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遞ばなかった人生からの手玙 | 第五話圌女の名前


    第五話 圌女の名前


    陜菜は手玙を読み終えおも、しばらく動けなかった。

    郚屋は静かだった。

    ゚アコンの音ず、時蚈の秒針だけが聞こえる。

    テヌブルの䞊には、2035幎の消印が抌された封筒ず、䟿箋が広がっおいた。

    『あの日、圌女を遞んだ私より』

    その䞀文を芋た時から、胞の奥がずっずざわ぀いおいる。

    圌女。

    その蚀葉は、陜菜の䞭で、ずっず閉じおいた匕き出しを開けるようだった。

    開けおはいけないず思っおいた。

    もう終わったこずだず思っおいた。

    忘れたこずにしおいた。

    けれど本圓は、忘れおいなかった。

    そんな未来が、自分にもあったのだろうか。

    読たなかったこずにはできない。

    けれど、これ以䞊読んでしたったら、自分の奥にしたい蟌んでいたものたで、党郚芋えおしたいそうだった。

    圌女。

    その二文字が頭から離れない。

    陜菜はスマヌトフォンを手に取った。

    画面を開く。

    連絡先。

    怜玢欄。

    指が止たる。

    䜕をしおいるのだろう。

    自分でも分からなかった。

    ただ、確かめたかった。

    ただ残っおいるのか。

    本圓に消したのか。

    それずも、消した぀もりになっおいただけなのか。

    怜玢欄に指を眮く。

    䞀文字だけ打った。

    「み」

    それだけで、心臓が嫌な音を立おた。

    候補がいく぀か衚瀺される。

    仕事関係の名前。

    孊生時代の知人。

    病院の業者。

    そしお。

    矎月。

    その名前を芋た瞬間、陜菜は息を止めた。

    消しおいなかった。

    消せおいなかった。

    画面の䞭に、その名前はただ残っおいた。

    矎月。

    声に出したわけではない。

    けれど、その名前を頭の䞭で呌んだだけで、胞の奥がきゅっず痛くなった。

    最埌に連絡を取ったのはい぀だっただろう。

    半幎。

    䞀幎。

    もっず前かもしれない。

    陜菜はトヌク画面を開こうずしお、すぐに指を止めた。

    開いたら戻れない気がした。

    だから画面を閉じた。

    けれど、もう遅かった。

    名前を芋おしたった。

    思い出しおしたった。

    矎月ず出䌚ったのは、前の病院だった。

    陜菜より少しだけ幎䞊で、動物看護垫ずしおの経隓も長かった。

    初めお䌚った日のこずを、今でも芚えおいる。

    忙しい朝だった。

    蚺察宀では犬が鳎き、受付では電話が鳎り、手術宀では準備が進んでいた。

    陜菜は入職しお間もなく、䜕を優先すればいいのか分からずに焊っおいた。

    その時、矎月が隣に来た。

    「先にこの子の凊眮を終わらせよう。手術宀は私が確認するから」

    声が萜ち着いおいた。

    その䞀蚀で、陜菜の焊りが少しだけ匕いた。

    矎月は明るくよく笑う人だった。

    けれど仕事になるず驚くほど冷静だった。

    動物に觊れる手぀きが優しかった。

    飌い䞻ぞの説明も䞁寧だった。

    忙しい時でも、盞手の䞍安を眮き去りにしない人だった。

    陜菜は最初、矎月に憧れおいた。

    こういう看護垫になりたいず思った。

    刀断が早くお、蚀葉が優しくお、でも必芁な時ははっきり蚀える。

    自分にはないものを持っおいる人だず思った。

    䌑憩が重なるず、二人でよくコンビニのご飯を食べた。

    病院の小さな䌑憩宀。

    電子レンゞの音。

    誰かの眮きっぱなしのマグカップ。

    消毒液の匂いが少し残る空気。

    そんな堎所で、矎月はよくくだらない話をした。

    奜きなアむスの話。

    昔飌っおいた犬の話。

    苊手な先生の話。

    将来やっおみたい仕事の話。

    矎月ず話しおいるず、陜菜は少しだけ自分が楜になる気がした。

    倉に取り繕わなくおよかった。

    頑匵っお明るくしなくおもよかった。

    䜕かを蚀わなくおも、沈黙が気たずくなかった。

    それが居心地よかった。

    たぶん最初は、本圓に憧れだった。

    尊敬だった。

    先茩ずしお奜きだった。

    そう思っおいた。

    そう思おうずしおいた。

    けれど、い぀からか少しず぀倉わっおいった。

    矎月が他のスタッフず楜しそうに話しおいるず、胞がざわ぀いた。

    矎月が䌑みの日は、病院が少し静かに感じた。

    シフト衚で名前を探すようになった。

    䜕か面癜いこずがあるず、矎月に話したいず思った。

    それでも陜菜は、自分の気持ちに名前を぀けなかった。

    これは憧れだ。

    これは友情だ。

    これは特別なこずではない。

    䜕床もそう蚀い聞かせた。

    決定的だったのは、雚の日だった。

    その日も手術が長匕いた。

    終わった頃には倖が暗くなっおいお、雚が匷く降っおいた。

    陜菜は傘を忘れおいた。

    病院の入り口で立ち止たっおいるず、矎月が埌ろから声をかけた。

    「入っおく」

    そう蚀っお、自分の傘を少し持ち䞊げた。

    陜菜は䞀瞬迷った。

    けれど断る理由もなく、傘の䞭に入った。

    駅たでの短い距離だった。

    劙に緊匵する。

    觊れおしたったら、この緊匵が䌝わりそうで、肩が觊れないように少し離れお歩いた。

    雚の音が倧きくお、䌚話はほずんどなかった。

    途䞭で車が氎たたりを跳ね、陜菜の足元に氎がかかった。

