
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門】紫水晶(アメシスト)15章、16章、17章、18章、19章、20章、21章、22章、23章、24章
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門 】紫水晶(アメシスト)
15章、16章、17章、18章、19章、20章、21章、22章、23章、24章
15章
オルぺウスごっこの終着点が、L'amore……「愛」とは、ドジの道行きも案外洒落ているようだ。ここは一つ、奴の手口を拝借するのも一興だろう。そう。オルぺウスの神話で、まずは女の子をロマンチックな気分に引きずり込む。相手のおんなは、もとよりエウリュディケーの見立てだ。俺が先にたち、繁華街を横道にそれる。ここは自信を持って、絶対に振り向いてはいけないのだ。やがて、人通りの絶えた小路の先、月明かりに照るはリストランテならぬ、地上の楽園ラブホテルの『L'amore』という寸法だ。ここに至って、振り返ってみる。当然俺のことだ、エウリュディケーは消えうせることなく、そこに立っているはずだ。はっは……
待てよ……奴に付き合ったせいで、どこを歩いているのか分らなくなったようだ。
俺は再び立ち止まった。もうとっくに地下街を抜け出していいはずなのに、前も後ろも相変わらず雑貨屋や宝石店、洋酒専門店、本屋、レストラン、鞄屋なんぞがうんざりするほど続いていて、堂堂巡りでもしているけはいだ。どうやら、習慣というやつを過信していたらしい。とりあえず、階段を探そう。地上にさえ出れば、まさかこの生まれ育った大都会の真ん中で迷子ということもあるまい。
ふと目に入ったショーウインドーの、ひっそりと照り映えるウェディングドレスが、やけに眩しい……
そう。交際も五箇月目に入る頃から、奴はすでに具体的にりん子との結婚について考え始めたようだ。のんびり屋の奴にしてはいささか性急な気もするのだが、もしかしたら、何かに追われているという切迫感でも覚えていたのかも知れない。
確かに現代というのは、あまりにも純粋なものが生きてゆくには少々毒が多すぎる。潔癖や誠実なんぞという骨董的美徳が通用しないことくらい、欲望の絡んだ昨今では常識だろう。要するに、清濁合わせ飲める強靭な消化器官なしには、強かには生きられないということだ。まったく、奴のようにおんなに対して免疫のない男は困る。
そんな奴だが、春めいた三月も下旬近くになって、ようやく雄としての本能が蠢動を始めたらしい。遅れ馳せの春一番が吹いて間もない頃のこと……
16章
「好きなんだ」
と、ぼく。
やっと言えた言葉だった。しかし、いささか表情に乏しかったきらいがある。抑揚が足りなかったのかも知れない。それとも、やはり……夕日に染まった海を見ながら口にすべきだったろうか。ともあれ、ぼくたちお気にいりのデートコースである動物園で、りん子の背に手をあてがい、ちょうど狸の檻の前だ。ムードこそ今一だが、お誂え向きに人影もない。それでも恥ずかしいので、視線は檻の中。
「そうなの」
と、事もなげなりん子。なんとなく、素っ気ない。顔が紅潮するどころか、いっそアルコールを塗られたみたいな感じだ。思い切って、もう一度だ。
「本当に、好きなんだ…………」
どうも、ぼくの科白は棒読み的というのか、我ながら情感ってやつが欠落しているようだ。むしろ、トリルからビブラートまでお手のものの、ハーモニカで表現した方が賢明だったかも知れない。知らず、ポケットのハーモニカをまさぐりかけていると、りん子もようやく重い口を開いて、
「わたしもよ。うん。けっこう親近感を覚えるのよね」
「親近感って?」
「ええ。わたし、小学生の時、『豆狸』って、渾名をつけられてたことがあるの……ううん、ずっと低学年の頃よ」
「……たぬき……?」
「そうよ。あなた今、狸のコト好きだって言ったでしょ。渾名のコト思い出しちゃって」
なんてこった。要するに、ぼくのように言葉に情感の託せない人間は、正確な文法をもって話さなくてはいけないのか。ええい、もう一度だ!
