
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門】紫水晶(アメシスト)プロローグ、1章、2章、3章、4章、5章、6章、7章
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門 】紫水晶(アメシスト)
銀騎士カート紫水晶(アメシスト) あらすじ
玩具メーカーに勤める至(いたる)青年は、何事にも自信の持てぬ人間であったが、女子事務員りん子に思いを寄せることで、積極的に生きることに目覚める。デジタル全盛である時代に逆らい、アナログ的思考を以て社内で頭角を現す。
一方、デジタルの急先鋒でもある専務の大神は、幼少期の忘れ得ぬ少女の面影を、古風のふぜいを宿すりん子に投影、無理心中を計る。至青年は、鏡の中に別人格を作り上げて平穏を保とうとするが、すでに彼の歩みは死の世界へと向かっていた。夢のような地下街を彷徨いながらも、やがて、子供時代に死の象徴と思い定めた瞳の中の「死のベンチ」で、至青年を待つりん子に再会する…
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門 】紫水晶(アメシスト)
プロローグ、1章、2章、3章、4章、5章、6章、7章
※ プロローグ
目覚まし時計のベルが鳴り始める。六畳ほどの、こざっぱりと片付いた洋室。空っぽの屑籠。机の上、無造作に放り出されたアナログの腕時計。真新しいリングケース。
通勤用のスーツの下がる壁には、蕗谷虹児の叙情画のすり込まれたカレンダーが懸かっていて、可憐な娘が薄闇を見詰めている。八月六日の日付が赤インクで囲まれ、それ以降は剃刀で裂いたような鋭利な線条で末梢されてある。
カーテンの隙間から、明度の高い朝の光が差し込んでいる。
……ベルが止む。
1章
いけねぇ、すっかり寝過ごした。
出勤の準備慌ただしく、ついネクタイの結び方を忘れて狼狽えたが、なに、家を飛び出し、いったん電車に飛び乗ってしまえば腹を括るしかない。後は、何年もの習慣が自動的に会社のデスクまで連行してくれるだろう。
幸いラッシュアワーのピークは疾うに過ぎていて、吹き出す汗も霊安室さながらの冷房に一気に引いた。
電車が発車する寸前、ふと車窓に己れの顔が幽霊のように浮かび出る。やれやれ、存在感希薄な間延びのした面。どことなく、奴(やつ)に似ている気がしたはいかなるこころの作用だろう……
奴……というのは、同僚の井口至(いたる)のことだ。勤務先の『ファンタジー商事』は古参の中堅玩具メーカーながら、近年の家庭用ゲーム機市場の隆盛に乗って路線転換著しく、特に数年前若手社長に代わって以来優れた企画ならどしどし採用とあって、能力次第で出世のチャンスはかなりある。
そうはいっても、奴は俺なんぞと違ってめっぽう気が弱く、企画会議ではさながら萎れた観葉植物。そもそも、まともな遊び方すら知らない朴念仁の、唯一の特技として懐古的唱歌をハーモニカで吹くことくらいしか芸はない。
それにしても、ラッシュアワーを過ぎた車中というのは、どうしてこうも老いぼれが多いのだろう。いろっぽいのでもいれば、少しは視覚的犯罪という暇つぶしもできように。かといって、時間にコウルサい窓際課長への言い訳を考えるほど殊勝でもない。
糞! なぜか、スマホが圏外。あいにく週刊誌も新聞も手元にはないが、たまたま奴から預かっている手記がここにある。アホなスマホゲームなんぞよりは、いっそこいつを拾い読みしてみるほうがましかも知れない。