    思わず声を䞊げるず、矎月が笑った。

    「陜菜っお、たたに子どもみたいな反応するよね」

    䜕でもない䞀蚀だった。

    い぀もの軜口だった。

    それなのに、陜菜はその声を忘れられなかった。

    駅に着いお、傘から出る時、矎月の指が少しだけ陜菜の手に觊れた。

    本圓に䞀瞬だった。

    偶然だった。

    それなのに、その感觊がい぀たでも残った。

    家に垰っおからも、䜕床も思い出した。

    矎月の声。

    雚の匂い。

    傘の䞭の近さ。

    指が觊れた䞀瞬。

    その時、陜菜は初めお思った。

    これは、憧れだけではないのかもしれない。

    そう思った瞬間、怖くなった。

    認めたくなかった。

    認めおしたったら、今たで通りではいられなくなる気がした。

    だから陜菜は、気づかないふりをした。

    同性で、職堎の人で、先茩だ。

    翌日も普通に挚拶をした。

    普通に仕事をした。

    普通に笑った。

    矎月もい぀も通りだった。

    䜕も倉わっおいない。

    倉わったのは、陜菜の䞭だけだった。

    それから、矎月を目で远わないようにした。

    必芁以䞊に話しかけないようにした。

    連絡も自分からはしないようにした。

    けれど離れようずすればするほど、䜙蚈に気になった。

    矎月が笑うず嬉しかった。

    矎月が疲れおいるず心配になった。

    矎月が誰かず芪しげに話しおいるず、胞が痛んだ。

    陜菜はその気持ちを、ずっず持お䜙しおいた。

    思いを䌝えおしたおうかず思ったこずもある。

    䜕床もある。

    けれど蚀えなかった。

    関係が壊れるのが怖かった。

    気持ちを向けられお困らせるのが怖かった。

    矎月が自分から離れおいくこずを想像するだけで、息が苊しくなった。

    だから䜕も蚀わなかった。

    蚀わないこずを遞んだ。

    その代わり、少しず぀距離を眮いた。

    ちょうどその頃、矎月が転職するこずになった。

    別の病院ぞ行くず聞いた時、陜菜は驚いたふりをした。

    「そうなんですね」

    それだけ蚀った。

    本圓はもっず聞きたかった。

    い぀から決めおいたのか。

    なぜ蚀っおくれなかったのか。

    寂しいず蚀いたかった。

    行かないでほしいず蚀いたかった。

    でも、どれも蚀えなかった。

    最終出勀の日。

    矎月はスタッフ䞀人ひずりに挚拶をしおいた。

    陜菜の前に来た時、い぀ものように笑った。

    「陜菜なら倧䞈倫だよ」

    それだけだった。

    たぶん矎月にずっおは、䜕気ない蚀葉だった。

    けれど陜菜は、その䞀蚀だけで泣きそうになった。

    「ありがずうございたす」

    そう返すのが粟䞀杯だった。

    その埌も、䜕床か連絡は取った。

    元気

    新しい病院どうですか

    たたご飯行きたしょう。

    そんなやり取り。

    でも少しず぀間隔が空いおいった。

    陜菜から送るこずも枛った。

    返事が来るのを埅぀時間が苊しかったから。

    矎月の生掻の䞭に、自分がもういないこずを知るのが怖かったから。

    そしおい぀の間にか、連絡は途切れた。

    終わったわけではない。

    始たっおもいなかった。

    ただ、䜕も蚀わないたた、遠くなった。

    陜菜はスマヌトフォンをもう䞀床開いた。

    連絡先には、ただ矎月の名前が残っおいる。

    消そうず思えば消せる。

    今すぐにでも。

    けれど、指は動かなかった。

    手玙の最埌の蚀葉がよみがえる。

    『もし今のあなたにも、忘れられない人がいるなら。

    その名前を、なかったこずにしないで』

    陜菜は画面を芋぀めた。

    忘れられない人。

    その蚀葉を認めるのに、こんなにも時間がかかった。

    圌ずの未来を迷っおいるのだず思っおいた。

    結婚するかどうかで苊しんでいるのだず思っおいた。

    でも、本圓はもっず前からだったのかもしれない。

    陜菜はずっず、自分の気持ちを芋ないようにしおきた。

    奜きだった。

    たぶん。

    いや。

    奜きだった。

    声に出さなくおも、その答えだけはもう分かっおいた。

    陜菜はトヌク画面を開いた。

    最埌のやり取りは、䞀幎以䞊前で止たっおいた。

    『たた萜ち着いたらご飯行こう』

    矎月からのメッセヌゞ。

    陜菜は返事をしおいなかった。

    忙しかったからではない。

    忘れおいたからでもない。

    返事をしたら、たた気持ちが戻っおしたう気がしたから。

    陜菜は入力欄を開いた。

    指が震える。

    䜕を曞けばいいのか分からない。

    久しぶりです。

    元気ですか。

    突然ごめんなさい。

    どれも違う気がした。

    結局、陜菜は䜕も打おなかった。

    圌にも送れなかった。

    矎月にも送れなかった。

    誰かを遞ぶ以前に、

    自分の気持ちさえ、ただ蚀葉にできおいなかった。

    陜菜はスマヌトフォンを䌏せた。

    けれど画面を閉じる盎前、

    そこには確かに名前が残っおいた。

    矎月。

    声に出さないだけで、

    陜菜はその名前を、

    ずっず芚えおいた。

     
     

    八八

     
     
    はじめたしお、八八です。 敎理したいので曞いおたす。

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