
『雨と海の底で愛して』 第4篇 sip
私は、そのバーにいる。
天井から垂れ下がる照明はなく、壁のところどころに埋め込まれた小さな灯りだけが、琥珀色の輪をつくっている。ほかに客の姿はなく、あちらのレコード盤から微かにピアノの音が聞こえた。カウンターの奥に置かれた古い柱時計が、几帳面に秒針を進めている。不思議なことに、息苦しいほどの静けさではなかった。正面の棚には、数えきれないほどの酒瓶が並んでいる。深い緑色のジン、細長い首を持つ透明なウォッカ。ラベルの文字は英語だけではなく、フランス語やロシア語らしきもの、見たことのない文字で書かれたものまであった。中身は透明だったり、薄い青だったり、夜空のような深い濃紺だったりした。
「何を飲まれますか?」
岩崎というその男が、心地よい声で私に尋ねた。
「えっと……ジントニック……にします。」
「かしこまりました。美味しい生姜があるんです。少し加えてもよろしいですか?」
「ジン……え、生姜?」
「ジンはもちろん、ドライジンでお作りします。ただ、思いついて生姜を入れてみたところ、存外、相性が良かったのです。お客様がよろしければ、お勧めしております。」
岩崎はそう言いながら、棚から深緑色の瓶を取り出した。ボンベイでも、タンカレーでもない。ラベルには、銀色の細い文字で何かが書かれていたが、こちら側からは読めなかった。彼は氷をアイスピックで削り、背の高いグラスに落とした。澄んだ氷が触れ合い、小さな鐘のような音を立てる。
カップに一滴もこぼさずジンを注ぐと、トニックウォーターを細く流し入れ、スプーンをグラスの底まで差し込んだ。氷を持ち上げるように、静かに一度、二度、かき混ぜる。最後に、木箱から生姜をひとかけ取り出した。皮を薄く剥き、銀色のおろし金に軽やかに滑らせる。生姜の鋭い香りが漂う。長い指を舞うその動きには無駄がなく、まるで儀式のようだった。思わず、その手つきに見惚れてしまった。
「お待たせいたしました。」
満足げに仕上げられた生姜入りのジントニックが、堂々と私の前に鎮座した。グラスの表面には細かな水滴が浮かび、底から小さな泡が絶え間なく立ち上っている。ライムの緑と、すりおろされた生姜の淡い黄色が、店の灯りのなかでかすかに揺れていた。私はグラスに口をつけた。冷たさのあとから、ジンの香りと生姜の辛みが追いかけてくる。訊きたいことは山ほどある。そんな私の心を読んだかのように、岩崎が口火を切った。
「当店は会員制でございます。ですので、普段は会員の方以外がいらっしゃることは、まずありません。文字通り、会員制ですから。」
会員という言葉を繰り返すことで、私がいかに珍しい客なのかを、彼は嫌味なく強調した。
「通常はお連れ様につきましても、事前にご登録いただきます。その後、所定の審査を経て、問題がなければ入店が可能となります。」
岩崎は磨き終えたグラスを光にかざし、曇りがないことを確かめてから棚へ戻した。
「ですが、清水様のご入店につきましては、吉永様のお連れ様ということで、特別に対応いたしました。吉永様から例外的なご要望をいただいたこと自体、この五年間で初めてでございます。大変恐縮ではございますが、清水あかり様について、こちらで多少、調査をさせていただきました。そして本日、無事に審査を完了されております。吉永様のご紹介ですので、会費につきましても免除されております。いわゆるオールインクルーシブで、入会金、年会費、そして当店でのご飲食代を含め、お支払いは一切必要ございません。」
訴訟を起こされても不思議ではない話を、岩崎は本人に向かって何の躊躇もなく説明している。会費を支払う必要がない点で、個人的にはトレードオフとも言えるけれど。電話の主はなぜ、私を連れだと言ったのだろう。
「清水あかり様」
フルネームで呼ばれ、思わずビクッと背筋が伸びた。柱時計の秒針は、私の気持ちとは裏腹に、穏やかに進んでいる。
「端的に申し上げますと、当店では記憶を取り扱っております」
「記憶を……取り扱う?」
岩崎は静かに頷いた。
「記憶の取引です。清水様の記憶は、あの日、吉永様がお買い上げになりました。今ファイルをお持ちいたします。」
私はずっと、言葉を失っていた。私の記憶を買った? 思わず、グラスの中に浮かぶ生姜を訝しげに睨んだ。
「それは高知県産の生姜です。」
私の視線に気づいた岩崎が、訊かれるより先に答えた。
「香りが高く、色鮮やかなのが特徴です。ジンとトニックウォーターのほかには、ライムと生姜が入っています。」
岩崎は、お待ちください、とカウンターの奥へ向かった。私はひとり、カウンターに残された。目の前の飲み物に何も細工をされていないとしたら、私は今、どんな現場に居合わせてしまったのだろう。このときばかりは、アトミック・ブロンドの主人公、ローレンみたいにカッコよくタバコをふかしてみたくなった。とにかく今は強い好奇心だけが、その話の続きにしがみついていた。