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3日連続でピアノを浴びたら、ただただ幸せだった

気付いたら、全力でBETしている。

これは昔からの自分の癖だと思う。
あれこれ迷っている時間がもったいない。気になるものがあれば、とりあえず決める。決めたら、それに向けて全力で進んでみる。

ピアノリサイタルなんて、つい先日まで特別な興味があったわけではない。
それなのに、ひとたびスイッチが入った途端、チケットを買い漁っている。

我ながら、まさに自分らしい。

オーケストラとの共演や、少し外側にある公演まで含めれば、すでに40本以上のチケットが手元にある。冷静に考えれば、なかなかおかしなことをしている。4月に亀井聖矢のピアノリサイタルを聴いたときの、あのドキドキやワクワクとは、もう少し違う感情も芽生えている。

最初は、どれくらいピアノを楽しめるのか分からなかった。
ヘッドフォンで聴く音源と、生のリサイタルの違いを、自分がちゃんと受け取れるのかも分からなかった。

でも、実際に通い始めてみると、ピアノリサイタルは思っていたよりずっと豊かだった。

コンサートホールの広さ。
ピアノのコンディション。
席から見える景色。
客席の空気。
演奏前の静けさ。
終演後の拍手。
そして、音以外の時間。

ピアノを聴きに行っているはずなのに、そこで受け取っているものは音だけではない。
その場所に行き、その席に座り、その日の空気の中でピアノを待つ。そういう一連の時間を含めて、リサイタルなのだと少しずつ分かってきた。

自分なりに、チケットを買う条件も決めている。
若手ピアニストのソロリサイタルであることや音響や空間に惹かれるホールやサロンであること、初心者に迎合しすぎたプログラムではないことなど。

こうやって条件を付けても、探してみるとピアノリサイタルはたくさん見つかるものだ。

その中で、先日は3日連続でリサイタルに行くことになった。

佐藤祐希
桑原志織
沢田蒼梧

Halle Runde、愛知県芸術劇場コンサートホール、電気文化会館 ザ・コンサートホール。規模も雰囲気もまったく違う会場で、3日間続けてピアノを聴いた。

少し、音を浴びすぎかもしれない。
予定を詰め込みすぎたかもしれない、なんて思っていたけど。

でも、終わってみれば、ただただ幸せな時間、3日間、ずっと心地良い空間の中にいた。

もちろん、毎回ものすごい衝撃があったわけではない。
椅子から立ち上がれなくなるような感動が、毎日続いたわけでもない。
むしろ、もっと静かな満足感だったと思う。

今日はこういう音だった。
今日はこういうホールだった。
今日はこういう人だった。

それをひとつずつ受け取りながら、次の日もまたピアノを聴きに行く。
この連続性が、思っていた以上に気持ちよかった。

1回のリサイタルだけでも、もちろん楽しい。
でも、3日連続で聴くと、前の日の音がまだ身体に残っている状態で、次の音を浴びることになる。

だから、比べやすい。
そして、思い出しやすい。

佐藤祐希を聴いた翌日に桑原志織を聴く。
桑原志織を聴いた翌日に沢田蒼梧を聴く。

そうすると、それぞれの演奏が単独の出来事としてではなく、並んで見えてくる。
音の違い、会場の違い、客席との距離の違い、演奏者の立ち方や話し方の違い。そういうものが、かなり分かりやすく浮かび上がってくる。

Halle Rundeは、150席ほどの小さな空間だった。
演奏者との距離が近い。ピアノの音が、ホールというより部屋の中に広がっていくような感覚がある。目の前で音が生まれていることが、かなりはっきり分かる。

愛知県芸術劇場コンサートホールは、まったく違う。
客席数は1,800席ほど。大きなホールの中で、音が遠くまで運ばれていく。自分の席まで届くまでに、柔らかくなった音を受け取るような感覚がある。大勢の人が同じ音を聴いているという、ホールならではの豊かさもある。

電気文化会館 ザ・コンサートホールは、その中間にあるような場所だった。
395席の空間は、近すぎず遠すぎない。ピアノリサイタルを楽しむには、かなりちょうどいいサイズだと思う。演奏者の存在感も感じられるし、ホールとしての響きもある。

