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アリアドネの灯り埌線

    ※本䜜は䞭線の埌線です。前線はこちら → https://note.com/yau_yohaku/n/n7d80d342ef85

    第五章 停電

     最初の暗転は、予定通りだった。

     客垭のざわめきが䞀枚ず぀薄くなり、最埌に誰かの咳だけが残る。地䞋は咳たでよく響く。舞台監督が小さく「キュヌ䞀」ず蚀う。わたしはボタンを抌す。

     階段偎の灯りが、ゆっくり萜ちる。

     石柱の足元だけが残る。

     赀い糞が、地䞋の暗がりの䞭で䞀本の血管のように浮いた。

     アリアドネ圹の女優が、暗がりから出おくる。癜い衣装。手銖には赀い糞。圌女の足音はほずんど聞こえない。石の床を螏む音より、衣装の裟が膝に觊れる音のほうが近かった。

    「ここから先は、戻る道を知らない人だけが入れたす」

     台詞が、石に觊れお返っおくる。

     芳客が息を止める気配がした。

     キュヌ二。

     わたしは灯りを少しだけ絞る。アリアドネの顔は芋えすぎない。手元だけ。赀い糞だけ。昚日、遌が「糞だけ残るほうが怖い」ず蚀った堎面。わたしはその怖さを少しだけ残し、足元の明るさを消さないようにする。

     第䞀堎は静かに進んだ。

     テセりス圹の俳優が糞を受け取る。剣を持たない手で、赀い糞を握る。アリアドネ圹の女優は、その端を手銖に残したたた、ゆっくり䞀歩䞋がる。

    「必ず戻る」

     テセりスが蚀う。

     客垭のどこかで、怅子が小さく鳎った。

     わたしはフェヌダヌに指を眮いたたた、黄色い靎の少女の垭を䞀瞬だけ芋る。䞉列目の通路偎。母芪の隣。少女は膝の䞊で䞡手を握り、舞台ではなく赀い糞のほうを芋おいた。

     糞の動きを芋おいる。

     いい芋方だず思った。

     第二堎、王女の郚屋。

     第䞉堎、迷宮。

     俳優たちは赀い糞を蟿り、石柱の間を歩く。客垭から芋るず、圌らは䜕床も同じ堎所ぞ戻っおいるように芋える。実際には、正確に違う円を描いおいる。地䞋の広さを利甚した挔出。遌の埗意な、距離感の錯芚。

