
逢魔伝(おうまでん) 4-2
二
「君は、関根くん、だったかな」
「ご無沙汰しています。赤也先輩」
中肉中背の小柄な男は、その外見に似つかわしくない低い声で、ささやくようにあいさつをした。関根良哉は、一つ下の後輩であり、友人の木下と言う男の紹介で知りあった。読書家で、寡黙な男だったが、愛想もそれなりにあり、僕と木下の後ろをいつもくっついて歩いていた。そのくせ、生意気なところもあって、よく木下とは論理の展開において、ぶつかりあっていたものだ。不思議と、僕とはもめることは無かったが、かと言って深く理解しあう、と言うこともなかった。
関根くんは、目深にかぶっていた帽子を、ちょい、と上げて僕を見つめ、そのあとに東堂を見つめ、にやと笑った。
「こいつは、どうも。デイト中でしたか」
「人聞きの悪い。ただの仕事仲間さ」
軽く肩をすくめて見せると、東堂は眉間の皺を深くした。関根くんは、愉快そうに肩を揺らすと、帽子を取って、短い角刈り頭を照明のもとにさらした。僕は、席をつめて座るよううながしたが、関根くんは向かい側の席に腰をおろして、息をついていた。
「いまは何を?」
「なに、特別どうってことはないよ」
「文筆業でもやっておいでですか」
「どうかなあ。君こそ、華々しいようじゃないか。噂はかねがね聞いているよ。もう関根くんとは呼べないな。先生?」
「止してください。まだ駆け出しの青二才ですよ」
関根くんは困ったように微笑むと、ウェイトレスの運んできたお冷を飲んで、息をついた。注文を済ませると、角刈りをかきながら僕と東堂を交互に眺めた。
「今日の出版状況じゃあ、そううまくいきませんね。よほど売らなくっちゃあ、毎日のご飯も食べていけないんだから」
「昔からそうだよ」苦笑を浮かべて、背もたれに体重をかけると、煙草をくわえてマッチをすった。
「でも、昔はいまよりも、よほど文学は偉かったもんだから」
「良いじゃないか。君は数少ない、売れっ子作家の一人だろう。なんの不満があるんだ」
「売れているから、不満がないなんておかしな話しですよ。それに、発行部数もたかが知れています」
「売り出すこともできない作家だっているんだぜ」
「僕だってようやく、一誌か二誌に十数枚の連載をやっているくらいです。それだって、最初の作品のイメージと、似たようなものを求められる。望まれて書いたって、読者にはすぐ飽きられます。じゃあ、別のを書くかってなると、次は前の方が良いと言う。何を書いたって、誰も褒めちゃくれないし、尊敬だってされません。文筆と言うより、売文ですね。文壇さえも、売るためだけに書いているんだから、どこを探しても芸術なんかありゃしません」
「芸術でなくちゃ駄目かい」
「ええ。駄目ってこともないですけどね」
段々と、心持ちが悪くなってきたのか、関根くんは顔をうつむけて低くうなった。目尻の下によった皺の数と、隈の濃さのぶんだけ、彼の孤独と苦悩が垣間見えるようだった。つい、先日の特集記事で、インタビューを受けていた顔は、ずいぶんにこやかだったが、その実はどうやら鬱々とした日々を送っているようだ。哀れな男である。
「なんだかね。僕は愚痴を聞かされてばかりだよ」
ため息をつくと同時に紫煙を吐き出すと、関根くんは困ったように視線を巡らせて、頬を染めた。うつむいた先で、鼻をぐずつかせつぶやいた。
「これは気がつきませんで。学生のころから、赤也先輩には頼りっぱなしで、お恥ずかしい」
「自覚がないのか。恐ろしいなあ、君たちは」
苦笑を浮かべて、灰皿の上で灰を落とした。ふと東堂を見ると、端っから話しに加わる気がないようで、先ほど席を追われた八枯れの尻尾を、引っ張ったり、指にからめたりして遊んでいた。
「だいたい、君はちやほやされたくて書いているのか?スタートからして間違っているな。大事にされたいんなら、アイドルにでもなったほうが良いだろう」
「ほら、そうやってビジュアルばかり大切にされている。そのくせ表向きじゃ、人の心がどうのと、道徳をやりたがる。道徳をやる割に、芸術も文学も味わう心を持っちゃいないんだから。ひどすぎる」
「そんなに文学が大事かい?君の言う昔が明治として、それほど幸せな文学者は一人もいなかったじゃないか。漱石だって、いまでこそ国民作家と言われ、教科書にも載り、お札の顔にまでなっているが、当時は新聞連載の小説家だぜ。それもロンドン留学中に患った、神経衰弱を治すために書いたのがきっかけさ。彼だって、死ぬまで生活のために書いていた作家じゃないか」
