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『雨と海の底で愛して』 第2篇  clue

    「あかりさん、聞いてます?」

    名前を呼ばれて顔を上げると、アオイくんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。私は慌てて視線を正面のスクリーンへ戻す。目を閉じたつもりではなかったけれど、昨夜の眠りが浅かったらしい。プロジェクターで投影される資料には、売上推移のグラフが映し出され、色違いの折れ線が何本も交差している。ガラスに張りついた雨粒が、向かいのビルの灯りをぼんやり滲ませていた。蒸し暑い日が続いていたのに、この会議室だけは別の季節みたいに冷んやりしている。

    「坂上さんからまた謎の会議、インバイトされてるんすけど…」

    アオイくんが声を潜める。

    営業本部マネージャーの坂上は、スクリーンの前で資料をめくっている。話している内容は、さっきからほとんど変わっていない。人を集めることが好きなのか、議事録を取らせることが好きなのか、そのあたりはよくわからない。それでほんとうに仕事が前向きに進んでいるなら、もちろん異論はないのだけれど。

    「変に逆らわないほうがいいよ。」

    私は小さく言った。

    「手帳開いて落書きでもしてたら終わるからさ。」

    「ほーい。」

    アオイくんの返事が思いの外大きく響いて、坂上の一暼が私の方に刺さった。お見通しだぞ、と言いたげな表情で、わざとらしい咳払いをして応酬される。私は資料を見るふりをして、口元だけで笑った。

    会議はなかなか終わらなかった。坂上の声はだんだん水槽の向こうから聞こえる音みたいに遠ざかっていく。私はメモを取るふりをしながら手帳に色んな形を描いて、頭の奥では昨夜の電話のことを考えていた。

    孤独を嫌いになんかならないでほしい。

    耳の中に残った声は、思い出そうとすると遠ざかり、忘れようとすると近づいてくる。ヨミチ。吉永道也。木曜日。こないだのバー。ひとつひとつの言葉が、決して埋まらないパズルのピースみたいに散らばっている。

    退屈な時間からようやく解放されてオフィスを出た。もっとも、ほとんど別のことに思考を巡らせる時間だったけれど。

    洗われたような雨上がりの空だった。ビルの自動ドアが開いた瞬間、湿った外気が頬に触れた。会議室の冷えきった空気に慣れた身体にはちょうどいい空気だ。アスファルトに浮かぶ大きな水たまりがビルの灯りを映し込んで、道路は黒い川みたいに光っている。その上をタクシーのテールランプが真っ赤に照らしながら滑り、コンビニの白い看板が水面の中で揺れる。

    「あかりさん、飯どうです?」

    アオイくんが後ろから歩いてきた。私より20センチほど高い身長の彼は、片手でバッグを肩に引っかけ、スマートフォンから視線を離さずに私に声をかけた。上司だ部下だをあまり意識しないフランクな関係を、私は割と気に入っている。ひとりで完結する仕事なんてつまらない。甘え合う方が効率がいいに決まっている、というのはもちろん私の持論だ。アオイくんの誘いに、いつもなら二つ返事だったかもしれない。でも、あの電話のことが気になっていた。返事もせずにぼんやり歩いていると、業を煮やしたアオイくんが催促した。

    「あかりさん、いきましょうよ。俺、こないだの話の続き、聞きたいんすよねぇ。」

    「仕方ないなぁ。いいよ、私も気晴らしがしたいし。」

    アオイくんは大げさにガッツポーズして、それが妙に可笑しかった。彼は懐に飛び込むことを怖がらない。この人のカノジョになったら、を想像したことだってある。たとえば、休日の昼、洗濯機を回しながら彼の寝癖を笑う。そういう風景が、想像できないわけではなかった。でもその先を考えるとすぐに幻滅した。恋人というより母親みたいになってしまう気がするから。

    バッグからスマートフォンを取り出すと、アオイくんがひょいと視界から消えた。水たまりを避けたのかと思ったら、彼はしゃがみ込んでいた。

    「ハンカチ、落ちましたよ。」

    差し出された手に促されるまま、私はその柔らかい布を受け取った。アオイくんが興味深そうに覗き込む。放っておくのが忍びなく、思わず持ってきてしまったのだ。雨上がりの街灯の下で見ると、そのハンカチは、曇り空の朝の海みたいな色をしている。

    「なんか書いてありますね、ほら。」

    指差された先を見る。端の方に、小さな白い文字が刺繍されていた。今まで気づかなかった。あるいは気づいていたのに、見ていなかったのかもしれない。白い糸は細く、布地になじむように縫い込まれている。

    「ジェノ・・・ああ、Jenolan Caves!こないだの話のとこじゃないすか?」

    白い糸で縫い込まれた文字を見た瞬間、ハッとして思わず大きなため息をついた。ジェノランケイブ。オーストラリア、ブルーマウンテンズにある洞窟群。真夏でも洞窟の中はひんやりとしていて、吐く息が少し白く見えた。濡れた石灰岩の壁は照明を受けて青く光り、足元ではどこからともなく水滴の落ちる音が続いていた。そして、あの人の手の温もり…

    洞窟を出た瞬間の眩しさを、今でも覚えている。

    白く、強く、容赦のない光だった。暗闇の中で見た夢を、外の世界が一瞬で暴いてしまうような光。この先もずっとこの人と歩いていきたい ー そんなことを、本気で思っていた。若くてバカみたいに真っ直ぐで、永遠を信じていたあの頃。でもその記憶は、もう私のものではないみたいに遠い。

    ハンカチと「ヨミチ」。
    洞窟と電話の主。

    まるで無関係だったものが、少しずつ同じ場所へ集まり始めている。意味があるのかもしれない。偶然なのかもしれない。その柔らかい布の上に刻まれた文字を指先でなぞった。忘れようとしている何かがこちらへ近づいてくる。

    「やっぱりあの電話のことは忘れよう。」

    私は誰に言うでもなく呟いた。

    「え、電話?」

    「なんでもない。」

    「絶対なんでもなくないやつじゃないですか。」

    「お腹空いたんでしょ。行こう。」

    そう決めてかぶりを振り、少し前を行くアオイくんに追いつく。彼はまだ何か言いたそうだったけれど、私の横顔を見て、いったん黙った。そういうところは、妙に勘がいい。

    ハンカチをバッグの奥へしまった。それでも、その柔らかい布の感触は、いつまでも指先に残っていた。まるで私のほうが、あの小さな四角い布の中にしまわれてしまったみたいに。胸の奥で、さっき見つけた白い刺繍の文字だけが、まだ暗い洞窟の壁に反響している。

    信号が青に変わり、人々が思い思いに歩き出す。雨上がりの風が、私の背中をそっと押した。

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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門



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