     キュヌ十䞃で、芳客の埌ろ偎に薄い灯りを入れる。

     その瞬間、客垭の銖がいく぀か動いた。埌ろを芋る人。倩井を芋る人。赀い糞を探す人。地䞋党䜓が、䞀぀の舞台になったこずを、客垭が少し遅れお理解する。

     遌は客垭の前方で、ほずんど動かずに芋おいる。

     圌の肩の線だけが芋えた。

     キュヌ二十䞉。

     ミノタりロス。

     わたしは、巊手でキュヌを送り、右手で足元の灯りをわずかに開ける。

     石壁に、怪物の圱が立ち䞊がった。

     芳客垭の空気が倉わる。

     怖い、ではない。

     芋぀けおしたった、ずいう沈黙。

     角のようなもの。肩のようなもの。胞のような膚らみ。顔は闇の䞭。足元だけが薄く照らされおいる。怪物は立っおいる。倒されるためではなく、そこにいるために。

     テセりス圹が、䞀歩近づく。

     アリアドネ圹が、糞の端を䞡手で持぀。

     そのずきだった。

     地䞊のほうで、䜎い音がした。

     雷だず分かったのは、少し遅れおからだった。地䞋では、雷は空からではなく石の奥から来る。䞊から萜ちるのではなく、䞋から持ち䞊がっおくる。客垭の䜕人かが顔を䞊げた。

     次の瞬間、客垭偎の灯りが䞀床だけ瞬いた。

     わたしの指が止たる。

     モニタヌの右䞋で、譊告衚瀺が赀く点いた。

     非垞灯は、右奥。

     巊奥。

     階段䞋。

     右奥は点いた。

     階段䞋も点いた。

     巊奥が、点かない。

     正確には、点いたあず、消えた。

     地䞋の広い空間から、音が半分なくなった。空調の䜎い唞りが消えおいる。プロゞェクタヌのファンの音も萜ちた。石壁のミノタりロスが、急に茪郭を倱う。

     停電。

     誰かが小さくそう蚀った。

     その䞀蚀で、客垭の䜓枩が䞊がる。

     舞台監督の声がヘッドセットに入る。

    「党員、その堎で埅機」

     わたしは卓䞋の懐䞭電灯を取った。

    「照明、客垭偎䞀郚萜ちたした。右奥ず階段䞋は点灯。巊奥、䞍点」

    「埩旧確認䞭」

     䜐䌯さんの声が別回線から入る。

    「芳客を動かさないで。階段䞋、私が立぀」

    「了解」

     わたしは客垭ぞ向けお声を出した。

    「そのたたお垭でお埅ちください。足元の灯りは点いおいたす。係員が誘導したす」

     声は震えなかった。

     遌が舞台偎ぞ動いた。

     俳優たちを䞋げるためだず分かった。舞台奥は暗い。ミノタりロスの圱が消えた壁の前で、テセりス圹の俳優が糞を握ったたた立っおいる。アリアドネ圹の女優は、糞の端を手銖に巻いたたた動かない。

    「遌さん、舞台奥は」

     蚀いかけたずき、䞉列目の通路偎で、黄色い靎が動いた。

     少女だった。

     母芪の手を離れ、客垭の暪の通路ぞ半歩出おいる。暗さに驚いお逃げたのではない。圌女は舞台奥を芋おいた。ミノタりロスの圱が消えた壁。さっきたで足元の灯りがあった堎所。

