し上げればいいのか…とんでもないことを…」
     柳田は「本当は最後まで君には言いたくなかったのだ」と佐和子に告げる。「言えば君を苦しめることになる。できれば彼と話し合って、早く始末をつけるように説得しようと思った」
     しかし、柳田からの申し出に修平は応じることなく、音信不通となったという。
    「ここまできてしまうと、私にできることは、せめて彼を依願退職にして、退職金から少しでも返済してもらうしかないのだが」
    「返済」という単語が出て、佐和子は緊張した。そうか、横領したお金を夫は返済しなければならないのだ。
    「会社としてもできるだけ穏便にことを終わらせたい。彼を、業務上横領などで告訴することはしたくないと思っている」
    「告訴…」
     佐和子はおそるおそる聞いてみた。
    「あの…大貫が返済しなければならないのは、どれぐらいなのでしょうか」
     柳田は口ごもった。
    「私にも少しは貯金がございます。いったいどのぐらい返済すれば…」
    「簡単に返せる金額ではないよ…三億だ」
     佐和子は一瞬言葉に詰まった。三億円。そんな大金を修平が使いこんだというのか。
    「いったい大貫さんは何にそんなに使ったんでしょうねえ」と雪子が途方に暮れたようにつぶやく。
     考えてみれば修平の生活は本当に派手だった。贅沢な生活習慣が身に付いていて、気に入ったものがあれば、着るものも装飾品も金に糸目をつけずに手に入れているようだった。女性のいる店にも毎晩のように繰り出していたようだと柳田が明かす。手取り額のほとんどすべてを自分の小遣いにしていた修平であるが、あの生活ぶりではいくらあっても足りなかったのだろうと、佐和子はあらためて妻として無責任な自分を恥じるばかりであった。

     帰宅してから、佐和子はいったいどうすればいいのか、まるで知恵が湧かなかった。三億円という大きな金額が佐和子に襲いかかる。しかし、返済しなければ、修平は業務上横領で告訴される。そうなると、三人の子どもたちの父親が前科者になるのである。
     自分は離婚すれば他人になることができる。しかし、子どもにとっていつまで経っても父親は父親である。夫婦の縁を切ったからといって、血縁が切れることはないだろう。佐和子は一睡もせずに丸一日考えて、遺産相続のときに世話になった弁護士の結城雅夫に連絡をとった。

     結城雅夫に会いにいく前日、佐和子はある決心をして、子どもたちを呼んだ。子どもたちは佐和子が離婚の決心を固めたのだろうと、と予想してリビングに集まっていた。
     佐和子は、修平が会社のお金に手をつけたこと、返済しなければ修平は告訴されること、自分は妻として責任を取るつもりであること、財産はすべて失うことになること、などをかいつまんで話した。そして、自分が修平と離婚するつもりであることも打ち明けた。陽子は泣き始めたが、龍之介は冷静で「この家を売って返すしかないんだね。ママはパパを助けるつもりなんだね」と言ってから「大丈夫。なんとかなるよ。理佳子の大学の学費は長男である自分がなんとかするから」と言った。
     龍之介は来年の春から建設会社への就職が決まっている。
     理佳子は「私は大学に行かないで、レストランで働く」とがんばったが、
    「大学を出てからでも遅くないよ。おじいちゃまとおばあちゃまのためにも、理佳子はちゃんと勉強して」という兄の言葉になんとか納得した。

     すべてを失う。それも修平のために。それがどれだけ大変なことなのか、佐和子には見当もつかない。ただ、重信と志津子が遺してくれたものを、自分は子どもたちに受け継がせることができないという情けなさだけは、佐和子を支配した。修平との離婚を先延ばしにして、親の財産を食いつぶしながら自分の足できちんと立つことから逃げていたから、こんなことになった。子どもたちをまだ独立もさせていないのに、今の佐和子を見たら両親は何と言うだろう。
     家を売り、資産を処分することが正解なのか、佐和子にはわからない。しかし、今の佐和子は、そうせずにはいられなかった。