「ぼくは、りん子さんのことが、大好き、です!」
りん子は、大きな目を少女漫画のヒロインみたいに一杯に開き、ピクンとぼくの方に顔を向けるや、おかしいくらいに頬を染めた。ついで、「いや!」という小さな悲鳴とともに、ぼくの腕を振りほどいて走ってゆく。
訳が判らないままに、ぼくは後を追った。手にしたポップコーンが風に乗る。風の道を割って、徒競走の小学生みたいに、トコトコけなげに走るりん子が見える。しなやかな豆狸? ぼくは狩人だ。ぼくは野獣だ。ダプネーを追うアポローンだ。君は月桂樹になってはいけない。流れる血を持った、ぼくのフィアンセであれ。
ようやく、りん子が一つの檻の前に立ち止まる。背中を見せて、ちんまり観念しているようだ。ぼくも追い付いて、両手をそっとりん子の肩に置いた。小さな肩が弾んでいる。てっきり、ラブストーリーのワンシーンじゃないか。
と、なんと……目の前の檻の中、素性の悪いエテ公め、大っぴらに交尾をしゃがる。りん子がくるっと、ぼくの方にからだを向ける。計ったように、そのからだがぼくの腕の中にすっぽりと収まってしまう。丸い、なだらかなりん子の肩がとってもあったかい。目の前にシッカリとりん子の顔。まだ少し息が荒い。りん子の唇がはにかむようにピクピク動く。繊細な歯並みが時々しっとりと光る。透明な言葉が、ルージュの匂いに乗って漂ってくる。ぼくは、その意味を了解する。しかも、一続きの流れのように、そうしないわけにはゆかないのだ。
ぼくは、初めて、りん子と唇を合わせた。ピリッと痺れたっきり、一瞬世界中にぼくたち二人だけしかいないような気がして……
おもむろに、顔を離す。しばらくの間、りん子は目を閉じたままだ。それから、コクリと何かを飲み込むよう喉のあたりを動かし、そっと目を開く。目薬をさした後のようだ。瞳の中で、ぼくの顔がユラユラと、ぼくのこころみたいに揺れている。
「……わたしも……至さんが、好き」
りん子の、染みいるような言い方。息が詰まるほど切なくなった。少し人目もあったけれど、周りのやつらなんかてんで気にならない。いっそ、見せ付けてやりたい気分だ。
「ぼくは、その千倍、君が好きだ」
「わたしは、その一万倍……」
りん子はそう言って、ぼくの肩に頬を擦り寄せてくる。生きてるんだな……と、ぼくは思った。
17章
俺としてもこのあたりになると、何をか言わんや……屋根裏で埃に塗れていたオルゴールを開けたような、黴臭い気恥ずかしさを覚える。
そう言えば、奴がエレベーターの中で偶然出くわしたという大神専務に誘われて、昼食をご馳走になったのもその頃のことだ。どうやら、りん子のことでも考えて、一人ニタついていたのをからかわれたらしい。奴自身のどぎまぎする様子が目に見えるようだ。とっさに話題をそらすべく目を走らすところ、大神専務の左手の薬指に真新しいバンドエイドが巻かれてあるのを見付け、これを幸便に水を向けたという。専務はついはぐらかしたそうだか、このバンドエイドのイキサツ、後に俺の知れるところとなった。
なんでも、奴がナイフの扱いが上手いという話を立ち聞いた大神専務が、自分とてガキの頃はナイフを常にポケットに忍ばせ、竹とんぼなんぞ造作なく作れたとほくそ笑んだそうだ。ゴマ擂りの女子社員どもが、わーステキと媚態をくねらすのに気をよくしたものか、さっそくペーパーナイフ代わりに愛用しているというカスタムナイフを取り出し、靴べらと一緒に吊してあった孫の手を素材に妙技を見せつけたという。
ところが、指先は思うにまかせず、竹とんぼが造形されるまでもなく、産毛も剃れるというナイフの刃先で自らの指を断ち切ってしまったとのことである。鼻白むグルーピーどもを前に、専務は構わず竹を削り続けたものの、血だらけの竹とんぼはついにいっさいの飛行を見なかったという。