同じピアノリサイタルでも、会場が違えば、体験はまったく変わる。

残響。
席までの導線。
配布物。
来場客の雰囲気。
拍手の大きさ。
開演前の空気。

そういうもの全部が、リサイタルの一部になっている。

小さなホールの目の前で演奏を観られるワクワクもある。
大きなホールの遠くから、柔らかく届く音に包まれる心地よさもある。
ほどよい規模のホールで、演奏者と客席が一緒に場を作っていく楽しさもある。

3日連続で通ったからこそ、自分の中でそれが分かりやすく比較できた。

そして、それは演奏者に対しても同じだった。

佐藤祐希の演奏は、西麻布にある創作イタリアン。
一皿一皿に、新鮮な驚きがある。次に何が出てくるのか分からない。けれど、ただ奇抜なだけではなく、ちゃんと料理として成立している。アルカンやラヴェルを聴きながら、音の色や形が次々と変わっていくのを楽しんでいた。

桑原志織の演奏は、恵比寿にあるグランメゾン。
お手本通りの料理が、実に美しくサーブされる。変な崩し方をしない。余計な演出で驚かせようとしない。ショパンをまっすぐ、丁寧に、美しく聴かせてくれる。こちらはただ、きちんと整えられたものを、安心して味わえばよかった。

沢田蒼梧の演奏は、おしゃべり好きな夫婦がやっている、渋谷の自然派ビストロ。
料理だけで勝負するというより、その場にいる時間ごと楽しませてくれる。よくしゃべる。客席を巻き込む。出来事が起きれば、それも含めて場にしてしまう。ピアノを聴きに来たはずなのに、気付けばそのトークに笑っている。

どれも美味しかった。
どれも満足だった。

でも、方向性はまったく違った。

前衛的なインパクトが欲しいときもある。
ただただ基本に忠実なものが嬉しいときもある。
その場で起きる出来事ごと楽しみたいときもある。

この3日間で、それがよく分かった。

ピアノなんて、どれも同じような音が鳴るものだと思っていた時期もある。
もちろん、そんなことはないと頭では分かっていた。けれど、自分の身体でそこまで実感していたわけではなかった。

でも、弾く人によって、場所によって、席によって、ピアノは本当にいろいろな顔を見せてくれる。

音が鋭く立ち上がる日もある。
柔らかく遠くから届く日もある。
粒が整って聴こえる日もある。
演奏者の人柄まで含めて、空間が動いていく日もある。

それを3日連続で浴びていたら、さすがに分かる。

ああ、これは違う。
ちゃんと違う。
そして、その違いを楽しんでいる自分がいる。

チケットを取るとき、たまにAIに相談することがある。
「このリサイタルってどう思う?」と聞く。

演奏者の名前、会場、プログラム、チケット代。そういう情報を読み込ませて、行く価値がありそうか一緒に考えてもらう。

このプログラムは演奏者の思いが強そうだから楽しめるかもしれない。
この人は条件にあまり当てはまらないから、ついでなら行ってみてもいいかもしれない。
この会場なら、ホール体験として面白いかもしれない。

きっかけなんて、その程度でいいのだと思う。

最初から深い知識があるわけではない。
作曲家のことも、楽曲の背景も、演奏解釈の違いも、まだまだ分からないことばかりだ。

それでも、チケットを買って、会場に行って、席に座ることはできる。
その場で音を浴びることはできる。
そして、帰ってきてから「あれは何だったんだろう」と考えることはできる。

今の自分には、それくらいで十分だ。

チケットを1枚買っただけでは、気付けなかったと思う。
もちろん、1回の感動は1回の感動として大切だ。
でも、何も考えずに買い漁ったからこそ、見えてきたものもある。

比較することで楽しめる。
並べることで違いが見える。
続けて聴くことで、自分の好みが少しずつ分かってくる。

これは、自分にとってかなり大きな発見だった。

3日連続でピアノを浴びた。
少し贅沢で、少し無茶で、少しおかしな過ごし方だったかもしれない。

でも、その3日間、僕はずっと心地良い空間にいた。

大きな事件がなくてもいい。
人生を変えるような衝撃がなくてもいい。
ただ、今日もいい音を聴いた。
昨日とは違う音だった。
明日もまた違う音が待っている。

それだけで、今はかなり幸せだ。

ピアノリサイタルは、思っていたよりずっと豊かだった。
そして、買い漁るように聴き始めたこの趣味は、思っていたよりずっと自分に向いているのかもしれない。


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