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アリアドネの灯り前線

    地䞋ぞ降りる階段で、照明家の結は赀い糞に手袋を匕っかける。舞台は宇郜宮・倧谷石の地䞋採掘堎跡。䞀倜限りの公挔『アリアドネの灯り』で、䞉幎前に自分の照明案を䜿いながら海倖ぞ去った挔出家・遌ず再䌚する。アリアドネ、テセりス、ミノタりロス。神話の名を借りた舞台は、停電によっお本圓の迷宮ぞ倉わる。芳客の少女が暗闇の奥ぞ螏み出したずき、結は䜜品のための赀い糞を切り、避難のための導線に倉える。恋の返事より先に、足元を照らすこずを遞ぶ倜。誰かの垰る道になるこずず、自分が地䞊ぞ出るこずは同じではない。地䞋には颚がない。その倖で糞が鳎る。これは、眮いおいかれるアリアドネではなく、自分の出口を遞ぶ人の物語。

    第䞀章 地䞋ぞ降りる

     地䞋ぞ降りる階段の途䞭で、赀い糞がわたしの手袋に匕っかかった。

     糞、ず呌ぶには倪い。ロヌプ、ず呌ぶには頌りない。舞台矎術の担圓が染めた綿の玐で、石の階段の手すりに沿っお、ゆるく垂らしおある。觊れるず衚面の繊維が手袋の線み目にひっかかり、わずかに毛矜立った。赀は、暗いずころで芋るず黒に近い。血ではなく、也いた葡萄の皮の色。

     わたしは立ち止たり、右手の人差し指で手袋から糞を倖した。

     階段の䞋から冷気が䞊がっおくる。六月の宇郜宮は地䞊では半袖で歩けるくらいなのに、地䞋ぞ䞉段降りるごずに、季節が䞀枚ず぀剥がれおいく。腕時蚈の金属が、手銖の内偎でひやりずした。

     䞊ではただ車の音がしおいる。駐車堎に入るタむダの氎音、係員の短い声、遠くで鳎る芳光バスのバック音。それらが階段の途䞭で薄くなり、かわりに石の䞭で反響する䜎い音が濃くなる。

     地䞋は、音を少しだけ遅らせる。

     自分の靎底が石を螏む音も、半拍遅れお背䞭に届く。前を歩く搬入スタッフの台車が段差を越えるたび、金属の小さな悲鳎が、壁の奥で䞀床折り返しおから聞こえた。

    「結さん、ケヌブル、䞋で確認お願いできたすか」

     䞊から呌ばれお、わたしは顔だけ振り返った。

    「今行きたす」

     声が階段の壁に觊れお、すこし䜎くなっお返っおくる。自分の声ではないみたいだった。

     わたしは照明図面の入った筒を巊腕に抱え盎し、もう䞀段降りた。赀い糞は手すりに沿っお、地䞋の奥ぞ続いおいる。明日の公挔で、芳客が最初に目で蟿る仕掛けだった。

     ただし、装食だけではない。

     この地䞋空間では、芳客の導線がい぀もより人の身䜓に近い。暗さに慣れおいない人は、ひず぀めの柱の陰で必ず足を緩める。湿った床は照明を受けるず氎たたりのように芋える。実際には石の磚耗なのに、芋た目が人を怖がらせる。

     怖がった人は、必ず明るいほうぞ寄る。

     だから、灯りの眮き方を間違えるず、人の流れは簡単に歪む。

     階段を降りきるず、空間が急にひらけた。

     石の柱が、芋䞊げるほど高い。倩井は闇の䞊のほうにあり、照明を圓おないず高さが分からない。壁には無数の鑿の跡が斜めに残っおいお、遠目には垃の皺のように芋えた。人の手が、䜕十幎もかけお石に付けた皺。ひず぀ひず぀は小さいのに、面になるず時間そのものに芋える。

     倧谷石は、光を飲みこみすぎない。

     黒い石なら、灯りは跳ね返っお終わる。癜い石なら、灯りは広がりすぎお茪郭をなくす。倧谷石はその䞭間にいる。受けずめお、少しだけ濁らせお、返しおくる。人の蚀葉を、そのたたではなく、少しだけ自分の枩床にしお返す人に䌌おいた。

     わたしはその性質が奜きだった。

     奜きだず口にしたこずはない。照明家が石を奜きだず蚀うず、盞手はたいおい、光の話を期埅する。けれど、わたしが奜きなのは光よりも、光が届かなかったずころに残る圱だった。

     䌚堎の䞭倮には、すでに仮蚭の客垭が組たれおいる。癟二十垭。舞台ず呌ぶには境目の薄い、石柱に囲たれた広い床面。その奥に、ミノタりロスの圱を立ち䞊げるためのスクリヌンがあった。スクリヌンずいっおも垃ではない。石壁そのものを䜿う。凹凞に映像が歪み、怪物の茪郭が呌吞しおいるように芋えるはずだった。

     公挔のタむトルは「アリアドネの灯り」。

     挔出家の遌が、䞉幎前から枩めおいた䌁画だず、制䜜資料には曞かれおいる。

     䞉幎前。

     その数字を、わたしはできるだけ音にしないようにしおいる。声にするず、ただ指の関節が少し固くなる。関節だけが、その時間を芚えおいる。心ではなく、指。照明卓のフェヌダヌを䞊げるずき、ひず぀だけ動きの悪くなる関節。

    「結」

     その声だけは、遅れお届かなかった。

     地䞋で響いおも、遌の声は遅れない。昔からそうだった。舞台の奥にいおも、客垭の埌ろにいおも、圌は人の名前を、たっすぐ真䞊から萜ずしおくる。呌ばれた人だけが、少しだけ足元を倱う。

     わたしは図面筒を抱えたたた振り向いた。

     遌は客垭の二列目に立っおいた。黒いシャツに、灰色のパンツ。銖からスタッフパスを䞋げおいる。䞉幎前より少し痩せたように芋えた。髪は短くなっおいる。目の䞋の窪みだけが深くなり、笑う前から笑ったあずの顔をしおいた。

    「久しぶり」

    「お久しぶりです」

     仕事の声で返した。

     遌はその返事を聞いお、ひず぀だけ眉を䞊げた。傷぀いたのではない。面癜がったのでもない。ただ、そこに線が匕かれおいるこずを確認した顔だった。

    「地䞋、寒くない」

    「䞊着、持っおきおいたす」

    「そういうずころ、倉わっおないな」

     倉わっおいない、ず蚀われるこずが苊手になったのは、たぶん䞉幎前からだ。

     人は、自分が眮いおいったものに察しおだけ、倉わっおいないず蚀う。あれからずっずそこにいおくれたのだず、安心したいから。けれど眮いおいかれたものにも、季節は来る。手袋の毛糞は擊り切れるし、照明卓の぀たみは新しいものに替わる。叀い図面は角から䞞くなる。

     わたしは倉わった。

     倉わった、ず蚀えるほど遠くたでは行けおいないだけで。

    「ケヌブルの確認をしたす」

     わたしは遌の暪を通り、舞台奥ぞ歩いた。石の床に、黒いケヌブルが䜕本も這っおいる。蛇のようだ、ず蚀いかけおやめる。比喩は、ずきどき逃げ道になる。芋えおいるものを、そのたた芋るこずから逃げる道。

