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『幻肢(げんし)』第四章 第十八話|ふたたび開くドア

    #創作大賞2025 #ミステリー小説部門

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    第四章|再統合への道程

    第十八話|ふたたび開くドア

    図書館の扉を押すのは、ひどく久しぶりだった。

    軋む音は昔のままで、けれど空気は少し違っていた。柔らかく、澪の輪郭を傷つけずに包むようだった。

    受付の奥にいた女性が、ちらとこちらを見て、小さく会釈をする。見知った顔ではない。けれど、その「知らない」ことすら、今の澪には怖くなかった。

    静かな館内。歩くたびに響く足音、紙の匂い、背の高い書架の影。かつては息を潜める場所だった。誰にも気づかれず、ページの隙間に身を隠すようにして過ごしていた時間。けれど今日は、自分の影が床に落ちるのを、ちゃんと見ている自分がいた。

    端の閲覧席に座り、リュックからノートを取り出す。開いたページには、昨日書いた言葉があった。

    “わたしは わたしを ちゃんと みようとおもう もう こわがらずに”

    ページの端に、ふと目が留まる。折り目の近くに、別の日に挟んだメモ紙があった。手に取ると、それは以前、純が澪のノートに書いてくれた走り書きだった。

    「そのノートは、澪さんの“声”なんだと思います。」

    その言葉が胸の奥で、静かに揺れる。

    声。

    澪には、ずっと「声」がなかった。言葉を話せないだけではない。誰かに届くものを、自分が持っていない気がしていた。

    でも今、ここにいる。ノートを開き、そこに綴る言葉は、たしかに自分の“声”なのかもしれない。

    “かくことは こわくない”

    ゆっくり、そう記す。

    そのとき、ふいに背後から、気配が近づいた。振り返ると、そこに立っていたのは笠井医師だった。

    「……こんにちは、澪さん」

    澪は軽く会釈した。ノートを閉じようとした手を、笠井がそっと制した。

    「大丈夫。見せて、もらってもいいですか?」

    澪は一瞬ためらい、けれどゆっくりページを広げた。

    “かくことは こわくない”

    それを見た笠井は、深くうなずいて、言った。

    「これは――あなたの“声”ですね。澪さんが選んだ言葉は、ちゃんと届いていますよ」

    その言葉に、胸がきゅっとなった。

    “ちゃんと届いている”。

    自分の存在が、誰かの中に触れている。そんな実感が、ふわりと心を満たした。

    帰り道、笠井は途中まで澪に寄り添った。

    季節は確かに進んでいて、道端の紫陽花が色づき始めていた。

    「僕もね、子どもの頃、自分の家のドアを開けられない日があったんですよ」

    笠井がぽつりと言った。「外の音が、全部怖く聞こえる日が、ありました」

    澪は頷いた。まるで、昨日の自分のようだったから。

    「でも、誰かが内側から開けてくれるのを、待つのをやめたときに、少しだけ変わった気がします」

    笠井はそう言って、信号の前で立ち止まった。「澪さんも、ゆっくりでいい。自分で開けたいと思ったら、それが始まりだと思いますよ」

    澪は、アパートの前で立ち止まった。

    小さなエントランス。ポストに貼られた自分の名前。鍵を出す指が震えていたけれど、その震えも否定しなかった。

    鍵が回る音がした。

    ドアが開いた。

    あの冷たかった玄関の空気は、今日は少しぬるい風が通り抜けていた。

    シエルが駆け寄ってきて、短く鳴いた。澪は「ただいま」と心の中で呟きながら、靴を脱ぎ、部屋へ入った。

    小さな窓から差し込む光が、床の上に淡い四角形を描いていた。

    その中に、シエルが丸くなった。

    澪は机に向かい、再びノートを開いた。

    ゆっくりとペンをとり、ページの中央に書いた。

    “すこしずつ つながっている”

    たったそれだけの文が、今の澪のすべてだった。

    誰かの期待のためでも、誰かを否定するためでもなく。

    自分自身が、自分の手で、自分とつながろうとしている。

    そのことを、この言葉が証明していた。

    壁にかかった時計の針が、静かに進んでいた。

    それもまた、生きている証のように、澪には思えた。

    外との接続。

    それは誰かに頼ることではない。

    怖れながらでも、手をのばすことだ。

    そして書くことは、その最初の一歩になる。

    ──この一歩の先に、あの“記憶のドア”が待っている。

    そう思えた。

    第4章:再統合への道程/第十九話「幻肢」へ つづく

    第十九話予告「幻肢」
    「書くこと」で、私と世界は、たしかに繋がり始めた。
    けれど、心の奥には、まだ触れてはいけない“何か”が残っている。
    それは、痛みだけを残して、“ない”ことにされたもの。
    ──あの名前が、再び現れるとき。記憶は、静かに疼きはじめる。

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    静かに、物語を書いていきます。 香り、記憶、目に見えない違和感。 静かな物語の中に、 誰かの再生があることを信じて。 物語が、香りのように届いたら。 短編と連作を綴っていきます。 Tales: https://tales.note.com/yuzukiaone_0531

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