実を言うと、俺と奴とは幼馴染みという間柄ながら、長年意識したことも親しく言葉を交わす機会とてなかったものだか、つい二箇月ほど前、とある事件をきっかけに急速に親密の間柄になったしだいである。手記を託されたのもそのせいだ。
とにかく、奴の話はいつでもりん子との出会いから始まる。奴いわく、こころのビデオを巻き戻すように……
2章
ぼくはこどもの頃から、本当に自信のない男だった。たぶん虚弱体質のせいで、ごく幼い時分から死を意識し過ぎていたせいかも知れない。そのせいか、ぼくの自尊心はおのずと純粋培養の温室の中、いかなる傷も恐れる、臆病な宿借りみたいになってしまったらしい。
だからこそ、ぼくはそんなひ弱な素顔をひた隠すために、いろんな仮面を時に応じて掛け替えてきた。ある時は卑屈な道化師の仮面であり、又ある時は排他的な老人の仮面。そして、実社会に出るにあたってぼくが最終的に被った仮面は、人畜無害の「のっぺらぼう」ってやつ。
でも、りん子との出会いがそんなぼくを変えた。
りん子……というのは同じ社の事務員である。りん子に出会った……というよりも、この地上にりん子の存在を初めて知ったのは一年前の五月三十日、社内食堂でのこと。窓辺の隅っこで、ナポリタンなんぞを品よく食べているりん子を見たのが初めてだった。丸顔の、ずいぶんと小柄なおんなの子で、教会のマリア様のように色が白く、いわゆるいろっぽいとか派手な顔立ちというのではなかったけれども、足元からひきずり込まれるような圧倒的なオーラを、その時ぼくははっきりと感じたのだ。
彼女はいつでも、下界を見下ろす決まった席で食事をしていた。連れはせいぜい同僚の女子事務員といったところだ。
ぼくは毎日毎日、彼女を見詰め続けた。もちろん、十分に距離をおいて。当然、視線が合ったわけでもなく……まあ、仮に合いそうになっても、ぼくは意識的に目を伏せてしまっただろう。
そうさ。ぼくは夢見る少年のように、ただひたすら彼女を見詰め続けたのだ。繊細さをもった緻密な濃い眉、「へ」の字を逆さまにしたような唇の線がなんとも魅力的なのだ。しかも、彼女の場合、笑顔がたとえようもなく素晴らしい。一度ぼんやりと見惚れてしまい、箸で摘んだ豚カツを味噌汁の中に落としてしまったくらいである。莟が柔らかくほころぶような……とにかく、紡いだ綿菓子みたいに、ぼくのこころにそっと絡みついてくる笑顔なのだ。
二箇月、三箇月と彼女を見詰め続けるうちに、ぼくは間違いなく恋に落ちてしまったのだ。彼女の顔を、何気ない仕草を思い浮べるだけで、胸の中が締めつけられる。何としてでも彼女に近づきたい。が……ぼくなんかが好かれるとはどうしたって思えない。
その上、初めの印象を裏切るように、彼女が光を受けたガラス細工さながらに目立って輝き出すのだ。菫の花のように目立たなく、固い莟のように未熟でいて欲しいというぼくの願いを裏切るように……
週が改まったとたん、少しばかりヘアスタイルが変わった。もちろん広いおでこをシッカリと見せた長い黒髪に変わりはないのだけれど、ちょっとウエーブが強くなったみたいだ。彼女のこころを波だたせる、恋風でも吹いたのだろうか。しかも、いつもセミタイトのスカートだった彼女が、後ろにスリットの入ったやけに煽情的なタイトスカートをはいて来るのだ。ハイヒールの踵もめっきり高くなって、階段を少したどたどしく上ってゆく彼女の後ろ姿に、ドキリとする艶めきを覚えたこともあった。
