米国による1945年8月6日の原爆投下から80年となる2025年8月6日を迎えた。「広島原爆の日」の1日の動きを追う。

午前0時 広島市中区のアルバイト花岡光昭さん(78)は10分ほど前に到着し、原爆ドームを見上げながら6日を迎えた。父の五一さん=約50年前に73歳で死去=は、広島県呉市広の自宅から自転車で被爆直後の広島市内に駆けつけたと話していた。「救援のためか、おむすびを持ってきたらしい。詳しい話はしたがらなかったが、地獄を見たんだろう」。

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広島原爆の日の原爆ドーム前

 

同 原爆慰霊碑前で、広島市南区のお好み焼き屋の店主折田圭子さん(53)と従業員の大霜幸巨さん(56)=南区=は約20秒の間手を合わせた。約10年前から仕事終わりに毎年2人で訪れているという。大霜さんは被爆2世。祖母は20代、母は1歳の時に被爆した。祖母は当時のことをあまり話したがらなかったという。「戦争が絶えない世の中。個人として無力感、変われないのかなと思うこともある。ただ、広島に生まれた人間として原爆で亡くなられた方に安らかに眠ってほしいと願っている」

慰霊碑前で祈る人々

 

午前1時15分 神奈川県相模原市の郵便局員安田慎司さん(23)は職場の労組の行事で広島を初めて訪れた。食事の席を抜け出して平和記念公園内を散策。「街中でもこの時間帯は本当に静か。被爆当時もきっとそうだったのだと思う。寝ている人もいれば酒に酔って散歩してる人もいたのだろう。そんな穏やかなたくさんの暮らしを一瞬にして奪われたのだとあらためて感じた」。

対岸からの原爆ドーム

 

午前1時20分 原爆慰霊碑前で広島市中区のアルバイト前角胡太郎さん(20)は保育園からの幼なじみ2人と慰霊碑を訪れた。約20秒間、手を合わせ深く頭を下げた。前角さんの亡くなった祖父は戦中、学徒動員で銃弾を作っていた。「今のお前くらいの歳の子はみんな工場で働いていた」と話していたことが記憶に残っている。「祖父の言葉を忘れずに戦争の恐ろしさを後世に伝えていく」

午前2時 1歳の時に猿猴橋近くにあった自宅で被爆した広島市西区の中原里枝さん(81)が、慰霊碑に折り鶴を手向けた。中原さんを含む家族7人が被爆し、母は原爆症で1年もたたないうちに亡くなった。「こんなにつらい思いをする人がもう出てほしくない。核兵器をなくすため、広島の被害を全世界に知ってもらいたい。一人一人にできることは限られるけれど、子どもたちが平和とは何か考えること、いたわりあうことできっと良い世界になる」

午前2時45分 京都市の庭和田(にわだ)文枝さん(79)は昨年の日本被団協のノーベル平和賞や80年の節目を受け、平和記念式典に参列するため約30年ぶりに広島市を訪れた。原爆の子の像前で「一生懸命折り鶴を作り、がんばって生きようとした佐々木禎子さんを思うと胸が痛む。戦争はみんながひどい目に遭う。世界でそれが続いている現状がある。人間ってだめなんだと思ってしまうけれど、この像を見るとあきらめず進まなくてはいけないと思える。語り部の人が少なくなる中、経験していない世代が語り継ぐことが大切だ」と話した。

午前3時 原爆供養塔で広島市西区の会社員でキリスト教を信仰している橋本芳済(ぽせあ)さん(62)は、15分間祈りを捧げた。これまで亡くなられた方に対して真摯に向き合えているのか自問自答があったと橋本さん。今回、初めて供養塔を訪れた。「もっともっと亡くなられた人と原爆の歴史と向き合っていく」

祈る人
慰霊碑前で祈る人たち

 

午前3時30分 原爆の子の像前で広島市西区の30代女性は被爆3世。被爆80年の節目を受け、約2時間かけて原爆慰霊碑からドームまでを回り手を合わせた。小学生のとき、被爆者だった祖父から、祖父の母が市内へ行き帰って来なかったことや母を探すために祖父が入市被曝したことを聞いた。原爆慰霊碑で手を合わせた時、曽祖母や祖父を思い思わず涙が出てしまったという。「戦争で苦しむのは市民。世界平和を望む」