たまたま居合わせた同僚の話によると、その時の専務の形相はすさまじく、ここまで追いつめられた苦しげな表情をついぞ見たことはなかったとのことであった。
一方、又妙な噂が耳に入ってきた。りん子のおんなっぷりも奴を愛することで俄然高まったのだろうが、西洋的グラマー好みの大神専務が、りん子のことを「いい娘だ」と、しみじみ呟いたという。しかも、自分の年齢に対して弱音を吐いたとも聞く。めったに、そんなコトを口にする男ではなかったのだが……
18章
四月に入った。今日はあまり暖かくはないけれど、背中に時々チクチクとした感覚を覚え、やっぱり粉っぽい春の大気だ。
会社の昼休み、屋上でりん子と二人ぼんやりと外を眺めている。それだけで、なんだか充実している。一年前までの自分のコトを考えると、ゾッとする。孤独で猫背の、年取った顔のない青年。むしろ、他人のようだ。
そういえば、りん子を知ってからというもの、いつだってぼくのこころにこびりついていた《瞳の中の風景》を思い出さない。あれは、確か、ぼくが小学校の二、三年くらいの時だったろうか……
至少年はその日、一人部屋の中でハーモニカを吹いていた。春の光がレースのカーテン越しに差し込んでいて、時間も居眠りしているみたいだ。学校は休みだったけれど、朝から一日じゅうの留守番で退屈していたのだ。そして、何よりもからだがだるかった。遊びにくる友達もいなかったし、だからといって腕白どもの子分になって走り回る気力も体力もない。少年は部屋に横になり、何気なくハーモニカのボディーに自分の顔を映してみた。もっと浅黒い、逞しい顔になりたいと思った。
その時、ふと、ハーモニカに映る瞳の中に、何か揺らめくモノを発見したのだ。なんだろう。少年は、もっともっとハーモニカを顔に近づけてみた。すると、瞳に点る小さな光の点の中に、葦のような植物が何百本も風にそよいでいる風景が見えたのだ。少年は驚いて、まばたきをした。とたんに、風景は消えた。少年は期待を新たに、再び瞳の中の光の点を凝視する。角度を変え、何度も何度も試みるうち、葦の見える風景の奥に、ハッキリとしたもう一つのけしきが開けているのを発見したのだ。
そこには、早朝の光に照る小川が流れていた。長閑なせせらぎの調べが聞こえるようだった。覗き込めば、きっと水底(みなそこ)の小石が見えるほどに透き通り、銀色に光るいろくづの姿も見えるはずだった。けれども、その川の向こう岸には、まるで永遠の夜を封じ込めたような真っ暗な森が見えたのだ。そして、川のこちら側には一本の丸太がさながらベンチみたいに置かれてあり、その丸太は空洞だった。
その日の夜、少年は高熱を出した。そして、熱に魘されながら、《瞳の中の風景》を夢に見た。川の近くにも行ってみた。思ったとおり、小魚たちがのんびりと泳いでいたし、あたりはやっぱり早朝の清々しい光に包まれていた。少年は嬉しくなって、躍る魚を目で追いながら丸太に腰掛けようと小腰を屈めた。そのとたん、向こう側の森が出し抜け目に飛び込んできた。何もかも、闇の中に溶かしてしまう常夜の森だった。少年は叫んで目を覚ました。
少年はその日以来、ハーモニカや壊れた顕微鏡の反射鏡を使って、いつでもその風景を見た。そして、空洞の丸太のことを、『死のベンチ』と名付けた。あのベンチに、ぼくはもうじき座るんだ。少年は毎日そう考えて恐がった。
時は流れ、いつしか少年の奇癖はなくなったけれども、《瞳の中の風景》だけは、繰り返し夢の中に現われたものだった。
話し終えると同時に、
「ねえ、もしもよ。いつか夢の中で、そのベンチにわたしが座ってたら、どうする?」