そのせいか、食堂での連れに男性が混じってくる。どいつもこいつも長身のイケメンで、ぼくの何倍もスゴイやつに見えるのだ。彼女が楽しそうに雑談をしている。少しおどけて首を傾げたり、おっとりと笑いかけたりもする。てっきり、デートの約束。時には、食堂の指定席に姿を見せない日もある。ああ、へたをすれば明日にでも彼女が、見知らぬ大男に奪われてしまうかもしれない。胃がキリキリと痛む。目眩がする。呼吸が苦しくなる。もう、堪らないのだ。
……で、ぼくは決心をした。額に指で一本の線を引いてみた。ぼくは、戦士になろうと思った。
3章
なに、要するに奴はインディアンの戦士に己れを準えようとしたらしい。愛の戦士。いかにも奴の考えそうな小児的発想だが、ま、俺に言わせれば奴は戦士どころか、情けなや「恋の奴」というわけだ。事実、奴が信じるほどに得難い美女とは思えない。胸も低いし、足にしても脚線美とはお世辞にも言い兼ねる。己れの美意識よりも、見栄のために周囲の目を意識するのが現代人の流行とあってみれば、奴がやきもきするほどモテるおんなとも思えないのだが……
電車が止まる。いつもは大勢乗り込んでくる駅のはずが、やはり扉の向こうに控えるは数人のわびしさ、とはいえ……待てよ、その中に目を引くナイスバディーがいる。いいねえ。りん子なんぞと違って胸高く、足長く、つい鼻の下がのびかけたが、やれやれ、乗り込んできたのはおんなの彼氏らしいバイクのヘルメットを小脇に抱えた野郎だけ。いかなるわけあいか、おんなは別れを惜しむよう涙なんぞ見せていたが、扉が閉まるや、ヘルメットの彼氏への未練なんぞ糞を食らえの冷淡さで視線を切り、何事もなかったように髪を掻き揚げて遠ざかる。
電車が動き出す。おんなの汗ばんだ胸の膨らみが追うもむなしく視界から消え去るに代わって、線路沿いの墓石ローンの看板が目に飛び込んだ。糞っ、縁起でもねえ。首を戻し、車内の吊し広告に目を転ずると、何の雑誌か『幽霊特集号』とぶつけている。「背後霊の特典」「地獄の沙汰もカネ次第 その真相」等々……
とにかく、奴は仕事の出来ない幽霊のような男におんなは絶対に惚れないというアホな定義を信じ込んでいたらしい。「幽霊」と書いて「つやごとし」、「駄目男」と綴って「いろおとこ」と読ませる奥義なんぞ奴にはいらぬお世話だろう。
そのように、奴は企画会議の席上、人が変わったように熱弁を振るい始めたのだ。もとより萎れた観葉植物の突然変異に周りの連中がつい吹き出すのも止むを得ぬ仕儀ながら、委細かまわず、ほとんど何かに憑かれたように自己主張を続けてみれば、馬鹿の初一念あらたかに、その意見がやがて凄味を増し、時には会議室全体をシンとさせる迫力すら持ち始めたのだから恐ろしい。
まずは開口一番、ワンタッチのビンの蓋、赤ん坊のような握り方でも中身の絞れる歯磨きのチューブ、缶切り不要の缶詰等々、すでに既成事実となった便利主義を突拍子もなく俎上に乗せ、進化を遂げた万能とも言える十本の指の機能を現代は忘れてはいないかと批判したのが、そんな状況下で育つこどもたちはやがて頭を使うことも面倒がり、ついにはコンピュータのごとく既存のソフトでしか作動しないへいたいに成り下がってゆくかも知れないというところまで極論する。そうならないためにも、すでに一大産業である玩具業界の力にに於て、指の機能を復権せよ、人間性を奪還せよ。
拳を握り、テーブルをゴツンゴツンと叩いての堂々たる演舌ぶりは、少し前の奴の姿勢からは想像だにつかない。
無論、奴の意見そのものは別に目新しくもなく、いっそ陳腐にして幼稚とも言えるのだが、これが一つの波紋を社内にもたらしたのは事実のようであった。