午前4時 広島市南区の調理士井手本将典(いでもとまさのり)さん(61)は、午前1時に続いて2度目の訪問。原爆慰霊碑に手を合わせた。父が入市被爆している。「まもなく仕事で広島を離れる。この光景を目に焼き付けたいと思いもう一度来た」。「式典に参列する各国の人がどういう思いを持つか。それぞれの国で何ができるのかを考えてもらいたい」

広島の平和記念式典会場
慰霊碑前で祈る親子

 

午前4時50分 午前5時からの会場規制を前に、原爆ドーム前に集まった団体「8・6ヒロシマ大行動」に対して広島市が退去を呼びかけ。

午前5時25分 式典前の平和記念公園を歩くため訪れた広島市東区のパート従業員男性(68)は「拡声器の音が響き、何事かと驚いた。デモ隊の方にも主張したい思いはあるのだと思うが、平和を目指すのであればもうすこし穏やかにできないものか。他県から平和を願いに来た人にも印象が悪くなる」と話した。

午前5時40分 式典会場へのメインゲート前で入場を待つ人の列が平和大通り沿いまで伸びた。

メインゲート前

 

午前6時 式典会場へのメインゲートで入場開始。

メインゲートから会場へ
平和記念式典の会場の様子

 

午前6時20分 広島市中区の新井英夫さん(81)は2歳で入市被爆している。優先入場口から入った。「昨年は1時間以上並び、汗だくになって大変だった。今年はすぐに入れた。改善していただけたと思う。高齢の被爆者が行列のせいで参列を諦めることがなくなり良かった」と話した。

午前6時45分 ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中煕巳代表委員が杖をつきながら来場。「核を取り巻く状況はプーチンさんがウクライナに侵攻した時もさらに悪化している。80年間の被爆者の思いを一つでも実現できるように頑張らないと」
 

日本被団協の田中煕巳代表委員

 

同 広島県東広島市の地方公務員平尾元(はじめ)さん(64)は待機列について「毎年30分ほど列に並んで待っていたが、ことしは一般入場口でもすぐに中に入れた。開場時間が早まった影響かもしれないが負担が少ないのはありがたい」と話した。

午前7時30分 愛知県名古屋市の小学校教諭の児玉隆徳さん(44)が清水エスパルスのユニホーム姿で散策。この日ピースウイングである天皇杯のサンフレ戦を観戦する。「海外では戦争が続いている。スポーツが楽しめるのは平和だからなのだとあらためて思う」

清水エスパルスのユニホーム姿で参列

 

午前7時40分 フランスから初めて広島を訪れた大学教員フィオナ・スチュワートさん(34)は、平和記念公園のベンチで式典を待っていた。配られた式典資料の平和宣言(英語)を読んでいた。「とても美しい街。でも80年前の出来事を決して忘れてはいけない。式典後に被爆体験講話に参加して学びたい」

午前7時45分、平和記念式典の会場の様子

午前7時45分 千羽鶴を持って平和記念公園を訪れていた会社員糸崎誠吾さん(38)=広島市中区=は、2年前くらいに曽祖父と祖父が被爆者だと知った。32年ぶりに再開した母から知らされ、驚いた。本川町で被爆死した曽祖父を探しに広島市内に入った祖父は黒い雨を浴びたという。祖父、母と受け継がれてきた平和の大切さを自分もつないでいかないといけないとの思いを強くし、有志に呼びかけ1カ月で完成させた千羽鶴に願いを込めた。

午前8時 平和記念式典が始まる。120か国の参加国・地域数は過去最多。参列者数は約5万5000人。核保有国はアメリカやイギリスなど。初参列はパレスチナや台湾。ロシアは欠席。ベラルーシは参加。イスラエル、イランも参加。

【広島市長の平和宣言】私たち市民は決してあきらめることなく、真に平和な世界の実現に向けて、核兵器廃絶への思いを市民社会の総意にしていかなければなりません…
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平和宣言を読む広島市長 平和宣言を読み上げる松井一実市長