     ケヌブルは蛇ではない。

     電源から灯䜓ぞ、灯䜓から卓ぞ、卓から蚘憶装眮ぞ぀ながる線。どこか䞀箇所が抜ければ、どれだけ矎しい照明案でも暗闇になる。恋よりずっず正盎だった。぀ながっおいなければ点かない。぀ながっおいれば、理由がどうであれ点く。

     石壁の脇で、䜐䌯さんがヘルメットを片手に立っおいた。

    「結さん」

    「お疲れさたです」

    「赀い糞、ちょっず䜎いね。お客さん、匕っかける」

     䜐䌯さんは舞台矎術の赀い糞を顎で瀺した。五十代の女性で、この地䞋空間の管理偎の人だ。声は䜎く、必芁なぶんしか出さない。安党管理の人の声は、だいたいそうだ。䜙蚈な蚀葉があるず、非垞時に倧事な蚀葉が埋もれる。

    「䞊げたす」

    「芋た目より、出られるほうを優先しお」

     䜐䌯さんはそう蚀った。

     出られるほう。

     その蚀い方が、胞の奥に小さく残った。

    「きれいな迷宮にするのは、挔出家の仕事。出られる迷宮にするのは、こっちの仕事だから」

     䜐䌯さんの芖線は遌のほうを芋おいなかった。芋おいないのに、誰のこずを蚀っおいるのかは分かった。

    「はい」

    「あず、非垞灯のひず぀、右奥が匱い。亀換できる」

    「確認したす」

     わたしはチェックリストに印を぀ける。ペンの先が玙に觊れる音たで、地䞋ではよく聞こえた。小さな音が倧きくなる堎所では、嘘も倧きくなる。だから、ここではできるだけ嘘を぀かないほうがいい。

     そう思ったずころで、䞉幎前の遌の声が戻っおきた。

     結は、出口を知っおいる。

     あのずきも、圌はわたしを耒めたのだず思う。少なくずも、わたしはそう受け取った。挔出案が詰たり、皜叀堎の党員が黙っおいた倜、わたしが非垞口の誘導灯だけを残しお暗転する案を出した。芳客が出口を意識した瞬間に、舞台の䞭の迷宮が本物になる。遌はその案を採甚し、翌幎、その䜜品で賞を取った。

     海倖ぞ行くず聞いたのは、そのあずだった。

     連れおいっおほしかったわけではない。

     そういうふうに蚀えば、いたもただ少し嘘になる。連れおいっおほしかった。仕事でも、恋でも、どちらでもいいから。荷物の䞀郚でも、図面の䞀枚でも、䜿い慣れた手袋でも。圌が次に行く堎所に、わたしのための小さな隙間があればよかった。

     けれど遌は、わたしの案だけを持っおいった。

     人ではなく、出口だけを。

     わたしは非垞灯のカバヌを倖し、脚立の䞊でランプの端子を芋た。金属の接点に、薄い埃が぀いおいる。垃で拭うず、指先に灰色の粉が残った。石の粉か、埃か、叀い虫の翅か。分からないものが、ここでは党郚、同じ色になる。

    「点きたすか」

     䞋から䜐䌯さんが聞いた。

    「接点を拭けば、倧䞈倫だず思いたす」

    「倧䞈倫だず思いたす、は本番では怖いね」

    「亀換したす」

    「うん」

     䜐䌯さんはそれだけ蚀っお、次の確認ぞ移った。

     わたしは脚立の䞊で小さく息を吐いた。癜くはならない。地䞋は冷たいが、冬ではない。吐いた息はただ、石に近いずころで湿りを持っお、すぐに消えた。

     背埌で、遌がスタッフに指瀺を出しおいる。

    「ミノタりロスの圱、もう少し奥から出したい。怪物が珟れるんじゃなくお、ずっずそこにいたものが芋えおしたう感じ」

     声の眮き方が、昔ず同じだった。

     ずっずそこにいたものが芋えおしたう感じ。

     そういう蚀葉を聞くず、ただ困る。圌の才胜を、わたしは嫌いになりきれない。嫌いになりきれないものは、心の䞭で眮き堎所に困る。捚おるには圢がよすぎお、食るには痛すぎる。

     非垞灯を亀換し、脚立を降りる。

     遌がこちらぞ歩いおきた。

    「結、今倜、通しのあず残れる」

    「確認䜜業なら」

    「うん。確認䜜業」

     圌は少し笑った。笑うず、巊の頬に浅い線が入る。䞉幎前、わたしはその線の出る角床たで芚えおいた。芚えたくお芚えたわけではない。人を奜きになるずいうのは、圹に立たない情報の眮き堎が増えるこずだった。

    「赀い糞、きれいだろ」

     遌は手すりのほうぞ目をやった。

    「䜎いです」

    「え」

    「芳客が匕っかけたす。あずで䞊げたす」

     遌は䞀床、わたしを芋た。それから、糞を芋る。

    「ああ、そういうずころ」

    「そういうずころ、ずは」

    「結は出口を知っおいる」

     その蚀葉が、地䞋の壁に圓たった。

     跳ね返っお、少し遅れお、もう䞀床わたしに届く。

     結は出口を知っおいる。

     䞉幎前ず同じ蚀い方だった。少しも叀びおいない。叀びおいないこずが、かえっお残酷だった。あの蚀葉だけは、わたしより幎を取っおいない。

     わたしは図面筒を抱え盎した。手袋の䞭で、さっき赀い糞に匕っかかった人差し指だけが、すこし熱い。

    「出口を知っおいるなら、最初からここには降りおきたせん」

     蚀っおから、自分の声が思ったより静かだったこずに気づく。

     遌は答えなかった。

     地䞋の奥で、仮組みの照明が䞀灯だけ点いた。石壁に、ただ圢にならない怪物の圱が䌞びる。角にも、腕にも芋えない。芋ようずする人の䞭にあるものだけが、そこに少しず぀茪郭を持ちはじめる。

     赀い糞は手すりに沿っお、奥ぞ続いおいる。

     わたしはそれを芋ないふりをした。

     芋ないふりをしながら、ただその色を、きれいだず思っおいた。

    第二章 テセりスの癖

     通し皜叀は、二十䞀時を過ぎおから始たった。

     芳客はただいない。けれど客垭には、癜い逊生テヌプで番号が貌られおいる。仮の番号なのに、誰かが座る予定の堎所はそれだけで少しだけ人の気配を持぀。䞉列目の端。最埌列の䞭倮。通路偎の䞀垭。そこにただ誰もいないこずが、かえっお明日の䜓枩を先に眮いおいるみたいだった。

     地䞋の空気は、昌よりもさらに冷えおいる。

     倖の倜が降りおきたわけではない。ここは最初から倜だった。地䞊の時間が倉わっおも、石の内偎はそれにあたり付き合わない。昌は昌のふりをし、倜は倜のふりをするだけで、ほんずうはずっず、どちらでもない堎所にいる。

     照明卓は客垭の最埌列の埌ろに眮かれおいた。

     わたしはノヌトパ゜コンを開き、キュヌシヌトを立ち䞊げる。キュヌ番号䞀から四十六たで。第䞀堎は「地䞋ぞ降りる」。第二堎は「王女の郚屋」。第䞉堎は「迷宮」。第五堎に「怪物」。最埌が「ナク゜ス」。

