
『幻肢(げんし)』第四章 第十八話|ふたたび開くドア
第四章|再統合への道程
第十八話|ふたたび開くドア
図書館の扉を押すのは、ひどく久しぶりだった。
軋む音は昔のままで、けれど空気は少し違っていた。柔らかく、澪の輪郭を傷つけずに包むようだった。
受付の奥にいた女性が、ちらとこちらを見て、小さく会釈をする。見知った顔ではない。けれど、その「知らない」ことすら、今の澪には怖くなかった。
静かな館内。歩くたびに響く足音、紙の匂い、背の高い書架の影。かつては息を潜める場所だった。誰にも気づかれず、ページの隙間に身を隠すようにして過ごしていた時間。けれど今日は、自分の影が床に落ちるのを、ちゃんと見ている自分がいた。
端の閲覧席に座り、リュックからノートを取り出す。開いたページには、昨日書いた言葉があった。
“わたしは わたしを ちゃんと みようとおもう もう こわがらずに”
ページの端に、ふと目が留まる。折り目の近くに、別の日に挟んだメモ紙があった。手に取ると、それは以前、純が澪のノートに書いてくれた走り書きだった。
「そのノートは、澪さんの“声”なんだと思います。」
その言葉が胸の奥で、静かに揺れる。
声。
澪には、ずっと「声」がなかった。言葉を話せないだけではない。誰かに届くものを、自分が持っていない気がしていた。
でも今、ここにいる。ノートを開き、そこに綴る言葉は、たしかに自分の“声”なのかもしれない。
“かくことは こわくない”
ゆっくり、そう記す。
そのとき、ふいに背後から、気配が近づいた。振り返ると、そこに立っていたのは笠井医師だった。
「……こんにちは、澪さん」
澪は軽く会釈した。ノートを閉じようとした手を、笠井がそっと制した。
「大丈夫。見せて、もらってもいいですか?」
澪は一瞬ためらい、けれどゆっくりページを広げた。
“かくことは こわくない”
それを見た笠井は、深くうなずいて、言った。
「これは――あなたの“声”ですね。澪さんが選んだ言葉は、ちゃんと届いていますよ」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
“ちゃんと届いている”。
自分の存在が、誰かの中に触れている。そんな実感が、ふわりと心を満たした。
帰り道、笠井は途中まで澪に寄り添った。
季節は確かに進んでいて、道端の紫陽花が色づき始めていた。
「僕もね、子どもの頃、自分の家のドアを開けられない日があったんですよ」
笠井がぽつりと言った。「外の音が、全部怖く聞こえる日が、ありました」
澪は頷いた。まるで、昨日の自分のようだったから。
「でも、誰かが内側から開けてくれるのを、待つのをやめたときに、少しだけ変わった気がします」
笠井はそう言って、信号の前で立ち止まった。「澪さんも、ゆっくりでいい。自分で開けたいと思ったら、それが始まりだと思いますよ」
澪は、アパートの前で立ち止まった。
小さなエントランス。ポストに貼られた自分の名前。鍵を出す指が震えていたけれど、その震えも否定しなかった。
鍵が回る音がした。
ドアが開いた。
あの冷たかった玄関の空気は、今日は少しぬるい風が通り抜けていた。
シエルが駆け寄ってきて、短く鳴いた。澪は「ただいま」と心の中で呟きながら、靴を脱ぎ、部屋へ入った。
小さな窓から差し込む光が、床の上に淡い四角形を描いていた。
その中に、シエルが丸くなった。
澪は机に向かい、再びノートを開いた。
ゆっくりとペンをとり、ページの中央に書いた。
“すこしずつ つながっている”
たったそれだけの文が、今の澪のすべてだった。
誰かの期待のためでも、誰かを否定するためでもなく。
自分自身が、自分の手で、自分とつながろうとしている。
そのことを、この言葉が証明していた。
壁にかかった時計の針が、静かに進んでいた。
それもまた、生きている証のように、澪には思えた。
外との接続。
それは誰かに頼ることではない。
怖れながらでも、手をのばすことだ。
そして書くことは、その最初の一歩になる。
──この一歩の先に、あの“記憶のドア”が待っている。
そう思えた。
第4章:再統合への道程/第十九話「幻肢」へ つづく
第十九話予告「幻肢」
「書くこと」で、私と世界は、たしかに繋がり始めた。
けれど、心の奥には、まだ触れてはいけない“何か”が残っている。
それは、痛みだけを残して、“ない”ことにされたもの。
──あの名前が、再び現れるとき。記憶は、静かに疼きはじめる。
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