なんとも含みのある質問だ。ぼくはりん子の肩に手を置き、即座に答えた。
「きっと、すぐに君の隣に座っちゃうぞ。そうすれば、正面に見える夜の森も、小鳥の囀る朝の森になるのさ」
目を屋上の内に向けると、五、六人のおんなの子たちが輪を作って奇声を発してる。そういえば、まだりん子と知り合う前に、りん子もそんな輪の中にいたことを思い出した。その方に視線を流していたりん子の眼差しが、ふうっと曇ったようだ。いつも明るいりん子なだけに、目を細めての寂しそうな表情はすぐに判る。
ややあって、りん子は笑顔を取り戻してから、ぼくの方に顔を向け、
「わたし、なんだか最近、お祭りの輪からのけ者にされてる気がするの」
しんみり訴えて目を落とすのに、ぼくとしては昨今のイジメのコトを連想し、相談を受けたせんせになったようで、しばし考え込んでしまった。
と、不意にりん子が囁くような声で、
「ねえ、わたし…………」
言い差したのが、
「あっ、そうだわ!」
不意に声を高めて、パンと両の掌を合わせると、
「ねえねえ、お祭っていうんで思い出したんだけど、今年の夏、お休みをもらって仙台の七夕祭、見に来ない? 八月の六日から三日間なの。ねっ!」
りん子は無邪気な口調で、仙台の実家ではぼくが泊まれる部屋は空いてるし、遠慮なくと、もう決まっているコトのように何度も念を押した。しかも、母親に会って欲しいと、それとなく仄めかしたのだ。最後に、改めて念を押すように指切りげんまんを強いると、自分の方から腕組みを求めてきた。ついで、はしゃぎ回る輪に向かってツンと意地の悪い視線を送り、
「そろそろ、行きましょ」
と、キッパリ言って、ぼくを引っ張るようにして歩き出した。
19章
奴は元来地味なタチで、りん子と二人喋喋喃喃とじゃれていればそれだけで満足だろうが、若いおんなというのは時に大勢でわいわい羽目を外すのも楽しいと思うものだ。按ずるに、りん子の覚えた一抹の寂しさは現代特有のものかも知れない。おそらく、奴とりん子のような星菫派的恋愛は、他の連中には毛色の変わった異端と映ったのだろう。
奴が俺に語ったコトに、奴は中学生の頃、休み時間、人のいない所で一人よくハーモニカを吹いていたというが、別に誰からも苛められた覚えはなかったという。そう。一見貴族的風貌といい、たまたま母親の離婚で遠縁の家とはいえ山の手のお屋敷に寝起きしていたこともあって、下司の庶民感情における苛めの埒外にあったせいだろう。もしもこれがどぶ板の貴族というなら、徒党を組んだちんぴら学生どもが奴を排除しようと暴力を振るったであろうことに間違いはない。
建前の多様性とは裏腹に価値観が統一化されつつある現代では、すば抜けた羨望のバリアなしに個性ある片隅を持つことは難しいものだ。
それにしても、俺はいつまでこの地下街を彷徨い続けねばならないのか。さっきからきょろきょろと注意しているはずが、なぜか地上への階段が見つからないのだ。人に訊くのも田舎者になったようで照れ臭いし、やれやれ、とりあえずベンチでも見付けて、自販機の缶コーヒーで一服、奴の手記を改めてめくってみることにしよう。
20章
ぼくがハーモニカを肌身離さないように、りん子も日本歌唱集の本をいつでもバッグに入れて持ち歩く。手作りだという洒落たカバーが気が利いている。クリーム地の滝縞で、りん子がきものとして着たら似合いそうな色柄だ。劇場の休憩所や喫茶店では、りん子は決まってその本を取り出す。二人でぱらぱらとめくりながら、題名や歌詞のちょっとした言葉をきっかけにぼくたちの会話はよく発展してゆく。
