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ここか、あるいは、ここではないどこかへ

    Yukitaka Sawamatsu









    being on the road.






    「移動中」、「旅行中」、「出張中」

    「旅の途上」

    途上に在るということ







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    ここか、あるいは、ここではないどこかへ








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    2017年の盛夏に、わたしの父は死んだ。享年72歳。病死で、最期の2週間はあらゆる苦痛から解放され、深い昏睡状態の中で、病院の最上階の陽当たりの良いベッドの周りに、わたしたち家族が円を描くように囲み、そして看取られて旅立っていった。我が父親ながら、考え得る理想の死に方でもあった。わたしたち子供たちにほどほどの孝行をさせ、晩年は穏やかに、まるで自身が死ぬということをゆっくりとわたしたち家族に告げ、最低限の心の準備をさせるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、「死」へと着地するかのような最期だった。まさに「着地」と呼べるような死だった。それは生前誰に対しても対等に、穏やかに接することができた、まさにわたしが見てきた父の性質そのもののであるかのような、穏やかな「死」でもあった。

    父の命日となったその日の出来事は、わたしは今もありありと思い出せることが出来る。医師に正式に死亡宣告を出された父の遺骸は、それから病院の地下に移され、そこでわたしは担当医二人に改めてお礼を申し上げ頭を下げ
    事前に手配しておいた葬儀会社の霊柩車に乗せ、葬儀場へと向かったのだ。

    病院から葬儀場へ向かう途中で、老齢の運転手の方に事情を話し、福岡の実家に立ち寄り、父が建ててくれてわたしたち五人家族が長く暮らした二階建ての家を、父に窓越しに最後に「見せて」、それから葬儀場へと向かった。

    葬儀に関しては実家からほど近い葬儀場の、いわば「邸宅葬」を利用することにしていた。一日一組限定だったが、やはり事前に家族で話し合って先行して手配を済ませ、会場とは別の「離れ」となる静かで落ち着きのある独立した和室で、まだ新鮮ない草が薫る畳敷きの、そして真夏の陽光が燦燦と降り注ぐ見事な縁側を具えた「邸宅」で父と最期の別れをするつもりだった。



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    北枕に父の遺骸を寝かせ、祭壇の遺影の周りに新鮮な匂いを放つ夏の花々を家族だけで飾り付けても、やらなければならないことはまだまだあった。感傷に浸っている場合ではなかった。村上春樹は小説の中でこう書いている。




    「まあ、人がひとり死ぬってのはけっこう大仕事だからな。
    文句は言えないよ」

    「騎士団長殺し」村上春樹
     雨田政彦の言葉


    まさに大仕事だった。役所関係への手続き、父の生命保険の申請、医療費の請求書の確認と支払い、葬儀場との打ち合わせに親族への連絡、ある程度まとまった額の現金も手元に置いておく必要があった。何しろ初めての経験なのだ。”人がひとり死ぬってけっこう大仕事”であることは間違いなかった。

    黄昏時。夕刻には葬儀場の担当者を介して紹介を受けたお坊さんが「離れ」に到着され、喪服に着替えたわたしが単身控室までご挨拶に伺った。わたしは彼を一目見て腰を抜かしそうになった。そのお坊さんはまるでサーファーのように黒々と日焼けされ、でっぷりと太った身体を黒い法衣で包んでいたからだ。このときからわたしたち家族の間では密やかに「海坊主和尚」と彼を命名することになった。しかし、彼の容姿を非難したいわけでは決してなかった。葬儀中はその宝満な身体に見合った良く通る野太い声で父へ読経をあげてくださり、それは、実に真心、いや、死者への鎮魂の思いがしっかりと込められていたように、わたしたち遺族は受け取ることができたからだ。

    陽が沈み始める頃に、続々と親戚たちが「離れ」に集まり始めた。昭和初期に生まれた父は六人兄妹の五男で、わたしにとっては叔父や叔母たちが父を見送るために全国から駆け付けてくれたのだ。結果論だが、やはり邸宅葬を選んでよかった。父の兄妹たちはいずれも高齢者で足腰が弱く、杖をつく叔母がいたり、車椅子に乗った叔父もいた。一般会場であれば、おそらくはきっと会場のスタッフの方々が手際よくエスコートしてくれるのかも知れないが、それらを含め全てを自分たちで執り行える邸宅葬こそが、わたしたちの父の葬儀の基本方針だった。要するに他者に気をつかいたくなかったのだ。

    父の兄妹たちは皆すべからく、まるで事前に打ち合わせでもしてきたかのように、まず棺で眠る父の顔をみて、次に名を呼び、ハンカチでさっと涙を拭うともうそれでお終いだった。振り向くとすでにスイッチが切り替わったかのようにわたしを正面から大袈裟に抱きしめて労をねぎらってくれた。もちろん叔父や叔母たちに兄妹を失った喪失の痛みがないはずがない。わたしたち家族とは別種の、兄妹としての独特の痛みがあったはずだ。しかしこの潔さとはいったいどうしたことだろう。湿りすぎず、乾き過ぎていないのだ。

