親が教えてくれる、生きて死ぬということ
去年、飼っていた猫が亡くなりました。泣きながら、庭に埋めました。
土を盛って、そこに眠っているのだと、しばらくはその盛り土を見ることで、何とか気持ちを保っていたように思います。
でも時間が経つにつれて、その盛り土は少しずつ沈んでいき、やがてへこむくらい、形がなくなっていきました。
その様子を見たとき、ふと思ったんです。
ああ、これが土に還るということなんだ、と。
姿がなくなっていくことは、消えてしまうことじゃなくて、自然に溶け込んでいくことなんだと。
悲しかったはずなのに、その光景を見て、少しだけ心が静かになったのを覚えています。
それから、親の老いを見るときにも、同じことを思うようになりました。
腰が少しずつ曲がっていく。
歩くスピードが落ちていく。
昨日は覚えていた話を、今日はもう忘れている。
親の老いを目の前にするのは、正直、つらいことです。
楽しかった記憶も、悲しかった記憶も、辛かった記憶も、少しずつ親の中から失われていく。
それを子どもとして見ているのは、簡単には言葉にできない悲しみがあります。
猫の土が沈んでいったように、これは木も同じなんじゃないか、とも思います。
青々と茂っていた葉が、やがて色を変え、枯れ葉となり、土に還っていく。
そしてその土から、また新しい命が芽吹いていく。
木にとって、枯れることは終わりではなく、循環の一部。
人間も、きっと同じなんだと思います。
老いていくこと、記憶が薄れていくこと、身体が思うように動かなくなっていくこと。
それは悲しいけれど、失敗でも、間違いでもなく、命がめぐっていく自然な流れの一部なんだと。
自分の親の老いを見るということは、実はとても貴重な時間なんだと、最近気づきました。
生きて、老いて、死んでいく。
その過程を、こんなに近くで、こんなに丁寧に見せてくれる存在は、他にいません。
自分の親だからこそ、見せてもらえるものなんだと思います。
そしてそれは同時に、いつか自分もこうして老いていくのだという、静かな予告でもあります。
親の姿を通して、自分の未来を少しだけ先に見せてもらっているような感覚です。
だからこそ、目をそらさずに、その時間をきちんと見ておきたいと思うようになりました。
悲しいことに変わりはありません。
それでも、これは自然の摂理なんだと思うと、少しだけ、その悲しみを違う形で抱えられる気がします。
親の老いを見つめることは、いつか来る自分の老いへの、静かな準備でもあるのかもしれません。
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