今日もそんな調子で、大きな公園の噴水の縁にりん子と二人で腰掛けている。お芝居の開演時間までにはまだ時間があるので、なんとなく座っている。風が少し強いせいか、遠くの桜の花びらがぼくたちの足元にまで流れてくる。りん子の髪にも二ひらほど引っ掛かっているのだけれど、妙に可愛いので敢て教えない。
一頻りおしゃべりが済んだあと、りん子がぼくが手にしたハーモニカを指差し、
「わたしにも、ちょっと吹かせて」
と、言う。何気なく手渡そうとしたがハッと思い、慌ててハンカチを取り出し、叩いたり擦ったり大掃除だ。
りん子は、
「もう、そんなコト、いいのよ」
と笑顔まじりに言ってハーモニカを奪い、ひよこを持つように両掌に包んでから、どこか芝居じみた所作で目を閉じると、小さくはじかせた唇を柔らかく押し当てた。それから、パッと目を開き、イタズラっぽい流し目を送る。ぼくが空けているのに、りん子は急に照れ臭そうに笑みを広げ、ぼくの肩に腕を載せると、頭を下げて顔を隠した。
キスのふりだったんだと、やっとぼくは了解した。
りん子はおもむろに顔を起こすと、歌唱集を開いてぼくに差し出し、背筋をしゃんと伸ばしてから、ぼくのハーモニカを吹き始める。ぼくたちお気に入りの、晋平・雨情のコンビによる名曲だ。今日は、ぼくがこころの中で歌うことにした。
雨降りお月さん
雲の蔭
お嫁にゆくときゃ
誰とゆく
名人のぼくからすれば、まだまだと思っていると、りん子は意味深に同じメロディーを二度繰り返す。「お嫁にゆくときゃ」というところだ。いくらドジなぼくでも、この符合には合点がいった。そのように、リフレインを終えた直後、まったく同時に目が合った。一瞬、時が止まったみたいだ。その瞬きの間に、ぼくは、りん子の白無垢姿まで思い浮べてしまう。
りん子は二番も吹いた。ぼくはすかさず歌詞を追って……
いそがにゃお馬よ
夜が明けよう
手綱の下から
チョイと見たりゃ
と、続くはずなのに、りん子のハーモニカは、「いそがにゃお馬よ 夜が明けよう」というところで、プツッと絶えた。りん子はハーモニカを唇から離すと、ついてしまったルージュを拭き始めた。どうしたんだろうか、りん子の目に少し涙が浮かんでいる。ぼくが何か言うよりも早く、
「ここ、風が強いわ」
と言って、素っ気なく立ち上がった。さり気なく涙を拭い、髪を軽く掻き揚げたとたん、りん子の髪にしがみついていた花びらが、向こうとこっちにひらひらと舞い落ちた。
21章
ペットショップからでも逃げ出してきたのか、俺の座っているつい向こうに一羽の銀色の兎がのっそりと現われた。
しかしこいつ、どう見ても可愛いとは言い難い。図体もでかく、その赤い目が老獪にして陰険の印象を与え、しかも、舌を鳴らした俺の顔をやけに憎さげに一瞥するや、再びのっそりと遠ざかってゆく。アリスの真似でもないが、迷ったついでに不思議の国にでも案内してもらうか。俺はなんとなく、後をつけてみる気になった。
ところで、りん子のコトはさて措き、その頃から奴の会社での意見が少しづつ空回りを始めたようだ。
奴は会議の席上、広げた指を家族に見立て、この結束の結晶化したものこそ人間の魂だと主張する。ところが、現代はどうか。家族の離反が画策され、各個撃破とばかりそれぞれに刺客が差し向けられているという。指の一本一本は協調を忘れて、外部の機械に接続され、ついては、共同作業の結晶であるところの魂を人間は喪失するにいたると予言する。
奴によれば、玩具の世界に於て、家族の結束を取り戻し、機械仕掛けの悪魔と戦うべきだとやたら勇ましい。ところが、その悪魔とやらの正体こそ、現代の資本主義社会であり、その狡猾なシクミであると拳を振り上げれば、いかんせん、そんな世界的大組織の末席を汚すのが我が「ファンタジー商事」とあってみれば、社員失格は目に見えている。