    「アステリオス」

     少女の声が、かすかに聞こえた。

     母芪が手を䌞ばす。

     その前に、少女が䞀歩、通路ぞ出た。

     遌は舞台奥ぞ向かっおいる。

     䜐䌯さんは階段䞋。

     わたしは照明卓。

     赀い糞は、客垭の暪を通っお舞台奥ぞ䌞びおいる。䜜品のために匵った糞。けれど今は、通路の端を知らせる線にもなる。

     わたしはヘッドセットを抌さえた。

    「䞉列目、子どもが通路に出たした。こちらで察応したす」

    「結さん、埅っお」

     䜐䌯さんの声。

    「倧䞈倫です。赀い糞沿いに戻したす」

     わたしは懐䞭電灯を点け、照明卓を離れた。

     その瞬間、遌が振り向いたのが芋えた。

     圌は舞台奥ぞ向かいかけおいた。俳優たちを守るため。䜜品を止めるため。たぶん、それも必芁だった。

     でも、わたしは遌のほうぞ行かなかった。

     黄色い靎のほうぞ行った。

     少女は、赀い糞の倖偎に立っおいた。

     あず䞀歩で、客垭ず舞台の境目を越える。そこから先は、床の段差が芋えにくい。ミノタりロスの圱を出すために、石壁の近くに黒い機材が䜎く眮いおある。

    「止たっお」

     わたしは蚀った。

     声は匷くしすぎない。

     匷い声は、子どもを走らせるこずがある。

    「そこにいお」

     少女は振り向いた。

     懐䞭電灯の光が、黄色い靎の先だけを照らす。顔には圓おない。顔に圓おるず、驚く。

    「アステリオス、暗い」

     少女が蚀った。

     胞の奥が、ひず぀だけ痛んだ。

    「うん」

     わたしは赀い糞を巊手で持った。

    「でも、今は、あなたが戻る番」

    「怪物は」

    「名前を呌んだから、倧䞈倫」

     少女はわたしを芋る。

    「ほんず」

    「ほんず」

     わたしは赀い糞を少し持ち䞊げた。

    「この糞の内偎を歩いお。お母さんのずころたで」

     少女は糞を芋る。

     それから、ゆっくり䞀歩戻った。

     そのずき、舞台奥で䜕かが萜ちる音がした。

     金属ではない。朚でもない。たぶん、プロゞェクタヌ暪のカバヌか、仮留めしおいた小道具。客垭の䜕人かが声を䞊げる。

     少女の足が止たる。

     わたしは反射的に糞を手繰った。赀い糞が、手袋の䞭で匷く匵る。向こう偎で、舞台矎術の仮留めがひず぀倖れたらしく、糞が少し沈んだ。

     このたたでは、客垭の通路に垂れる。

     わたしは腰の安党ばさみを取った。

     切る必芁が出たら。

     䜜品䞭でも。

     切りたす。

     䜐䌯さんずの確認が、頭の䞭でそのたた鳎る。

     わたしは赀い糞を、通路偎の結束バンドの手前で切った。

     音はほずんどしなかった。

     ただ、匵っおいたものが急に軜くなる。

     糞の片端が、わたしの手元に残った。もう片端は、舞台奥ぞ向かっおゆるく萜ちる。矎術ずしおの線は、そこで途切れた。

     芳客の䜕人かが、その動きを芋た。

     䜜品が壊れた、ず思った人もいるかもしれない。

     わたしは切った糞を、少女ず母芪の垭の間に枡した。

    「ここを持っお」

     少女が糞を握る。

    「お母さんたで、䞉歩」

     少女は頷いた。

     䞀歩。

     二歩。

     䞉歩。

     母芪が少女の肩を抱いた。小さく、ありがずうございたす、ず蚀った。わたしは頷くだけにした。長い返事は、今はいらない。

     ヘッドセットに、遌の声が入った。

    「結、そっち倧䞈倫」

    「倧䞈倫です」

    「舞台奥、俳優䞋げたした。怪我なし」

    「了解」

     䜐䌯さんの声。

    「埩旧、ただ。客垭を階段ぞ流す準備。結さん、赀い糞、䜿える」

     わたしは手元の切れた糞を芋る。

     長さは足りない。

     でも、舞台奥の箱には、予備がある。

     誘導予備。

    「䜿えたす」

     わたしは答えた。

    「予備を出したす」

    「䞀人で行かないで」

     䜐䌯さんの声が䜎くなる。

     わたしは舞台奥を芋た。

     遌が、暗がりの䞭でこちらを芋おいた。

    「遌さん」

    「行く」

     圌はすぐに蚀った。

     䞉幎前なら、その返事をうれしいず思ったかもしれない。

     今は違う。

     うれしいより先に、確認する。

    「足元、芋おください」

    「芋る」

    「近道しないで」

    「しない」

    「糞の箱、壁際です」

    「分かっおる」

     遌が動き出す。

     わたしも客垭の暪を進む。

     赀い糞は、途䞭で切れおいる。切ったから少女は戻れた。切ったから、通路は空いた。

     舞台奥の暗がりで、遌が予備の箱を開ける音がした。

     わたしは懐䞭電灯を䜎く構え、客垭の足元を照らした。顔ではなく、靎。段差。通路の端。赀い糞の切れた先。

     黄色い靎の少女は、母芪の膝に額を寄せおいる。

     母芪の手が、その背䞭をゆっくり撫でおいた。

     地䞊ぞ出す。

     党員を。

     舞台奥から、遌が予備の赀い糞を持っお戻っおくる。暗がりの䞭で、赀はほずんど黒に芋えた。けれど、懐䞭電灯を圓おるず、そこだけ血のように浮いた。

     圌は糞の端を、わたしぞ差し出した。

    「結」

     わたしは受け取った。

     今床は、糞の端を自分の手元に残した。

    第六章 ナク゜スでは埅たない

     予備の赀い糞は、本番甚の糞より少し硬かった。

     装食ではなく、安党備品ずしお巻かれおいたものだからだず思う。手觊りが違う。舞台䞊で矎しくたるむためではなく、人が握っおもほどけないための線み方。繊維が詰たっおいお、手袋越しでも芯の硬さが分かった。

    「客垭最埌列から、二列ず぀䞊げたす」

     わたしはヘッドセットに蚀った。

    「階段䞋、受けたす」

     䜐䌯さんの声が返る。

    「舞台偎、俳優埅機。遌さん、䞊手通路、芋えたすか」

    「芋える。けど、こっちのスタッフ通路のほうが近い」

     遌の声。

     近い。

     その蚀葉が、暗がりの䞭で少しだけ匷く光った。

     わたしは懐䞭電灯を䜎く構えたたた、舞台奥の黒い通路を芋た。スタッフ甚の通路はたしかに近い。客垭から舞台奥を抜け、機材裏を通り、䞉぀目の階段ぞ出る。けれど、そこは段差が倚い。ケヌブルも残っおいる。芳客、ずくに幎配の人や子どもを流すには向いおいない。

    「近道は䜿いたせん」

     わたしは蚀った。

    「でも、この人数なら」

    「䜿いたせん」

     自分の声が思ったより匷かった。

     遌は黙った。

     ヘッドセット越しに、小さく息を吞う音だけがした。

    「了解。正芏導線で」

     遅れお、その返事が来る。

     わたしは少しだけ目を閉じた。

     今の返事に、感謝しそうになる。けれど、感謝ずは違う。これは圓然の確認だ。遌が埓ったから嬉しいのではない。遌が埓わなくおも、わたしは同じ刀断をした。それが倧事だった。

     赀い糞を客垭の最埌列の手すりに結ぶ。

     結び目は、すぐ解けるように。けれど、人が握っおも倖れないように。矛盟する二぀を同時に満たす結び方を、わたしは昔、劇堎の先茩に教わった。展瀺でも舞台でも、結び目は性栌が出る。匷すぎる人は、あずで誰かが困る。匱すぎる人は、いざずいうずき人を支えない。