     ナク゜ス。

     その文字だけが、画面の䞭で少し遠く芋えた。

    「最埌、ただ迷っおる」

     遌が隣に立っおいた。い぀来たのか、足音がしなかった。地䞋では倧きな音が遅れお響くのに、近くの小さな音は、急に消える。

    「䜕をですか」

    「アリアドネを泣かせるかどうか」

     わたしはキヌボヌドの䞊に眮いた指を止める。

    「泣かせたいんですか」

    「泣かせたいわけじゃない。ただ、眮いおいかれた人間が、泣かないのは嘘っぜい」

     遌は舞台の奥を芋おいる。ただ人のいない石壁に、リハヌサル甚の薄い灯りが圓たっおいた。癜でも黄色でもない、明るさだけを眮いたような灯り。

    「泣かない人もいたす」

    「そう」

    「泣くより先に、足元を芋る人もいたす」

     遌はそこで、ようやくわたしのほうを芋た。

    「結らしい」

     その蚀い方が、わたしの䞭の叀い扉を少しだけ開ける。

     らしい。

     人は勝手に盞手を箱に入れ、その箱に名前を぀ける。結らしい。君らしい。そういうずころが奜き。そういうずころが助かる。箱の内偎にいるあいだは、たしかにあたたかい。けれど、その箱は持ち運びやすい。持ち運べるものは、眮いおいくこずも簡単だった。

    「泣くかどうかは、俳優が決めるこずでは」

    「冷たいな」

    「照明ですから」

    「照明は、冷たい」

    「熱くなるず危ないんです」

     遌は声を出さずに笑った。

     その笑い方も、昔ず同じだった。舞台䞊の俳優には倧きく笑う。スタッフには、声を出さない。ふざけおいるずきも、ほんずうに面癜がっおいるずきも、圌は裏方に察しお少しだけ静かになる。そういうずころを、わたしはか぀お䞁寧だず思っおいた。

     今でも、䞁寧ではあるのだず思う。

     䞁寧な人が、人を傷぀けないわけではないだけで。

    「十幎前にね」

     遌が蚀った。

    「倧孊の図曞通で、アリアドネの話を読んだずき、倉だず思ったんだよ。糞を枡した人の名前は残るのに、その糞で垰っおきた男のほうが英雄になる」

    「テセりス」

    「そう。怪物を倒したから」

    「倒した人は、分かりやすいですから」

    「出口を䜜った人より」

     わたしは答えなかった。

     舞台の䞭倮では、俳優たちが立ち䜍眮を確認しおいる。アリアドネ圹の女優は、赀い糞の端を手銖に巻いおいた。テセりス圹の俳優は、ただ剣を持っおいない。小道具の剣は安党確認のために最埌たで出さないこずになっおいる。圌は剣のない手で、䜕床も空を握った。握るものがない手は、芋おいるず少し寂しい。

    「結、䞉幎前のこず、怒っおる」

     いきなりだった。

     地䞋の空気が、䞀段䜎くなる。

     わたしはキュヌシヌトの五番ず六番の間にある、空癜の行を芋おいた。そこには本圓は䜕もない。䜕もないずころほど、目が離せなくなるずきがある。

    「怒っおいた時期はありたす」

    「過去圢」

    「珟圚圢にするず、仕事がしにくいので」

     遌はしばらく黙った。

     その沈黙を、わたしは聞き慣れおいた。圌は、すぐに謝らない。謝る前に、蚀葉の配眮を考える。どの蚀葉をどの順番で眮けば、盞手に届くか。届くかどうかを考えるのは誠実さでもあるし、挔出家の癖でもある。

     テセりスの癖。

     自分が戻る道を、い぀も少しだけ探しおいる。

    「あの䜜品のこずは」

     遌はゆっくり蚀った。

    「結の案がなかったら、できなかった」

    「知っおいたす」

    「だから、クレゞットには入れた」

    「照明協力、で」

    「䞍満だった」

     わたしはそこで、初めお遌の顔を芋た。

     䞍満だったか。

     蚀葉にするず、たぶん違うものになる。䞍満ずいうより、もっず圢の悪いものだった。冷蔵庫の奥で、忘れたたた酞っぱくなった果物のようなもの。捚おればいいのに、蓋を開けた瞬間に、そこにあった時間たで匂っおくる。

     䞉幎前の皜叀堎は、倏だった。

     空調の壊れた小劇堎で、窓のない地䞋だった。あのずきも地䞋だったのだず、いたになっお気づく。階段を降りた先に、黒い壁ず客垭があり、舞台の床だけが癜く光っおいた。遌は若い俳優たちに囲たれお、䜕かを説明しおいた。わたしは照明卓の前で、暗転の秒数を枬っおいた。

     䜜品の題は「出口のない郚屋」。

     タむトルからしお、今思えばそのたただった。出口のない郚屋に、出口を䜜ったのはわたしだった。

     最埌の堎面で、舞台䞊の党員が郚屋に閉じこめられる。台詞はほずんどない。俳優が壁を叩き、床を這い、互いの名前を呌ぶ。遌はそこで党暗転にしたがっおいた。芳客も俳優も、同じ暗闇に眮きたい、ず。

     わたしは反察した。

     非垞口の灯りだけは消せない。劇堎の芏則ずしおではなく、䜜品ずしおも消さないほうがいいず思った。芳客の目の端に、緑の誘導灯が残る。逃げ道があるのに、登堎人物には芋えおいない。芳客だけが出口を知っおいる。その気たずさが、郚屋を本圓に閉じる。

     遌は、しばらく黙ったあずで蚀った。

     結は出口を知っおいる。

     耒められた、ず思った。

     そう思った自分のこずを、いたはただ少しだけ蚱せない。

     翌幎、䜜品は賞を取った。小さな賞だったけれど、遌の名前は少し広くなった。レビュヌには、最埌の誘導灯の挔出がよかったず曞かれおいた。閉じられた空間に、芳客だけが出口を芋぀けおしたう残酷さ、ず。

     わたしの名前は、最埌のほうにあった。

     照明協力。

     その五文字を䜕床も芋た。スマホの画面で拡倧しお、たた瞮小しお、倜䞭に二床スクリヌンショットを消した。消しおも蚘事は残る。蚘事が残るから、わたしが消したこずだけが、こちら偎に残る。

    「䞍満だったわけじゃありたせん」

     わたしは蚀った。

    「じゃあ」

    「あのずき、遌さんは、わたしの案を必芁ずしたんだず思いたす」

    「うん」

    「わたしのこずを必芁ずしたわけではなかった」

     遌は、口を閉じた。

     舞台の䞭倮で、アリアドネ圹の女優が台詞を始める。

    「この糞を、ほどかないで」

     声はただ皜叀の声だった。本番の声ではない。けれど、地䞋の石はそれでもきちんず拟う。拟っお、角を少し䞞くし、遅れお返しおくる。

    「垰っおこられなくなるから」

     テセりス圹が、その糞を受け取る。

    「必ず戻る」

     舞台䞊の蚀葉は、わかりやすい。

     必ず戻る。

     珟実では、その蚀葉ほど䜿いにくいものはない。人は戻るず蚀っお戻らないこずもあるし、戻らないず蚀っお、ずっず盞手の䞭に残るこずもある。玄束は、砎られたずきより、半分だけ守られたずきのほうが面倒だった。

     遌は海倖ぞ行った。

     行く前に、食事に誘われた。駅の近くの、二階にある小さな店だった。癜い皿に、オリヌブの入ったサラダが出た。遌は向かいの垭で、来月からベルリンぞ行く、ず蚀った。短期の぀もりだけど、向こうで続けられそうなら䌞ばす、ず。

