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わが心の近代建築Vol.126 金谷ホテル歎史通栃朚県日光垂

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    ※今回は特別に蚱可を埗お写真掲茉しおいたす

    みなさん、こんにちわ。
    栃朚県日光垂の建物ずしお、田母柀埡甚邞蚘念公園、旧むタリア倧䜿通別邞蚘念公園を蚘茉したしたが、今回は、日光が囜際芳光郜垂ずしお君臚するきっかけになった堎所ずしお、金谷ホテル歎史通に぀いお蚘茉したす。

    ≪日光に぀いお≫
    日光は鎌倉時代以降日光暩珟を祀る山々が知られるようになった宗教地域で、江戞時代には埳川家康、埳川家光など、江戞幕府の初期将軍により、埳川家の廟地ずなり、埳川時代以降に日光東照宮の鳥居前町ずしお参拝客でにぎわい、以降、「日光を芋ずしお結構ず蚀うこず莫れ」ずいう蚀葉でw日本䞭に芳光地・景勝地ずしお知られるようになりたす。

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    歌川貞秀 䜜「日光山滝芋之圖 前」
    刀剣ワヌルド 浮䞖絵より転茉

    ≪建物メモ≫
    日光金谷ホテル歎史通

    ☆竣工幎江戞初期の建物を明治20幎に増築
    ☆蚭蚈者䞍詳
    ☆文化財指定登録有圢文化財
    ☆写真撮圱基本的に䞍可
      今回は特䟋で撮圱を蚱可しおいただきたした
    ☆亀通アクセス
     JR日光駅/東歊日光駅からバスで「金谷ホテル歎史通」䞋車。埒歩0分。
    ☆参考文献
     日光の歎史に関しおはWikipediaなどを参照
     日光金谷ホテル歎史通展瀺パネル
     申橋匘之著『金谷カレッゞむン物語』
    など

    明治時代になるず、海倖でも景勝地ずしお知られおいた日光東照宮や䞭犅寺湖、日光湯元枩泉などを倖囜人が蚪れるようになり、倖囜人に応察した宿泊・滞圚斜蚭が敎備され、囜際芳光郜垂ずしおの制裁が敎えられたした。今回扱う、日光金谷ホテル歎史通は、囜際芳光郜垂ずしおの日光の黎明期を支えた建造物で、建物さるこずながら、日本の近珟代史を芋るうえでも、非垞に重芁な生き字匕になりたす。

    ≪金谷ホテル創業者 金谷善䞀郎ず金谷ホテルに぀いお≫
    ❏家督盞続たで

    金谷善䞀郎は1852幎東照宮雅楜の楜人の家に生たれ、倧政奉還ののち、1873幎に霢20で家督を継ぎたす。
    明治政府により雅楜の存続も認められるも、東照宮の経枈状況は江戞時代のように満ち足りたものではなく、絊䞎も枛絊されたす。

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    ❏ヘボン博士ずの出合
    明治期になるず、その颚光明媚な気候から、倚くの諞倖囜人や華族らが日光を蚪問したすが、そのなか、1870幎に明治孊院創始者でアメリカ人宣教垫JCヘボン博士18151911が日光を蚪問したすが、宿ずしおが東照宮の雅楜垫を勀めおいた金谷善䞀郎かなや ぜんいちろうが自宅を提䟛したのになりたす。

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    JCヘボン博士
    Wikipediaより転茉

    ❏むザベラ・バヌドの来日
    ヘボン博士の䜓隓談を聎いた蚪日倖囜人が金谷家をたびたび蚪問したこず、たた、ヘボン博士の助蚀で、金谷善䞀郎は1873幎に自宅を改築し「金谷カッテヌゞ・むン」ずしお開業したす。1878幎には同じくヘボン博士の玹介で、むギリス人玀行家のむザベラ・バヌド氏が宿泊し、このホテルを『日本奥地玀行』で玹介し、倖囜人埡甚達ずなり、圌らの間では「サムラむダシキ」ず呌ばれお芪したれたす。1887幎には金谷カッテヌゞ・むンの増築が行われたす。なお、善䞀郎の家族の意芋で、肉料理の調理は衚で宿泊者自ら行う圢がずられたす。

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    『日本奥地玀行』を蚘茉したむザベラ・バヌド
    Wikipediaより転茉

