不登校の母に沁み入る「先生だって、あのね」。
今年の5月、小2の次男が学校へ行かなくなった。
本人いわく、理由は「学校の時間割システムがしんどい」という、私が子どもの頃には考えもしないものだった。
先生や友達は好き。そこまで勉強を嫌っているようにも見えない。
ただ「学校」という仕組みに、どうにも心と体がついていかないらしい。
「この子なら大丈夫」そう楽観したい日もあれば、
「この子の今とどう向き合えばいいのか」と途方に暮れる日もある。
それでも、先生方の支えのおかげで、次男は「給食から登校」というペースをつかんだ。
やっとそんな生活に慣れ、やれやれしていた11月。
今度は小5の長男が学校を休み始めた。
夏休み明けから無理して通っていたけれど、荒れたクラスの言葉遣いが自分へ向いたことで、限界が来たらしい。もう3週間休んでいる。
正直、次男のことが霞むほど、長男のほうが心配だ。
「給食から行くとか絶対ムリ」
「なんでこんなに休んだのって訊かれたら、なんて答えよう」
次男に比べて、「こうあるべき」がすっかり定着している長男は、学校へ行きたくないという気持ちにすら戸惑っているように見える。
私自身も然り。
担任の先生が毎日電話をくださり、ときには訪問も。
30代の穏やかな男の先生。笑顔で玄関先に現れたときは、私も救われる思いがした。長男も、パジャマで先生を迎えているうちに、より先生に懐いていった。
けれど同時に、私は胸の奥で別の不安に押しつぶされそうになっていた。
先生、忙しいのに心身の負担になっていないだろうか。
管理職はちゃんと先生を守ってくれるよね……?
我が子のことも気が重いうえ、先生の心配まで勝手に背負い込んでしまい、滅入って寝込む日もある。
そんなとき、思い出した。
文学フリマ大阪で手にした、碧魚まりさんのエッセイ、「先生だって、あのね」。
読むのを楽しみにしていたのに、読めていなかったのだ。

タイミング的に、今だった。
(ここからは、碧魚先生と呼ばせていただく。)
短い話を一つ読み終えるたびに、鼻がツーンと痛くなる。
涙がにじんだかと思えば、次の話では吹き出す。
なんて細やかな心で、子どもたちを見つめているのだろう。
起こった出来事に対して、碧魚先生がどう感じ、どう動き、子どもがどう反応したのか――。
その流れが飾らずに書かれていて、
あたたかくて、優しくて、真っすぐに、心に沁みていく。
学校の先生が日々何を感じ、どれだけ丁寧に子どもたちと向き合っているのか。
親である私は、想像するしかない部分が大きく、そこに勝手な不安まで積み重ねて疲れていた。
でも、この本に触れて初めて思えた。
先生も、子どもや私と同じように揺れながら、それでも子どもを信じて向き合っているんだ、と。
私の不器用さも弱さも、まるごと抱きしめてもらえたようだった。
先生は先生の立場で、私は母親の立場で、それぞれの愛情で子どもたちと向き合う。
そこには境目などなく、子どもたちのしあわせを祈るワンチームなんだと、孤独な気持ちが溶けていく一冊だった。
碧魚先生の言葉にこうある。
「子どもたちと向き合うことは、時にかつて子どもだった自分にも出会いなおすことがある。」(本書94ページ)。
母になってから、痛感していることだった。
小学生の私が子どもたちの同級生のようにときどき登場する。
そうしないと、気付けないこと、越えられないことがたくさんあるから。
碧魚先生のまなざしが、どこまでもあたたかく、少し切なくて、そして力強い。
読み終えて、私は泣きながらぼんやりしている。
明日の文学フリマ東京で、この本が必要な人の手に届きますように。
先生、保護者、子どもに関わるすべての方へ、碧魚先生の渾身のメッセージが届きますように。
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