
吾輩は猫なのだろうか 第1話 猫になる前の記憶
【あらすじ】
吾輩は猫である。だが少し前までは、銀行のシステムセンター長だった——。
飲み会の夜、赤い満月の下で倒れた伊藤友明は、気がつくと一匹の猫になっていた。飼い主は、職場のパート・慶子さん。巨大なシステム統合に明け暮れ、家庭を顧みる間もなく走り続けた日々。猫として過ごす数日のあいだに、妻にとうとう言えなかった「ありがとう」が、静かに甦ってくる。
拾ってくれた慶子さんの膝の上で、なぜ自分は猫になったのか、吾輩は静かに考えはじめる。
五十二歳の男が、猫の目で辿り直す不器用な半生(第一部)。その先に待つ、もう一つの長いお別れの物語(第二部)。
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吾輩は猫である。
だが少し前までは、サラリーマンだった。
猫での名はタロウという。タロウという名前に深い意味はたぶん無い。
人間であった頃の名は伊藤友明という。
友明という名前は、亡き父と現在介護老人施設で暮らす母が「友達や周囲の人を明るくするような人物になって欲しい」という思いを込めて名付けてくれた名前である。小学生の頃、母からそう聞いた。
今、吾輩は飼い主である慶子さんの膝の上にいる。
温かい手が、背中をゆっくりと撫でている。窓の外には満月が見えた。
なぜ、こんなことになったのか。
それを話すには、あの夜まで時を戻さねばならない。赤い満月が出た、十一月のあの夜まで——。
吾輩はまもなく五十二歳になる、銀行に勤めるサラリーマンだった。
三か月前の夏の人事異動でシステムセンター長となり、このシステムセンターに着任した。
システムセンターは、みなとみらいの高層ビルの一フロアにあった。蛍光灯の白い光と空調の低い音だけが満ちる、季節の匂いも外の風も届かない場所だった。
そこでパートとして働いていたのが、佐藤慶子さんである。
システムセンターには行員と派遣社員、パートさんの総勢八十名ほどが在籍していた。慶子さんは総務担当のパートで、十年ほど前から勤務している。
着任当初から、慶子さんには名刺の作成や取引先との日程調整など、色々と頼むことが多かった。人事異動のないパートさんは長年の経験からセンターの事情に誰よりも詳しく、慶子さんはとくに頼りになる存在だった。
吾輩は着任してから二か月ほどかけて、八十名全員と個別面談をした。コロナで全員がマスクをしていたため顔と名前を覚えるのが大変だったが、慶子さんとも二十分ほど話す機会があった。
慶子さんは現在五十五歳で、長女がもうすぐ出産予定、長男は昨年就職し、今は夫と二人暮らしだという。
「私より三つも年上なんて見えませんよ。四十歳過ぎくらいだと思っていました」と伝えると、
「センター長、冗談はやめて下さい。いつもマスクで顔を隠しているからですよ」
と、少し恥ずかしそうに言った。
冗談ではない。本当にそう見えた。髪が長く背が高く、スラリとした人だった。普段は白いマスクだが、面談の時は淡い桜色のマスクをしていて、色白の慶子さんによく似合っていた。
事前に、慶子さんがお酒好きだと聞いていたので、「飲み会が解禁されたら、皆で飲みに行きませんか」と誘うと、「ええ、是非」と嬉しそうにうなずいてくれた。
「嬉しそうに」は、吾輩の思い込みだったかも知れない。
ちなみに吾輩が「慶子さん」と呼ぶのは、センターに佐藤姓が三人いて、皆それぞれ下の名前で呼んでいるからで、それ以上の意味はない。
面談の記録を書き込んでいると、先に面談を終えていた高橋佳乃さん——慶子さんより三歳年上の、よく人を見ているパートの女性が、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「センター長、慶子との面談の時、緊張してたでしょう。意識してたからですよね? 私の時は全然普通でしたから」