花はいかんせん、控えめに咲くに限るのだ。桜の花に準えるほど俺は雅びではないが、やはり開きすぎた花は散りゆく宿命でも担っているらしい。
そう。いつぞや、奴は会議が終わったあとのトイレで、俺の目を見据えながら、青臭い口調で捲くしたてたことがあった。
曰く、現代というのは、その表面上の豊かさを背景に、こどもたちを与えられた欲望にしか反応しない単純なハードに改造しようという策謀に満ちている……と。奴の意見では、市場経済における自由とは、つまりは誘導のことらしい。ディズニーランドに人が群がるのも、クリスマスに浮かれるのも、ブランドに血眼になるのも、自由選択とは裏腹の狡猾なる誘導、いっそ強制のなせるわざにすぎないそうだ。
話を聞いているうち、この俺まで藁の頭の操り人形だと罵られているような気がして、つい反撃に出るのも止むを得ない。
ふん、それがどうした。誘導だかトレンドだか知らねえが、とりあえずは市場の競争に勝ち抜くことだ。勝ったやつには富が約束される。カネさえあれば、車も家もおんなも、すべて一級品が手に入る。結果、人生が充実する。文句があるか。つい凄んでしまった俺に、奴は吐き捨てたものだ。君のような人間のコトを、欲望の垂れ流し人間っていうのさ。
やれやれ……、紙面では景気の翳りが取り沙汰される昨今、競争のフィールド以前に退場の、馘の心配をした方がよさそうだ。
22章
愛……そんな言葉使うと、時々笑う人間がいる。
いや、ぼくの周りにはけっこうたくさんいる。なぜだろう。ぼくは思うのだけれど、もしかしたら悔しいのではないだろうか。連中はこころの床が腐りかけていて、ズシリと重いものを保管しておくにはすでに、あまりにも脆弱になり過ぎていることを内心感づいているのかも知れない。だからこそ、しいて、軽いものしか求めない。辛いことや苦しいことが、とっても嫌いな人たちなのだろう。だからこそ、時に強靭な床を持っている人間を見ると癪に障るのだろうか。本当は、そう見えるだけで、歯を食いしばって、必死に踏張っているだけというのに……
うっとりと色づいた夕暮の五月の空を見ながら、ハーモニカを吹いた。もちろん、りん子がそばにいる。デートの帰り、りん子のアパート近くの小さな公園で急に吹いて欲しいと言ったのだ。もう一曲もう一曲と、りん子がせがむ。
隣のベンチの、枯れた老夫婦と思われるのが、微笑ましそうにぼくたちを見守ってくれる。遠い将来のぼくとりん子のように、仲が良い。
学習鞄をぶら下げたこどもたちが時々物珍しそうに寄ってくるけれど、ちっとも恥ずかしくなんかない。りん子もそんなふうで、やけにしんみり聴いている。
それでも、暗くなる頃には公園を出て、りん子のアパートの前まで来た。いつもはせいぜい駅のところで別れるのだけれど、公園に立ち寄ったせいか、なんとなく来てしまった。アパートの入口は狭い路地の奥で、猫こそ見かけるが、人影はまるでない。
二階の角だどいうりん子の部屋には地味な緑色のカーテンが垂れ込めていて、女の子の華やぎはあまり感じない。
でも、部屋の中は案外正反対なのかも知れない。なにせ「豆狸」のことだ、部屋中狸の縫いぐるみが溢れていて、りん子の帰りを待っているんだろう。
ちょっと、想像を逞しくしてみよう。
ぼくが一緒にりん子の部屋に入ったら、狸たちはびっくり仰天で、身じろぎもしないだろう。でも、縫いぐるみたちにもやがて分るはず。ぼくが、こどもの眼差しを持っていることが。そうさ。こどもにとっては、縫いぐるみも生きているんだから。さあ、どうしよう。そうだ。ぼくはりん子をお姫さまみたいに横に抱いて、部屋の中をくるくる回ってやろう。りん子はきっとコトコトと笑ってくれるさ。少しずつ目が回ってくる。縫いぐるみたちのいのちに、ネジを巻いてやるのさ。