【こども代表の平和への誓い】世界では、今もどこかで戦争が起きています。大切な人を失い、生きることに絶望している人々がたくさんいます…
⇒こども代表 平和への誓いはこちら

こども代表の平和への誓い 平和への誓いを発表する佐々木駿さん㊧と関口千恵璃さん

【首相あいさつ】非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組を主導することは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命です…
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首相あいさつ あいさつする石破首相

【広島県知事あいさつ】核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか…
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知事あいさつ あいさつする湯崎知事

【国連事務総長あいさつ(代読)】ただ再び街を創り上げたのではありません。再び希望を創り上げたのです。核兵器のない世界という希望を育み、それを世界中と共有しました…
⇒国連事務総長あいさつ(代読)

式典に参列した各国大使たち 式典に参列した各国大使たち
式典に参列した森保監督 平和式典に参列したサッカー日本代表の森保監督

 東京都国分寺市の大学院2年生鈴木雅稀さん(23)は、相生橋でカメラを手にしていた。8月6日の営みを映像で残す大学の研究プロジェクトの手伝いで、朝5時から巡っていた。原爆ドームからのデモの声が聞こえており、「警察の警戒が厳しいからびっくりした。新宿や学内で戦争反対を掲げて立つ姿が前よりも目立つ。この日を静かに祈りたい気持ちも、戦争反対と声を上げたくなる気持ちもどちらも分かる。どうこの日を過ごすのがよいか判断が難しい。暴力的手法はどうかとは思う」

午前8時15分 原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)のライブビューイング会場となったエディオンピースウイング広島(広島市中区)。黙とうした静岡県沼津市の会社員常木俊孝さん(30)は「平和と、サッカーができることに改めて感謝したい」

同 原爆ドームそばの相生橋では多くの人たちが、原爆投下時刻に合わせて黙とうを捧げた。

 

午前8時20分 「8・6ヒロシマ大行動」が原爆ドーム前からデモのため出発。

午前8時30分 広島郵便局原爆殉職者の慰霊碑がある南区の多聞院に遺族たち約60人が集まった。父を亡くした広島市南区の自営業福原不二雄さん(80)は「今は世界中で簡単に命が失われている。もっと平和の大切さを考えてほしい」と願った。

広島郵便局原爆殉職者合同慰霊祭

午前8時35分 岡山県浅口市のパート従業員平井忠美さん(67)は相生橋から平和記念公園を眺めていた。「最近岡山県内で戦争の歴史に触れる機会が多かったこともあり、今年は8月6日に広島に行かねばと思い立った。この場に来ないと感じられないこともある。青春時代に岡山で空襲を経験した両親はどんな思いで当時を過ごしていたのだろうと考えていた。同時に今の自分の幸せを噛みしめている」

同 比治山女子中・高の生徒たちが、広島護国神社そばの中国軍管区司令部があった場所に設置されている慰霊碑前で、亡くなった先輩たちを悼む歌「ほろほろと」を合唱した。

合唱する比治山女子中・高の生徒たち

 

午前9時 平和公園西の「義勇隊の碑」前では、遺族会が収集した死没者の遺影82枚が並んだ。川内村(現広島市安佐南区)から爆心地近くに勤労動員された住民約200人は全滅し、遺骨が見つかっていない人も多い。生きた証を残したいと同会会長の柳原有宏さん(82)たちが4年前から遺族を1人ずつ訪ね集めた。今年も新たに2人の写真を集めた。叔母を亡くした玄道良浩さん(80)=西区=は「どんな亡くなり方をしたのかも分からない。会えて良かった」と遺影を見つめていた。

同 広島大付属中・高(広島市南区)で、原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集いが始まった。生徒や教員約50人が出席。慰霊碑に献花、献水をした。その後、生徒約20人が、卒業生で広島市の被爆体験伝承者1期生の保田麻友さん(40)から活動の経緯や思いを聞いた。被爆建物についての新聞を作る活動をしている高校1年河田実桜さん(15)は「いろんな人の体験や出来事を、自分の言葉で伝えられるようになりたい」と聞き入った。

