
『幻肢(げんし)』第四章 第十七話|鏡の中の犬
第四章|再統合への道程
第十七話|鏡の中の犬
朝の光が、静かに床を滑っていた。
赤みがかった茶色の毛並みのシエルが、ソファの脚元でこちらを見上げていた。
「……おはよう」
澪は小さく呟いた。けれど、シエルは声には反応せず、そのままじっと見つめていた。言葉ではなく、別のものを聴こうとしているかのように。
その視線に、ふと胸がざわついた。あのときも、見られていた──そんな記憶がうっすらと浮かぶ。
洗面台の鏡。病室の天井。閉じたドアの向こう。そして、水の中から見ていた目。それらはすべて、自分自身の内にあった目かもしれない。でも今、ここにいるシエルの目は、紛れもなく外からのまなざしだった。
「……なにを、見てるの?」
問いかけても、シエルは瞬きをひとつだけして、また静かに見つめ返してきた。その瞳が、小さな鏡のようだった。
“あなたを見てる、ずっと。”──そんな声が、聞こえた気がした。
澪は思わず、筆談ノートを手に取る。
“シエル は みている”
書いた直後、軽い吐息が漏れた。それは、少し前なら耐えきれなかった種類の視線だった。見られることは、怖いことだった。評価され、批判され、監視されるような感覚。けれど今の視線には、そういった尖ったものが何もなかった。
シエルの目は、ただ「見ている」だけだった。澪の動き、表情、沈黙までも。裁くためではない。探るためでもない。ただ、そこにいることを、肯定するように見ている。
昔──退院して間もないころ、シエルの目が直視できなかった時期があった。視線を合わせるたびに、何かを問われているような気がして、逃げ出したくなった。でもいま、ようやくその問いに、向き合ってみようと思える自分がいる。
ソファの前にしゃがみ込み、シエルの小さな体をそっと撫でる。
「ねえ……あの頃のわたしは、どんなふうに見えてた?」
シエルは答えなかった。けれど、その温かな体温と、穏やかな瞳が、「覚えてるよ」と言っているようだった。
筆談ノートに、澪は新たに書き加える。
“わたしも みている”
その文字を見て、澪はゆっくりと息を吐いた。
“見られること”と“見返すこと”。
そのあいだに、自分という存在が、少しずつ輪郭を取り戻していくのを感じた。シエルが尻尾を小さく振った。それは、「そうだよ」と肯定してくれるようだった。シエルの瞳の奥には、どこか記憶の底と似たような、やさしい静けさがあった。
「あなたは、ずっとわたしを見ていたんだよね」
澪がそう言うと、シエルは軽く鼻を鳴らして、耳を少し動かした。けれど、そのまなざしには、何の揺らぎもなかった。ただ、じっと──ずっと、見つめていた。それが、答えのようにも思えた。
筆談ノートを開き、澪はふと考え込む。これまで、自分は誰かに名前を呼ばれるたび、「誰なのか」を確かめようとしてきた。でも今は、言葉よりも前に、「見つめること」で何かを受け取ろうとしている。そう気づいたとき、自然に手が動いた。
“ずっと あなたの目に映っていた わたしは どんなふうだった?”
書いた直後、その問いの深さに胸がきゅっとなった。
言葉の奥にある願い──「自分を知りたい」という切実さが、そこにあった。けれど、問いは返ってこない。
シエルはただ、そっと澪の足元に頭をあずけた。それが、精一杯の答えだったのかもしれない。
「わたしね──」
小さな声で澪が呟く。
「いまでも、鏡を覗くと、そこにいる“わたし”が、どこか少し他人みたいに見えることがあるの。でも……」
そこで言葉を切って、シエルの額に手を添える。
「でもね、それでも、この目で見てみようって思えるようになった。逃げずに。」
シエルが鼻を鳴らし、小さく尻尾を動かす。澪は微笑む。そして、もう一度ノートに書き加えた。
“わたしは わたしを ちゃんと見ようと思う。もう 怖がらずに。”
しばらくの間、部屋は静かだった。朝の光が少しだけ動いて、床に長い影をつくった。窓の外では、鳥のさえずりが遠く響いている。
「ありがとう、シエル」
澪の声に、シエルが顔を上げた。その目の奥には、何も語らない代わりに、すべてを知っているような静かな強さがあった。
今、澪ははっきりとわかっている。見られることは、傷ではない。見つめ返すことは、痛みではない。それは、ずっと閉じられていた自己への扉を、そっと開ける行為なのだと。
澪の中で、何かがやわらかく結ばれた気がした。それは、目には見えないけれど、確かな「存在」の証。筆談ノートの最後に、澪はもう一度ゆっくりと書いた。
“ここに いる”
それは、シエルのまなざしへの応答であり、同時に、もう一人の自分への、静かな宣言でもあった。
第4章:再統合への道程/第十八話「ふたたび開くドア」へ つづく
第十八話予告「ふたたび開くドア」
内なる声と、愛犬シエルのまなざしを受け止めた澪。
今、彼女は「書くこと」を通して、閉ざしていた世界との繋がりを、再び結び直そうとしている。かつて逃げ込んだ場所。静かに差し伸べられた手。
そして、あのドアの向こうへ──。
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