そもそも『ファンタジー商事』は戦後まもなく、野球盤をもって急成長をとげたアナログ玩具の老舗とあって、指先こそ凝縮された身体とばかり各種スポーツ盤を目玉に根強いファンの信望を得ていたものである。
それでも世の趨勢には逆らえず、前社長の時代よりコンシューマーゲームに進出したものの、創業者でもあるデジタル嫌いの会長の鶴の一声によるアナログ分野の温存が祟り、業績の不振は目をおおうべきものがあって、路線の狭間に心労のすえ、決断力に劣る前社長は頭の配線が切れて急逝の憂き目であった。
結果、会長の孫にあたる三代目が跡目をついだわけだが、こいつ三十代の若輩のくせにやり手で知られ、社の路線をデジタル一本に絞りたいとの意向のもと、からだの衰えた会長を無視し、古株の番頭連をも蹴落としにかかっているというのが現状であった。
かかる状況に於て、奴の発言は何をもたらしたか。そう。会長に身命を賭する守旧派の番頭どもを活気づけ、若い世代からもアナログ玩具への回帰を読み取った会長にしても俄然気力横溢、三世の若手社長の独裁を崖っぷちで阻止するという梃子に利用されたのだ。
もちろん、奴に社内の派閥まで操ろうなんぞという目論みがあったはずもなく、畢竟信じるところの意見を述べたまでながら、守旧派の重役に目をかけられてみれば、ここに一つの手応えを覚えるのも無理はない。
まあ実情はどうあれ、奴も奴なりに努力することで、多少なりとも男の自信といったものが持てたのだろう。奴はやっと、一つの賭に出たのだ。なんともはや、珍妙なる方法で…
4章
ぼくは、なんとなく、こころのリズムに乗る自信が持てるような気がしてきた。逆巻く生の濁流の中、今、初めて水底に両足をついたような、そんな実感だ。
同時に、彼女への思いは募るばかりだ。彼女を知ってから、四箇月、五箇月と空しく時は流れる。
彼女を失ったら、ぼくは死ぬ!
酔余の戯言らしい走り書きに、そんな文字がくねっていた。未だかって味わったことのない、より強く、より鋭く、より深く、人生そのものを根こそぎ左右しかねない立体的な感情の塊がむくむくと、容赦なく育ってゆく。
……だというのに、きっかけすら掴めない。部長に異数抜擢されることのほうがどれほど容易いことか。少なくとも、ぼくは社員として登録されているのだ。しかし、彼女のこころに、ぼくなんか絶対に登録されているとは思えないのだ。今なら、社長に直訴する勇気すら持てそうな身だ。思い切って声を掛ける以外手段はないはず。けれども、自分の気持ちを淀みなく伝えることができるだろうか。しどろもどろで、大恥をかくのが関の山だろう。
ぼくは月に向かって叫び、拳を握り、何度も何度も額に線を引いた。そして、一つの手段を思いついたのだ。そう、手紙。ただし、切手を貼って投函しようと企んだわけでは断じてない。てっきり、戦士の自尊心さ。彼女に声を掛けたあと、これを読んで下さいと手渡すのだ。もちろん、そのまま逃げ出すような卑怯者にはなりたくない。しばらくは瞑目して、俎上の鯉さながらに、じっと運命の声を待ち受けるのだ。
前略
本来ならば、直接お話しなければならないところな
のですが、生れつきの口下手故、文字に置きかえる失礼
をお許し下さい。
ぼくの名前 井口至(二十七歳 独身)
勤務先 『ファンタジー商事』第二企画部
趣味 ハーモニカ
ときに、今年の五月三十日、社内食堂にてゆくりな
くも貴方がナポリタンを食しているところをお見掛け
して以来、貴女を好きになりました。貴女の笑顔が忘
れられません。
ぼくと、交際して下さい!
