
逢魔伝(おうまでん) 4-3
三
「ねえ、先輩。最近、鬱々と考えていることがあるんです」
なんだよ、まだ話しは続くのか。うんざりした視線を投げると、関根くんは微笑を浮かべて、カップを置いた。
珍しいことに、彼はまっすぐ僕の顔を見据えて来た。通常、彼は人の顔を見ないし、ましてや目を合わせてもこない。なぜか、一度聞いてみたが「人の顔を見ていると、疲れてくるんです。疲れてくると、考えが飛んで、うまく会話ができないもんですから。会話をする気がある時ほど、僕は人の顔を見ません」と、のたもうた。それほど、人との関わりにうるさくない僕は、特に気にもしていないが、平生がそれじゃあ誤解されやすく、不便だろう。
「認識の限界、と言うものについてです」
「なんだい、知覚の現象や行動学でもやりたいのか?」
「そうじゃありません。ようは、狂人的な狂人と、つくられた狂人なんてものが、あるか無いか、と言うことです」
「はあ」
眉を持ち上げて、珈琲を一口飲んだ。僕の視線の先で、八枯れの黄色い双眸がうっすらと開いた。東堂にいじくられながらも、ゆらゆらと尻尾を左右にゆらしている。のぞかせた牙の隙間から「喰ってやろうか?」と、問われた。それに微笑を浮かべて、軽く首を振る。ぐっと、首を回して隣を見ると、関根くんの角刈り頭を睨みつけた。
「そもそも、狂人的な狂人てのは、なんだい?」
「そうですね。例えば、病気や怪我で身体に不都合がないにも関わらず、 突然、自分はコップや硝子の破片じゃないか、と思い、それを信じ込む人のことです」
「妄想の超越と言うことか。しかし、狂人てのは、そもそもつくられた呼称だね。もとは権力下で、貧困であるがゆえに施設内に隠された人々のことを指す。社会不適合者は、いつの時代も狂いと呼ばれるが、不適合なだけで非存在的な訳じゃない。ましてや、生存の困難さで秤にかけたら、老人のほうがよっぽど困難じゃないか」
「そこですよ、赤也先輩」
関根くんは、青白い人差し指をぐっと曲げて、僕の顔を指した。たいへん不快だったが、眉間に皺をよせるに留め、「どこだよ」と、つぶやいた。
「身体不全が目の当たりにできる患者と、そうじゃない患者の違いはあるか、無いか、と言っても良いんです」
「どういう意味だい」
「つまり、腕がない人間と、脳かあるいは腰や内臓などが怪我をしている人間とじゃあ、認識の度合いに差があるってことですよ。腕のない人は、自他ともにその喪失を認識することができる。だって、目に見えているんだから。でも、内臓や骨の場合、そううまくはいきませんよ。痛みだけは確実にあるのに、それが他者にはわからないんですから。自己申告と、写真による認識ですね。それじゃあ、不確かで不安定なものです」
僕は苦笑を浮かべて、足を組み直した。
「不安定と言うなら、視認だってそうじゃないか。目に見えているから、腕がないなんて言うけど、腕を喪失した本人に、かつての腕の感覚が残っているとしたら?そこにも自他の認識に、齟齬は生じるぜ。他者から見たら、ないものが、自己にとっては在るんだからね」
興が乗ってきたのか、関根くんは鼻の穴をふくらませ、にやにやとした。
「認識によって、狂気の有無があるんだとしたら、狂気の原因はすべて外界に帰属する。そんなら、狂いと呼ばれる人らに責任なんかないじゃないですか。それにも関わらず、まるで狂っている者があるかのように振舞い、狂気はおかしなもののように考えられて、社会から遠ざけられている。妙な話しじゃないですか」
「狂気や、病気と言うものは死を彷彿とさせる。つまり、異世界だね。それを日常、見ていたくないと思うのも、人間じゃないか。しかし老化したら、自然と不具合も出てくるものさ。痛みの原因が何であるか、理解したところで、安心できるものかい」
「それができるんですよ。できるから、人は占朴をやるし、神社にお参りもするし、お彼岸にはナスやキュウリを置くんです。心がどこかにあると、考えている証拠です。これほど、医療も科学も進んでいるのに、心臓が心だと考えるほどの無知なんですよ。ありゃ、血液循環をうながすポンプだ」
「馬鹿にするな。心ってのは抽象概念だよ。本当に心臓を魂だと考えている人間など、現代にいるものか」
「だけど、精神、精神言う割に、改めて心が何かを考える人間は、そう多くありませんよ。強いてあげるなら、感情の表象でしょうか」
「どうだかね。感情なんて言葉を引っ張って来ると、パーソナルに向かうじゃないか。まあ、たしかに心ってのは、脳と身体の関係性が、表出された顔のようなものかもしれないが」
「つまり、そこに不具合が生じた時に、狂気の一端が出てくるってことですね」
「まあね。だけど、僕が言いたいのは、顔はすべてじゃなくて、部分だってことさ。胃腸が痛んだからメランコリーになるのか、メランコリーになるから胃腸が痛むのか。鼻がそげると、なぜ肝臓が痛むのか。心理学ってのは、そういうことだろう。精神分析とは違って、科学と考えてもいい。解剖学における展開があるからね」
「それじゃあ、赤也先輩もフロイトは科学じゃないって言うんですか」
「別に、人間を扱っているからと言って、科学である必要はないし、フロイトが科学かそうじゃないか、なんて議論は僕にとってはどうでも良いことだよ。それより、先の話しの続きをしようじゃないか。君は、なぜ人が老いるか知っているかい?」
すう、と目を細めてマッチをこすった。ぼお、とゆれる炎を眺めながら、微笑した。くわえていた煙草の先に、火をつける。
その時だ。店内は、突然真っ暗になってしまった。「停電?」と、辺りは騒然としていたが、僕は自然窓の外へと視線を移した。窓硝子を伝う、雫を見つめながら「ああ、雨が降ってきちゃった」と、場違いなことをつぶやいた。