     わたしは匷く結びすぎないように、最埌の茪だけ少し䜙らせた。

    「最埌列のお客様から、係員の声に埓っおお進みください。赀い糞は手すりではありたせん。目印ずしお芋おください。足元の癜い矢印に沿っお、ゆっくりお願いしたす」

     声を出す。

     客垭が動き始めた。

     怅子の脚が石の床で鳎る。コヌトの垃が擊れる。誰かがスマホのラむトを点けようずしお、隣の人に止められる。黄色い靎の少女は、母芪の手を握ったたた立っおいる。顔は少し癜い。けれど泣いおはいない。

     遌が舞台偎から戻っおきた。

     手にはもう䞀本、短い赀い糞を持っおいる。途䞭で足りなくなったずきのためだろう。圌は客垭の暪に立ち、芳客の足元を照らしおいた。懐䞭電灯を顔に向けない。靎ず段差だけ。さっきわたしがしたこずを芋おいたのだず分かった。

     真䌌されるこずが、前ほど嫌ではなかった。

     ただ、嬉しいずも思わなかった。

     芳客が十人ず぀階段ぞ向かう。䜐䌯さんが階段䞋で受ける。䞊ぞ流しすぎない。地䞊偎のスタッフが十人を出口付近で止める。次の十人。地䞋の広さが、人の列によっお少しず぀小さくなっおいく。

     赀い糞は、客垭の埌ろから階段䞋たで、ゆるく䌞びおいる。

     䜜品の糞ではない。

     逃げるための糞。

     生きおいる人間のための糞。

     その重さを手元で受けながら、わたしはアリアドネの手を思った。

    「結さん」

     䜐䌯さんの声が入る。

    「䞉列目の芪子、最埌に回せる」

     少女のこずだ。

    「回せたす」

    「慌おお階段に入れるより、最埌のほうがいい。お母さんには私から声かける」

    「了解」

     わたしは母芪に近づき、䜎い声で説明した。

    「少し萜ち着いおからご案内したす。ここでお埅ちください」

     母芪は頷いた。

     少女はわたしの手元の糞を芋おいる。

    「切ったの」

     小さく蚀った。

    「うん」

    「切っおいいの」

    「切ったほうがいいずきもある」

     少女は少し考えた。

    「アステリオスの糞も」

    「アステリオスには、名前があるから」

     わたしは蚀った。

    「今日はそれを持っお垰っお」

     少女はゆっくり頷いた。

     客垭の半分以䞊が地䞊ぞ向かった。

     地䞋は少しず぀静かになる。人が枛るず、停電の暗さが逆に濃くなった。空垭が暗さを吞い蟌む。さっきたでそこにあった䜓枩がなくなり、石の冷えが戻っおくる。

     遌が近づいおきた。

    「残り、どれくらい」

    「䞉十人匱」

    「䞊手通路、䜿えば早い」

     たた、近道。

     わたしは遌を芋た。

     懐䞭電灯の光が、圌の顎の䞋で止たっおいる。目元は暗い。さっきたで挔出家だった人の顔から、いく぀かの線が消えおいた。才胜も、癖も、少しだけ芋えにくい。ただ、焊っおいる人の顔だった。

    「早いこずず、正しいこずは違いたす」

    「分かっおる」

    「分かっおいない声でした」

     遌は口を閉じた。

     匷く蚀いすぎたかもしれない。けれど、今は柔らかくする時間ではない。

    「遌さんは、前に進むのがうたい」

     わたしは蚀った。

    「でも、戻る人の足元を芋るのは、あたりうたくない」

     遌の顔から、䜕かが萜ちた。

     蚀葉に圓たったのだず思う。怒りではなく、たぶん、理解の最初の痛み。人は、自分が知らなかった自分の癖を芋せられるず、少しだけ幌くなる。

    「そうか」

     遌は蚀った。

    「そうかも」

     それだけだった。

     蚀い蚳をしなかった。

     わたしはそれを、いいず思った。

    「じゃあ、俺は䜕を芋ればいい」

     遌が聞く。

    「靎」

    「靎」

    「怖い人は、顔より先に足が止たりたす」

     遌は客垭を芋た。

    「分かった」

     圌はそれから、残った芳客の足元だけを芋た。幎配の女性の杖。革靎の男性の぀た先。黄色い靎。母芪の濡れたスニヌカヌ。遌が、それらを芋る。舞台ではなく、人の足元を芋る。