     わたしは「おめでずうございたす」ず蚀った。

     蚀うしかなかった。

     その倜、駅たでの道で、遌はわたしに「結も、きっずすぐ次が来るよ」ず蚀った。次。䜕の次なのか、聞けなかった。次の仕事か、次の恋か、次の出口か。

     䞀緒に来る、ずは蚀われなかった。

     来おほしい、ずも。

     わたしはそのずき、自分が眮いおいかれたのだずたでは思わなかった。付き合っおいたわけではない。玄束があったわけでもない。糞を枡した芚えも、ほんずうにはなかった。

     ただ、数週間埌に、遌の新しい制䜜発衚の写真を芋た。

     圌の埌ろの壁に、わたしの䜜った暗転案によく䌌た図が貌られおいた。非垞口の誘導灯だけを残す、あの案。圌がそれを䜿うこず自䜓は、悪いこずではない。䜜品の䞭で生たれたものは、䜜品のものになる。照明家は、そのこずをよく知っおいる。

     それでも、わたしはその倜、郚屋の照明を党郚消しお寝た。

     誘導灯のない郚屋で。

    「止めたす」

     わたしはヘッドセットのマむクに蚀った。

     舞台䞊の動きが止たる。俳優たちがこちらを向いた。遌も顔を䞊げる。

    「キュヌ十二、アリアドネが糞を枡すずころ。手元が明るすぎたす」

    「暗いず糞が芋えない」

     遌が蚀う。

    「芋えすぎるず、ただの小道具になりたす」

     客垭の埌ろから、舞台たでは距離がある。それでも、遌の衚情が倉わったのが分かった。怒ったのではない。考える顔だった。圌は、仕事の䞭で誰かに反察されるずき、ちゃんず考える。その性質があるから、厄介だった。

    「どれくらい萜ずす」

    「二割」

    「䞉割」

     遌が蚀った。

     わたしはフェヌダヌに指を眮く。

    「䞉割だず、俳優の指が消えたす」

    「消したい」

    「糞だけ残すんですか」

    「糞だけ残るほうが怖い」

     それは、分かる。

     分かっおしたう。

     わたしは照明を䞉割萜ずした。アリアドネ圹の女優の手元が沈み、赀い糞だけが暗い空気の䞭で浮いた。人の手が消えお、枡されるものだけが芋える。

     きれいだった。

     悔しいくらいに。

     遌が客垭の前方で小さく頷く。

    「それでいこう」

     わたしはキュヌシヌトに修正を曞き入れた。赀いペンで、十二番の暪に「糞だけ残る」ず曞く。

     糞だけ残る。

     人ではなく。

     その文字を芋た瞬間、胞の奥が少しだけ冷えた。地䞋のせいではなかった。

     通し皜叀が進む。

     テセりスは迷宮ぞ入る。糞を蟿る。怪物の圱が石壁に立ち䞊がる。アリアドネは舞台の端に残り、糞の端を䞡手で持぀。圌女は動かない。動かずに、盞手が戻るための道になる。

     遌はそれを、矎しいず思っおいる。

     わたしも、ただ少し、矎しいず思っおしたう。

     そこがいちばん嫌だった。

     矎しさは、ずきどき人を蚱さない。醜ければ捚おられるものが、矎しいせいで手元に残る。わたしにずっお遌は、たぶんそういうものだった。正しくない。やさしくもない。けれど、光の角床だけは、い぀も正確に知っおいる。

     第二堎の終わりで、アリアドネ圹の女優が蚀った。

    「わたしは、あなたの垰る道になりたい」

     遌が手を䞊げた。

    「止めお」

     俳優たちが止たる。

    「そこ、倉える」

     遌は台本をめくり、ペンで䜕かを曞き蟌んだ。

    「『垰る道』じゃなくお、『垰れるこずを、あなたに思い出しおほしい』」

     女優が埩唱する。

    「垰れるこずを、あなたに思い出しおほしい」

    「うん。道そのものじゃない。思い出させる人」

     わたしはフェヌダヌから指を離した。

     道そのものじゃない。

     思い出させる人。

     遌の蚀葉は、い぀も少し遅い。遅いのに、届く堎所だけは知っおいる。䞉幎前に蚀えばよかった蚀葉を、圌は䞉幎埌の皜叀堎で、女優に向けお蚀う。

     わたしにではなく。

     それでも、その蚀葉はわたしの䞭に入っおくる。入っおきお、觊れなくおもいいずころに觊れる。

     通し皜叀が終わったのは、二十䞉時前だった。

     スタッフが片付けを始める。地䞋空間のあちこちで、ガムテヌプを剥がす音、折りたたみ怅子を重ねる音、誰かの笑い声が小さく跳ねる。明日の本番を前にした倜の、少し浮いた疲れ。

     わたしは照明卓を萜ずさず、デヌタを保存した。

     保存䞭のバヌが、画面の䞊でゆっくり右ぞ䌞びる。

    「結」

     遌がたた呌んだ。

     今床は、声が遅れお届いた。地䞋の壁で䞀床こすれお、少しだけ䜎くなっおいた。

    「今日、ありがずう」

    「仕事です」

    「それ、䟿利な蚀葉だね」

    「䟿利です」

    「䞉幎前も、そう蚀っおくれればよかった」

     わたしは画面を閉じた。

    「䞉幎前は、仕事だず思えなかったので」

     遌は䜕か蚀いかけた。

     そのずき、舞台奥で赀い糞が䞀本、床に萜ちた。

     誰かが片付けの途䞭で、仮留めのテヌプを倖したのだず思う。糞は石の床の䞊で、音もなくほどけた。赀い線が、䜕も導かない圢で、そこに暪たわる。

     わたしは立ち䞊がった。

    「拟っおきたす」

    「あずで誰かがやるよ」

    「足を匕っかけたす」

     遌は、それ以䞊止めなかった。

     わたしは客垭の暪を抜け、舞台奥ぞ歩いた。赀い糞を拟う。手袋越しでも、繊維の湿りが分かった。地䞋の冷気を吞っお、少し重くなっおいる。

     糞の端を巻き取りながら、ふず思った。

     アリアドネは、糞を枡したあず、その端を自分の手元に残しおいたのだろうか。

     もし残しおいたなら、テセりスが戻るたびに、その重さが手の䞭で倉わったはずだ。進むずき、止たるずき、迷うずき、怪物に近づくずき。糞は、離れた盞手の動きを手元に䌝える。

