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『雨と海の底で愛して』 第5篇  discA

    岩崎は、いつの間にかカウンターの向こうへ戻っていた。その手には、黒い背表紙のファイルがある。厚さは三センチほどで、古い洋書のような革張りをしていた。背表紙に巻かれた帯には、「No. 18369」と記されている。独特のフォントだ。活字というより、カルテの管理番号みたいに見える。岩崎がファイルをカウンターの上に置くと、紙の束にしてはひどく重そうな、鈍い音がした。

    「記憶の売買は、まさに信頼の取引です。」

    ファイルに手を添えたまま岩崎が続けた。

    「バイヤー、セラー双方に一点の曇りもなく信頼関係が築かれていると判断された場合のみ、取引は成立いたします。その判断を管理するのが、私どもブローカーの仕事です。」

    ジンの銘柄を説明するときも、「この話」を説明するときも、岩崎の声の温度は変わらない。

    「大口の取引であればあるほど、その信頼度合いの強さが求められます」

    岩崎は白い手袋をはめ、ファイルの表紙を開いた。内側には薄い灰色の紙が綴じられている。ページをめくると確かに、私の署名があった。少し右上がりになる「あ」の文字も、最後の「り」をはらう癖も、間違いなく私のものだった。でも当然、そこに署名した覚えはない。この話が現実にあることだとも、到底考えられない。もしかしたら私は今、夢の中にいるのかもしれない。でも、ジンの匂いも生姜のざらつきも、署名を見た瞬間に胃の奥が縮む感覚も、あまりに鮮明だった。夢というのは、もっと無責任で、辻褄が合わないじゃないか、とひとり首を横に振る。私は黒いファイルから目を離せないまま、観念して口を開いた。

    「仮に、誰かの記憶を手にしたとして、その人は、その記憶をどうするんですか?」

    「大抵の方は、ご自身の記憶として定着させます。」

    岩崎は静かにファイルを閉じた。革の表紙が、私の署名を呑み込む。そして彼は何事もなかったかのように、棚から新しいグラスを取り出し、話し続けた。

    「たとえば、バイヤー様が多忙で、長期の休暇を取れないとします。その方が、セラー様のモルディブ旅行の記憶を購入される。白い砂浜、海の温度、夕暮れの空、現地で飲んだシャンパン。あるいは、美女と過ごした十日間…」

    「美女と十日間。」

    思わず繰り返すと、岩崎はグラスを磨く手を止めないまま、少しだけ目を細めた。

    「ずいぶん男性向けの例ですね。」

    「当店の顧客構成を反映したものかもしれません。」

    悪びれもせずに答えた。棚の酒瓶が、薄明かりの中で沈黙していた。琥珀色のコニャック。赤褐色のラム。夜の海のような濃紺の瓶に入ったリキュール。その隣には、細長い透明な瓶が並んでいる。瓶の底に、色のついた液体が沈んでいた。淡い桃色、若葉みたいな緑色やマリリンモンローの口紅みたいな真っ赤な色の液体。そういうものを欲するのは決まって頭のほうで、体のほうではない。

    「セラー側は、なぜ自分の記憶を売るんですか?」

    「理由はさまざまです。たとえば、不要になった記憶を処分したいという方もおられます。」

    岩崎は磨いたグラスを、丁寧に棚に戻した。

    「先ほどの旅行のような、比較的軽い記憶の取引を希望されるバイヤー様が多いようです。一度しか行かなかった土地、もう会わない人物との食事、顔も思い出せない恋人との休日。人生から切り離しても、日常生活への影響が少ないと判断される記憶程度のものかと。」

    一度しか行かなかった土地。もう会わない人物。顔も思い出せない恋人。そういうものが、自分の人生から切り離しても構わないものなのか、私にはわからなかった。

    「ただ、吉永様は特別です。」

    岩崎はそう言い、口をつぐんだ。言葉を途中で切ったというより、最初からそこまでしか話すつもりがなかったように見えた。彼はまた、手元のグラスを磨き始めた。布がガラスの表面を擦る、乾いた音だけが続く。

    「あの……吉永さんが特別、というのは?」

    「訓練を受けておられます。」

    「何の訓練ですか?」

    「私が申し上げられるのは、それくらいです。」

    彼は本当にそれ以上を口にせず、私ともさほど目を合わせようとしなかった。グラスの氷が少し溶け、生姜の辛みは先ほどより丸くなっていた。代わりにジンの苦みがはっきりと舌に残る。