    おそらくそれは、老境に入らなければ感得できない、ひとつの「達観」であるに違いない。それぞれの人生の中でもちろん多くの人々の「死」に触れて見送ってきたはずだ。そしてそう遠くない将来の自分自身の「死」をも見据えているに違いない。父の兄妹たちとはそうした年代のいわゆる後期高齢者でもあり、彼らの、まるで、高潔さを思わせるような振る舞いを間近でみていた私には、彼らのことを「巨人」と思わせるような畏怖の念を抱かせた。

    それに加えて、やはりの私の父の死に方とは、考え得るひとつの理想でもあった。ゆっくりと、「着地」するかのような緩やかな死は、わたしたち家族だけでなく、親戚全体にも一定の心構えを、事前に与えてくれていたのだ。



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    やがて陽が落ち、辺りが静かになっても「邸宅」の和室には親戚たちの賑やかな声が鳴り響いていた。わたしはこのとき初めて気がついたのだが、高齢の親戚たちが「再会」するのには、おそらく葬儀が最も現実的なのかもしれない。皆、身体が病み衰え、県外まで出かける機会はそう多くないと思えるからだ。だから葬儀の席とは、同時に宴席でもあるのだ。そしてこの通夜の席で親戚たちやわたしたちが夕食に何を食べたのかはどうしても思い出せない。わたしの母や妹が、近くで寿司桶と瓶ビールでも頼んでくれたのだろうか。わたしはまるで大宴会の様相の和室からの嬌声を聞きながら、しかし葬儀会社の方と引き続き別室で打ち合わせをおこなっていた。翌日の葬式の段取りや出棺の際の人選。火葬のタイムライン、送迎のバスのチャーター、精進あげのお店の選択と予約、香典の管理と、親戚たちの宿と移動の手配。

    夜はさらに更け、親戚たちが席を立ちはじめ宿泊施設へと移って行った。

    千鳥足になりつつあった最後の叔父夫妻を、呼び寄せたタクシーに乗せるとわたしの家族ー母や妹、そして弟も帰り支度を始めた。この「邸宅葬」ではもちろん遺族の宿泊は許可されていたが、わたしたちは全員家に帰るつもりだった。自宅までは車で十五分程度の短い距離だったし、明日からのことを考えて、それぞれが家でゆっくりお風呂につかり、充分に睡眠をとって明日の本葬にそなえるつもりだった。しかしながら、わたしだけはまだ少しの間この「邸宅」に残る必要があった。母はずいぶん怪訝な顔でこういった。まだ何か打ち合わせることがあるの?打ち合わせはなかったが、これからわたしの親友が、父のために線香をあげに来てくれることになっていたのだ。



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    その親友とは小学校から大学まで同じだった同性の同級生のことだった。学歴が綺麗に一致したこととは別に、特に中学で一度同じクラスになって以降急速に仲良くなり、それがまったく減退することなく三十代を経て今に至る四十代にまで保ち続けているのだ。考えてみればそれは不思議なことでもあった。何しろ趣味が決定的に異なるからだ。わたしは映画や読書、音楽そして旅に魅了されきってしまってはいるが、彼はその要素をひとつも持っていなかった。たぶん間違いないだろうが、小説一冊読んだことがないようなタイプでもあった。どちらかというと寡黙で、人と群れることを嫌い、ほとんど唯一の趣味と呼べるものが「車」で、これまでの半生で十台以上は乗り換えているようにも思い出せる。そうした中には当時無理して購入した高級車も含まれていたが、わたしは逆に車にはほとんど興味がなく、いつもその友人が乗り換えた車の助手席に乗せてもらい、九州全域、それも福岡においては春夏秋冬、隅々にまで共にドライブに連れていってもらったことになる。

    その彼は三十代までは大手の不動産関係の仕事に就いていて、巨躯といっていい身体を高級スーツで包み、転勤先でもあった横浜、名古屋、東京でもよく落ち合って、出張中のわたしを泊めてくれたり、一緒に各地の焼肉を食べにいった。彼は一種の「焼肉マニア」でもあり、個人経営店や全国に店舗を持つチェーン店も分け隔てなく全てを愛し、身体はどんどん膨張していきながらも、わたしの向かいの席でいつも豪快に肉を喰らっていたのだった。