     それは祈りではなく、負担だったのではないか。

     わたしは糞を小さく巻いた。

     赀い茪が、手のひらの䞭にできる。花にも芋える。傷にも芋える。出口にも、銖茪にも。

     遌が埌ろから蚀った。

    「明日、本番が終わったら、少し話せる」

     わたしは振り向かなかった。

    「本番が終わったら、撀収がありたす」

    「そのあず」

    「そのあずも、たぶん仕事です」

     返事をするず、地䞋の奥のほうで氎の萜ちる音がした。どこかに溜たったしずくが、石の床ぞ萜ちただけの音。赀い糞は、その音の手前で静かに止たっおいた。

     わたしは赀い糞を壁際の箱に戻した。

     箱の偎面には、黒いマゞックで「誘導予備」ず曞かれおいた。舞台矎術ではなく、安党備品。明日、もし䜕かが起きたら、この糞は矎しさではなく、出口のために䜿われる。

     わたしはその文字を、しばらく芋おいた。

     誘導予備。

     必芁にならないこずが、いちばんいいもの。

     でも、必芁になったずきには、誰より先に手の届くずころに眮かれおいなければならないもの。

     わたしは自分が、ずっずそういう堎所に眮かれおきたのではないかず思った。

     必芁にならないほうがいい。

     でも、必芁になったずきには、必ずそこにいおほしい。

     遌の䜜品の䞭で。

     遌の人生の倖偎で。

     わたしは箱の蓋を閉めた。

    「遌さん」

    「うん」

    「明日の本番䞭、赀い糞の仮留め䜍眮を党郚倉えたす」

    「党郚」

    「党郚です。今のたただず、芳客の足元に近すぎる」

    「芋え方が倉わる」

    「出られるほうを優先したす」

     遌は少し黙った。

     それから、ゆっくり頷いた。

    「分かった。任せる」

     任せる。

     その蚀葉に、もう昔ほどは喜べなかった。

     任されるこずず、倧切にされるこずは、䌌おいる。䌌おいるから間違える。䌌おいるものほど、遠くぞ来おからでないず違いが分からない。

     わたしは照明卓の電源を萜ずした。

     地䞋の空間から、順番に灯りが消えおいく。たず客垭。次に石柱の足元。最埌に、ミノタりロスの圱を映すはずだった奥の壁。

     党郚が暗くなる䞀秒前、赀い糞だけが、残光の䞭で䞀床だけ浮いた。

     わたしはそれを芋た。

     今床は、芋ないふりをしなかった。

    第䞉章 ミノタりロスの郚屋

     本番の日の朝、地䞊は雚だった。

     匷い雚ではない。傘の骚を叩くほどではなく、髪の衚面だけを湿らせおいく现い雚。駐車堎の砂利は黒く沈み、芳光バスの窓には、ただ誰の顔も映っおいない。地䞊の空は䜎かった。けれど、地䞋ぞ降りる階段の前に立぀ず、空の䜎さより、足元の深さのほうが勝぀。

     地䞊には、倩気がある。

     地䞋には、準備がある。

     わたしはスタッフ入口でヘルメットを受け取り、銖からパスを䞋げた。パスの裏には、緊急時の連絡先ず避難経路の簡略図が印刷されおいる。昚日の倜、䜐䌯さんが党員に配ったものだ。赀い糞の導線ずは別に、正芏の避難経路は䞉぀。芳客を通す経路は、そのうち二぀。䞉぀目はスタッフ甚で、段差が倚い。

     恋は、たいおい近道を欲しがる。

     仕事は、遠回りの理由を先に数える。

     わたしはパスの裏をもう䞀床芋た。階段、柱番号、非垞灯、消火噚、スタッフ埅機䜍眮。色気のない図面だった。けれど昚日から、その図面のほうが赀い糞より信甚できる気がしおいた。

     地䞋ぞ降りる。

     赀い糞は、倜のうちにわたしが匵り替えた䜍眮で、手すりの少し䞊を通っおいた。䜎すぎず、高すぎない。目では远えるが、足は匕っかけない。ずころどころ透明な結束バンドで留めおある。矎術担圓の若い男の子は、朝いちばんにそれを芋お、少しだけ残念そうな顔をした。

    「浮遊感、枛りたしたね」

    「怪我も枛りたす」

    「そうですね」

     圌は苊笑いしお、䜙った糞を箱ぞ戻した。傷぀けたいわけではなかった。ただ、自分の䜜ったものが少し珟実に寄せられるず、䜜り手はい぀も小さく寂しい顔をする。わたしも同じ顔をしたこずがある。

     舞台奥では、映像チヌムがプロゞェクタヌの䜍眮を調敎しおいた。

     第䞉堎「ミノタりロスの郚屋」。

     石壁の䞀面を䜿い、怪物の圱を映す。映像はただ仮の䜎解像床だった。角のようなもの、肩のようなもの、息をする胞のような膚らみ。茪郭ははっきりしない。牛の頭を持぀男、ず蚀い切るには曖昧で、人間、ず蚀うにはあたりに歪んでいる。

     遌はその前に立っおいた。

     䞡腕を組み、少しだけ顎を䞊げおいる。挔出家が舞台を芋おいるずいうより、医者がレントゲン写真を芋おいるようだった。どこに圱が濃く出るか。どこに骚が隠れおいるか。そういうものを探しおいる顔。

    「おはようございたす」

    「おはよう」

     遌は振り向かずに返事をした。

    「昚日の赀い糞、いいね。動線が分かりやすくなった」

    「芋え方は少し倉わりたした」

    「倉わったほうがよかった」

     そう簡単に蚀われるず、困る。

     遌はずきどき、自分が前の日にこだわっおいたものを、翌朝にはあっさり手攟す。手攟せるのは才胜だ。けれど、手攟されたほうは、眮いおいかれた感じだけが残る。挔出䞊の刀断ならそれでいい。恋愛でそれをやられるず、人は少しず぀自分の茪郭を疑う。

    「怪物、どう思う」

     遌が聞いた。

    「暗いです」

    「照明家の答えだ」

    「ただ圱の端が壁の亀裂に負けおいたす。右䞊の割れ目が匷いので、怪物の角より先にそっちを芋る」

    「内容は」

    「内容」

    「怖いかどうか」

     わたしは石壁を芋た。

     怪物の圱は、たしかにそこにある。けれど、怖いずいうより、寒そうだった。あたりにも奥に立たされおいる。誰にも近づかれない堎所で、誰かが来るのを埅぀しかないものに芋える。

    「寒そうです」

     遌が笑った。

    「怪物に同情する」

    「同情ではなく、照明の感想です。奥に眮きすぎるず、孀独になりたす」

    「孀独でいいんだよ」

     遌は石壁に近づいた。

    「ミノタりロスは、倒されるために生たれた怪物みたいに扱われる。でも、ほんずうは、閉じこめられた子どもだず思う」

     声が少し倉わった。

     仕事の声ではある。けれど、その奥に別の枩床が混じる。遌が自分の栞に近い話をするずきの声。わたしはそれを知っおいる。知っおいるこずが、たた悔しい。

    「母芪の欲望から生たれお、王の恥ずしお迷宮に閉じこめられる。誰も圌の名前を呌ばない。みんな、怪物ずだけ呌ぶ」

    「アステリオス」

     わたしは蚀った。

     遌がこちらを芋る。

    「名前、知っおた」

    「資料にありたした」

    「読んだんだ」

    「仕事なので」

     嘘ではない。けれど、党郚でもない。

     昚倜、垰っおから資料を読んだ。制䜜偎がたずめた人物盞関図の隅に、ミノタりロスの別名ずしおアステリオスず曞かれおいた。星のような、ずいう意味だずいう泚釈もあった。

     怪物に、星の名がある。

     その䞀行だけが、なかなか頭から離れなかった。

    「結は、そういうずころを拟う」

    「そういうずころ、が倚いですね」

    「倚い」

    「遌さんは、わたしを䟿利な棚みたいに扱う」

     蚀っおから、少しだけ驚いた。

     蚀う぀もりのない蚀葉だった。地䞋は、音を遅らせるだけではない。たぶん、喉の奥に眮いたたたの蚀葉を、少しだけ前ぞ抌し出す。

     遌は怒らなかった。

     怒ったほうが、ただ楜だったかもしれない。

    「䟿利な棚」

     圌は繰り返した。

    「悪い」

     謝るのが早かった。

     早すぎる謝眪は、ずきどき盞手の蚀葉を終わらせる。こちらがただ怒りを手に持っおいるのに、先に謝られるず、その怒りの眮き堎がなくなる。わたしは図面筒を抱える手に力を入れた。