5章
俺は奴からこの話を聞かされた時、正直言って腹を抱えて笑い転げてしまった。どこぞ深窓のご令嬢でもあるまいに、気楽に「ハーイ」と声を掛ければ済むものを。
どだいおんなという生き物は、いつだって男に声を掛けられるのを待っているものだ。笑顔で応えてくれたらラッキー……そっぽを向かれても、男たるもの、いくらでも捨て台詞のバリエーションは用意しているはずだ。
しかし、考えてみれば、博物館の隅から掘り出してきたような奴のこのシャイな純情さ、さだめてある種のおんなには通じるのかも知れない。……と思いながらも、奴の言葉を借りるならば「決行日」とやらの、ほとんど手術を前にした重病人さながらの面つきを想像してみれば、吹き出すなと言う方が無理な話だ。
6章
もうじき冬なんだな、とぼくは思う。冬ならば思いっきり寒い冬がいい。しかし、冬の真っ只中に春が訪れないとも限るまい。いや、少なくとも賭に出た人間、もはや勝ち負けを考えてはいけないはずだ。ぼくの初めての……ふうっと、最後の賭のような気にもなってくる。
チャンスは思いの外早くやってきた。十一月半ばのことだ。ぼくに無意識の計算があったのだろうか。それとも、賭に出た人間には、おのずと一つのチャンスが与えられるのだろうか。もしそうなら、運命ってやつもなかなか味なものだ。
仕事が少しばかり遅くなった日。エレベーターに乗ろうとしたとたん生憎と扉が閉まってしまい、仕方なく階段をとぼとぼ降り始めた時だ。
ああ、偶然にも途中でバッタリと彼女に出くわしたのだ。心臓が釣り上げられた魚のように躍る。淡いピンクのブラウスに黒のベスト、それにトレンチ風のベージュのコートをはおった彼女。なんとも言えない清潔感といったものを、彼女はごく自然に持っている。ぼくが常々思い描いているムードにぴったりなのだ。こころの内側をトロリと溶かしてしまうような、悲しくなるほど眩しい白無垢のような、そして、一緒に唱歌を歌いたくなるような……
絶妙の距離を保ちつつ彼女に歩を合わせゆっくりと階段を降りていたにも拘らず、悪い癖の夢見る少年になってしまったせいか、気がつくとすでに一階。なんてことだ。人もいないし、せっかくのチャンスだったのに。ぼくの期待がげんなり萎み始める。空気に溺れるって、このことかな? フロアには何人もの人影がチラホラしていて、ぼくの頓馬な行動を笑いを堪えながら見物しているみたいだ。
ちょっと捨て鉢な気分のままいったん出口の方に踏み出してみれば、元来早足のタチ、さっさと彼女を追い越し、つい先に外に出てしまう。
打ちつけ、激しい後悔の雷に打たれ、ほとんど無意識の裡に歩を止めた。後から来た彼女がさり気なくぼくの左側を通り過ぎる。かそけき春の予感。少しぬくもりを秘めた甘い香りをほのかに覚えた次の瞬間だ。
「あの、すみません……ちょっと……」
思わず声が出た。今だ! 見兼ねた運命の女神に背中を押されたのだろう。
「えっ、わたし?」
間髪を入れずに彼女が振り返る。ツンツンと、小鳥の胸のにこ毛を引っ張ったような、澄んだ無邪気な声だ。えい、当たって砕けろ!