    そしてわたしの父が逝去したその夏、その友人は人生のひとつの転機を迎えていた。十年近く勤めた会社を辞め、福岡の実家に戻ると、およそ六か月間に渡って自室に引きこもり、外界からの情報は全て遮断して自分の殻に閉じこもった。それは「移動」と、だから「転職」を重ねたわたしの半生と比べると、彼のそれまでの半生とは、このわたしよりかは遥かに整合性のとれた人生のようにも思えていたが、あるいはもしかしたら、誰しもの一生のうちに、こうした小さな破綻を思わせるような時期とは必ず存在しているのかも知れない。無論、仕事だけが人生の全てだと言いたいのではない。しかしながら少なくともわたしたちの間においては、特に三十代とは「仕事」は常に比重が大きかったようにも思える。後に、彼から直接その停滞の時期を「長い眠りの時期」と聞かされたが彼はその「眠り」の中で自分自身を深く見つめ直したのかもしれない。そしてその期間に限ってはわたしからの連絡も遮断するといった徹底的な内容で、かなり気になってはいたがしかしその期間に彼は次に自分が進むべき道を発見することもできたのもまた事実だった。

    彼が導き出したひとつの結論は「運送業界に転身する」といったもので、わたしが見る限り、そこに消極的な理由は一切みてとれなかった。前職の不動産関係の職場では、元来、人付き合いが不得手な彼には大きな心理的な負担となっていたことは、わたしも本人から何度も聞かされ充分に知り得ていたし、昔から車を運転することが好きだったことを鑑みると、逆になぜもっと早い段階でその業界へ行かなかったのかの疑問が出てくる始末でもあった。

    そして彼はスーツを脱ぎ捨てて、ポロシャツにチノパンに着替え、まずは大型車の免許を取得し、次に福岡の中堅どころの運送会社に勤め始めたのだ。

    そうして新たな世界へと第一歩を踏み出したほとんど直後に
    私の父が旅立ったのだった。



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    その友人には、父の訃報はほとんど直後に伝えていた。それはもちろん、学生時代からお互いの家に往来があり、父もその友人のことはよく知っていたからだった。仕事中の友人に連絡をとるとほどなく折り返しがあり、まずはお悔みを申し上げてくれた後に、こう続けてくれた。今夜は残業もあっていささか遅くなるが、お前の親父さんに線香をあげさせてもらいに行くよ。さらにこう続いた。悪いが、仕事が終わったら一度家に戻ってスーツに着替えるが構わないか?友人が言うには、大型車のドライバーの仕事には業務の性質上、どうしても荷揚げや荷下ろしがついてまわり、特に真夏はポロシャツもチノパンも汗だくになってしまうという。わたしは別に仕事着で来てくれても構わないと伝えた。なぜならば、すでに親戚たちも引き上げ、この後ここにはわたしひとりが残るつもりだったからだ。死んだ父もそのようなことは一切気にしないだろう。駆けつけて来てくれることに、意味があるのだ。

    しかし、その友人は一歩も引かなかった。いやいや、今は本当に薄汚い格好で、さすがにこのままの姿で通夜に行くことはできない。悪いが少しだけ時間をくれ。帰ってシャワーで汗を流して、ネクタイを締めてから向かうよ。



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    午後十時が過ぎ、十一時も過ぎていった。わたしは無人の「邸宅」で、空調を効かせた畳敷きの和室で、棺桶に入れられた父の遺骸と二人きりだった。

    友人の到着をひとりきりで待っている間に、私は葬儀会社の初老の担当者が作成してくれた葬儀のスケジュールを確認したり、祭壇の献花の位置を変えたりしながら、ときおり、ふと思い立って父の死顔デスマスクを眺めていた。父を亡くしたのだ。もちろん胸の中に哀しみはあったが、繰り返すように最終的に昏睡状態が二週間続いたのでその間にしっかりと心構えを持つことができた。

    この事実は今になって振り返っても大きかった。もしも父が、病気で突然死を迎えたり、あるいは事故で唐突に急逝したのであれば、ここまでの冷静さは保ててはいなかったはずだった。すべからく、あらゆる息子は人生で本質的で重要な部分を父から直接的に学び取ると仮定することが赦されるのであれば、父の「死にざま」とは文字通り最後の「教え」だと解してよかった。

    だがもちろん、その「死にざま」は良いことだけではなかった。わたしは父の安らかな寝顔を観ていて、その小さな代償も読み取ることができた。それは人間とは深い昏睡状態で、二週間も飲まず食わずでいると、ここまで肉体が痩せてしまうものなのかと思えた感想で、古い時代に生まれた父としては大柄で身長は百八十センチはあって恰幅もよかったが、最終的には全身の肉がほとんどすべて削ぎ落ち、その身体を持ち上げたときのあまりの軽さには愕然とさせられてしまったのだ。だが、しかしながらその死顔だけは、これまで日本の各地で観てきた古い木像の仏像彫刻のご尊顔そのもので、なるほど仏教美術のほとんど中心点には、やはり避けがたく「死」が鎮座しているのかも知れないなどと、そのようなことをひとりでぼんやりと考えていた。