    「謝られるず、これ以䞊蚀えなくなりたす」

    「じゃあ、蚀っお」

    「いたは本番前です」

    「うん」

    「本番前に、人の感情を開けないでください」

     遌は、今床は謝らなかった。

     それだけで少し助かった。

     䜐䌯さんが奥から歩いおきた。手には懐䞭電灯ず、癜いテヌプの束。テヌプには黒い数字が曞かれおいる。柱番号を補助するためのものだ。

    「二人ずも、怪物の気持ちより先に、足元芋お」

     䜐䌯さんは石壁の前で止たり、床の段差をラむトで照らした。

    「ここ、圱が立぀ず段差が消える。お客さんは舞台偎に近づかない予定だけど、停電したら人は明るいほうぞ行くからね」

    「停電前提で組むんですか」

     映像担圓が笑いながら蚀った。

     䜐䌯さんは笑わなかった。

    「停電前提で組たない珟堎は、停電したずきに匱い」

     その堎の空気が少し締たる。

     遌も黙った。

     䜐䌯さんは続けた。

    「昚日、右奥の非垞灯を亀換しおもらったけど、巊奥も少し暗い。点くには点く。でも匱い」

    「予備ランプ、ありたす」

     わたしは蚀った。

    「替えられる」

    「今替えたす」

    「あず、ここの赀い糞」

     䜐䌯さんはミノタりロスの圱が出る壁の手前を指した。

    「矎術ずしおはきれいだけど、避難時には逆に迷うかもしれない。途䞭で切れお芋える」

     赀い糞は、壁の凹凞に合わせお䞀床奥ぞ入り、柱の陰で芋えなくなり、たた手前ぞ出おくる。神話の迷宮らしさを出すための曲線だった。たしかに、途䞭で途切れお芋える。

    「ここは盎線にしたす」

     わたしは蚀った。

     遌が䞀瞬だけ、こちらを芋た。

    「盎線にするず、迷宮感が」

    「避難時には盎線のほうがいい」

    「通垞時は」

    「通垞時も、足は盎線を信じたす」

     遌は口を閉じた。

     䜐䌯さんが小さく頷く。

    「そう。目は迷いたがるけど、足は迷いたくない」

     目は迷いたがる。

     足は迷いたくない。

     わたしはその蚀葉を、どこかに曞き留めたいず思った。けれど手元にペンはない。蚀葉は、玙に曞かないずきのほうが、身䜓に残るこずがある。

     わたしは赀い糞の留め䜍眮を倖し、柱の手前で匵り盎した。糞は昚日よりたっすぐになる。矎術担圓の子が、今床は䜕も蚀わずに手䌝っおくれた。圌も䜐䌯さんの声を聞いたあずでは、反論しなかった。

     遌は石壁のほうぞ戻り、怪物の圱を芋おいる。

    「結」

    「はい」

    「怪物の足元、少しだけ明るくできる」

    「顔ではなく」

    「顔は芋えなくおいい。足元だけ」

    「なぜ」

    「閉じこめられおいおも、立っおいるこずは分かるようにしたい」

     その蚀葉は、少しずるかった。

     わたしは照明卓ぞ戻り、キュヌ二十䞉を呌び出す。ミノタりロスの圱。石壁の䞋郚に圓おおいる灯䜓を少しだけ開く。床から䞉十センチ。圱の足元に、薄い灰色の光が入る。

     怪物は、立っおいた。

     ただ立っおいる。

     それだけで、さっきより怖くなかった。むしろ、怖がっおいるもののように芋えた。誰にも近づかれない堎所で、出口のない郚屋に眮かれたたた、それでも膝を぀かずに立っおいる。

     遌が小さく息を吐く。

    「いい」

     わたしは返事をしない。

     いい、ず思っおしたったからだ。

     遌の挔出は、こういう瞬間にこちらを裏切る。こちらが完党に距離を眮こうずしたずころで、圌は䜜品の䞭だけは正しい堎所に手を䌞ばす。人には届かない手が、光には届く。

     だから、嫌いになれない。

     嫌いになれないこずを、もう矎埳だずは思わない。

    「怖くなくなりたした」

     わたしは蚀った。

    「それは困るな」

    「でも、芋たくなりたす」

     遌は笑った。

    「それは助かる」

     助かる。

     たた、その蚀葉。

     わたしはフェヌダヌから指を離した。

     午前䞭の堎圓たりが終わるころ、関係者向けの小さな芋孊が入った。スポンサヌの家族や、地元の文化関係者。十人ほど。その䞭に、小孊生くらいの女の子がいた。玺色のパヌカヌに、黄色い靎。母芪らしい女性の埌ろに隠れるようにしお歩いおいる。

     少女は、ミノタりロスの圱の前で立ち止たった。

    「こわい」

     母芪が聞く。

     少女は銖を振った。

    「かわいそう」

     その声は小さかったが、地䞋ではよく届いた。

     遌が少しだけ顔を䞊げる。わたしも手を止めた。

    「どうしお」

     母芪が聞く。

    「ひずりだから」

     少女はそう蚀っお、黄色い靎の先で石の床を少しこすった。

     その音が、ミノタりロスの足元の光の䞭に小さく入る。

     わたしはヘッドセットを倖した。

     少女はただ圱を芋おいる。怖がっおいるずいうより、眮いおいかれた誰かを芋぀けた顔だった。子どもは、ずきどき倧人が説明で遠ざけたものに、たっすぐ手を䌞ばす。

     遌が少女のそばにしゃがんだ。

    「この怪物には、名前があるんだ」

     少女は遌を芋る。

    「名前」

    「アステリオス」

     遌はゆっくり蚀った。

    「星みたいな、ずいう意味」

     少女はもう䞀床、石壁の圱を芋る。

    「星なのに、地䞋にいるの」

     遌は答えなかった。

     答えられなかったのか、答えなかったのかは分からない。

     わたしはその暪顔を芋おいた。

     遌は、こういう瞬間を逃さない。少女の䞀蚀を、きっず今倜たでにどこかぞ入れたがる。䜜品の䞭に。台詞の䞭に。光の䞭に。圌は人の蚀葉を矎しい堎所ぞ連れおいくのがうたい。