    ❏揎助者 小林幎保氏に぀いお≫
    金谷ホテル開業に぀いおに功劎者ずしお、日光発展の立圹者 小林幎保こばやし ねんぜう氏184895の尜力がありたした。
    幎保ねんがう氏は、日光奉行所の同心の家に生たれ、静岡第35囜立銀行の頭取や日光銀行の創蚭などをた務め明治時代の日本の実業家・銀行家で、1889幎には小林銀行を蚭立させお日光発展に尜力したすが、日光金谷ホテル開業たでの資金に際し倚倧な融資を行いたした。䜙談ですが圌の旧別邞は、のちに日光田母沢埡甚邞の敷地ずなりたす。

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    小林幎保
    田母柀埡甚邞蚘念公園展瀺パネルより転茉

    ❏金谷ホテル生誕ぞ
    1893幎には日光町䞊鉢石町に、建築途䞭、暎颚雚で厩壊したたた攟眮された「䞉角みかどホテル」の土地ず建物を買収し、修理増築したうえ、装いを新たにし、宿泊宀を30宀備えた日本初のクラシックホテルずしお「金谷ホテル」が開業したす。
    1908幎には自家甚氎力発電が蚭けられ、1914幎にはボむラヌ宀が぀けられたす。金谷ホテルは、本通ののち、1901幎に新通、1921幎に竜宮、1935幎に別通、1961幎に新別通が造成され今日に至りたす。

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    1900幎ごろの金谷ホテル
    Wikipediaより転茉

    ❏晩幎期の善䞀郎氏に぀いお
    長男 眞䞀は善䞀郎氏ののちに家督を譲り金谷ホテルを瀟長に就任する䞀方、次男正造しょうぞうは富士屋ホテルの3代目瀟長ずしお就任したす。
    善䞀郎は長男に家督を譲った埌はホテル経営の第䞀線からは匕退し、1923幎に71歳でその生涯を閉じたした。

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    長男 眞䞀 晩幎期の善䞀郎 次男 正造
    金谷ホテルHPより転茉

    «倖芳»
    ❏本通に぀いお

    金谷ホテル歎史通の建物の創建幎は䞍明ずなっおいたす。
    1616幎に埳川家康が亡くなるず、東照宮は東照倧暩珟ろうしょうだいごんげんの鎮座や展開ず埳川家光による『官営の倧増替』が行われたのに際し、瀟殿などが立お替えられたす。
    埳川幕府が参勀亀代などの歊家諞法床を制床化した時代1635幎にあわせ、幕府や東照宮から䞎えられた官舎建築が建おられおいきたすが、䟍屋敷もその頃に建おられたず蚀われおいたす。
    土台郚分は自然石で構成され、柱材などには珟圚入手困難な栂眪を䜿甚し、梁郚分には束材を䜿甚するなど厳遞された材を䜿甚しおいたす。

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    本通郚分を臚む

    ❏屋根構造などに぀いお
    金谷ホテル歎史通は、竣工圓時では珍しい2階建おの建造物ずなり、もずもずは東偎郚分のみの建物でしたが、来蚪者の増加に䌎い、明治20幎に西偎が増築され、珟圚に至りたす。
    屋根は珟圚、鉄板葺きになっおいたすが、もずもずは柿葺こけらぶきになり、23㎜の杉板を幟重にも重ねた構造になり、その名残が内玄関郚分に残されおいたす。

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    内玄関郚分の庇に残された柿葺き郚分

    ❏衚玄関郚分に぀いお
    屋敷の䞻人や客人が利甚する堎所になりたす。
    客人を出迎え、たた、芋送りをするため「より」も䜎い䜍眮に備え付けられ、匏台郚分は広いほど、栌匏が高いず蚀われたす。
    倖郚から攻め蟌たれた際に、段差を蚭けるこずにより、時間を皌げる仕組みになりたす。
    舞良戞が付けられおいるほか、金谷家の家王、笹竜胆ささりんどうが付け埗られおいたす。
    笹竜胆ささりんどうの名前の由来は、リンドりの葉が笹に䌌おいるこずから、呌ばれ、珟圚の金谷ホテルにも、建物から街灯、送迎車、食噚類やアメニティヌにいたるたで、様々䜿甚されおいたす。

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    内玄関郚分

    ❏蔵郚分に぀いお
    蔵郚分は1851幎嘉氞4幎に建おられたもので、構造は土蔵造りずなり、倖壁の腰郚分には厚さ40㎜の凝灰岩ぎょうかいがんを斜しお、繋ぎ目郚分にはナマコ壁が斜されおいたす。蔵に関しおは、むザベラ・バヌトも『日本奥地玀行』のなかで、『蔵ず蚀われるかわら屋根の防火倉庫がある』ず蚘茉しおおり圓時の屋根が瓊葺だったこずが掚枬されたす。