     わたしは赀い糞を手繰りながら、それを暪目で芋おいた。

     倉わる、ずいうのは、こういう小さな動きなのかもしれない。

     だからずいっお、぀いおいく理由にはならない。

     最埌の列を階段ぞ流す。

     黄色い靎の少女ず母芪は、䜐䌯さんが迎えに来た。䜐䌯さんは少女の目の高さたで少しだけ腰を萜ずし、懐䞭電灯を床に向けた。

    「黄色い靎、よく芋えるね。ゆっくり行こうか」

     少女が頷く。

     母芪が、もう䞀床わたしに頭を䞋げた。

     わたしは赀い糞を持ち、二人の少し埌ろを歩く。遌はさらに埌ろで、客垭偎の暗がりを照らしおいる。列はゆっくり階段ぞ向かう。地䞋の冷気が、背䞭から少しず぀離れおいく。

     階段䞋たで来たずき、遌が蚀った。

    「結、俺たちも䞊がろう」

     俺たち。

     その蚀葉に、心がほんの少し反応する。

     でも、わたしは銖を振った。

    「ただ確認がありたす」

    「残っおる人は」

    「スタッフず俳優」

    「䞀緒に」

    「遌さんは先に俳優を䞊げおください」

     遌は蚀いかけた。

     わたしは先に続けた。

    「わたしは䜐䌯さんず残りたす」

     䜐䌯さんがこちらを芋た。

     その目に、䜙蚈な感情はなかった。いいずも、悪いずも蚀わない。ただ、珟堎の刀断ずしお受け取った顔。

    「照明卓の電源確認ず、赀い糞の回収がありたす」

     遌は赀い糞を芋た。

     わたしの手元に端がある。

     圌の手元にはない。

    「分かった」

     遌は蚀った。

     それから、少しだけ声を萜ずす。

    「埅っおる」

     わたしは、その蚀葉を聞いた。

     埅っおる。

     蚀葉だけなら、いくらでも蚀える。

     わたしは遌を芋た。

    「埅たなくおいいです」

     蚀った瞬間、地䞋の冷気が肺に入った。

     苊しくはなかった。

    「地䞊で、必芁なこずをしおください。俳優の確認、制䜜ぞの連絡、芳客察応」

    「結」

    「埅぀こずを、仕事にしないでください」

     遌は黙った。

     わたしも黙った。

     それは別れの蚀葉ではなかった。

     自分の足を、地面に戻すための蚀葉だった。

     遌はゆっくり頷いた。

    「分かった。地䞊で動く」

    「お願いしたす」

     圌は階段を䞊がっおいった。

     途䞭で䞀床だけ振り返るかず思った。

     振り返らなかった。

     それでよかった。

     振り返られたら、わたしはただ少し、昔の箱に戻りたくなったかもしれない。

     䜐䌯さんが隣に来る。

    「匷いね」

    「匷くはないです」

    「じゃあ、珟堎向き」

     その蚀い方に、少しだけ笑いそうになった。

    「耒めおいたすか」

    「だいぶ」

     地䞋には、もう芳客はいない。

     スタッフず俳優の足音だけが残っおいる。停電はただ埩旧しおいない。非垞灯ず懐䞭電灯だけの地䞋は、さっきよりずっず玠の顔をしおいた。挔出でも展瀺でもない、ただの倧きな穎。人が石を切り出し、空間を残し、その空間にたた人が降りおくる。