 

同 広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式の会場では、式の開始前にビオラ奏者の沖田孝司さんが演奏。「赤とんぼ」や「ふるさと」の音色を届けた。

ビオラを奏でて慰霊する人

 

午前9時過ぎ 石破茂首相が原爆資料館に到着。東館3階「失われた人々の暮らし」のホワイトパノラマで原爆投下によって広島の街が焼け野原になる約2分間の映像を見ながら、石田芳文館長からの説明を受け、頷きながら耳を傾けた。9時35分頃に東館1階のエントランスに到着し、「芳名録」に記帳して退館。記載内容は「祈 平和な世界 令和七年八月六日 内閣総理大臣 石破茂」。

午前9時10分 広島市中区加古町の県職員原爆犠牲者追悼の慰霊碑に、隣接する中島小(同)の5年生の児童たち約70人が平和学習の一環で慰霊に訪れた。

 

午前9時30分 広島市中区小町の追憶之碑前で広島県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式が始まった。いとこを亡くした広島県三次市の84歳女性は今年初めて追悼式に参列。「もう来れるかわからない」と式典前に碑に刻まれたいとこの名前を手でなぞり、手を合わせ「絶対忘れないよ」と語りかけた。

午前9時40分 貞子の像のそばでベルギーから初めて広島を訪れたカップルに紙芝居「原爆の子 さだ子の願い」を英語で読み聞かせしていた被爆2世の中村由利江さん(74)=広島県府中町。25年間、この取り組みを続けている。府中町の中高生も賛同し2015年から一緒に活動をしてきた。母は爆心地から約1.5キロの土手町(現広島市南区)の自宅で姉を身ごもっている際に被爆。父は勤務先の旧国鉄に向かっている道中で被爆した。今年から長男の竜也さん(46)も参加。戦後80年たった今も戦争が続く情勢に「何で争うか不思議でならない。二度と80年前の広島と同じことを起こしてはならない」と憂いた。ベルギーから訪れたマートゥン・ステアートさん(27)は「この場所で彼女の話を聞けてとてもよかった。広島に来た意味があった」とかみ締めた。

午前9時51分 原爆資料館の入館を待つ長い列ができた。

原爆資料館の入館を待つ長い行列

午前10時10分 広島市中区の紙屋町地下街シャレオで被曝体験記の朗読会が始まった。参加者による原爆詩の朗読体験も。夕方まで日本語と英語計5回開催する。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が企画。

被曝体験記の朗読会

午前10時15分 広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)2年時に被爆した河田和子さん(93)=広島市南区=は、広島市中区小町にある同校の追憶之碑前で目を潤ませた。被爆翌年の8月6日から生徒たちが歌い継ぐ「哀悼歌」を口ずさみ「家族や友人を亡くした私にとって心の拠り所のような歌。皆実高の生徒が県女の被爆の歴史をつないでいってくれ、うれしい」と話した。

午前10時30分 広島市中区の基町高であった旧制広島市立中の慰霊祭。放送部2年の新地由依さん17は、1年生だった息子を原爆に奪われた母親の手記を朗読。「愛おしい息子を偲び、悲しみに暮れている母親の気持ちに、子供が好きな私はすごく感情移入した。この母親の思いも供養したいと思い、朗読した」という。

旧制広島市立中の慰霊祭

午前10時50分 広島市中区の紙屋町地下街シャレオの被爆体験記の朗読会に参加した埼玉県ふじみ野市の高校教諭、関口渉さん(25)。10月の修学旅行で計画する平和学習の下見で広島を訪れた。「朗読を聞いて、簡単に被爆体験という言葉でまとめられない一人一人のストーリー、人生、感情がそこにあった。生々しいというか。生徒には平和学習を通して人の痛みを知ることを学んでもらいたい」

同 広島国際会議場であった折り鶴の製作実演・展示を見た福岡県久留米市の主婦、谷口幸子さん(78)。20年前まで久留米市内の小学校で教諭として務めた。今年が初めての式典への参加だという「今まではテレビ中だけのものだった。今年は被爆80年の節目、絶対に参加しようと思っていた。子どもたちの宣言を聞いて感動した。成長して世界平和のために尽力してくれたら」と願った。