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    わたしは、深夜近くまで、焼香をあげてくれる親友の到着を待った。特にすることもなく、また、したいこともなく、何となく父の棺桶の側にひとりで突っ立って、陶然と顔を見下ろし、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。

    そのときに、父の遺影が中心にある祭壇の脇に白木で作られた簡易な箱があることに気がついた。あれは何だろう?近づいて行って中を覗き込むと、それは明日の出棺前に棺桶の中に入れ、火葬と共に焼く、父の「愛用品」を納めた箱だった。そういえば、日中に母や親戚たちがそのことについて話し合っていたようにも思い出せるが、わたしは他のことに忙殺されていたのだ。箱の中央には父が愛用していた老眼鏡が中心に置かれ、その脇に何かの小冊子そしてその下には丁寧に折り畳まれた衣類が数枚置いてあるだけだった。

    生前の父は、息子であるわたしとは大きく違って、一切モノに執着がないタイプであった。いや、モノだけでなく、例えばどのような粗食が食卓に並んでだとしても、やはり一言も文句も言わず黙々と平らげた。わたしはそれらを全て箱から取り出し、畳の上に並べてみると、衣類は父が晩年にリハビリ施設で愛用していたと思われる短パンとTシャツが数枚、外出用のシャツにスラックス、そしておそらくは夏用のリネン生地と思える薄手の白いシャツが一枚納められていたことに気がついた。わたしは、無造作にそのリネンシャツを手に取って眼前に広げてみると思わず、こう呟いた。これは——



    お遍路か。




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    お遍路用の白衣



    そのシャツは、四国の霊場八十八箇所を巡る「お遍路」で着用する白衣だった。そういえば、父は三十年ほど昔にお遍路を廻っていたのだ。その話はわたしも断片的に聞いたことがあり、翌日、葬式の前に親戚の叔母から訊いたところによると、その叔母、つまり父の兄妹の長男夫妻と共に霊場のいくつかを廻ったことがあるらしい。それはもちろん、その長男夫妻が当時香川の高松に住んでいたからだった。わたしは老眼鏡の脇に置かれてあった小冊子を手に取ると、それはお遍路の、いわば「御朱印帖」だった。霊場でお参りをした際に、その場で押印してくれる旅の記録。それをパラパラ捲ると、その数は少なかったが、父は香川県を中心にいくつかのお寺や寺院で祈りを捧げていたことがわかった。お遍路か。そしてこの白衣と御朱印帖は対にする形で父は最晩年まで大事に保管していたことになる。いつか、また、お遍路を再開して全てを踏破することを求めていたのだろうか。そしてそれらを棺桶に入れることを提案してくれたのはその親戚の叔母だったのだ。それはおそらく父にとっても、親戚夫妻にとっても思い出深い旅だったのだろうか。

    わたしはその白衣をサッと身に着け、棺で眠る父の顔を見つめていた。

    しかしわたしには、「父のやり残したこと」を代わりに踏襲するというような感傷癖は一切もっていなかった。この日、初めて親を亡くし、いささか感傷的な気持ちになっていたのは、おそらくは通常の感性のはずだが、それを差し引いても、わたしにはそうした精神的なナイーヴさは持ち合わせていなかった。いつもどこかで、父は父の人生だと思っていたし、肉親以外の他者に対しても、やはりそれぞれの人生や生き方があると割り切っていた節がある。そしてもちろんわたしにはわたしの人生と生き方があるのだ。だが——


    だが、このとき——


    わたしの人生という名の路上に、「お遍路」という小さな標識が立ち
    そこに温かな明りが灯ったことだけは、間違いのない事実でもあった。



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    ここか、あるいは、ここではないどこかへ

    四国・お遍路旅










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    今年の春の終り、わたしは仕事を切り上げて実家のある福岡に戻っていた。

    それは自分でも全く予測がつかなかった出来事でもあった。わたしは新年が明けると同時に、新しい仕事の研修で東北地方に短期赴任していたが、そこで業務上、両手にとある強烈なアレルギー反応が生じ、一時期はそう、コンビニのカップコーヒーも持つことができず、ラップトップのタイピングでも激痛が走るようになってしまっていた。その仕事とは、これまでのように海外に駐在員として赴任するのではなく、いわゆる「プロジェクト採用」での短期滞在、つまり国内に拠点をもつ企業の、海外での工場の新規立ち上げをサポートするのがメイン業務で、”ADVISOR”という肩書がわたしには与えられていたのだ。つまりこれから立ち上がる新規工場の、いわゆる「物と情報の流れ」を見極め、合理的な導線を引きその運用を現地で精査するのだ。わたしは別にその分野のプロフェッショナルというわけではないが、これまで同様の経験をベトナムとスペイン、そして、インドネシアで重ねていた。