「実は……あの、あなたに、つまり、その、お話したいことが……」
「お話って?」
彼女が、なんだか困ったような表情で視線を落とす。たぶん、ぼく自身、葬儀場の受付みたいに陰気な顔でもしていたのかも知れない。ぼくはいつだって、こころの裡と表情とがちぐはぐなのだ。場違いの式場に迷い込んだみたいな、バツの悪い間……
彼女は唇をキリリと引き締めると、上目遣いの非難のまなこで一瞥するや、歩を進めようとする。
「あの、どこか喫茶店で、少しの時間でも……」
自分がいかにも間抜けに思える。風が冷たいのが唯一の救いだ。
「どんなことです?」
シッカリとした彼女の声。
「その、たいしたことでは……」
間延びのしたぼくの声。
思わず、少し笑ってしまった。もとより笑顔を作るゆとりなぞあろうはずもなく、典型的な自嘲ってやつさ。しかし、結果的には大吉。なにせ、彼女の方もわずかに口元を綻ばせてくれたのだから……
ともかく、喫茶店でテーブルを挟むことには成功した。ほっと一段落なのだが、ウェイトレスを早く追っ払いたくて、好みも聞かず勝手にコーヒーを二つ注文してしまう。
それにしても、コーヒーがなかなか来ない。もしかしたら、ブラジルまで注文に行ってるんじゃないかな? その間、ぼくはといえば、意味もなくスマホを覗き込んだり、ポケットに手を入れて何かを探す振りをしたり、我ながら何をぐずぐずしてるんだと叱りたくなるような有様だ。
彼女の方は目を伏せ、もぎたてのプラムみたいな固い表情で、ジッと黙している。
それでも、氷水で喉を潤し、遠路アラビアのブラジルから運ばれてきたアフリカのモカのキリマンジャロをブラックのままふた口ほど啜ってみると、だいぶ気分も落ち着いてくる。いいぞ。この分なら、姑息な手に訴えずとも……
「あの、実は……」
コーヒーカップの把手を指先で弄んでいた彼女が、待ち構えていたように顔を上げる。黒目勝ちの目が、一瞬大きく見開かれる。思った以上の凄さだ。出し抜けに突き付けられた鏡の前、素っ裸で座っているような気分だ。やはり、駄目だ……
素直に観念すると、意を決してかねて用意の手紙を内ポケットから取り出した。見れば、だらしなく縒れている。てっきり今のぼくのこころだ。指でなんとか伸してから彼女に差し出すと、
「なにかしら……?」
用心深そうに言って、手を出そうともしないのに、
「読んで下さい!」
もう、破れかぶれだ。彼女は訝しそうにためらいつつも、そっと手を伸ばして受け取ると、手紙を開き……
目を閉じる初めの計画を変更し、ぼくは彼女の姿が隠れるほどに視線を落とすと、腕時計の秒針を追った。
……十五秒経過……誰かの圧し殺したような笑い声……三十秒経過……そろそろ返事が返ってくるだろう……四十五秒経過……喫茶店のBGMはショパンの『別れの曲』だ……なんだか、縁起が悪いな……一分経過……鼓動が駆け足を始める……一分十五秒経過……このまま、黙って店を出ようかな……一分三十秒経過……自殺するなら、飛び降り自殺がいいだろうか、それとも、首をくくって……一分四十五秒……カチっという金属的な音。
上目に窺えば、彼女はハンドバッグを開き、そのしなやかな指の延長のような細身の万年筆を取り出すと、ぼくの手紙を片手で隠し、何やら書き入れている。それから、イタズラっぽい笑みを口元に燻らせながらこちらに差し出すや、頭を深く落としてコーヒーカップの把手を再びコソコソと引っ掻き始める。
手紙を見ると、(ぼくと、交際して下さい!)と綴ったそのすぐあとに、細い丹念な字で次のように書かれてあったのだ
◎します。
あなたと、お付き合い{
×しません。
わたしの名前 後藤りん子(二十四歳 独身)
勤め先 『ファンタジー商事』秘書課
趣味 ハーモニカを聴くこと。
やったぜ! 思わず叫びたいところだったけれど、ここは男のたしなみってやつさ。グッと堪えて、ちょっと文学的微苦笑に頬を歪めただけ。それでも、ミルクピッチャーのミルクをコーヒーカップではなく、グラスの水に注いでしまったは愛敬だろう。彼女が、キュッと冴々しい三日月形に口尻を引き上げる。その分、ぼくの頭は朧月だ。何から話し出そうか口ごもっているぼくに、彼女がさり気なくきっかけを作ってくれた。