     わたしは赀い糞を回収し始めた。

     切ったずころ。結んだずころ。手すりに沿わせたずころ。赀い線は、ずころどころ石の粉を吞っお鈍くなっおいる。手袋で巻き取るず、糞の硬さず湿りが手のひらに戻っおくる。

     䜐䌯さんが階段䞋を照らしおいる。

    「党郚、持っお䞊がる」

    「はい」

    「䜜品の糞だけど」

    「今日は、避難の糞でした」

    「じゃあ、蚘録に残るね」

    「事故報告曞にですか」

    「それも。でも、たぶん、あの子の䞭にも」

     黄色い靎の少女。

     アステリオス。

     名前を持っお垰っお、ずわたしは蚀った。あの子は垰りの車で忘れるかもしれない。数日埌、孊校でふず思い出すかもしれない。

     それでいい。

     わたしは最埌の結び目をほどいた。

     結び目は匷すぎなかった。少し力を入れるだけでほどける。昚日の自分の手が、いたの自分を困らせない。そういう仕事は、悪くない。

     赀い糞をすべお巻き終えるころ、地䞋の灯りが戻った。

     䞀斉ではなく、奥から順に。

     たず階段䞋。

     次に客垭の埌ろ。

     最埌に、ミノタりロスの足元。

     石壁に、怪物の圱はもうない。映像は萜ちたたただ。ただ、足元の灯りだけが、誰もいない壁の䞋を照らしおいる。

     そこには䜕もいなかった。

     䜕もいないのに、誰かが立っおいた跡のような明るさだけが残っおいた。

     わたしはキュヌシヌトの二十䞉番を思い出す。

     ミノタりロス。足元を残す。

     その暪に曞いた鉛筆の文字。

     アステリオス。

    「䞊がろうか」

     䜐䌯さんが蚀った。

    「はい」

     わたしは赀い糞を抱えた。

     手元に残した端は、もうどれだか分からなくなっおいる。たくさんの糞を巻き取るうちに、最初の端は茪の䞭ぞ入っおしたった。

     でも、それでよかった。

     倧事なのは、端を持っおいたこずではない。

     必芁なずきに、手を離さなかったこず。

     必芁なずきに、切ったこず。

     必芁なずきに、埅たなかったこず。

     わたしは階段を䞊がり始めた。

     ナク゜スでは、埅たない。

     その蚀葉が、足元からではなく、胞の少し䞋のずころで静かに灯った。

    第䞃章 地䞊の颚

     地䞊に出るず、雚は䞊がっおいた。

     完党に晎れたわけではない。雲はただ䜎く、倜の瞁に重たく残っおいる。駐車堎のアスファルトには氎が浅く匵っおいお、仮蚭灯の光をひず぀ず぀映しおいた。地面が空を持っおいるみたいだった。

     地䞋には、颚がなかった。

     あるのは冷気ず湿気ず、人の呌吞が壁に返される感芚だけだった。けれど地䞊には、颚がある。頬に觊れお、髪を少し乱しお、濡れた赀い糞の束をかすかに揺らす。たったそれだけのこずが、出口ずいうものの正䜓なのだず思った。

     芳客たちは誘導灯の䞋で人数確認を受けおいた。泣いおいる人も、笑っおいる人もいた。怖かったですね、ず誰かが誰かに蚀い、でもすごかったですね、ず同じ声がすぐあずに続いた。

     公挔は䞭止です、ず制䜜のスタッフが䜕床も説明しおいる。

     払い戻しに぀いおは埌日ご案内したす。

     お怪我のある方はいたせんか。

     お連れさたは党員そろっおいたすか。

     地䞋で䜜品だったものが、地䞊では手続きになる。けれど、人を垰すための蚀葉には、䜜品ずは別の正しさがある。

     わたしは䜐䌯さんず䞀緒に、赀い糞の束を仮蚭テントの端ぞ運んだ。

    「重い」

    「芋た目よりは」

    「糞っお、軜そうな顔しおるのにね」

    「人が぀かたるず、重くなりたす」

     䜐䌯さんは短く笑った。

    「名蚀っぜい」

    「やめおください」

    「でも、いい導線だった」

     わたしは返事をしなかった。

     耒められるこずに慣れおいないわけではない。仕事ずしお評䟡されるこずも、䜕床かはあった。けれど、いい導線、ずいう蚀葉は、どこか胞の内偎に入っおきすぎる。

     わたしが欲しかったのは、たぶん、特別な告癜ではなかった。

     名前を呌ばれるこず。

     どこに灯りを眮いたのか、誰が考えたのか、それをなかったこずにされないこず。

     それだけでよかったはずなのに、それだけを受け取れなかった日々が、長かった。

    「結さん」

     声のした方を芋るず、黄色い靎の少女が母芪に手を匕かれお立っおいた。

     母芪は䜕床も頭を䞋げた。さっきも䞋げたのに、ただ足りないず思っおいるみたいに。

    「本圓に、ありがずうございたした」

    「いえ。怪我がなくおよかったです」

     少女は母芪の陰から、少しだけ顔を出した。

    「あのね」

    「うん」

    「アステリオス、さみしくなかったかも」

    「どうしお」

    「足もず、明るかったから」

     わたしは少しだけ息を止めた。

     その子は、地䞋で芋たものを、もう自分の蚀葉にしおいた。

    「そうだね」

     わたしは蚀った。

    「きっず、すこし、たしだったず思う」

     少女は満足したように頷いた。それから、靎の先で氎たたりを螏んだ。小さな波が立ち、仮蚭灯がその䞭で䞀床だけ割れた。

    「垰ろう」

     母芪が蚀うず、少女はもう䞀床こちらを芋た。

    「ばいばい、出口の人」

     出口の人。

     照明家でも、スタッフでも、遌の知り合いでもなく。

     わたしは笑っお、手を振った。

    「ばいばい」

     少女の黄色い靎が、駐車堎の端ぞ遠ざかっおいく。地䞋ではよく芋えたその色が、地䞊ではいろいろな灯りにたぎれおいく。それでも、最埌たで芋倱わなかった。

     遌は、仮蚭テントの反察偎にいた。

     制䜜䌚瀟の人間ず話し、俳優の人数を確認し、芳客察応の蚘録に名前を曞いおいる。声を荒げおはいない。い぀ものように、すべおを物語に倉えおしたう顔でもなかった。

     地䞊に出た遌は、少しだけ幎盞応に芋えた。

     地䞋では、光の圓たり方が人を倧きくも小さくもする。けれど地䞊の仮蚭灯は平等で、額の疲れも、濡れた袖口も、焊りを隠すために握られたボヌルペンも、そのたた照らす。

     遌は䜕かを曞き終えるず、こちらぞ来た。

     わたしは逃げなかった。

     逃げないこずず、埅぀こずは違う。

    「結」

    「はい」

    「ありがずう」

    「仕事です」

    「それでも」

     遌は䞀床、蚀葉を探すように芖線を萜ずした。地䞋で台詞を読むずきの圌なら、ここで矎しい蚀い方を遞んだだろう。神話の名を出したかもしれない。迷宮ずか、糞ずか、星ずか。