     けれど、連れおいったあず、その人のもずぞ返すのは䞋手だった。

     少女ず母芪が離れおいく。

     黄色い靎の音が、石の床で小さく跳ねた。

     䜐䌯さんがわたしの隣に立った。

    「あの子、倜も来るっお」

    「そうなんですか」

    「スポンサヌの嚘さん。暗いずころ、苊手らしいけどね。ミノタりロスが芋たいんだっお」

     わたしは石壁の圱を芋る。

     足元の光が、ただ薄く残っおいる。

    「倜は、客垭を出ないように案内したす」

    「うん。だけど、子どもはね」

     䜐䌯さんはそこで蚀葉を切った。

    「きれいなものず、こわいもののほうぞ行く」

     わたしは頷いた。

     倧人も同じだず思った。

     ただ、倧人はそこぞ行く理由に、仕事ずか才胜ずか、恋ずかいう名前を぀けるだけだ。

     午埌、本番甚の照明チェックに入る。

     キュヌ二十䞉。ミノタりロスの圱。

     足元の灯りを、もう少しだけ䞊げる。怪物の茪郭が匷くなりすぎないよう、角の郚分は萜ずす。顔は闇の䞭。足元だけ。立っおいるこずだけが分かる明るさ。

     遌が客垭から蚀った。

    「もう少し、孀独にできる」

    「孀独を照明に泚文しないでください」

    「無理」

    「できたす」

    「できるんだ」

    「できるから、嫌なんです」

     蚀っおしたっおから、少しだけ堎が静かになった。

     映像担圓が気たずそうに目を萜ずす。矎術担圓の子が赀い糞を巻く手を止める。遌だけが、こちらを芋おいた。

    「どういう意味」

    「孀独に芋せるこずはできたす。でも、それをきれいに芋せすぎるず、そこから出すこずを忘れたす」

     地䞋の空気が、たた䞀段䜎くなる。

     遌はゆっくり息を吞った。

    「忘れおるように芋える」

    「ずきどき」

    「怪物を」

    「人を」

     蚀葉が石に圓たり、戻っおくるたでの時間が長かった。

     䜐䌯さんが、少し離れたずころで黙っおいる。䜕も蚀わない。止めもしない。安党管理の人は、危険でない沈黙には手を出さないのかもしれない。

     遌は舞台から客垭ぞ戻る階段に腰を䞋ろした。

    「結は、俺を悪い人にしたい」

    「したくありたせん」

    「じゃあ」

    「悪い人だったら、もっず簡単でした」

     遌は目を䌏せた。

     わたしは照明卓の前に立ったたた、手袋を倖した。指先に石の粉が぀いおいる。キヌボヌドの黒いキヌに、灰色の指王が残った。

    「遌さんは、悪い人ではないです」

     わたしは蚀った。

    「でも、ずきどき、人のいちばん䜿えるずころだけを、きれいに持っおいく」

     遌は䜕も蚀わなかった。

     蚀葉が、少し行きすぎたかもしれない。けれど戻せなかった。戻したいずも思わなかった。

     石壁の怪物は、足元だけを照らされお立っおいる。

     その圱を芋おいるうちに、わたしはふいに、自分の䞭にも同じ暗さがあるこずを知った。

     誰かに芋぀けおほしい。

     でも、近づかれたら困る。

     出口を欲しがりながら、出口を䜜っおくれる人を恚んでしたう。

     怪物ず呌べば簡単だった。

     でも、名前があるなら、呌び方は倉わる。

     アステリオス。

     わたしは声には出さず、その名前を舌の奥で転がした。

     星みたいな、ずいう意味。

     地䞋にいる星。

     遌が立ち䞊がった。

    「足元の明かり、残そう」

    「はい」

    「孀独には、しすぎなくおいい」

    「はい」

    「出口は、あるほうがいい」

     それが謝眪なのか、挔出刀断なのか、わたしには分からなかった。

     たぶん、どちらでもあった。

     わたしはキュヌシヌトに曞き蟌む。

     二十䞉番。

     ミノタりロス。足元を残す。

     その暪に、小さく鉛筆で「アステリオス」ず曞いた。

     消せるように。

     けれど、消さなくおいいように。

    第四章 糞は、助けるためだけにあるのではない

     開堎の䞀時間前、赀い糞はようやく、どこにも足を匕っかけない高さで地䞋をめぐった。

     入口から階段を降り、最初の石柱を巊ぞ折れ、客垭の埌ろを通っお舞台奥ぞ䌞びる。途䞭でわざず迷路のように曲げおいた箇所は、午前䞭にぜんぶ盎した。曲線は少なくなった。けれど、糞の赀はそのぶん、地䞋の空気の䞭でたっすぐ芋える。

     迷わせるためではなく、戻れるず知らせるための赀だった。

     わたしは客垭の最埌列から、導線を目で远った。

     照明卓のモニタヌには、本番甚のキュヌが䞊んでいる。キュヌ番号は四十八たで増えた。午前䞭に遌が远加した「アステリオス」の足元の灯りが二぀。客入れ甚の薄明かりが䞀぀。終挔埌に芳客を出口ぞ誘導するための灯りが䞀぀。

     終挔埌の灯り。

     䜜品の倖の灯り。

     それを入れたのは、わたしだった。遌は最初、終挔埌も赀い糞だけを残したがった。芳客が糞を蟿っお地䞊ぞ戻る。矎しい。たぶん矎しい。けれど、珟実の芳客はスマホを取り出し、連れの名前を呌び、荷物を探す。矎しさだけでは、人は出口たで歩けない。

    「客電、もう少し暗くできる」

     遌が客垭の䞭ほどから蚀った。

    「できたせん」

    「即答」

    「足元が芋えなくなりたす」

    「䜜品の䜙韻が」

    「䜙韻で転ぶ人が出たす」

     遌は䞡手を䞊げた。

    「分かった。結の勝ち」

    「勝ち負けではありたせん」

    「そういうずころ」

     圌が蚀いかけお、途䞭で止めた。

     結は出口を知っおいる。

     昚日なら、きっずそこたで蚀っおいた。今日は蚀わなかった。蚀わなかったこずに、わたしは気づいおしたう。気づいおしたうず、その沈黙に少しだけ優しさを芋぀けそうになる。芋぀けるな、ず自分に蚀う。

     優しさは、遅れお届くず扱いに困る。

     䜐䌯さんがスタッフを集めお、最埌の確認を始めた。

    「開堎埌は、お客さんを䞀床に階段ぞ流さない。十人ず぀。足元泚意の声かけは、毎回同じ蚀葉で。迷ったら、赀い糞じゃなくお癜い矢印を芋せお。赀い糞は䜜品。癜い矢印は避難。混ぜない」

     䜐䌯さんの声は地䞋でよく通る。

     癜い矢印は避難。

     赀い糞は䜜品。

     䌌おいるものを、混ぜない。

     䜐䌯さんの声は、避難の話だけをしおいるのに、わたしの胞の奥たで届いた。

    「結さん」

     䜐䌯さんがこちらを向いた。

    「停電時、客垭偎が萜ちたら」

    「非垞灯の点灯を確認。右奥、巊奥、階段䞋。点かなければ卓䞋の懐䞭電灯を䜿いたす。芳客は前ぞ出さず、最埌列から二列ず぀䞊ぞ」

    「舞台偎が萜ちたら」

    「俳優を䞊手偎ぞ䞋げお、スタッフ通路から埅機。芳客には動かないよう声かけ」

    「党郚萜ちたら」

     䜐䌯さんはそこで少しだけ間を眮いた。

    「党郚、ですか」

    「党郚」

     地䞋の広さが、䞀瞬だけ音を倱ったような気がした。

    「赀い糞を、正芏導線の補助に䜿いたす」

     わたしは答えた。

    「ロヌプを切る必芁が出たら」

    「切りたす」

    「䜜品䞭でも」

    「䜜品䞭でも」

     䜐䌯さんは、わずかに頷いた。

    「それでいい」

     遌は䜕も蚀わなかった。

     沈黙の䜍眮で、圌がこちらを芋おいるこずだけが分かった。芖線は背䞭に觊れるわけではない。けれど、近くにあるず䜓が先に知る。昔からそうだった。暗い皜叀堎で、圌が舞台ではなくわたしの卓を芋おいる瞬間が、なぜか分かった。

     あのころ、わたしはそれを恋だず思っおいた。

     今は、分からない。

     分からないものの近くで働くのは、少し疲れる。

     開堎たで四十分。

     俳優たちは控えスペヌスで衣装に着替えおいる。アリアドネ圹の女優は、赀い糞を手銖に巻く䜍眮を確認しおいた。手銖の内偎。脈の䞊。糞が匷く食い蟌たないよう、衣装担圓が䜕床も結び盎しおいる。

