
『悲劇でなく、喜劇を。』#16 扉一枚の境界線 〜血と涙のあとの、フツウノクラシ〜
夕方、それは突然やってくる。
10歳、自閉症、重度知的障害。身体も大きくなってきた長男のパニックは、もはや「子供のぐずり」ではない。
ズボンが濡れた。
着替えなさい。
そんな、どこにでもある親子のやり取りが、彼の深いこだわりとぶつかり、一瞬にして平和なリビングを戦場に変える。
泣き叫び、向かってくる。
首の下を鋭くつねられ、胸を固い拳で殴られる。
痛みよりも先にくるのは、
「どうして」という絶望感だ。
彼は自分の顔面を、狂ったようにパンチし始める。
歯茎から、唇から、鼻から、赤い血が滲んでいる。
私は、彼から距離を取る。
リビングを出る。廊下に座り込む。
扉を一枚隔てて。
今、彼の怒りの矛先は「私」だ。
私の姿が見える限り、彼の嵐は収まらない。
扉を閉める。
暗い廊下で、私は自分の震える手を見つめる。
「人様に迷惑をかける前に、殺すか、私も死ぬか」
そんな言葉が脳裏をよぎる。
20分が過ぎた。
扉の向こうから、彼の悲鳴が、荒い息づかいが消え、微かな気配がした。
「……落ち着いた?」
「落ち着いた」
「お母さん、もう叩かない?」
「叩かない」
「お母さん、悲しかったよ。わかる?」
「わかる」
扉を開けると、そこには力なく笑う長男がいた。
鼻血や切れた唇を、彼なりに必死で拭ったのだろう。
床には血で汚れたティッシュが、まるで戦いのあとの花びらのように散らばっていた。
その無器用な、けれど彼なりの「後始末」の跡を見たとき、胸の奥が熱くなる。
こんなにボロボロになっても、
彼は私を求めている。
私も、彼を求めている…んだろうか?
だから、彼を手放せない。
もう大丈夫。
私は、彼を強く抱きしめる。
血の匂いと、少し汗ばんだ体温。
私たちはまた、この危うい、けれど愛おしい
《フツウノクラシ》
に戻っていく。
このハグがある限り。
私たちの物語は
まだ、終わらない。
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