     結城雅夫の事務所で、結城は開口一番「お父様が心配なさった通りになりましたね」と言った。その通りであった。重信の不安はまさに的中したのである。
     由美子からもその指摘は受けていた。どうして強引に離婚させなかったのか、私が悪いと由美子に泣かれたとき、佐和子は、自分がいかに周囲に心配をかけてきたかを思い知り、またあまりにも無知だった自分を呪った。
     しかし、今、それを悔いてみても遅い。もう後戻りはできない。
    「あなたが責任を取るおつもりなのですか?」と結城の言葉が佐和子に響く。
    「あなたがご両親から受け継いだ財産が、すべてなくなるんですよ」
     佐和子はしっかりと「はい」と答えた。
     このような事態を招いた自分の責任は大きい。結論を先延ばしにして、都合のいいように修平を野放しにした。見なくてすむことは見ないでおこうという事なかれ主義が、結局は子どもたちを苦しめ、自分の財産を失うことに繋がった。佐和子は今ほど、自身の決断力のなさ、実行力の希薄さを思い知ったことはなかった。自分が妻として何もしなかったことが結果として修平を追い詰めたのだ。修平を前科者にしたまま、知らん顔をして今の生活を続ける度胸は佐和子にはなかった。
     岸野を裏切った罪、修平を子どもたちの父親にした罪、両親を悲しませた罪、離婚しなかった罪…。佐和子が犯してきたたくさんの罪が、今、佐和子を罰しようとしているのだと思う。
    「わかりました。では、私が会社との間に立ちましょう」という結城の言葉を聞いて、佐和子は頭を下げた。
    「それからもうひとつ、確認しておくことがあります」と結城が続ける。
    「あなたはこの先もまだ、結婚生活を続ける意思がありますか?」
     佐和子は首を横に振りながら、結城に向かってきっぱりと言った。
    「離婚したいと思います。この先、二度とあの人に会うつもりもありません」
    「では、その件でもお任せいただけますね」と結城に確認されて、佐和子は面談を終えた。

     さすがに蛇の道は蛇である。結城はすぐに修平を見つけだし、連絡をとった。
     英恵の読みは半分当たり、半分はずれていた。彼は銀座ではなく、横浜の伊勢佐木町のクラブで働く二十代の女性のマンションに転がり込んでいた。やはり生まれ故郷に帰ったのだ、と佐和子は修平の心のよりどころを思った。修平はすでに夜の商売に入っており、薄暗いネオンの下で、その表情は水を得た魚のようだったと結城から聞き、佐和子は少しほっとした。
     修平の退職届は受理され、退職金は返済の一部にあてられるように処理された。
     会社には告訴されず、佐和子が残りの借金をすべて支払うことになると聞いて、修平がにやりと笑ったとき、結城雅夫は、この男は自分を省みることがないまま一生を終えるのだろうと思った。
     離婚は、思いのほかすんなりと成立した。二十七年に及ぶ結婚生活だった。

     それからの半年はばたばたと慌ただしく過ぎていった。車も骨董も着物も絵画も、売れるものはすべて売り、思い出の品もあまり迷わずに処分した。もうゴルフをすることもないだろうと、クラブも処分してしまった。経済的にも気持ちの上でもそんな余裕はとてもない。もちろん中井国際カントリー俱楽部の会員権もすでに手放している。

    「北海道大学を受験したい」と理佳子が言い出したとき、佐和子は少し驚いたが、反対はしなかった。思慮深い理佳子が、この環境の中で決めたことである。新天地での生活は、理佳子にきっといい影響を与えてくれるだろうと、佐和子は理佳子を尊重した。
     三月、理佳子は現役で北大に合格し、佐和子の助けも借りずに札幌での新生活のための準備に入った。奨学金を受けることを決め、仕送りさえいらないという。国立大学に行くことで、母の負担を軽くしようとしてくれた理佳子の気遣いがうれしい反面、佐和子は、末っ子の理佳子に充分なことをしてやれない自分を何度も詫びた。

     さらに龍之介の勤務地は大阪に決まった。龍之介は自分が母を置いていくことをずいぶん心配していたが、佐和子は笑って送り出すことにしていた。

     そんな中、陽子が「会わせたい人がいる」と言うので、佐和子は時間を作った。成城学園近くのレストランに陽子が伴ってきたのは、祖師谷のゴルフ練習場で佐和子にゴルフを教えてくれていた立花雄二だった。
     陽子の恋人というのは立花雄二だったのか。佐和子は驚くと同時にとてもうれしかった。龍之介も理佳子も立花からレッスンを受けていたから、自然に陽子がそこに参加して付き合いが始まったらしい。
     いい機会だから一緒に暮らしたいという陽子の言葉を聞きながら、佐和子は立花に「娘をよろしくお願いします」と頭を下げた。