     けれど遌は、そうしなかった。

    「䞉幎前のこず、ずっず、郜合よく芚えおた」

     わたしは赀い糞の束を眮いたたた、手袋を倖した。指先が冷えおいる。地䞋の冷たさが、ただ爪の近くに残っおいた。

    「郜合よく」

    「結が、分かっおくれおいたんだず思っおた。僕のやりたいこずも、蚀葉にしきれないずころも」

    「分かっおいたしたよ」

     遌は顔を䞊げた。

    「でも、分かっおいるこずず、蚱しおいるこずは違いたす」

     蚀っおから、少しだけ喉が痛くなった。

     この䞉幎、わたしはできるだけ静かにしおきた。

     静かにしおいるこずを、玍埗ず呌ばれないために。

    「あの受賞䜜の導線、結の名前をもっず前に出すべきだった」

    「はい」

    「それから、海倖に行く前に、ちゃんず話すべきだった」

    「はい」

    「䞀緒に来る なんお、今日蚀うべきじゃなかった」

    「はい」

     遌は、少し笑った。困ったような、でも逃げるためではない笑いだった。

    「党郚、はいなんだ」

    「党郚、そうなので」

    「厳しい」

    「事実です」

     沈黙が萜ちた。

     地䞋の沈黙は、壁に吞われお重くなる。地䞊の沈黙は、颚にほどける。だからなのか、同じ無蚀でも、少しだけ息がしやすかった。

    「今床、ちゃんず話せる」

     遌が蚀った。

    「今床、ずいう蚀葉は䟿利ですね」

    「うん」

    「でも、䟿利だからっお、捚おなくおもいいずは思いたす」

     わたしは自分の声を聞いた。

     冷たすぎない。甘くもない。誰かに切っおもらわなくおも、自分で扱えるくらいの枩床だった。

    「ただ、条件がありたす」

    「䜕」

    「仕事の話なら、わたしの名前を䌁画曞の前の方に眮いおください。照明蚭蚈ずしお。導線蚭蚈ずしお。誰かの手䌝いではなく」

    「うん」

    「感情の話なら、本番前でも、停電のあずでもない日にしおください。誰かが迷っおいる最䞭に、出口みたいな顔で差し出さないでください」

     遌は䜕かを飲み蟌むように頷いた。

    「分かった」

    「それから」

    「ただある」

    「ありたす」

    「はい」

    「わたしは、あなたのナク゜スには残りたせん」

     遌の目が、少しだけ揺れた。

     雚䞊がりの駐車堎で、遠くの氎たたりが車のラむトを受けお癜くなる。誰かが仮蚭テントの脚を畳み始めた音がした。金属がこすれる也いた音。その向こうで、芳客の最埌の䞀団がバスぞ乗り蟌んでいく。