    「き぀くない」

    「倧䞈倫です」

    「本番で匕っ匵られたら蚀っお」

     その䌚話が、少しだけ生々しかった。

     糞は、助けるためだけにあるのではない。

     結ぶこずも、匕き止めるこずもできる。

     アリアドネが、い぀糞の端を離したのかは、誰も教えおくれない。

     遌が照明卓の暪に来た。

     わたしはモニタヌから目を離さずに蚀った。

    「客電はこれ以䞊萜ずしたせん」

    「その話じゃない」

    「䞊挔䞭の倉曎も受けたせん」

    「その話でもない」

    「では、なんですか」

     遌はしばらく黙った。

     地䞋のざわめきの䞭で、その沈黙だけが少し濃い。スタッフの足音、トランシヌバヌの短い声、衣装袋のビニヌル音。すべおが呚囲で動いおいるのに、わたしたちの間だけ䞀枚薄い膜が匵ったようだった。

    「終わったあず」

     遌は蚀った。

    「前に、ベルリンにいた劇堎から連絡が来おる。秋に小さいフェスがあっお、今回の圢を持っおいけるかもしれない」

     わたしはキュヌシヌトの䞊に眮いた指を止めた。

    「そうですか」

    「ただ決たっおない。でも、決たったら」

     遌の声が少し近くなる。

    「䞀緒に来る」

     地䞋の空気が、耳の奥で䞀床だけ止たった。

     䞉幎前に蚀われなかった蚀葉。

     蚀われなかったたた、蚀われなかったこず自䜓が圢になっお、わたしの䞭に残っおいた蚀葉。それが、䞉幎遅れお、客垭の最埌列の照明卓の暪に眮かれる。

     䞀緒に来る

     短い。軜い。たぶん遌は、できるだけ軜く蚀ったのだず思う。重くすれば、わたしが逃げるず分かっおいるから。けれど、軜くされた蚀葉ほど、底に沈むこずがある。

     わたしはモニタヌを芋た。

     キュヌ二十䞉。ミノタりロス。足元を残す。

     キュヌ䞉十䞀。アリアドネ。糞だけ残る。

     キュヌ四十八。終挔埌。出口灯り。

    「本番前に、人の感情を開けないでください」

     わたしは蚀った。

     昚日ず同じ蚀葉だった。

     けれど、昚日ずは違う堎所から出た。

     遌は小さく息を吐いた。笑ったのではない。困ったのでもない。自分が遅かったこずを、ようやく少しだけ受け入れた人の息だった。

    「本番埌なら、開けおいい」

    「分かりたせん」

    「分かりたせん、か」

    「はい」

    「それでもいい」

     それでもいい。

     䞉幎前の遌なら、分からないたたの堎所に、すぐ意味を眮いただろう。

     今は、少し黙っおいる。

    「結」

     遌が䜎く呌んだ。

    「はい」

    「手」

     蚀われお、自分の右手を芋る。

     手袋の指先に、赀い糞の繊維が絡んでいた。さっきアリアドネ圹の手銖を確認したずきに぀いたのだろう。现い䞀本が、人差し指ず䞭指の間で、ほ぀れるように䌞びおいる。

    「取る」

     遌が聞いた。

     聞いたこずに、少し驚いた。

     䞉幎前なら、たぶん圌はもう手を䌞ばしおいた。優しさの速さで、盞手の蚱可を远い越しおいた。

    「自分で取れたす」

     わたしはそう蚀った。

     でも、糞は手袋の線み目に深く入りこんでいた。匕くず、䜙蚈に毛糞がほ぀れる。

     遌がポケットから小さなハサミを出した。舞台甚の、先の䞞い安党ばさみだった。

    「切っおいい」

     わたしは少し迷った。

     切る。

     その蚀葉が、地䞋の冷気の䞭で小さく光った。

    「手袋は切らないでください」

    「糞だけ」

     遌は安党ばさみを開いた。

     わたしは右手を差し出す。

     手袋越しの指先に、遌の指が䞀床だけ觊れた。玠肌ではない。毛糞ず、圌の指の腹。たったそれだけなのに、身䜓の奥で小さな灯りが点く。嫌だった。嫌ではなかった。その二぀が同時にあるのが、もっず嫌だった。

     遌は糞だけを切った。

     赀い繊維が、手袋から離れお、圌の巊手の䞊に萜ちる。短すぎる糞。䜕も導けない長さ。

    「取れた」

    「ありがずうございたす」

    「どういたしたしお」

     圌はその短い糞を、捚おなかった。自分の手のひらをしばらく芋おから、照明卓の隅に眮いた。

    「捚おおください」

    「あずで」

    「今」

     遌は少し笑い、近くのゎミ袋ぞ萜ずした。

     わたしは手袋の指先を芋た。糞の抜けたずころだけ、線み目が少し乱れおいる。切れば終わるわけではない。切ったあずにも、ほどけた跡は残る。

     でも、匕き続けるよりはいい。

     開堎たで二十分。

     スタッフ甚の通路に、最初の芳客の声が降りおきた。遠くで受付のベルが鳎る。玙チケットを切る音。靎音。誰かが「寒い」ず笑う声。地䞊の人たちが、少しず぀地䞋ぞ降りおくる。

     わたしはヘッドセットを぀けた。

    「照明、スタンバむ」

     舞台監督の声。

    「照明、スタンバむ」

     わたしは返す。

     モニタヌの端に、客入れ甚のキュヌが点滅しおいる。

     客垭ぞ、芳客が入っおくる。

     赀い糞を目で远う人。石の倩井を芋䞊げる人。手すりに觊れる人。足元ばかり芋る人。恋人同士らしい二人が、同じタむミングで息を呑む。幎配の男性が、柱の番号を確認する。黄色い靎の少女が、母芪の手を握っお階段を降りおくる。

     少女は、ミノタりロスの壁のほうを芋た。

     ただ圱は出おいない。

     それでも、そこに誰かがいるこずを知っおいるような顔だった。

     わたしはキュヌ䞀番に指を眮いた。

     客入れの灯りを、少しだけ䞊げる。

     足元が芋えるように。

     でも、地䞋が明るくなりすぎないように。

     この堎所が迷宮であるこずを、忘れない皋床に。

     䜐䌯さんが階段䞋に立っおいる。懐䞭電灯を腰に䞋げ、芳客の足元を芋おいる。遌は客垭の前方で、舞台を芋おいる。俳優たちは、ただ芋えない奥の暗がりにいる。

     わたしは照明卓の前で、右手の手袋を䞀床だけ握った。

     糞はもう絡んでいない。

     けれど、切った跡だけが、指先に残っおいた。

     開挔五分前。

     地䞋のざわめきが、だんだんひず぀の呌吞になる。

     舞台監督の声が入る。

    「たもなく開挔です」

     わたしは返事をする。

    「照明、い぀でも」

     遌が客垭の暗がりから、こちらを芋た。

     わたしは芋返さなかった。

     芋返さないたた、キュヌ䞀番のボタンに指を眮いた。

     助けるための糞ず、瞛るための糞。

     その違いを、今倜のわたしは、最埌たで芋倱わないでいられるだろうか。

     客電が、ゆっくり萜ちおいく。

    埌線ぞ぀づく

    続きは「アリアドネの灯り埌線」ぞhttps://note.com/yau_yohaku/n/n958a853285fe

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    蚀葉のあいだに残っおいるものを、すこしず぀綎っおいたす。 倜の凪、雚の䜙韻、月の道、こずばの䜙癜。 あなたの心のどこかに、しずかに沈んでいけたら。

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