     結局、子どもたちは三人とも佐和子のもとを巣立っていく。しかし佐和子は自分が独りぼっちになったとは思っていない。陽子も龍之介も、そして理佳子も、希望を持って新しい生活に飛び込んでいった。
     世間知らずのまま三人の子の母親になり、あげくの果てにすべてを失って離婚した佐和子を気遣いながら、三人がそれぞれの足で立って、幸せになるために生きようとしている。佐和子は三人の子どもたちに感謝しながら「幸せはお金では買えない」という使い古された言葉をかみしめていた。

     感傷に浸る暇がなかったのは幸いだったかもしれない。
     すべての資産を処分して、修平の使い込んだ分と借金を清算し、理佳子の学費だけは別にすると、佐和子の手元にはわずかばかりの現金が残るだけとなった。
     しかし、物に執着がなくなると、人はこんなにも自由な心持ちになれるのかと佐和子は驚いていた。両親から受け継いだ財産を失ったことはもちろん慙愧に堪えない。しかし、その一方で、自分を縛るものが何もないことで、佐和子の中にはこれまで味わったことのない解放感が満ち満ちていた。 
     なんとでもなる、という龍之介の言葉通り、なんとかなりそうな気がしてしまう。いや、なんとかするしかない。自分が楽天家だったことを、佐和子は久しぶりに思い出した。
     とりあえず家賃七万円のワンルームマンションに入った佐和子がまず始めたのは職探しである。五十歳に手が届こうかという佐和子は、ここで世間の荒波をかぶることになる。
     大学を卒業する前に妊娠した佐和子は、理佳子が生まれる前にほんの二年あまりキッズステーションで働き、その後もインターナショナルスクールの非常勤を週に2日務めただけで、職歴に書けることなどすかすかである。五十間際になって、職歴もスキルもないような女性を雇い入れる会社など、ほとんどないのが現実だった。

     一か月ほど経ったころ、由美子のもとに佐和子から連絡が入った。
     由美子はそのころネイリストとして独立していたので、その仕事を拡張するにあたり佐和子の力を借りたいと伝えていたが、佐和子はとにかく自分でなんとかする、自分で仕事を見つけるの一点張りだった。
     電話の向こうの佐和子の第一声は「世の中、厳しいわ。私ができることなんて、マンションの管理人さんぐらいだった」
    「何もしてあげられなくてごめんね」と由美子の声が震える。
    「何言ってるのよ。充分助けてもらってるわよ」と佐和子はいつになくさばさばした口調である。
    「佐和子、強くなったわね」と由美子がつくづく言う。
    「今までが弱すぎたのよ」と佐和子は笑う。「いったい私は何を怖れていたのかしらね」
     自分の人生は自分が設計する。人としての基本をようやく佐和子は学んだのだった。代償はあまりにも大きい。
    「それでね、私、決めたことがあるの。ぜひ由美子に聞いてほしいの。会って話したい。会えるかしら」
     佐和子の声が高校時代のように弾んでいることを感じながら、由美子は佐和子との待ち合わせ場所を決めた。

     佐和子と由美子は、渋谷のティールームで向かい合っていた。
     一度の恋を失ってから長い間、屍のように不幸な結婚生活を続けてきた佐和子。その佐和子の表情から憂いが消えている。
     佐和子は少し居住まいを正して、由美子に向き直った。
    「あのね、私、決めたことがあるの」
     いったい何を決めたというのだろう。由美子はいぶかった。
    「びっくりしないでね。とんでもないことだから」とけん制する佐和子の言葉の続きを、由美子が待っている。

