
『幻肢(げんし)』第四章 第十九話|幻肢
第四章|再統合への道程
第十九話|幻肢
図書館の片隅、静かな閲覧席で澪はページをめくっていた。白い資料の束。その背表紙に印刷されたタイトルは、「支援記録整理資料」。通称「症例M」。
ある支援者の記録。ある少女の観察。ある出来事の周辺。過去に読みかけて閉じた紙束のひとつが、今、澪の指先に戻ってきていた。
──これは、私のことだ。
そんな直感があった。けれど内容は、あくまで「他人の目から書かれた私」。名前も仮名で、時系列もぼかされ、まるで他人の物語のようだった。その中に、ひとつの記述があった。
「紹介元:K氏」
「保護の申し出により、知人宅での一時避難を提案」
「本人の意志確認は一部不明瞭だが、同行を承認」
K氏──川野。
その名前を見た瞬間、澪の手が止まった。
胸の奥に、乾いた針のような感覚が走る。
見覚えがある。
あの筆跡。書類の余白に走り書きされた短いメモ。控えめで、けれど妙に整っていた字が、澪の脳裏に張りついた。
「……川野さん」
その名を心の中で呟いた瞬間、何かが崩れた。扉がきしむような音が頭の奥で鳴る。
見えなかったはずの風景が、ゆっくりと色を取り戻していく。
狭い部屋。壁は薄く、隣の部屋のテレビの音が漏れていた。その部屋に、澪はいた。知らない大人の家。カーテンがかかったままの窓。染みのついたソファ。そこに座る自分。無言で、ただうつむいて。
玄関の扉が開いたとき、廊下に立っていたのは――川野だった。
彼は笑っていた。
優しい顔だった。
でも、その優しさが、どうしようもなく怖かった。
──助けて、って思った。
──でも、声が出なかった。
「大丈夫ですよ。ここなら、安心だから」
そう言ったのは、川野だったか、他の誰だったか、もうわからない。けれどその言葉が、「逃げられない」という感覚を深く刻んだことだけは、澪の体が覚えていた。
部屋の奥に誰かの気配があった。低く笑う声。遠くで鳴る電子音。ソファの端に、澪はじっとしていた。腕を抱えるようにして、目を閉じた。
そして、記憶は、また闇に沈んだ。
ノートを開いた。震える手で、澪はゆっくりと言葉を書き始めた。
“そのひとは やさしかった でも こわかった”
“あのとき わたしは じぶんで えらんだように みせられた”
“でも あの人は しっていた しらないふりをして わたしを おいていった”
文字が、ページに刻まれていくたび、胸の奥の何かが少しずつほどけていく。
あれは、はっきりと罰せられる罪ではない。誰かに「この人が悪い」と叫べるものでもない。でも確かにあった。「安心できますよ」という言葉の裏に隠された、無関心のような、都合のよい沈黙。澪は、その沈黙に晒されていた。
“わたしの かわりに だれかが わらっていた”
あのとき、別の“わたし”が前に出ていたのかもしれない。笑う。受け入れるふりをする。“大丈夫”な顔をする。そうやって自分を守ろうとした、もう一人の“わたし”。
今になってようやくわかる。それは――心の一部を、切り離したのだ。机の上、澪はそっと手を伸ばして、自分の左手首に触れた。そこに、何かが「ある気がする」のに、実際には「何もない」。感じる。けれど、見えない。触れられない。
まるで「幻肢」。
記憶も、同じだった。存在しないことにしたものが、今もずっと、痛みだけを残していた。
“ふれてはいけないと おもってた でも それは わたしの 一部だった”
今なら、ようやくそう書ける。忘れるのではない。思い出すのでもない。「ここにある」と認めること。それが、癒しの始まりなのだと――今、思える。
ノートの最後に、澪は書いた。
“わたしの なかに まだ いたむものが ある”
“でも わたしは それを ここにあると みとめる”
“幻じゃない。 ほんとうに あったことだから”
その日、川野に連絡を取ることはしなかった。彼に何を言いたいのか、自分でもまだ整理がついていなかった。謝罪がほしいわけでもない。問いただしたいわけでもない。ただ、もう知っている。
川野は「触れられないまま残る幻肢」だ。
それでいい。それでも、私は――ここにいる。
第4章:再統合への道程/第二十話「ここにいる」(最終話)へ つづく
第二十話予告「ここにいる」(最終話)
痛みを切り離すことで、わたしは生き延びた。
その痛みが、幻のように、いまもわたしの中に残っているとしても。
もう、逃げない。
すべてを抱きしめ、「わたし」として存在する。
静かに、そして力強く。
今ここに、確かにわたしは——いる。
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