図星であった。
「いえ、皆さん同じですよ」
とその場を繕ったが、素敵な慶子さんを前に「意識しないようにしよう」と、実は相当意識していた。
ある日、システム部時代の元部下が、育休からの復帰の挨拶に来た。三十代の明るい女性で、赤ちゃんの写真を見せてもらった。その彼女が去ると、高橋さんがすぐ席にやってきた。
「センター長って、若い子より年上が好みなのね。今の子より、慶子と話してる時の方が、断然嬉しそうでしたよ」
「そんなことありませんよ。若い女性は、自分の娘のように見えてしまって……」
「じゃあ慶子のことは、どういう目で見てたんですか」
その時たまたま電話が鳴ってくれて、高橋さんは残念そうに自分の席へ戻っていった。これも、図星だった。
誰にも言えないが、慶子さんは吾輩の心のマドンナであった。
吾輩が八月一日に着任した頃、コロナの流行で行内の飲み会は制限されていた。それが十月下旬になって、四人以内という条件付きで解禁された。
そして十一月上旬の、ある水曜日。まさに猫になる直前まで、吾輩は慶子さんと高橋さん、もう一人の女性と四人で、着任後初めての飲み会の席にいた。
行きつけの、昭和の匂いのする焼き鳥屋だった。お酒が進むにつれ、職場の人間模様や、それぞれの仕事の大変さなど、話題は少しずつ広がっていった。
やがて、カラオケの話になった。三人は世代が近く、「私は今井美樹のプライド」「私はプリプリのダイヤモンド」と、吾輩も知る懐かしい曲名を挙げていく。
肝心の慶子さんが「私は」と言いかけた瞬間、高橋さんがすかさず割って入った。
「慶子はいつも『真夜中のドア』をノリノリで歌うのよね。それで最後はしっとり『オリビアを聴きながら』。だいぶ昔の彼を思い出して、ね」
慶子さんは「もう佳乃さん、やめて下さい」と恥ずかしそうに言った。
吾輩は、どこの誰かも分からないその男に、少し嫉妬した。
お淑やかに見える慶子さんが、あの曲をノリノリで歌う姿を想像して、思わず吹き出しそうになった。
「センター長は、どんな歌を?」と聞かれ、「カラオケは苦手で、あまり行かないんです」と答えた。
「意外。毎朝の朝礼であんなに話されるから、てっきり歌もお得意かと」
「いえ、あれは仕事の連絡だけですよ」
「だったら、たまにはお仕事以外のお話もされては? 学生時代のこととか。センターには、学生のお子さんがいるご家庭も多いですし」
慶子さんは優しく微笑んで、そんなアドバイスをくれた。吾輩が学生時代のアルバイトの話をすると、慶子さんは声を上げて笑ってくれた。
ふと、妻の顔が浮かんだ。今夜、家で一人、玲子は何をしているだろう。夕食は食べただろうか。美月が大学の寮に入ってから、二人きりの夜が増えていた。それなのに吾輩は今、焼き鳥屋の隅で、他の誰かの話で声を上げて笑っている。
慶子さんの笑い声が、また一つ弾けた。
お酒が進んだ頃、高橋さんが唐突に話題を変えた。「センター長、慶子、猫を飼ってるのよ」
すると慶子さんは、それはもう嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そうなんです。もう猫が好きで好きで、好き過ぎちゃって。帰るといつも膝に乗せて、メチャクチャにいじってあげるの。その感触が気持ち良くって、本当に癒されるわ。匂いも大好き。もしかしたら、もうすぐ生まれる孫よりも可愛いって思っちゃうかも」
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なぜ、あの夜、吾輩は猫になったのか。慶子さんとは、いったい何者なのか——答えはまだ、ここにはない。
(第2話「赤い満月の夜」へつづく)
この作品は全24話の連作です。
第一部 満月と缶チューハイ(19話)
第二部 長いお別れ(5話)