    「岩崎さん。どうして、わざわざ誰かの記憶を買うんでしょうか?」

    旅行に行けないから。経験できない人生を味わいたいから。それだけの理由で人はほんとうに、誰かの記憶を買うのだろうか、拭いきれない疑問が沸々と湧いてくる。

    「どこかに旅した気分を味わうのであれば、たとえば、バーチャルツアーでも満足できると思いませんか。映像だって、今はかなり精巧でしょうし…」

    「記憶のディプロイ、つまり記憶を実装することは、そういった疑似体験とは格が違います。」

    岩崎は少し考えるように視線を下げた。

    「映像は、あくまで外側から眺めるものです。しかし、記憶には感情が伴います。海が美しかったという情報だけではなく、その美しさを見たときに心がどう動いたか。隣にいた人を、どれほど愛していたか。幸福の中に、どの程度の不安が混じっていたか…」

    岩崎は、カウンターの上に置かれた黒いファイルへ目を向けた。

    「セラー様の人生の断片が、記憶には色濃く反映されています。バイヤー様が購入するのは、出来事だけではありません。その瞬間に存在していた、ひとりの人間そのもの、なのかもしれません。」

    そう言い終える方が早かったのか、バーカウンターの奥に人影を感じた。壁に埋め込まれた鏡に、白いものが一瞬光る。

    気づいた岩崎は、忍者よろしく音もなくカウンターの端っこへ移動した。奥から姿を現したのは、銀髪をオールバックにした男だった。パリッと糊のきいた白いシャツに、深い紺色のスーツを着ている。肩の線も、袖口から覗くシャツの長さも、文句なく整っていた。ただ、銀縁の眼鏡の奥にある目は、とても穏やかだった。銀髪の男は、私の前にスッと立つと、胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。人差し指と中指を添え、無駄のない動きで私の手元へ滑らせる。シンプルな白地に黒い文字で、高橋ロバート、と記されている。

    「清水様、私どもから失礼がございましたら、何なりとお申し付けください。」

    高橋は、静かに切り出した。「総支配人」という印字を見逃さず、私は率直に物申すことにした。

    「正直なところ、何から自分の気持ちを話せばいいのかすら、わかりません。今、すべてが混乱しています。それはわかっていただけますか?」

    「もちろんでございます、清水様。」

    ジェントルマンの振る舞いを保ったまま、その総支配人は、間髪を入れずに答えた。私は、残っていたジントニックを喉の奥へ押し込んだ。グラスを置く音が、店内に思いのほか大きく響く。決して酔いたいわけではなかったけれど、何かに勢いを借りなければ、まともに話せそうになかった。

    「ご存じのとおり、私から、ある特定の時間の記憶がすっぽり抜けています。」

    高橋は黙って私の会話の続きを待っている。

    「酔って、断片的に記憶がなくなることは、お恥ずかしい話、今まで一度もないわけではありません。でも、その夜は本当に何もないんです。店を出たことも、そのあとどこへ行ったのかも、どうやって帰ったのかも覚えていません。それなのに、いきなり今夜、あの岩崎さんから声をかけられて…」

    カウンターの隅に目を遣ると、岩崎は相変わらず穏やかに、グラスを磨き続けていた。

    「挙句、記憶の取引だとか、私が契約書に署名したとか、吉永さんが私の記憶を買ったとか。そんな話を、当たり前のことみたいにされて。」

    声が少し震えた。怒っているのか、怖がっているのか、自分でもわからない。黒いファイルは、目の前でずっと黙秘を続けている。高橋は私が話し終えるまで、一度も口を挟まなかった。

    「清水様、ご説明申し上げます。」

    ようやく口を開いた彼の声は低く、よく通った。

    「どうぞもう一杯、ジン・アンド・トニックでよろしいですか?」

    私は拒否をする理由も思いつかず、こくりと頷いた。まるで赤べこみたいに、そこに自分の意思はない。高橋は表情を変えず、岩崎に目配せすると、空になったグラスはあっという間に手元から消えていった。かのバーテンダーは、シナリオに書いていたかのように、すでに深緑色のジンの瓶を傍らに備えている。私は改めて店内を見渡し、窓を探した。雨の音が聞こえたからだ。窓が見つけられない代わりに耳を澄ますと、レコード盤から心地よい雑音に乗せて、控えめなショパンが鳴り響いていた。

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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

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