正午 原爆養護ホーム矢野おりづる園(広島市安芸区)に入所する被爆者を石破茂首相が見舞う。「鳥取の小学生だったころ、米国から提供された原爆投下から間もないころの記録フィルムのテレビ番組を教室で見た。世界には200くらいの国があるが、日本は原爆の被害を受けた、たった一つの国。それ(原爆被害)を二度と繰り返さないためにどうするか。原爆の被害を受けた方やそのお子さんに対して国として何ができるか、ということを休みなく考えていかなければならない」「(施設名「矢野おりづる園」に言及して)原爆の子の像がある。佐々木禎子さんという一生懸命に病気と闘って、鶴を折って12歳で亡くなった女性がいる。その思いを伝えていかなければならない」「記憶が薄れていくことを、私は何としても止めていかなければならないことだと思う。被爆の悲惨さをわれわれの世代、次の世代に伝えてほしい」

 

午後0時40分 千葉県市原市の平和大使の中学生7人が原爆の子の像に千羽鶴をささげた。戦争の悲惨さや平和の尊さを次世代に継承する市の派遣事業で訪れた。式典に出席し、慰霊碑を巡った。東海中2年川口晴希さん(13)は「平和な世の中がこれからも続きますようにと祈った。被爆者から聞いた話を自分の学校で伝えたい」と話し、原爆資料館に向かった。

折り鶴

午後0時45分 元安川沿いで開かれていたコンサート。広島市南区段原山崎町で被爆したピアノで、きらきら星変奏曲を響かせたアルバイト迫田光珠(みしゅ)さん(19)=南区=は「いつもとは違う重みのあるピアノで緊張したけど、世界平和を祈りながら弾きました。たくさんの人に届くようにこれからも自分にできることをしていきたい」と話した。海外の人も足を止め、拍手が送られていた。

被爆ピアノの演奏会

午後0時50分 平和記念公園の被爆アオギリ側でのアオギリ平和コンサート。三次市のコーラスグループ「アンサンブルPoco」が被爆ピアノの伸びやかな演奏にのせて「アオギリのうた」「翼をください」など平和や自由を歌う4曲を披露し拍手を浴びる。今回で出演は20回目。指揮の三待美早穂さん(64)=三次市=は「歌があるところにはきっと戦争がない。音楽は世界共通。思いや気持ちが心の奥に届くはず。原爆の被害を直接知らない世代の私たちはだから、歌う。次の世代に歌の喜び、幸せを伝えていく」とほほ笑んだ。

午後1時35分 国際会議場で基町高校原爆の絵画展。廿日市市阿品台の佐藤哲夫さん(75)は「自分たちが想像できない話しを聞いて、絵に表現する事は大変だと思う。次の世代に戦争の悲惨さや当時の人々の記憶を引き継いで行いってほしい」と見入っていた。

佐藤さん(左端)に説明する生徒

午後2時20分 爆心地の島病院(現島内科医院)前で、東京都の会社員中垣雄太郎さん(31)が空を見上げていた。被爆80年の8月6日に合わせて前日から広島に滞在している。「爆発で数千度となり、太陽が落ちてきたような地獄だったろう。日本人として忘れてはいけない。原爆資料館やドームを巡ってそう思う。ウクライナや中東で戦争が続き、核兵器の使用がほのめかされるような時代に80年たってまたなった。愚かなことをしてはいけない」。額に汗を浮かべ、初めて訪れた広島に思いを馳せていた。

午後2時21時 国際会議場での基町高校原爆の絵画展。東京都港区から区の派遣事業で訪れた洗足学園中1年浜田幸乃さん(12)は、基町高の生徒が描いた絵画を前に「多くの人にとって分かりやすい形で後生に残すことが、すてきな活動だと思った。世界中で戦争が起きる中、知ることが大切」と力を込めた。

