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『雨と海の底で愛して』 第3篇  grab

    ゴルフ用品店の角から脇道に入ると、街の音が少し遠くなる。緩やかな坂道の途中に、そのイタリアンレストランがある。大きな看板は出ていない。壁に絡まった蔦の脇に小さな木製の扉がある。雨に洗われた石畳は、電灯に照らされていた。店に入ると、テラス席の一番奥に案内された。ガラス窓の外のオリーブが地中海を思わせた。

    一通り注文を済ますとさっそく、冷えたグラスが運ばれてきた。細い泡の立つスパークリングワインが注がれる。グラスの縁がかすかに曇った。アオイくんはシャツの袖を無造作にまくっていて、腕だけが妙に夏の名残を引きずっていた。小麦色の肌は、夕方の光を受けるといっそう艶やかに見える。背が高くて、胸板が厚くて、スーツがよく似合う。笑うと顔がくしゃっと崩れる。その顔を見るたびに、神様は決して皆に公平ではない、と思う。

    グラスを合わせて口をつけると、薄い音が舌のうえで弾け、喉の奥へ落ちていった。アルコールで記憶をなくした割に、またお酒を迎えてしまう自分を情けなくも、嫌いではなかった。忘れたいほどの出来事がある、ということは人生にいろんな色があることなのよ、と母が笑いながら話していたことを思い出す。

    「で、洞窟の話ですよ。」

    アオイくんは前菜の皿が来る前から、本題に入ろうとしていた。

    「だって気になるじゃないですか。Jenolan Cavesって刺繍されたハンカチが突然あかりさんのバッグから出てくるんスよ。しかも、こないだ聞いたあかりさんの昔の『恋バナ』の?どう考えても続きありますよね。」

    店員がカプレーゼを置いた。白い皿の上で、モッツァレラとトマトがきれいに並んでいる。バジルの香りがふわりと立った。私はトマトをひとつ口に入れた。よく冷えていて、甘かった。

    「洞窟の中であんなこと言われたら、プロポーズじゃないんですか?」

    アオイくんはフォークを持ったまま、遠慮なく聞いた。

    「まだ酔ってないから話せない。」

    「俺、そういうあかりさん、可愛くて好きなんスよねぇ」

    この手の会話を、アオイくんは誰にでも展開できる。好意というものを、飴玉みたいにポケットから取り出して配る無邪気さで。

    「しかし、そんなに好きになるってあります? しかもお互いに一目惚れって。少女マンガとかでしか知らないですよ。」

    「もう昔の話だからね…」

    少年マンガしか読んでないくせに、とは言わなかった。グラスの中では、小さな泡がいくつも底から浮かび上がっては、表面で消えていく。

    「昔の話って、便利なんだよ。形が変わっても誰にも怒られない。自分の都合のいいところだけ、きれいに残せるじゃない?」

    Jenolan Caves.

    その文字を見るだけで、肺の奥に冷たい空気が流れ込む気がする。オーストラリア、ブルーマウンテンズ。シドニーから車で何時間も走った。窓の外に続くユーカリの森は、どこまでも青く煙っていた。洞窟の中は真夏でもひんやりとして、石灰岩の壁は照明を受けて淡く光る。天井から垂れた鍾乳石は、ぽたり、ぽたり、と長い時間、そのものを感じさせた。足元では、どこからともなく水滴の落ちる音がしていた。

    Akari, you are my angel.

    いつも私のことを天使だと言った。最中はとくに、何度も何度も名前を呼ばれた。それだけでうれしかった。

    「で、なんで別れたんスか?」

    目の前にはカプレーゼとスパークリングワイン、火曜日の赤坂。通りの向こうでタクシーが一台停まり、白いシャツの男が急ぎ足で降りてきた。店の中からはガーリックと焦げたチーズの匂いが漂う。