「生活のために書くから、駄目になるとは言っていません」
「じゃあ、読者にどうしろって言うんだ。君の理想通りの読者ばかりが、君の本を買ったら満足なのか」
「それじゃあ、僕は単なるファシストか宗教者じゃないですか」
「そこまでわかっていて、何をそんなに拗ねているんだよ」
「生活のためじゃなくて、利益のためだけに、教養を売るのは間違いだって、言いたいんですよ、僕ぁ。作家はそりゃ、読者も編集者もいなくちゃ食えませんよ。でも、それと出版会社のためだけに本をいくつも出すのとは、違うじゃないですか」
「そんなら、同人誌でも作って売ったらいい。読者との直接の関係はそれでしか生まれない」
「そうなると、次はアングラ扱いでしょう。あんまりだ。結局、作家と呼ばれたって、いまや企業のためだけに筆を動かす、サラリーマンと大差ないんですよ」
「しかし、君の本が売れたぶんだけ、明日の飯を食うことができる人もいる。それは、それで良い仕事じゃないか」
「そんなら、文学である必要がないじゃないですか。文学ってのは、あらゆる人間の思惑と、また関係のないところで機能しているから、救いがあるんですよ」
「しかし、社会が資本中心で動いているんだから、どう頑張ってもそうなるより他、仕方がないじゃないか。真理や哲学の追求をやるなら、学者にでもなったほうが幾分、マシかもしれないぜ」
「学者も同じですよ。高校教師と扱いは同じです。つまり、知の権威はなくなってしまったんですよ。全部、科学という実証だけの技術に持って行かれてしまった。宇宙や、エネルギー開発、医療の発展にね。それが、明治開国から先の、日本の末路です。ニーチェは正しい。神は死んだ。そうして、人間ももうすぐ死んでしまうんですよ。システムの中で動き回るだけの、機械になってしまうんです」
僕はなんとも答えられず、苦笑を浮かべて珈琲を飲んだ。それと同時に、携帯電話の着信音が鳴り響いた。関根くんは、「すみません、メールがきたみたいです」と、つぶやいて携帯電話を鞄の奥底へとしまいこんだ。どうやら、確認する気はないらしい。
「おや、進化したね。携帯を持っているのか」
「編集に持たされましてね。GPS機能つきです。すぐ無くします」
「それじゃ、首輪の意味がないな。編集者の苦労が目に見える」
「僕は動物じゃあないですよ」
じとり、と睨まれて、微笑を浮かべた。関根と言う男は、高尚趣味で、哲学や文学や芸術と言うものを一等大事に考えている。生活にも、その態度はよく表れていて、飯を食うより本を読み、眠るよりも詩をやりたがる。それで、何度昏睡状態に陥ったか知れず、自己管理と言う概念だけは欠落させた、まあ、廃人に近い男だ。木下はそれを、天才の証拠だと、言って鼻高々としていたが、単に生きる能力に乏しいだけだ。
ふん、と鼻を鳴らして、煙草の火をもみ消した。すっ、と双眸を細めて関根くんを見据えると、彼はいくぶん居心地悪そうに、眉をよせた。
「君の望む文学や芸術が、どれほどのものか知らないが、ものを書いて金を取っているからには、プロの自覚を持てよ。あがくんなら、紙の上でやったら良い。君にはそれができるだろう」
「そうしたら、僕は職業作家じゃなくなります」
「だが、革命と言うのはそう言うことじゃないか。確かに、産業資本が中心の世界だし、壊れかけているとは言え、いまのシステムを捨てることはできない。なにより、アメリカがそれをさせない。うっかりすると、戦争にまで発展しかねない」
「別に」関根くんは、失笑してぶるぶる肩をゆらしながら、困ったように眉根をよせた。「僕ぁ、過激派のつもりはないですよ」
「いちいちうるさいな。ともかく、僕が言いたいのはね。こんなところで、僕に愚痴をもらす暇があるなら、世界をひっくり返せるだけの作品を作れって、ことさ。それは世界を、社会を、人を、生を変えうる。サラリーマンには難しいが、職業作家にはそうした可能性があるはずだろう。それは、国会前で座り込み運動をやるのと同じか、それ以上の革命の可能性なんじゃないのか?」
関根くんは、一度目を大きく見開いてから、ぱちぱちと瞬きをくりかえした。
「なんだか先輩に説教をされていると、大学の頃を思い出します」
「やめてくれ」
嬉しそうに笑って顔を上げた関根くんは、カップを持ち上げた。それを横目に、新しい煙草を取り出すと、マッチをすって火をつける。眉間に皺をよせてため息をつくと、額を押えた。なんだか、どっと疲れてしまった。
三へ続く