午後3時  紙屋町シャレオ地下街で安田女子大文学部書道学科の学生が大判紙に「祈」などの文字を書き上げた。題字を担当した上部(かんべ)みあさん(20)は「80年の節目。一度起きたことは消えないが、日本の文化である書道を通じて原爆が投下されたということを伝えていきたい。世界平和を祈りながら書いた」と話していた。隣のスペースでは、海外からの観光客たちに書道教える学生の姿もあった。

午後4時 広島市中区のパート出張直子さん(49)は被爆者の母(86)と長女(8)と、紙屋町地下街シャレオであった被爆3世の家族写真展を訪れ、5年前に撮影された自身たちの姿を見つめた。「被爆の先にも人生があり、写真を通して子、孫へと家族の記録と記憶が受け継がれていく。大きくなった娘が、2年前に亡くなった被爆者の伯父との撮影を覚えていた」と目を細めた。

午後6時10分 被爆体験伝承者の津田久美子さん(68)=安佐南区=が原爆慰霊碑横のベンチに座っていた。夫と長男夫婦に次男夫婦、孫3人の計9人で訪れ、静かに慰霊碑を見つめていた。自身も被爆2世。昨年亡くなった被爆者の母は、あまりに辛い体験だったためか、原爆のことを語らなかった。被爆体験伝承者となったのは「代わりに自分が語ることができれば」との思いから。「若い人がいろんな形で被爆体験を伝承してくれている。もっともっと伝承の輪が広がってほしい」

午後4時5分 大竹市の美容師岡田栄子さん(74)は平和記念公園で平和の鐘を静かに鳴らし、10秒ほど手を合わせた。 親戚を探しに入市被爆した義理の母のために訪れた。義理の母は何も語ることなく、白血病で62歳で亡くなった。40代から入退院を繰り返していたという。「原爆はたくさんの人を苦しめた。つらかったと思う。核戦争が起きそうで怖いが、いつかは核がなくなると信じ、地域で少しずつでも伝えていきたい」

午後4時30分 大竹市出身の被爆3世で、フルート奏者として活動する建築家の畠中秀幸さん(56)=札幌市=が、中区の市青少年センターで演奏を披露した。「広島にとって特別な日に慰霊の演奏ができ、感動している。音楽を通して平和へのメッセージを次世代に伝えていきたい」と話した。午前中には近くの被爆樹木シダレヤナギの下でも奏でた。

フルートを奏でる畠中さん(中央)

午後5時45分 原爆ドーム対岸で、名古屋から初めて広島に来た南山中学男子部2年吉田修一郎さん(13)は、灯篭を手にして笑顔を浮かべた。「平和になるといいな」。国語の授業で佐々木禎子さんの話を読み、平和や広島について、もっと知りたいと思ったという。通っている英語塾で、広島で平和学習をするピースツアーがあると知り、応募した。「こんな悲惨なことが二度と起きないように、という思いを込めて灯篭を流す」。そう力を込めた。

午後6時50分 元安川で灯籠を流した主婦正田達子さん(86)=東区=は、初めて自分で灯籠を流した。2年前に亡くなった夫と毎年、この日に一緒に平和記念公園を訪れていた。「被爆80年だからか、いつもより混み合っている」と驚く。夫は矢賀小6年の時に矢賀の自宅で被爆した。「夫に会いたくなる気持ちが強まる日でもある。安らかに眠ってほしい」との思いで灯籠を流した。

 午後7時25分 父と祖父母が被爆した公務員石井圭子さん(53)=広島市西区=。父は西区で2歳の時に被爆し「防空壕から市内中心部が光ったのが見えた」と話していたという。父が亡くなった年齢と同じ年になり、40年ぶりに「とうろう流し」に参加した。「日々の言動に責任を持って生きます。安らかに眠ってください」と書いた。「多くの犠牲があって平和に生きられていることをかみしめた」と話す。 祖父は建物疎開中に被爆し、3日後に亡くなったという。

午後7時40分 原爆ドーム対岸の元安川を照らしたのは原爆犠牲者の鎮魂と平和への願いを込めた「とうろう流し」。願いが込められた光の帯を見ようと、元安橋にも多くの人が集まった。とうろうを流すまで90分かかる時間帯もあった。