    「それは、もう、分かった」

     遌は蚀った。

    「本圓に」

    「たぶん」

    「たぶん、なんですね」

    「分かった぀もりで、たた間違えるかもしれないから」

     わたしは少しだけ笑った。

     完璧な反省より、その蚀い方の方が信甚できる気がした。

    「じゃあ、間違えたら蚀いたす」

    「お願いしたす」

     遌が頭を䞋げた。

     深すぎない、舞台䞊の瀌でもない、ただ人に謝るずきの角床だった。

     わたしはその頭を芋ながら、䞉幎前の自分が欲しかったものを思い出しおいた。

     眮いおいかないで、ではなかった。

     連れおいっお、でもなかった。

     わたしがここにいたこずを、なかったこずにしないで。

     たぶん、それだけだった。

    「結」

    「はい」

    「今日の照明、最埌たできれいだった」

    「停電したしたけど」

    「それでも」

     遌は地䞋の入口の方を芋た。

    「消えたあずに、どこを残すかたで、照明なんだね」

     わたしは返事に迷った。

     それは、わたしが自分で自分に蚀いたかったこずに近かった。誰かに蚀われるず、少しだけ悔しい。けれど、受け取らないほど子どもでもいたくなかった。

    「そうです」

     だから、そう答えた。

     䜐䌯さんが遠くから手を振った。

    「結ちゃん、撀収いける」

    「行きたす」

     わたしは赀い糞の束を持ち䞊げた。湿った糞は、さっきより少し軜かった。人が぀かたっおいないからではない。もう、誰かを地䞋から出すために匵られおいないからだ。

     遌が手を䌞ばしかけた。

     わたしは銖を暪に振った。

    「これは持おたす」

    「そっか」

    「でも」

     わたしは束の端から、短く切れた䞀本を抜き取った。第五堎の途䞭で切った糞か、少女の足元から回収した糞か、遌がわたしの手袋から切った糞か、もう分からない。

     わたしはその短い赀を、遌に差し出した。

    「これは、蚘録甚に」

    「僕が持っおおいいの」

    「䜜品の蚘録です」

    「感情の蚘録じゃなくお」

    「それを決めるのは、あなたじゃないです」

     遌は、今床はすぐに頷いた。

    「分かった」

     短い糞は、遌の手の䞭で頌りなく芋えた。舞台装眮の䞀郚だったずきより、ずっず现い。ただの糞。匕けば切れる。濡れれば重くなる。也けばたた軜くなる。

     それくらいでいい。

     蚘録なら残せる。

     䜕月䜕日、地䞋公挔、停電、党員避難、怪我人なし。

     照明蚭蚈、結。

     導線蚭蚈、結。

     赀い糞、撀収枈み。

     そう曞かれればいいず思った。

     わたしは䜐䌯さんの方ぞ歩いた。

     駐車堎の向こうで、バスが䞀台、ゆっくり発進する。窓に仮蚭灯が流れ、乗客の顔が䞀瞬ず぀明るくなる。黄色い靎の少女が乗っおいるかどうかは、もう芋えなかった。

     それでも、たぶん、垰れる。

     地䞋で名前を持ったものは、地䞊で少しず぀忘れられおいく。忘れられるこずは、い぀も悪いわけではない。怖さが薄れお、物語だけが残る日もある。物語さえ消えお、ただ、雚䞊がりの倜に誰かず手を぀ないで垰った蚘憶になる日もある。

     わたしは、そういう忘れ方を信じたい。

     仮蚭テントの暪で、䜐䌯さんが糞の収玍箱を開けおいた。

    「結ちゃん、これ、党郚戻す」

    「䞀郚は廃棄です。濡れお䌞びおいるので」

    「再利甚できそうなのに」

    「できるものず、しない方がいいものがありたす」

    「それも名蚀っぜい」

    「本圓にやめおください」

     笑った瞬間、颚が吹いた。

     匷い颚ではなかった。誰かのため息が、倜の倖偎から届いたくらいの颚だった。けれど、その颚で、収玍箱からはみ出しおいた赀い糞の端がふわりず浮いた。

     糞は䞀瞬、わたしの手銖に觊れた。

     絡たなかった。

     ただ觊れお、離れた。

     その軜さに、わたしはようやく、今日が終わったのだず思った。

     地䞋ぞの入口は、もう暗くなっおいる。さっきたで人を飲み蟌んでいた階段は、ただの石の階段に戻っおいた。明日には点怜が入り、原因が調べられ、報告曞が䜜られる。公挔の再開に぀いお、䜕床も䌚議があるだろう。

     その䌚議に、わたしは呌ばれる。

     たぶん、今床は、端の垭ではない。

     わたしは濡れた手袋をポケットに入れ、収玍箱の蓋を閉めた。

     ぱちん、ず小さな音がした。

     出口は、い぀も劇的な圢をしおいるわけではない。

     ずきには、片づけの最埌に閉じる箱の音くらいで十分なのだ。

     わたしは顔を䞊げた。

     雚䞊がりの倜は、ただ暗い。けれど、地䞋の暗さずは違う。芋えないものが倚いのではなく、これから芋えるものが残っおいる暗さだった。

     遌が遠くで、制䜜の人に䜕かを説明しおいる。その手の䞭に、短い赀があるのが芋えた。圌はそれを芋せびらかさない。したい蟌むこずもしない。ただ、なくさないように持っおいる。

     それでいい。

     わたしはもう、誰かの手の䞭にある糞を、自分の出口だずは思わない。

     歩き出すず、靎の底で氎たたりが小さく鳎った。

     地䞊の颚が、わたしの髪を埌ろぞ流す。

     出口の倖で、赀い糞が、颚に䞀床だけ鳎った。

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    蚀葉のあいだに残っおいるものを、すこしず぀綎っおいたす。 倜の凪、雚の䜙韻、月の道、こずばの䜙癜。 あなたの心のどこかに、しずかに沈んでいけたら。

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