    しかし、両手の炎症は日を追うごとに悪化し、当時滞在していたホテルの浴室でシャンプーで髪を洗えないほどになったときに、会社を通じて紹介してもらった病院で治療を受けるも、最終的にドクター・ストップがかかり同時にわたしは福岡に戻ることを決断したのであった。当時は雪が降る東北のホテルの一室でずいぶん頭を抱えたが、最終的にその決断に至った理由としては、そのアレルギー反応を引き起こす工場内の「環境」とは、もはや世界規格の「環境」でもあり、例外が認められず、その工場の内部に入るにはどうしても避けることができないということと、この仕事は契約の性質上、長くても今年一杯で終了するという逆説的な気軽さが決定打となり、わたしは福岡に戻って加療をする道を選び出したのであった。しかし、悔やまれるのがもしも全てがうまくいっていれば、今頃わたしは韓国を経てアメリカに滞在しているはずだった。前者の国にはさほど強い興味をもっていないが、後者の国は今、激動の時代に突入しているのは明白だった。現政権に変わってから、良くも悪くも、まるで世界の中心といった様相を呈してはいるが、それは真実なのかを、短期滞在であれ、自分のこの眼で見ておきたかったのだ。



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    福岡に戻ると早速、わたしの親友にコンタクトをとった。その友人はわたしの父が逝去した夜に焼香をあげに駆けつけてくれた幼馴染でもあり、父が他界してからすでに八年が経過しようとしていた。その八年の間に、友人を取り巻く環境も大きく変化していた。お互いにまだ独身であることに変わりはなかったのだが、その友人は勤めていた運送会社を辞め、個人事業主を経て
    今年の春に自身が代表取締役を務める、やはり運送会社を立ち上げたのだ。


    久しぶりの再会は、「焼肉マニア」でもあるその友人が最近になって仕事中に目をつけて、新規開拓した個人経営の店だった。まずは最初に運ばれてきた厚切りの牛タンを炭火で焼きながら、お互いの近況について語り合った。



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    牛タンの厚切り



    わたしは運送業界の成り立ちと仕組みに関しては、ほとんどまともな知識を一切もちあわせていなかった。だから本来は、たとえ相手が幼馴染の親友だとしても口を挟むべきではないのかも知れない。しかしわたしはその友人の法人化に関してはいささか、いや、かなり心配していたのだった。なぜならば彼は、正確に今年の五月に法人化していたが、すでに買い求めた車両の合計は、大型車から軽トラックまで合計十台を超えており、同時に数名の社員を雇い入れていたからだった。明らかな過剰投資のように思えていたのだ。

    その友人は瞬く間に牛タンを平らげて、次に運ばれてきた盛り合わせも炭火でじゅうじゅう焼きながらこういった。まぁ、流れっていうのがあるのさ。
    ”勢い”と言い換えてもいい。
    そして具体的な仕事の詳細と利益を語り始めたが、確かにわたしのような運送業界の素人でも、まずは業界における人手不足が社会問題としてはるか以前に表面化しているということは知っていた。
    つまり慢性的な人手不足とは仕事自体は市場に溢れているが、それを回す人材が枯渇しているということだ。車両と人員を揃えて、”勢い”に任せて市場に参入するのは、確かに実際的で効果的な方法であるのかも知れなかった。



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    盛り合わせ



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    炎上するホルモン



    資金繰りに関しては・・・。友人は続けた。とにかく一年間はおれのサラリーはゼロで乗り切ってみるつもりだ。生活費に関しては、自分の会社から借用するというカタチでね。それは顧問契約を結んでいる税理士からのアドヴァイスで、新規経営者あるあるってとこかな。それが”あるある”なのかはわたしには判定できなかったが、彼には彼固有の覚悟があるのは十分にみてとれた。それに、その友人は一見豪胆な性格を第一印象として相手に与えるが
    しかし内面は実に細やかだった。わたしの個人的な希望的観測に過ぎないのだが、少なくとも早々に”撤退”、つまり会社を潰すことはなさそうだった。



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    さらに追加の肉と、さらに追加の烏龍茶が運ばれてきた。わたしは両手の炎症を考慮して飲酒は一切控えていた。友人はいった。ところでお前はこれからどうするんだ?また海外へ出るのか?わたしは烏龍茶を一口飲んでこう答えた。まだわからない。何も決まっていない。海外の知り合いからいくつか小さな引き合いはあるが、具体的な話までは進んでいない。この夏、わたしはいささか迷っていたのだ。再び海外へ行くことはそれほど難しいことではない。なぜならば、これまでいくつか国を変えながらも働いてきたからだ。国が違えば働く環境と生活は大きく異なるが、それでもわたしの履歴書には海外就業の軌跡が打ち出されることになる。あくまで個人的に見てきた限りでは、海外で就業するには職業的な能力の他に、その当事国へ適応する順応力が求められる。実際に優秀な人材でも、現地での生活に馴染めずに早々に退職し、帰国を決断する者も多く、妻帯者にはその傾向はより如実だった。