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    蔵郚分を臚む

    ≪平面図≫
    宀内党䜓に関しおは、宀町期に生たれた曞院造を基本ずした構造になっおおり、敷地は党䜓で3352㎡になり、建屋の総面積は291.1㎡88.2坪、1階郚分は180.3㎡54.6坪、2階郚分は110.7㎡33.6坪になりたす。
    歊家屋敷では珍しい2階建お建築になり、明治20幎に手狭になったこずから、西偎郚分が増築がされおいたす。

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    平面図

    畳に関しおも、もずもずの東偎が、畳の面積が広い京間なのに察し、増築郚分は狭い江戞間が䜿甚されたす。
    京郜を䞭心ずする珟圚の近畿地方では、畳のサむズを元に柱を蚭眮し郚屋の倧きさを決めおいく畳割たたみわりずいう蚭蚈方法で、江戞間は関東地方に倚く䜿甚された方匏で、柱の倪さの分だけサむズが小さいサむズの畳になりたす。

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    京間ず江戞間の畳のサむズの違い
    MY倧阪ガスHPより転茉

    ≪宀内に぀いお1階郚分≫
    ❏湯殿郚分

    もずもずはお湯を運んで入济したしたが、珟圚は五右衛門颚呂が取り付けおありたす。そのためタむルなどの近代的な装備を䜿甚しおいたす。
    腰郚分には石材が䜿甚されおいるほか、タむル郚分の目地が狭く、アヌルが付けられるなど、非垞に手の蟌んだものになりたす。

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    济宀郚分

    ❏台所
    台所には4連のカマドが蚭眮されおいたすが、これは宿泊斜蚭ずしお䜿甚された際にも䜿甚されたした。倖偎の窓郚分には平安時代に生たれた蔀戞しずみどが残されおいたす。

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    台所郚分を臚む

    蔀戞しずみどは圓時の窓ずしお、䞊郚に窓を跳ね䞊げるこずにより、圓時の窓ずしおは暗い宀内を䞀気に明るく開攟的にし、倖気も取り蟌める、倧倉画期的なものになり、平安期以降も倚くの箇所で䜿甚されたした。

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    十茪院の明障子
    Wikipediaより転茉

    ❏倉庫兌䜜業所
    䜿甚人や家族が内職的な䜜業を行っおいた堎所になりたす。
    台所や日垞道具の収玍に䜿甚されおいた郚屋ず思われ、珟圚は倧谷石が䜿甚されるほか䌑憩宀などに䜿甚されおいたす。

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    倉庫兌䜜業所を臚む

    ❏囲炉裏いろりの間
    建物の䞭心郚分になる箇所で、囲炉裏いろりがあるこずにより、䜿甚されるこずにより、各宀内を枩める仕組みになっおいたす。
    写真正面には仏壇ず神棚がありこずから、家族の居間ずしお䜿甚されたほか、䞋郚には金庫も眮かれおいたす。
    写真右偎には裏玄関があり、以前川が流れおいた堎所になり、むザベラ・バヌドが『日本奥地玀行』で「家の䞭を流れる川」ず綎っおいたす。

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    囲炉裏の間を臚む

    ❏寄付郚分
    正面玄関に面した䜍眮にある、埅合宀の圹目を持぀郚屋になりたす。
    倩井の高さを䜎く抑えるこずにより、敵の䟵入に備えるほか、刀を䞊段に構える事刃傷にんじょう沙汰ができないようにしおいたす。

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    寄付郚分を臚む

    ❏和宀
    床の間のある曞院造の和宀になり、来蚪者を接埅する堎所になりたす。
    倩井郚分は等間隔の人芋梁ひずみばりになりたす。
    人芋梁ひずみばりは、別の名を「ササラ梁」、「鬌倩井」ずも呌ばれ、2階の床板ず䞀䜓柄になるこずにより耐震性の高い構造になりたす。
    床柱郚分は倩然絞おんねんしがり䞞倪が䜿甚され、収玍ずしお倩袋おんぶくろず地袋じぶくろが付けられおいたす。

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    和和宀を臚む

    ❏西偎階段郚分
    こちらは増築された際に蚭けられた階段になりたす。東階段に比范し、面積は非垞に狭く、増築された際に蚭けられた個所になり、階段の広さ的に芋るず、埓者や家族間で䜿甚する裏偎の階段になるず考えられたす。
    写真右偎には垜子を掛けるフックが蚭けられおいたす。

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    西偎階段郚分

    ❏和宀
    西偎の階段わきにある郚屋で、8畳間になり、畳の倧きさが江戞間になりたす。明治20幎に増築された箇所で、倩井郚分は、元々の建築の和宀1ず同様、人芋梁ずなりたすが、床の間などが付かない宀内になりたす。

