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『幻肢(げんし)』第四章 第十七話|鏡の中の犬

    #創作大賞2025#ミステリー小説部門

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    第四章|再統合への道程

    第十七話|鏡の中の犬

    朝の光が、静かに床を滑っていた。

    赤みがかった茶色の毛並みのシエルが、ソファの脚元でこちらを見上げていた。

    「……おはよう」

    澪は小さく呟いた。けれど、シエルは声には反応せず、そのままじっと見つめていた。言葉ではなく、別のものを聴こうとしているかのように。

    その視線に、ふと胸がざわついた。あのときも、見られていた──そんな記憶がうっすらと浮かぶ。

    洗面台の鏡。病室の天井。閉じたドアの向こう。そして、水の中から見ていた目。それらはすべて、自分自身の内にあった目かもしれない。でも今、ここにいるシエルの目は、紛れもなく外からのまなざしだった。

    「……なにを、見てるの?」

    問いかけても、シエルは瞬きをひとつだけして、また静かに見つめ返してきた。その瞳が、小さな鏡のようだった。

    “あなたを見てる、ずっと。”──そんな声が、聞こえた気がした。

    澪は思わず、筆談ノートを手に取る。

    “シエル は みている”

    書いた直後、軽い吐息が漏れた。それは、少し前なら耐えきれなかった種類の視線だった。見られることは、怖いことだった。評価され、批判され、監視されるような感覚。けれど今の視線には、そういった尖ったものが何もなかった。

    シエルの目は、ただ「見ている」だけだった。澪の動き、表情、沈黙までも。裁くためではない。探るためでもない。ただ、そこにいることを、肯定するように見ている。

    昔──退院して間もないころ、シエルの目が直視できなかった時期があった。視線を合わせるたびに、何かを問われているような気がして、逃げ出したくなった。でもいま、ようやくその問いに、向き合ってみようと思える自分がいる。

    ソファの前にしゃがみ込み、シエルの小さな体をそっと撫でる。

    「ねえ……あの頃のわたしは、どんなふうに見えてた?」

    シエルは答えなかった。けれど、その温かな体温と、穏やかな瞳が、「覚えてるよ」と言っているようだった。

    筆談ノートに、澪は新たに書き加える。

    “わたしも みている”

    その文字を見て、澪はゆっくりと息を吐いた。

    “見られること”と“見返すこと”。

    そのあいだに、自分という存在が、少しずつ輪郭を取り戻していくのを感じた。シエルが尻尾を小さく振った。それは、「そうだよ」と肯定してくれるようだった。シエルの瞳の奥には、どこか記憶の底と似たような、やさしい静けさがあった。

    「あなたは、ずっとわたしを見ていたんだよね」

    澪がそう言うと、シエルは軽く鼻を鳴らして、耳を少し動かした。けれど、そのまなざしには、何の揺らぎもなかった。ただ、じっと──ずっと、見つめていた。それが、答えのようにも思えた。

    筆談ノートを開き、澪はふと考え込む。これまで、自分は誰かに名前を呼ばれるたび、「誰なのか」を確かめようとしてきた。でも今は、言葉よりも前に、「見つめること」で何かを受け取ろうとしている。そう気づいたとき、自然に手が動いた。

    “ずっと あなたの目に映っていた わたしは どんなふうだった?”

    書いた直後、その問いの深さに胸がきゅっとなった。

    言葉の奥にある願い──「自分を知りたい」という切実さが、そこにあった。けれど、問いは返ってこない。

    シエルはただ、そっと澪の足元に頭をあずけた。それが、精一杯の答えだったのかもしれない。

    「わたしね──」

    小さな声で澪が呟く。

    「いまでも、鏡を覗くと、そこにいる“わたし”が、どこか少し他人みたいに見えることがあるの。でも……」

    そこで言葉を切って、シエルの額に手を添える。

    「でもね、それでも、この目で見てみようって思えるようになった。逃げずに。」

    シエルが鼻を鳴らし、小さく尻尾を動かす。澪は微笑む。そして、もう一度ノートに書き加えた。

    “わたしは わたしを ちゃんと見ようと思う。もう 怖がらずに。”

    しばらくの間、部屋は静かだった。朝の光が少しだけ動いて、床に長い影をつくった。窓の外では、鳥のさえずりが遠く響いている。

    「ありがとう、シエル」

    澪の声に、シエルが顔を上げた。その目の奥には、何も語らない代わりに、すべてを知っているような静かな強さがあった。

    今、澪ははっきりとわかっている。見られることは、傷ではない。見つめ返すことは、痛みではない。それは、ずっと閉じられていた自己への扉を、そっと開ける行為なのだと。

    澪の中で、何かがやわらかく結ばれた気がした。それは、目には見えないけれど、確かな「存在」の証。筆談ノートの最後に、澪はもう一度ゆっくりと書いた。

    “ここに いる”

    それは、シエルのまなざしへの応答であり、同時に、もう一人の自分への、静かな宣言でもあった。

    第4章:再統合への道程/第十八話「ふたたび開くドア」へ つづく

    第十八話予告「ふたたび開くドア」
    内なる声と、愛犬シエルのまなざしを受け止めた澪。
    今、彼女は「書くこと」を通して、閉ざしていた世界との繋がりを、再び結び直そうとしている。かつて逃げ込んだ場所。静かに差し伸べられた手。
    そして、あのドアの向こうへ──。

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    静かに、物語を書いていきます。 香り、記憶、目に見えない違和感。 静かな物語の中に、 誰かの再生があることを信じて。 物語が、香りのように届いたら。 短編と連作を綴っていきます。 Tales: https://tales.note.com/yuzukiaone_0531

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