    加えて、わたしにアプローチをかけてくれる海外の知人たちが口を揃えていうには、近年の若い世代とはどうも海外就業を嫌うらしい。その理由はその人によりけりで様々なのだろうが、つまりわたしが再び海外で働こうと思えばとりあえず「席」は空いているということになるのだ。「席」だけは——

    しかしながら、内心忸怩たる思いもあった。いわずもがなだが、海外へは短期間の「旅行」に行くのと、仕事で年単位で「赴任」することは全く性質が異なるのだ。それが数日の旅行であれば、その国のごく表層の部分、つまり最も美しい部分だけを味わうことと同義だが、長期の赴任はそうではない。その国の醜い部分、すなわち政変や天変地異、基本的なインフラ、食事、そして語学を通じたコミュニケーションへの対応も重要になってくるからだ。そしてわたしはそうした環境に、近年かなり疲れを覚え始めていたのだ。それはもちろん、現在46歳という年齢も大きく起因していることは知っていた。若い頃には好奇心と体力で乗り切ってきた局面も多かったが、重要となるそのどちらもが、激しく摩耗しきっているような感覚が生じていたのだ。

    わたしはそのことを向かいの席で肉を頬張るのに夢中な友人に話すと、彼は
    こともなげにこういった。まぁ、お前の再就職に関してはおれは一切心配していない。いつも通りに首尾よくやるさ。それは間違いない。ところで夏場はどうするんだ?また旅に出るのか?この友人がこういうことはもっともであった。わたしは、別に綿密に計算してきたわけではないが、これまで二十代の後半に東南アジア全域の旅へ出て、三十代のやはり後半にはヨーロッパ全域の旅に出ていた。そして今は四十代の後半——。わたしがこの友人のことを知り尽くしているということは、それは逆に相手がわたしのことを知り尽くしていることと同じだった。旅。旅に出ようか。わたしはもちろん、このときぼんやりと「次の旅」の輪郭が朧気ながらにも見え始めていたのだ。







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    最終的に四国の「お遍路」を旅することを決めたのは、やはり父とこの友人の、半ば偶然が生み出した影響下にあったからのようにも思えている。直接的にはわたしは日本国内で真夏の時期を過ごすのは、考えてみれば実に五年ぶりで、昨年の暮れまで仕事でインドネシアに駐在していたが、もちろん向こうは年中真夏だということもあり、一時帰国の休暇を取得する際は意図的に日本での真冬の時期に調整していたからだった。父が他界したのは八月の盛夏で、今年もお盆の時期がやってくる。父の葬儀を「縦糸」とし、その葬儀に深夜に駆けつけてくれたこの友人、彼の到着を待つ間に発見した父の遺品でもあったお遍路の白衣を「横糸」とすると、そこに自然と浮かび上がってくる紋様とは、やはり「お遍路」以外のなにものではなかったからだ。

    そうした事情もあって、この夏はやけに父の幻をみたような気もする。

    しかしながら、それを実行に移すには大きな問題があった。

    時間と費用に関してはひとまず脇に置いておいても良かったが、最大の悩みはこの日本列島を覆い尽くす異常な「暑さ」だった。報道では体温を超える暑さ、と評され、実際に少なくとも、わたしにはインドネシアよりも暑いようにも思えた。お遍路の全工程は約1,800km。この夏、一度で踏破するつもりはなく、何度かにわけて踏破することにはなるのだろう。しかしこの炎天下の中で巡礼をすると、冗談ではなく命の危機を呼び込むことになる。

    もうひとつの問題は「荷物」だった。昔、海外の旅で使った60㍑サイズのバックパックは大事に保管しているが、これまでの経験則では、一眼レフカメラと交換用レンズを含めた周辺機器が何かとやっかいになってくるのだ。重量はそれほどでもないが、とにかくかさ張って容積を占めてしまう。それに加えてラップトップとスマートフォンが一台づつ・・・。ディジタル機器だけで50㌫とすると、残り50㌫に衣類を詰め込む・・・。この暑さの中で一日に何度も着替える必要がでてくるのに?そしてそれらを背負い、40度に迫る気温の中を約1,800km・・・。今回はその三分の一だとしても約600km。このお遍路の開拓者でもある、弘法大師・空海でも、やっぱり止めとけば?とわたしに忠告してくれるに違いない。どうしようか・・・。

    こうしたもやもやを抱えたまま、実家で父の墓参りや仏壇にお供え物を供えても当然、一向に解消されることはなかった。お遍路。せめて時期を見直すべきなのだろうか。春か、秋か。あるいはその両方の時期で踏破を・・・。


