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『幻肢(げんし)』第四章 第二十話|ここにいる(最終話)

    #創作大賞2025 #ミステリー小説部門

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    第四章|再統合への道程

    第二十話|ここにいる(最終話)

    玄関を開けると、夏の夕暮れが部屋の奥まで差し込んでいた。
    西日がカーテンの隙間を照らし、シエルが眠るマットに細い影をつくっている。

    「ただいま」と言葉にはしなかったが、心のなかでそう呟くと、シエルが耳をぴくりと動かした。

    手にしていたバッグを床にそっと置く。重くはない。けれど、少しだけ肩が軽くなった気がする。

    今日、図書館から戻る途中、私はずっと迷っていた。あのノートに、あの最後のページに、何を書けばいいのかを。

    ソファに腰を下ろし、膝の上にノートを広げる。文字が並ぶこのページたちは、わたしの声であり、わたしの傷であり、わたしの軌跡だ。ページをめくるたび、自分の揺れや、決意や、怯えや、優しさが立ちのぼってくる。

    そして、最後のページ。まだ何も書かれていない白紙。

    しばらく迷ってから、ペンを取る。

    ──《わたしは わたしを ひとりにしない》

    ひらがなの文字が、すっとノートに沈む。書いた瞬間、胸の奥にぬくもりが広がった。


    川野に連絡をとることは、しない。過去を暴くことでなにかが癒えるわけではない。わたしが必要としていたのは、「理解される」ことでも「赦される」ことでもなかった。

    ただ、「ここにいる」と自分自身に言うことだったのだ。

    キッチンに立ち、湯を沸かしながら、昨日と同じ音に耳を澄ます。湯が鳴る音、冷蔵庫の低い音、外を走る車の音。

    何も変わっていないけれど、何かが変わった。

    部屋に戻ると、シエルが私のノートのそばに顔を寄せている。わたしの文字を、読むように。そっと頭を撫でると、シエルは静かに目を細めた。

    ──《こわくないとは いえない》

    ──《でも もう にげないと いえる》

    ページの端に書き加えたその言葉は、私自身への宣言であり、これまで声を失っていた“もうひとりのわたし”への応答でもある。

    思えば、シエルの目は、最初からわたしを見ていた。問い詰めるでもなく、慰めるでもなく、ただ「ここにいる」ことを肯定してくれていた。鏡の中の「わたし」もそうだったのかもしれない。見えなかったその姿が、少しずつ、形を帯びてきている。


    気づけば外は夜になっていて、窓の外にひとつ、星が見えていた。この部屋は小さいけれど、空は、どこまでも広がっている。

    私はペンを持ち直し、最後の一行をゆっくりと書いた。

    ──《わたしは ここに いる》

    書き終えた瞬間、涙がこぼれた。悲しくも、苦しくもない。ただ、静かに温かかった。私はソファにもたれ、目を閉じた。

    シエルの呼吸の音、部屋の静けさ、それら全部が「わたしの場所」だった。

    もう、どこにも逃げなくていい。

    もう、誰かにならなくてもいい。

    私は、ここにいる。

    たしかに、ここに。

    了


    おわりに
    痛みを切り離すことで、わたしは生き延びた。その痛みが、幻のように、いまもわたしの中に残っているとしても。もう、逃げない。すべてを抱きしめ、「わたし」として存在する。静かに、そして力強く。

    今ここに、確かにわたしは——いる。

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    静かに、物語を書いていきます。 香り、記憶、目に見えない違和感。 静かな物語の中に、 誰かの再生があることを信じて。 物語が、香りのように届いたら。 短編と連作を綴っていきます。 Tales: https://tales.note.com/yuzukiaone_0531

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