    「最後に会ったとき、ちゃんと指輪してたの」

    「指輪って、いわゆる結婚指輪っスか」

    「そう」

    言葉にすると、それだけのことだった。それだけのことなのに、あの日の私には、まるで世界の終わりだった。彼は私に会うとき、いつも指に何もつけていなかった。私はそれを、彼なりの誠意だと思っていた。今考えると、何を勝手に誠意と呼んでいたのだろうと思う。外した指輪の跡が、うっすら白く残っていることもあった。私はそれさえ、見ないふりをした。

    「その日は、指輪つけてきたんですね。」

    「うん。何もなかったみたいに。」

    アオイくんは少し黙った。それから、珍しく真面目な顔をした。

    「でも、それって相手が悪いっすよね」

    「悪いとかじゃないんじゃない?」

    「いや、悪いっす。好きな人にそういうことするのは悪いです。」

    そのあまりの真っ直ぐさに、私は少し泣きそうになった。こういう言葉を、あの頃の私が誰かに言ってもらえていたら、何か変わったのだろうか。わからない。人は聞きたい言葉しか聞かない。見たいものしか見ない。そして、痛みだけが遅れて本当のことを教えにくる。

    遠くの席から誰かの笑い声がこぼれた。鉢植えのオリーブが、風でかすかに揺れている。季節は確実に動いている。昼間の空はまだ夏の顔をしているのに、夕方の風だけが先に秋を連れてくる。パスタを食べて二杯目のワインを飲み、アオイくんは仕事の愚痴を言い放って、私は適当に相槌を打った。いつもなら私も一緒になって文句を言う話題だったけれど、今日は言葉があまり出てこなかった。

    店を出る頃には、空は深い藍色になっていた。テラスのランプに小さな虫が集まっている。アオイくんは時間潰しを満喫できたからか、やけに清々しい顔をしていた。俺、赤坂方面なんで、と軽やかに坂の上へ消えていった。

    ひとりになると、街の音が急に戻ってきた。坂道をとぼとぼと下る。電話の声とクラクションが、ビルの間をエコーしている。

    六本木通りに出る手前で、信号が赤に変わった。立ち止まると、白シャツに黒いベストを着た男が、不意に私の視界を遮った。

    「アカリさんですね? 清水あかり様。」

    私はまた、声を失った。三十代半ばくらいだろうか。背筋がまっすぐで、髪はきれいに撫でつけられている。磨かれた靴が、街灯を小さく反射していた。レストランの給仕係にも見えるし、どこかのホテルマンにも見える。知らない人間がまたひとり、現れてしまった。世界は私のことを知っているのに、まるで私だけが取り残されている。男は胸ポケットから、慣れた手つきで名刺を差し出した。

       BAR 雫
       岩崎拓弥

    その文字を見た瞬間、私は息を呑んだ。

    「私どもを探していらっしゃったかと。今から少し、お時間いただけませんか。お話したいことがございます。」

    岩崎と名乗った男は、丁寧に会釈してそう言った。

    こちらへ、と言って彼は、歩道の端に停まっていた黒塗りのレクサスを案内した。車体は夜の色に溶け込み、窓は深く暗い。後部座席のドアが静かに開けられる。人は普通、これを誘拐と呼ぶのかもしれない。でも先日の電話同様、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。むしろ、何かやるべき使命のようなものを感じたのだ。

    私は後部座席に乗り込んだ。シートは驚くほど柔らかく、身体が沈んだ。ドアが閉まると、外の音がすっと遠のいていく。窓の向こうで、六本木通りの信号が青に変わり、人々が一斉に歩き出した。岩崎は助手席に座らず、車の外に立ったまま一礼した。

    「後ほど、入口でお迎えいたします。」

    車はすぐに滑り出した。私は大きく息を吐き、目を閉じていた。車はしばらく走ったあと、重厚な門扉が構える邸宅の前に停まった。塀の向こうに、古い洋館の屋根が見える。門灯の光が、鉄の装飾を鈍く照らしている。車のドアが開くと、すでに岩崎が立っていた。

    「お待ちしておりました、清水様。」

    さきほど私を見送ったはずの男が、何事もなかったかのように門の前に立ち、再び深く一礼している。私はもはや、驚くことさえ忘れていた。

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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門


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