    「私ね、私…また、ゴルフを始めようと思うの」
     由美子はちょっと拍子抜けした。仕事の話だと思って構えていたら、趣味のゴルフの話だったのか。
    「あ、いいんじゃない?」と軽く受け流す。「いろいろ大変だったんだし、たまには息抜きもしなくちゃね」と言ってみるが、本音は「今はゴルフどころじゃないでしょう」と言いたいところである。
     そんな由美子の反応を予想していたように、佐和子が由美子の顔を真正面から見た。
    「遊びでやるんじゃないのよ。あのね、あのね、私ね…」佐和子の目が真剣になる。
    「私、プロゴルファーを目指したいの!」
     あまりにも意外で、二の句が継げず「冗談でしょ?」と言うしかない。
    「笑ってもいいわよ」
     しかし、由美子は笑うのも忘れてしまっている。
    「プロゴルファーって…佐和子、いったい…」
     いったい何を考えているのという言葉を由美子は飲み込む。
    「びっくりしたでしょ?」と佐和子が首をすくめて見せた。「でも、本気なの。この年でチャレンジするのは無謀だと思うんだけど、でも、私、本気でプロゴルファーになりたいと思ってるの」
     
     佐和子は仕事を探す中で、つくづく感じたのだった。これから時給いくら、とか日給いくら、などと自分の時間を切り売りして生活していたら、遅かれ早かれ、自分はまた自分を好きでいられなくなる。理佳子の学費のため、とか生活のため、などと自分に言い訳しながら、また幸せから遠ざかるに違いない。
     本当に自分がなりたい自分にならなければ幸せになれない。それがたとえ、不可能に見えたとしても、最初からあきらめることが後に悔いを残すに違いない。もう後悔はしたくない。
    「私ね、幸せになりたいの」

     二十二歳で修平に犯された日から、佐和子は緩慢な死を選んできたのだろう。自分のことは後回しにし、自分をないがしろにすることで、岸野に対して償ってきたのかもしれない。幸せになってはいけない、と自らに課しているような佐和子の生き方は、由美子から見ていても苦しくなるほどだった。
     六年前、佐和子にゴルフを勧めたとき、由美子は佐和子なら絶対にゴルフを楽しめる、と確認していた。案の定、ゴルフ三昧の生活にのめりこんだ佐和子を見て、自分の目論見があたったと本当にうれしかった。あっという間に腕を上げて、中井国際の月例でも優勝するほどになっていた佐和子。今回の修平の事件がきっかけでそのゴルフを捨てるとしたら、それはあまりにも惜しい。
     しかし、それとこれとは話が違う。日本に女子プロゴルファーが何人いるのか知らないが、そんな簡単になれるものではないことは少し考えればわかる。好き、と仕事にすることは違うのだ。
     由美子は、臆病で慎重な佐和子が、なぜそんな突拍子もない考えに憑りつかれたのか不思議だった。
    「冗談でしょ?」ともう一度由美子が口にした。
    「ううん、本気よ」と佐和子の目は笑っていない。
    「陽子ちゃんたちは何て言ってるの?」
     子どもたちには、それぞれに電話で打ち明けていた。陽子は即座に「いいじゃない! ゴルフで身を立てるなんてすばらしいわ」と手放しで、夫となる立花雄二も「僕が言ったとおり、きっとうまくいきます」と佐和子の決心を全面的に認めてくれている。
    「ママはラッキーガールだからうまくいくわよ」
     自分がラッキーだと思ったことは一度もない佐和子だが、よく考えてみれば修平とのこと以外はすべてうまくいっている。
     岸野を、そして両親を傷つけたことがあまりにも佐和子の中の重荷として横たわっているので、ほかのラッキーには目がいかなかったのかもしれない。佐和子は自分がラッキーだと思い込むことは悪いことではないと、陽子に感謝した。
     龍之介は冷静だった。「応援はするけれど、ダメで元々なんだから、ゴルフが嫌いになりそうだったら大阪に来るように」と逃げ場を用意してくれる龍之介の気持ちが佐和子にはありがたかった。
     理佳子は「こんなにうれしいことはない」と泣いた。自分の存在が母の人生の枷になっていたのではないか、と理佳子は長い間苦しんでいたのである。佐和子が夢を追い始めたことは、理佳子の重荷を減らすことだったのだ。佐和子はこれまでのひとりよがりを悔いた。理佳子の「早くデビューしてね」という声が耳に残っている。

