
短編小説「私の空」
〈あらすじ〉
終末世界を生きるたった二人の人間、父と娘は、互いに「空を見ること」に憧れている。娘が見つけた本当の空とは?
娘が部屋の電気を点けると、灰色の壁全体に大草原の映像が投影された。群青色の空と、神が降臨しそうなほど激しく輝く太陽が、白いベッドに横たわる父の閉じた瞼を一瞬痙攣させる。空は父の好きな映像だ。父は薄く目を開け、手元の時計が示す時刻と空の映像を見比べてから、その血色の悪い顔を、やってきた実の娘に向ける。
「まだ私の世話をするのか。こんな老人はほっとけ。もう死ぬのだから」
「それは困ります、お父さん。末期がんでも治療で何年も生き続けた人はたくさんいます。それに、もしあなたが死んでしまったら、地球上の人類は私一人になってしまう」
娘は父の点滴を交換し、吐瀉物の入ったゴミ袋の口を縛った。
「それに、聞きたいのです。この地球上で何があったのか。どうして私たちは核シェルターで暮らさなくてはならなくなったのか」
「何度も言っておるだろう、お前にその話は早すぎる」
「お父さんが生きているうちにお話を聞きたいのです」
映像の中で風がふき草がなびいたが、娘の長い髪を揺らすことはなかった。娘はその幻の風を肺に満たし、ふう、と吐き出す。
「どうか許してください。実は最近、お父さんの書庫を出入りしていました。『せんそう』や『ぜつめつ』があったのだと知りました。どうしてか、それが何なのか知っておかないと、気が済まないのです」
父はため息をついた。だが無許可で書庫に入った娘を咎めることはしなかった。まるでそれが逆らえない自然の摂理であるかのように、そして娘の未来を見届けたかのように、父は瞠目してその事実を受け入れる。
「そこまで知ったのなら、少しは教えてやろう……。私とお前が生きているうちに」
それからの一週間は、娘の人生の中で最も有意義な時間だった。過去という実体のない概念について想像することは、娘にとって実に新鮮なことだったからだ。以下は、父が娘に話した内容である。
二十数世紀末、核兵器保有による相互確証破壊という幻想が打ち砕かれた。判断ミスを犯したAIが核弾頭を誤って発射したことが引き金となり、核戦争へ突入。世界人口は数週間のうちに三分の一にまで減少した。現在もシェルターで暮らさなくてはならないのは核戦争の残した放射能汚染から身を守るためだ。かつては多くの人が各地のシェルターで狭苦しい避難生活を送っていたが、食糧が尽きては生きることはできない。世界中にあるシェルターの中で、食糧の自動栽培機能と種子保管庫があるのはここだけだった。
核戦争終結から十数年が経ち、娘は遥か昔に冷凍保存された、名も知らぬ母の卵子から産まれた。
父は一週間毎朝、欠かさず話を聞かせてくれた。娘はコーヒーや紅茶を片手に、時に父の冷や汗だらけの手を握りながら、ひと言も聞き逃さまいと耳を研ぎ澄まして傾聴した。
そして八日目の朝、父は何を話すこともなく静かに息を引き取った。父の最期の言葉は、ふと漏らした昨晩の独り言だった。
――今、本物の空、見たいなあ……。
娘の脳裏にしつこくその言葉がまとわりつく。壁に空を映せば空を見ることができる。いつのものかは分からないが、本物の空の映像だ。それなのに。父の真意は何なのだろう。それを確かめたいという思いを、父の死が後押ししている。なぜだろう。この衝動は何なのだろう。最後の人類としての孤独の埋め合わせか? 父の死という事実からの現実逃避か?
「……お父さん。私が代わりに、お父さんの願いを叶えてきますね」
娘は父の耳元でそう囁いてから、部屋の電気を消した。壁から青空が消える瞬間を見届ける前に、父の亡骸を残して部屋を後にする。階段を上り、父の魂を抱えながら、空という最も既知の存在へと向かう。だが父の漏らした独り言には、何か未知の要素が込められている気がしてならない。
シェルターの最上階は相変わらず金属だらけの銀世界だったが、扉だけはくすんだ黄色をしていた。好奇心で父の書庫に入った時のように、娘はボタンを押して扉を解錠する。
轟音と共に、何十年も休んでいた両開きの扉が開き始めた。群青色が漏れ出し、風に乗って白い雲が流れる。そんな光景が脳裏に浮かぶ。ところが視界に入ってきたのは、全く予想外のものだった。
暗闇。娘は恐る恐る外へ出る。裸足がコンクリートと擦れ、心臓ごと飛び上がりそうになった。しかしそれより気がかりなのは空だ。空がない。真っ暗で……。
待った。何かが見える。光る小さな粒だ。空の欠片だろうか。落ちてくるかもしれない!だが逃げることはしなかった。どのみち放射線の急性症状でもうすぐ正気を失う。娘は自然の摂理として、空のない空と落ちてこない光の粒をひたすら見上げ続けた。かつての人類がしていたように。しかし今、空を見上げられるのは娘だけ。星座を作ることができるのは娘だけ。
娘は知った。
父の独り言は、そういうことだったのか。
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