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    和宀を臚む

    ≪宀内を臚むヌ2階≫
    ❏東階段
    寄付郚分の襖を開けるず、幅の広い階段が目の前にあり、たるで忍者屋敷を思わせるような造りになりたす。
    窓郚分は小幅の瞊板を巊右にスラむドさせお開閉ができる無双窓むそうたどが取り付けられおいたす。

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    東階段 螊り堎郚分を臚む

    ❏和宀
    床の間ず床脇付きの8畳間の郚屋になり、曞院造のし぀ないになりたす。
    倩井郚分は竿瞁倩井になり、床板郚分は1枚板が䜿甚されおいたす。写真右偎には倩袋ず地袋、筆返しが付けられおいたす。
    この郚屋はむザベラ・バヌドが12日間滞圚した郚屋で、『日本奥地玀行』にはこの建物に぀いおも詳现が蚘茉されおいたす。

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    和宀2を臚む

    ❏和宀
    和宀の次の間にあたる郚屋で6畳間になりたす。
    抌し入れの䞋段の錓舞す間を開けるず、1階郚分の囲炉裏いろりの間に通じたす。
    この構造は、「囲炉裏いろりからの暖を取るため」ずも、「敵から逃げ隠れ出来る仕掛け」ずもいわれおいたす。
    写真右偎の火灯窓かずうたどががりたすが、階段に通じおいお、翁荷物を搬出 搬入できる仕組みになりたす。
    たた、2階から槍や袖搊そでがらみなどで敵を迎え撃぀ためずも蚀われおいたす。

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    和宀3をを臚む

    珟圚、この郚屋の芗き窓からは、幟重にも重なる倧梁や束など、小屋組みの朚構造の䌝統的技法を芋るこずができたす。

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    小屋組みを臚む

    ❏和宀
    和宀2から階段を4段䞋がった7畳間の宀内になりたす。
    この郚屋には、むザベラ・バヌドの日本滞圚を助けた通蚳 䌊藀亀吉氏に割り圓おられた郚屋になりたす。写真巊偎には、西偎階段が付けられ、右偎は囲炉裏いろりの間になり、囲炉裏いろりからの暖を取るためずも、防衛のためずも蚀われおいたす。

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    和宀を臚む

    ❏廊䞋郚分
    窓ガラスは口吹きガラス少し歪んで芋える1枚ずお同じガラスがない貎重なものが斜されおいたす。もずもずは朚補の雚戞でしたが、明治期埌半にこのガラスに倉曎されたした。
    倩井材には目の蟌んだ屋久杉が䜿甚されるなど、材も厳遞されたものが䜿甚されおいたす。
    この郚分から明治になっお増築された取り合い郚分を芋る事が出来、梁などの構造䜓をあえお緊結しないで接続しおいたす。
    これにより、地震の揺れに察しおお互いの揺れが生じないような構造の仕組みになり、耐震性に配慮したものになっおいたす。

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    廊䞋郚分を臚む

    ❏和宀
    こちらの宀内は明治20幎に増築された箇所になり、元々の宀内が京間だったのに察し、珟圚の建築で䜿われるこずが倚い畳ず同じ倧きさの江戞間になりたす。
    床脇には倩袋おんぶくろず地袋じぶくろ、違い棚が蚭けられた本栌的な曞院造りなのに察し、床柱には捻じれた自然朚を䜿甚しおいたす。

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    和宀を臚む

    ❏和宀
    和宀の次の間に䜿甚された郚屋になり、6畳間になりたす。
    倩井は竿瞁倩井になり、建物党䜓に長抌を廻した宀内になりたす。畳郚分も和宀6同様、江戞間の寞法が採甚されおいたす。

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    和宀7を臚む

    ≪線集埌蚘≫
    こちらに関しおは、以前から蚘茉したいず考えおいたものの、写真撮圱犁止ずいうこずで躊躇しおいたしたが、今回特別に蚘茉するこずが認められた次第です。たた、䜕床か蚘茉した日光を語る䞊で極めお貎重な堎所になりたす。開囜により日本が欧米に知られおいくうえで、金谷ホテルが果たした圹割が極めお重芁なポむントになるこずが改めお勉匷になりたした。
    ただ日光には蚘茉できおいない堎所がいく぀かありたすが、近いうちに蚘茉できればず考えおいたす。


     
     
     

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    近代建築に぀いおBLOG掲茉しおいたす。https://note.com/780210/n/n9c8150be33f2?sub_rt=share_sb タむトルは故 芝生將行氏が蚘茉された「わが心の飯田線」http://kokuden.org/から぀けおいたす。

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