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    そうしたやはり猛暑の日に、運送会社を立ち上げたばかりの幼馴染から連絡があり、昼間に、彼が一軒家を借り上げた事務所で会うことになった。用件は少量だけ北欧から試験的に仕入れてきた雑貨を、わたしが商用として、つまりオンライン上で販売していくための下準備としての、一眼レフを使っての商品撮影とその説明文の作成、そして、そのコピーライティングを考える打ち合わせで、彼はこの先運送業だけでなく、こうした物販の分野にも手を広げていく方向性を打ち出していた。わたしはそれらの、ほとんど全てをひとりで滞りなく済ませると、すでに陽は落ちかけていて、どちらからともなく自然な流れで食事に行くことになり、その友人が運転する車に乗って南福岡の居酒屋の暖簾を潜った。そのお店はわたしが福岡の数ある居酒屋の中でも、最も魚料理が美味しいと信じている老舗で、海外や県外から友人が遊びにくると必ずといってほど案内する、個人的に贔屓にしているお店だった。


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    中トロと地ダコ刺し


    その友人は全くの下戸でお酒は一滴も飲めない体質なので、わたしも飲酒は控えることにして烏龍茶で小さく乾杯した。話題は昼間の海外仕入れに伴う物販に関する今後の方向性と可能性がメインだったが、わたしはわたしのやや冷ややかな意見をきちんと彼に話して伝えた。わたしは物販の世界に関してはほとんど知識をもっていなかったが、しかしながら、これまで海外で見聞きしてきた限りでは、「海外仕入れ」自体が、すでにやり尽くされている世界のように思えてならなかった。日本人はすでにバイヤーとして、年中、あらゆる国と地域で買い付けを行っているのだ。だからもはや新鮮さが感じられなかった。それになにより、すでに運送業界で一旗揚げたのであれば、まずは、そう、少なくとも数年はそれに注力し、セオリー通りに売り上げの目標を立てて、その達成分の一部を物販業へ投資すればいいのではないか?

    しかしながらもちろん、その友人には友人の考え方があった。

    友人はいった。おれの会社みたいに小さなトコはな、大手の仕事の孫請けや曾孫受けが当たり前なんだ。その過程でもちろん、あらゆる会社が僅かだが利鞘を抜いていくので、売り上げ自体はたいしたことないんだ。友人は通りがかった店員に追加の注文を済ませて、さらにこう続けた。だから早い段階で運送とは別の事業を立ち上げたいんだ。少ないとはいえ、何しろ社員に給料を払って、生活を守ってやらないといけない。そしておれが試験的に海外仕入れを始めるのも、実はお前の協力をあてこんでのことなんだ。お前の撮る写真と文章には昔から定評あったしな・・・。彼が、何をもって「定評」があるといっているのかはわからなかったが、わたしもそう評価してもらって嬉しくないことはなかった。海外仕入れの物販か・・・。確かに、最終的に重要になってくるのは「商品力」であることに間違いはなかった。それさえあれば、実は仕入れ先などどこでも構わないに違いない。しかし難しいのがその「商品力」だ。時流や傾向、為替の変化など様々な要因が重なってくる。彼は続けた。それにこの分野で道筋を確立できれば、たとえお前がこの先また海外に行ったとしても、リモートで協力してくれれば売り上げの中からいくらか報酬を払うことだって可能なんだ。だから一緒にやらないか?


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    胡麻サバ


    結局この話はこの場ではまとまらず、しかし試験的にオンライン販売で始めてみながら経過観察をしようというところで落ち着いた。この友人とわたしでタッグを組めば、将来にいくらか光が差し込んでくるかのような錯覚は確かにあった。もちろんそれは、希望的観測程度なのだろうが。友人はお箸で豪快に胡麻サバを三切れも口に放り込むと話題を変えるようにこういった。

    で?お遍路だっけ?どうするんだ。やっぱり行くのか?

    わたしは生姜がのった冷奴を箸で崩し、首を振りながらこういった。もちろん行きたいけど、この暑さと荷物の重量を考えると、はっきりいって現実的じゃないね。春か秋に練り直そうと思うけど、荷物だけはどうにもならん。
    すると向かいの席の幼馴染の親友は、まるで救いようのない阿保をみる目つきでわたしを見つめ、口をあんぐりと開けてこういった。お前、まさかあのお遍路を徒歩で廻るつもりなのか?相変わらずクレイジーなやつだぜ。ついこの前、仕事で香川と徳島を走ったがかなりの距離だったぞ。友人は後方にもたれかかるように畳に両手をつけてさらにこう続けた。なぁ車じゃダメなのか?ちょうど持て余している車が一台あるから、それで行ったらどうだ?