「あなたのハーモニカ、とってもお上手ね」
「えっ……!」
「あなた、よく屋上で吹いてるでしょ」
「ぼくが吹いてるの、知ってたの?」
「ええ。だって、あんなコトしてるの、あなただけよね」
「……おかしいかな」
「そんな……」
彼女が指を丸めたまま手を小刻みに振る。むきになったような顔つきといい、こどもっぽい仕種だ。
「でも、あなたが吹いてるの、いつも唱歌ね。好きなの?」
「うん。君は……?」
「そうね。わたしはお部屋じゃ、中島みゆきさんとか手嶌葵さんの歌なんか聞いてるけど。あなた、この間、『夏は来ぬ』っていうの吹いてたでしょ。再認識しちゃったわよ」
「だけど、もうじき冬が来るっていうのに、変に聞こえたんじゃないかな」
「あっ、そうねえ」
彼女がスウッと息を吸い込むようにしながら、顔全体を綻ばせる。口と一緒に目も、おまけに肩まで笑う。グラビアのモデルなんかには絶対作れない表情だ。
「他にも、なかなかいい曲があるんだ……」
彼女が、心持ちからだを乗り出してきた。
7章
奴は鈍感で、気がついたのは後になってのことだろうが、要するにりん子の方も奴に気があったということだろう。そんなコトとは露知らず、奴は半年間で確実に何キロか体重を減らしたのだから始末におえない。もちろん、かかる苦行あればこそ、りん子と知り合えた当日が人生最高の一頁であったことに間違いはない。
おっと、いつのまにか乗換駅だ。急ぎ足にエスカレーターを駆け上がり、通路を渡って再びエスカレーターを駆け上がれば、折よく電車が入ってくる。
やはり、車内はガラガラだ。普段と違って座席中央に大きく足を組んで腰を下ろし、つい習慣のままに左腕に目を落とす。やれやれ、腕時計を忘れてきたらしい。なに、いまさら時間なんぞ気にしても始まるまい。
とにもかくにも、奴はりん子に本気で惚れ込んだらしい。
俺はといえば、間違ってもおんなには惚れない主義だ。男とおんなの愛なんぞ、いくらキレイ事に潤色したところで、所詮、盲目的憧憬から利己的独占欲をへて憎悪にいたるまでの判り切った道筋にすぎないものだ。迂闊に溺れれば、教条的宗教家と偏執狂的犯罪者との混血になったような地獄が待ち構えているやも知れないのだ。すでに古典となったかかる文学的苦痛を背負いこまないためにも、現代人たるもの直観的におんなを嗅ぎ分ける必要がある。
まず、どこに出しても通用する絶世の美女というのは、案外危険ではない。この手のおんなは、自信のある男なら落とすまでが眼目であって心底惚れることもなく、又相手にしても女王様気取りの愚かな自惚れをもって玉の輿を夢見ているのだから、孕ませない限り切れるのはいっそ容易い。
その点、りん子のようなタイプは最もキケンなおんなの典型だろう。注目し始めないうちは叢に紛れて目立つことはないが、いったん注視したが最後、あたかも底無し沼に引きずり込まれるように魅せられてゆく存在だ。こういった手合いとは、いい加減な気持ちで遊んでやろうというわけにはゆかない。一度でもからだの関係を持つと、鳥もちのようにへばりつかれてなかなか別れにくい。そう。言ってみればこころのどこかで、素直に結婚を意識しないわけにはゆかない。だから、スマートに遊ぼうというコンタンならば、ゆめ近づかないに限る。
しかし、奴のようにその手のおんなに確実に惚れてしまったからには、最早手遅れというものだ。仮に、奴がりん子と結婚したところで、浮き浮きしていられるのは初めの半年か一年だろうし、後には夢の屍骸を引きずり続けるような、ねっとりと重い、ひたすらに重い数十年が待ち構えているはずである。愛というのは決して溺れるものではなく、性欲と、一つの契約であるところの結婚の両方に使える、建前上のパスポートに過ぎないのだ。
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