
『雨と海の底で愛して』 第1篇 call
『雨と海の底で愛して』
あらすじ
ある夜、あかりのもとに、見知らぬ男から一本の電話がかかってくる。彼が語ったのは、彼女自身さえ知らない、ある日の記憶だった。
過去の記憶を売買できる時代。あかりはかつて、愛する人との時間を手放していた。もう開けることはないはずだった記憶を辿るうち、失われた恋と、封じ込めていた母への想いが静かに目を覚ましていく。
記憶を忘却の彼方へ置きたかった女と、他人の記憶を抱えて生きる男。二人の出会いが、止まっていた感情を再び動かしていく。
記憶は取引できたとしても、愛したこと、愛されたことは決して消えない。
喪失のその先にある再生を描く、近未来ファンタジー。
『雨と海の底で愛して』 第1篇 call
九月も最後の日曜日だった。時計の針は、午後八時を少し回ったところだ。昼間の空はなかなか夏の終わりを告げない。夜は夜で、もわっとした空気がまだ部屋の隅に残っていて、カーテンの下のほうを重たく揺らしていた。私は風呂上がりの髪をタオルで雑に包んだまま、キッチンの小さな冷蔵庫を開けた。小人みたいに整列している百ミリリットルのビールの缶を一本取り出し、威勢のいい音を響かせる。
ラジオでも聴こう、と手を伸ばしたけれど、今日はなんとなく頭を空っぽにしたかった。母がどこかからもらってきた「ラジカセ」なるものに目をやる。それは奇跡的にまだ動いていた。黒い箱型、角は丸く、ボタンは少し固い。たまに、無性にそれで聞くラジオが恋しくなるのだ。天気予報、道路交通情報、ポップミュージック、笑い声。知らない誰かと秘密を共有するような親密さと、あのざらついた音。そう、私にとってノイズは、なくてはならないものだ。
でも今夜は、とにかく何も考えたくなかった。部屋は、思った以上にしんとしている。テーブルの上には、読みかけの文庫本が、三冊も乱暴に置かれている。ただ、どれも今日の私には遠かった。文字を見る気にすらなれない。
bzzz...bzzz…bzzz
部屋の静けさが、一瞬で裂けた。テーブルの端に伏せて置いていたスマートフォンが、か細く震えている。画面が明るくなり、暗かった部屋の中に、青白い光が浮かんだ。表示される名前に、見覚えはない。けれど私は、反射的に電話に出てしまった。一拍、沈黙があった。
「あかり、孤独を嫌いになんかならないでほしい。」
電話の主は、開口一番、そう言い放った。この声をまったく知らないと言い切るには、どこかに引っかかるものがある。あかり。私の名前を、その人は当たり前みたいに呼んだ。
「え? だ……どちら様ですか?」
強く出たいのに、思った以上に弱々しい声で反応してしまった。電話の向こうで、短く息を吸う気配がする。驚いたのか、笑ったのか、そのどちらでもないのか、わからなかった。
「ヨミチです。」
その人はゆっくりとそう名乗る。夜道?
私はもう一度、画面を確認した。
吉永 道也
吉永道也?「夜道」らしき文字が見当たらない。電話をとっておいて今更、私は今、知らない人と会話している。声にはなんとなく聞き覚えがある。けれど、この人が誰なのか、皆目見当がつかない。
「来週木曜の件、覚えてくれていると嬉しいんだけれど。」
いきなり呼び捨てられて動揺したうえに、「来週木曜の件」も、知る由がない。言葉を失う、ということはこういうことなのだ。身体は椅子に座ったまま微動だにできず、でも耳が次の言葉を待っていた。
「聞いてるかな? もしもし?」
「あ……ごめんなさい、全く覚えてないんです。きっと酔い潰れちゃって。でもこんなに覚えてないって、なんだか信じられなくって……」
お酒を飲んで、細かい会話を忘れてしまうことは、たまにある。けれど誰かと約束をして、その人の名前も、顔も、場所も、何もかも抜け落ちるなんてことがあっただろうか。
電話の向こうで、救急車のサイレンが鳴るのが聞こえた。赤い光が電話の向こうの夜を回る。そして、サイレンが鳴り終わるのをたっぷり待って、「ヨミチ」と名乗るその人は言った。
「孤独が嫌いだって。でも別に友達が欲しいワケじゃない。それなのに、抱えきれない記憶が蘇って、どうしようもなくなる。だから君はお酒が好きなんだって。君はボクにそう教えてくれた。」
誰にも話したことがない、私の脳内だけの台詞だ。それを、会った記憶もない人が喋っている。さすがに少し怖くなった。
「ごめんなさい。でも本当に覚えてなくて。」
電話の向こうの「ヨミチ」は、少しだけ黙った。
「大丈夫。それはきっと、一時的なものだよ。約束したとおり、今度の木曜日、こないだのバーに九時に。ボクはたぶん先に着いてると思う。またそのときに話そう。じゃあ。」
その人は一方的にそう言い終えて、電話はあっけなく切れた。でもなぜか、悪い気はしなかった。ただ、記憶は本当にすっぽり抜けている。
約束?
ヨミチという人が誰なのかも、彼の言うこないだのバーがどこにあるのかも、まるで思い出せない。お酒を飲んで覚えていないことは、たまにはあったけれど、ここまで記憶がすっぽり抜けるなんて、信じられない。こんな時ほどアルコールを入れたい気もそぞろ、さすがに一口でも飲む気が失せた。アルミ缶に浮かぶ小さな水滴が、一本の線になってゆっくりとテーブルの方へ流れていく。
やっぱり「これ」と、何か関係があるのだろうか。私はテーブルの上に目をやった。手がかりはこれだけなのかと絶望的になりながら、電話の主に会いたい気持ちがあることに気づいて驚いた。会いたいというより、会わなくてはいけない。そんな気持ちが、沸々と存在していたのだ。それは好奇心ではなかった。どこか切実で、もっと不穏なものだった。
とはいえ、私は途方に暮れるしかなかった。
サックスブルー色のハンカチ。
部屋の中で唯一、私の所有物でないそれは、異様な存在感を放っている。落ち着くどころか胸騒ぎを煽るように、秒針の音は部屋の中で、やけに大きく響き始めた。