     佐和子が「プロゴルファーになりたい」という突拍子もないことを本気で考えたのは、中井国際カントリー俱楽部の支配人である田中との会話がきっかけだった。
     中井国際の会員権を手放すことになったとき、田中は連絡を寄越し「本当に残念だ」と繰り返した。そして「住むところもなくなった」と恥を打ち明けた佐和子に対し「失礼だが、よかったらうちのグループコースで研修生をやってみないか」と佐和子をスカウトしたのである。「まさか」と辞退する佐和子に、田中は「佐和子さんはきっと、プロとして通用する」と評価してくれた。その台詞は、四年前、祖師谷ゴルフ練習場で立花雄二から聞いたものと同じである。
     田中の申し出はありがたかったが、だからといって夢のような話に乗るわけにもいかず、佐和子は聞き流した。
     五十間際の女性の就職がこれほど大変でなければ、佐和子は大それた夢の世界に入り込むことなどなかったかもしれない。二十一世紀に入り、高齢化社会への加速がついている日本なのに、スキルを持たないこの年齢の女性に開かれた職業の門戸がほんのわずかで、佐和子の就職活動は悉く不発に終わった。
     そんな中で「プロゴルファー」という選択肢が佐和子の中に沸いてきたのである。好きなゴルフを仕事にできたら、なんと幸せなことだろう。もちろんキャディという選択肢もある。しかし、あえてキャディではなく、プロゴルファーを目指して身体を鍛え、技を磨く。それこそが幸せへの道ではないか。ずいぶん遠回りをしたけれど、佐和子はようやく自分が好きなものを自覚できたような気がしていた。
     中井国際の田中に電話をかけ「図々しいのですか」と切り出すと、田中はとても喜んで「プロゴルファーにはほんの一握りの人しかなれない。佐和子さんはその一握りだと思う」と太鼓判を押してくれた。
     そして、紹介してくれたのが、福島県の「葉花(ハバナ)ロイヤルカントリー倶楽部」だった。東北道の白河インターを東に四十キロほど入った「葉花ロイヤル」は、中井国際のグループコースで、日米大学選手権も行われる名門である。来年は女子プロの公式戦が開催されることも決まっている。

    「それでね、私、来月から福島に行くことにしたの」
     佐和子はさっぱりした顔で由美子を真正面から見据えて告げた。
    「福島? 来月?」
    「そう、研修生として修行するの」
     いったいこれが、あの頼りない佐和子だろうか。少女時代は何不自由なく育っていたのに、不幸な結婚をして夫の身勝手さに泣かされてきた佐和子。なかなか離婚できず、挙句の果てに親から受け継いだ財産まで失い、一文無しになった佐和子。傍から見れば、今の佐和子は不幸のどん底にいるはずだ。それなのに、自分の未来に夢を持っている。五十歳間近という年齢を、夢をあきらめる理由にしていない佐和子を見て、由美子は中学時代を思い出した。

    「よく二人で残ってコート整備をしたわね」
    「そうそう。気が付くといつも残ってるのは由美子と私で」
    「先輩を追い越してレギュラーになっちゃったんだから、って球拾いも人の倍はやったわね」
    「やることをやっていれば、文句は言わせないぞって、それ、由美子が言い出したのよ」
    「K女学院歴史に残る最強コンビだもんね」
    「そう! 最強コンビ!」二人は顔を見合わせて笑った。
     あのテニス部での六年間。何度となく「この根性があれば一生生きていけるよね」と二人で確認しては笑った。つらい練習をつらいと思ったことなど一度もなかった。二人ともテニスが大好きだったのだ。十二歳から十八歳。たった六年間で肉体的にも精神的にも、こどもから大人になった。そのときに共に過ごしたかけがえのない女友だちが、今また大きく羽ばたこうとしている。
     ホールインワンより難しいと言われるアルバトロス。そのアルバトロスこそ、佐和子自身ではないか。
    「佐和子、なれるわよ」
    「そうかしら?」
    「なれる、絶対に! だって、佐和子は佐和子だもの」
    「なに、それ!」
    「絶滅品種の生き残りってことよ!」
     二人はお互いの会を見ながらもう一度笑い転げた。久しぶりに佐和子の明るい顔だ。