初めに反応してくれるのは、お茶目なオルガン爺さんかな。つい浮かれて、「証誠寺の狸囃子」のイントロを自動演奏で奏でてくれるだろう。そうなりゃ、ぼくのポケットのハーモニカも敗けてはいない。空中に浮かれ出て、伴奏に合わせるはず。
じきに、我慢し切れなくなった狸の縫いぐるみたちが、腹堤を打ちながら踊り出してくる。さあ、パーティーの始まりだ。ぼくはもっともっと、りん子を抱いたままくるくる回って……そのうち、床も天井も窓も机もオルガンも縫いぐるみも、上下左右の区別もつかないほどにくるくる回って、めくるめくアラベスクに変容するんだ。目に見える物質の世界を超えて、光輝く愛の極地へ……でもさ、考えてみれば、愛の極地へなんかそんな簡単に到達してはいけないんだ。長い長い時間に醸されて、ようやっと馥郁と香り出るエーテルみたいなものなのかな……そうそう、焦ることなんてない……その前にぼくの足は縺れて、りん子を抱いたまま、縫いぐるみの狸たちが喝采するベッドにもんどりうって……
それにしても、今日のりん子はどこかおかしい。とにかく、ぼくは埒もない空想を断ち切ると、「じゃあね」と、言った。普段なら、ニコニコ笑って軽く手を持ち上げるりん子なのに、ジッとぼくを見詰めている。何かを訴えているようだ。首をゆっくりと横に振っているようにも見える。ぼくが空想を切断したことを非難してるみたいだ。
と、不意に、りん子が左手でドレスの胸元をやけにつらそうに掴む。あまり目立たない乳房の膨らみが露になった。眉根を切なそうに寄せ、息苦しそうな表情だ。しかも、その大きな目が、悲しい映画を見た直後のように潤んでいる。
死が見えるほどに、感動が透き通ってしまった。
「わたしだって……別に……」
りん子が、ちょっと反抗的に呟く。ふと、年上のお姉さんになったみたいだ。
「どうしたの?」
ぼくの方は、多感な少年の気分。りん子は、この瞬間をキリキリと圧縮するように、相変わらずぼくを見詰めたままだ。つい、照れ笑いの表情が浮かびかけるのに、
「……抱いて、わたしを……」
湿った声で、りん子がポツンとそう言った。晴天の空から出し抜けに落ちてきた、星のかけらみたいだった。それから、いっそ荒っぽくぼくの手を掴むと、グイグイと自分の方に引き寄せるのだ。まるで、ぼくの掌を自分の乳房に押しつけようとでもするようだ。ぼくは万力か何かで胸が締め付けられるような気持ちで、もはや声もなくりん子の無謀に逆らった。それでも、りん子は精一杯の力を出しているみたいだ。ぼくが無意識の裡に手首を捻ったとたん、りん子の顔が歪み、擦れた溜め息のような泣き声が唇から漏れ、ついで大粒の涙が無造作にぼくの手の甲に落ちた。思わず、ぼくの手はりん子の力にあらがえぬままに引かれ、乳房を掠めてその腕を掴む形で落ち着いた。次の瞬間、りん子があからさまにぼくにしがみついてくる。そして、耳に息を吹き掛けるような調子で、
「して……」
そう囁いたのだ。半分嬉しかった。けれども、半分悲しかった。りん子が、そういう言い方をするのがイヤだった。ぼくはりん子の左のほっぺたの小さなホクロにキスをすると、走って帰った。
23章
奴は大馬鹿だ。救いがたいまでの低能だ! おんなを抱くという行為は、単なる性欲の問題のみとは限らない。俺のようなちゃらんぽらんでも、その位のコトは心得ている。ある場合には精神愛以上に精神的なやさしさをこそそこに求めているのであって、それに応えられないがために、そのおんなをとんでもない崖っぷちに追い込むことにもなりかねない。奴は大馬鹿だ。救いがたいまでの低能だ!