    ”えっ—”




    なに?なんだって——。車——。車でお遍路。車か——。まて。待てよ。
    わたしは思わず小さく悲鳴をあげそうになった。


    車を使えば・・・確かに、この酷暑の大部分と荷物の問題を一気に解消できる。なぜそのことにこれまで気がつかなかったのだろう。なぜ・・・。それは間違いなく、わたしが三か月前に公開した一本の記事が原因だったに違いない。その記事とは、この広大なnoteの街でほとんど偶然に巡り合えた、主に豊かな紀行文を描かれる人をわたしが自由気ままに取り上げる、不定期の連載シリーズ「無名の天才たちの旅行記」で、わたしはその中で「死ぬまでにやりたい〇〇のこと」のひとつとして、お遍路を「踏破」したいということを書いていたのだ。そして自分でも驚くほどにその「踏破」に縛りつけられていたのだ。それはまさに自縄自縛、いや呪縛に近い縛りであったのだ。











    わたしは箸を置き、なぜだか正座に座り直して、向かいの席の親友にこういった。マジでいいのか?車を一台、お遍路が終わるまで貸してくれるのか?背後に後光が差し始めてみえた友人はあっけらかんとこういった。ああ、いいぜ。それで行ってこいよ。長年の夢だったんだろ?だが、ポンコツだぜ。マニュアル車だがシフトレバーに強烈なクセがあってね。おれとしては二速発進を推奨したいね。このときわたしの頭は高速回転を始めていて、友人の言葉が耳に入らなくなっていた。同時に頭の中で無数のカードが激しくシャッフルされ、交差し、入り乱れ、同時に四国全域の地図が頭の中で広げられた。車。車を使えば、もはややりたい放題で、荷物も詰め込み放題だった。

    カードは引き続き激しくシャッフルされ、「四国」という名のテーブルの上に素早く並べられた。それは、四国全域に渡る、「美術」、「文学」、「歴史」、「温泉」、「うどん」の五枚のカードだった。つまり、車が使えれば
    お遍路をベースとしてそれら全てを網羅することができる。そしてそれらの情報はオンライン上で集めるより、わたしがこれまで取り上げてきたごく数名の無名の天才たちにコンタクトを取れば、情報提供という名目でわたしの為に小骨を折ってくださるに違いない——。つまり、よりディープなお遍路を体感できるに違いない。決まった。旅。旅に出よう、お遍路の旅に——。



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    わたしは、その五枚のカードのことを友人に話すと、彼はふたたび口をあんぐり開けてこういった。お前、煩悩のカタマリなんじゃねーのか!?空海もびっくりするぜ?この悪たれ口には、流石にわたしも返す言葉がなかった。


    ”偽装遍路”


    いや、そういって自分自身を卑下してはならない。

    これが、わたしの旅、わたしのお遍路なのだ。

    興味のある全てを内包し、空海と共に歩む「同行二人」の旅——

    わたしには自分が進むべき「道」がはっきりと視えた。



    そして、46歳の無職の、長く熱い夏が始まる。







    ここか、あるいは、ここではないどこかへ

    (15,000字)

    了





    お知らせ

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    第58番札所 仙遊寺
    千手観音


    そして今、まさにそのお遍路の道中で(四日目)、愛媛県の海沿いを廻っています。車とはいえ、駐車場から本堂までがプチ登山のお寺も多く、ひーひー言いながら巡っています。そして、この旅の期間中は極力、オンライン環境を遠ざけてゆっくり旅するつもりです。そうした事情もあり、コメントの返信が大幅に遅れたり、みなさまの記事に遊びに寄らせてもらう機会が極端に少なくなってしまいます。どうか、ご理解ご了承いただければと思っております。尚、このお遍路の旅は、全てを記事にすることはありませんが今後も不定期に、印象に残った土地でのエピソードを書いていくつもりで考えております。どうかご期待くださいませ。合わせて、この機会ですので四国全域で、ぜひここは訪れた方がいい!という場所があればぜひお知らせ下さい。






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    第58番札所 仙遊寺
    千手観音


    尚、今回のタイトル「ここか、あるいは、ここではないどこかへ」は、すでに廃刊となった幻の雑誌「風の旅人」の、作家・田口ランディ氏の当時の連載記事、「今ここか、あるいはここではないどこか」より着想を得て、わたしの方で自由に書き換えております。必ずしもオリジナルのタイトルではないということも、合わせて明記致します。





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    9月上旬頃公開予定


    珈琲を片手に、旅にでかけよう



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    珈琲を片手に、旅にでかけよう





    以下、執筆中の作品一覧





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    雨の長崎に滅びる


    美術評
    彫刻家・船越保武
    (1912-2012)

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    雨の長崎に滅びる






    恋人たちとの「国宝展」

    ※期間限定公開

    美術評?

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    恋人たちとの「国宝展」






    おしまい




     
     
     
    第21回「文芸思潮」エッセイ部門 佳作受賞(2026) 『怒りは、どこまで正義たりうるか』 季節を問わず、眠れない夜に、じっくり読んでもらえるようなエッセイを。 もっと言えば、何度も読み返してもらえるような。 仕事と執筆の両立が難しく 不定期に凍結期間を設けています。

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