     「あのね、佐和子。あほうどりってね、世界で一番長い翼を持ってるんだって」
    「へえ、あほうどりって飛べるの?」
    「やだ、あほうどり本人が飛べることも知らないの?」また二人は笑う。
    「でね、その翼を使って、何時間も休まないでずっと飛び続けるんだって」由美子が佐和子の手を取る。「助走はみっともなくて、なかなか飛ばないんだけど、いったん飛んだら何時間も何時間もずっと飛び続けるのがあほうどりなのよ」
     由美子の言葉が佐和子の中に深く深く沁みていく。
    「でね、佐和子。あほうどりは、とっても寿命が長いのよ」
     佐和子は、目の前にいる由美子という存在が、どれほど自分を力づけてくれているか、どうにか伝えたくて、由美子の手をぎゅっと握った。
    「由美子、私たち、一緒にうんと長生きしようね」
    「もちろん」と由美子もその手を握り返す。

     不安はたくさんある。いや、不安しかないと言ってもいい。いくら佐和子が腕を上げたと言っても、アマチュアだからこそ、そのうまさが際立つのだ。プロで通用するかどうかは甚だ心もとない。
    「そんな簡単になれるわけはないって、わかってるつもりよ。それに万一、プロになれたとしても、それで生計を立てていくのは至難の業だと思うの」
     ましてや佐和子は、もうすぐ五十である。人生百年時代とは言っても、後半戦であることは間違いない。
    「でもね。純くんのお嫁さんになる夢を捨ててから、私が初めて見た夢なの」
     きっぱりと告げるその言葉を岸野に伝えたいと由美子は思っていた。もちろん佐和子には内緒で…。本当なら最初の夢も叶えてほしい。いや、叶うかもしれない。むしろプロゴルファーになるよりも高い確率のような気がしてしまう。しかし、今、その話題を出すべきではないだろう。由美子は妄想が広がる自分を抑えて、言った。「ね、ひとつ確認させて。プロゴルファーになるのって、年齢制限はないの?」
     佐和子は笑いながら「私もまずは田中さんに確かめたのよ。そしてら十八歳以上っていうだけで、上限はないんですって。自動車の免許と同じなのね」
    「もし佐和子が合格したら、もしかして最年長?」
    「かもね」二人はまた笑った。
    「私ね、あまり深く考えないようにしたの。考えても人生って、なるようにしかならないから」 
     それが、二十二歳から、いや、たぶん十歳で大阪の小学校に転校したときから、人の心を信じることに臆病になっていた佐和子がようやくたどりついた人生哲学なのだろう。
    「で、福島にはいつ行くの?」
    「ゴールデンウィーク前には行きたいと思ってる」
     すでに四月半ばである。
    「それって、来週じゃない」
    「そうね、来週ね」
    「やだ、佐和子、あんまりだわ」
    「ごめんね、由美子」
    「そんなにどんどん置いていなかいでよ」
     由美子は福島に行く前に渾身の力をこめて佐和子のネイルをきれいにさせて、と頼んだ。当分ネイルどころではないだろうから、佐和子はその好意を喜んで受けることにした。

     残っていたいろいろな書類に始末をつけて、佐和子は東京最後の夜を一人で過ごした。
     三人の子どもたちからはそれぞれにメールが入っている。みんな自分のことだけでいっぱいだろうに、それぞれがお互いを思いやり、やさしい気持ちで支え合っている。三人産んでよかった、と佐和子はつくづく思った。

     明日、由美子に餞別のネイルを施してもらったら、佐和子はたった一人で「葉花ロイヤルカントリー俱楽部」に向かう。自分のための人生が明日から始まる。
     佐和子、しっかりね。母の声が聴こえる。

     大丈夫。
     私は絶滅品種の天然記念物なんだから。四十九歳から生まれ変わって、もう一度幸せになるんだから。
     スタートラインに立った佐和子に、まだゴールは見えていない。

                             (完)

    小説「アルバトロスの伝言」連載第17回|吉田 明美


     
     
    2026年!「日々是学び!」をモットーに「ご機嫌古希ライフ!」を発信! 放送作家として40年、キャリアコンサルタントとして10年、妻として40数年、母として30数年、人として70年・・・ 何者にもなっていないけれど何者かを目指してあがき続けるぞ!

    あなたへのおすすめ