そのせいかどうか、奴もりん子同様、確実に周りから異端者扱いされ、排除され始めたことに間違いはない。指先機能の復権という奴の玩具への主張も、所詮デジタルに大きく舵を切り始めた『ファンタジー商事』の体制下に於ては、壇ノ浦以降の平家にすぎないのだ。一時は決定しかけた奴の企画である古来からの玩具の展示会も、初めからなかったことのように中止された。加えて、守旧派の頼みの綱たる会長が倒れたのを幸便に、さだめて大神の入れ知恵だろうが、リストラを兼ね、情絡みの懸案であった下請けアナログメーカーの切り捨てが社長命令によって断行されたのだ。
再度、噂である。なんでも社長はまだ小さい自分のこどもの誕生日プレゼントとして、新開発のゲームならぬナイフを贈ったという。酒の席で奴がナイフの扱いがうまいと大神専務が言うと、社長は笑って応じたそうだ。へいたいのくせに生意気だ……と。
顔を持つこと、個性を輝かせることはいかなる社会に於ても大切なことだと教えている。これは多分に嘘なのだ。利口なやつならそのことを知っている。一見個性がありそう、実は一つのパターンというのが一番安全なのであり、存在権が与えられる。奴のように桁外れの純情さや、その本質が剥き出しになった個性というものは、社会に於てはいっそ異物として映るものだ。突っ走れば、奴言うところの、こころの床が完全に抜け切った機械仕掛けの悪魔が、いかなる悪辣なことを企むかも知れないのだ。
はて、ついうっかり目を逸らしたせいか、さっきの憎ったらしい兎の野郎を見失ってしまった。どうやら、アリスは失格らしい。なに、どのみちあいつが道案内を買って出たというわけでもあるまい。
24章
ぼくは、第二の誕生日ともいえる五月三十日、りん子にプロポーズしようと思った。あと、一週間ほどだ。りん子は二月生まれである。アメシストの指輪を買うことにした。
アメシスト……紫水晶について、ぼくにはちょいとした思い出がある。そう。ぼくは昔、たった一度だけモノを盗みたいと思ったことがあるのだ。小学生の時、理科室でのこと。理科室の後ろに岩石標本のケースが備えつけられていて、その中に紫水晶の原石があった。掌に納まってしまうほどの大きさで、別に宝石のように目をひくほど美しくもない。けれども、ぼくはどうしてもそいつが欲しかった。ぼくだけの、掛け替えのない宝物になってくれそうな気がしたのだ。しかも、お誂え向きというわけでもあるまいが、その紫水晶の原石の置かれてある近くの硝子が割れていたのだ。手に取って、何度も何度も見詰めたことがある。そのままポケットにでも忍ばせてしまえば、たぶん誰にも見つからなかっただろう。しかし、ぼくにはそれが、どうしてもできなかったのだ。
りん子の唇の味とは比較にならないけれど、今日の酒はいつもよりうまい。なんだか、バッカスになった気分だ。
酔余の戯れに、ビル掃除のお父さんから譲り受けた週刊誌のグラビアを開いてみる。清楚なブラウスを荒っぽくはだけたお姉さんが、しどけなくベッドにのけぞっている。記事に興味があったわけではないのに、なんでこんなエッチな週刊誌をもらってしまったのだろう。そうさ。今宵のぼくはバッカス……陶酔の神なんだ。正直に言おう。お姉さんの撫で肩のからだつきが、ちょっとりん子に似ていたから。着痩せするタチなんだろうか……意外に豊かな乳房……ついでに、濃い影に煙る恥じらい……もちろん、目鼻の造作は似ても似つかない。それでもやけに心臓がドキドキする。スカートはまるて誰かに無理矢理脱がされたみたいに、ベッドの下によじれている。小さな犯罪を犯してみたいのだ。ぼくは震える指先に鋏を摘み、グラビアのお姉さんの顔を無惨に切り抜くと、裏側からりん子の、一番生真面目に写っている写真を押し入れて……