
AIに奪われた私が、同時に暴かれたもの。
人に反対されても、才能がないとしても、たとえ無駄だとしても、
それでもやりたいこと、いや、やってしまうくらいに好きなことがあなたにはありますか。
私はずっと逃げていました。
無意識だったけど、年齢を重ねるほどに言い訳をこねくり回しては難しくし、本命から目を逸らし続けてきました。
好きなこと、やりたいことがわからない人へ。
私はひと足さきに自分の心に素直になっちゃいました。
私の"好き"はどこへ消えた?
大学生の時に書いた記事を読んで、下手くそすぎてびっくりした。
リライトしてやろうと思って書き出したのはいいが、もっとびっくりしたことがある。
なんと、"苦手なこと"と"好きなこと"がわからなくなっている。
均質化、標準化、誰でもできることはAIにできてしまうこの世の中で、5年前の私が書いた主張は、今の私の胸をえぐる。
万人受けが成功する時代は終わった。
つまり、平均的なものはもうさほど魅力的じゃない。
(中略)
だから、つまり、人が難なくやっているように見えることを嫌になる程努力してもできないなら、自己嫌悪に陥る前にさっさと諦めたら良いじゃないか。
努力して克服したところで、得られるのは忍耐力と達成感だ。
しかし、人並みにできるようになったところで、この世界では平均的なものはもう役に立たない。
この記事を書いた頃は2020年頃だから、まだまだAIなんて登場していなかったが、その時ですら平均点は役に立たない時代だったのか。
文章だって画像だって動画でさえも、目に入るコンテンツはAIが作った"見たことある気がするもの"が出回っている。
100均一ができて、大量生産のプラスチックの品々が広まった時も、ちょうど今と同じ感じだったのかな。
苦手という認識ができるときならまだしも、今は苦痛を感じる前にAIでできてしまうのだ。
大人になると授業も宿題もないし、私の仕事はもっぱらデスクワークなので本当にほとんどAIでできちゃうのだ。
今の生活において感じる苦手なことといえば、朝起きることくらいだ。
大学生の頃の私からしたら天国なのかもしれない。
苦手なことはAIがやってくれ、好きなことに時間をかけられる日々。
でも、その時代に生きている、大人になった私には思ってもみない現実に直面している。
「趣味は仕事です」本気で答えてた1年目。
社会人1年目。
インターンをしていた会社にそのまま内定をもらい、14年目のIT会社バックオフィス配属。
部署は私以外はほとんどリモートで、私が入った年に直属の上司が3ヶ月で長期育休に入ってしまい、私の上司代理は専務になった。
役員全員営業出身だからということもあり、うちの会社ではバックオフィスにあまり評価も発言権もなかった。
負けん気だけはかなり強かった私は、1年目ながら生意気に真正面から文句を言いながらも、絶対に成果を出してやると食い下がった。
ちょうど私の入社年にGPT3.5が世の中に出て、私はそれを使って年間でも
結構な額の外注費用を削減した。
その技術は売れると研修事業も立ち上がり、商談に技術者としてついていくこともあった。
新商材を作ったりもした。
AIのおかげで、それを扱う部署だったおかげで、私は1段飛ばしに昇進した。
私が作ったもので会社のお金が変わったり、戦略に影響を与えられたと思うと誇らしかった。
今考えると運が良かっただけなのだが、あの時の私は承認欲求の塊だったから当たり前の評価だ、なんなら足りないとすら思っていた。
それくらい、私は人の評価と社会的な結果を求めていた。
好きなことをAIに寝取られた4年目。
ほんの1年前までは私は仕事が大好きだった。
終業して家に帰ってご飯を食べてオフィスに戻るし、土日も特にすることがないとオフィスに行くくらいに。
でも、今思えばあれは依存だったのかもしれない。
別に依存でもいいのだが、私が依存していたものは今AIに取り上げられそうになっているのだ。
人に評価されること。アルゴリズムの数字を稼ぐこと。
外の評価を得るために、"日々奮闘し頑張っている自分"、が好きだったのかもしれない。
努力すらさせてもらえなくなった世界で、私の生活にはAIに取って代わられてもいいことばかりが残っているかもしれないという事実に気づいてしまった。
私が好きでやっていると思っていたことは、本当は好きじゃなかったのだ。
面倒臭さが好きだったんだろうか、いや、その面倒臭さのおかげでゴールが遠くにあり、手に届かないそれはキラキラと輝いて見え、それを達成する困難さによって束の間の幸福感を得ていたのかもしれない。
それ自体を愛していたわけではなかったのだ。
もし本当に愛していたら、AIで簡単にできることを便利だとは思わないだろうし、こんなものでは満足できないとAIに譲らせなかったはずだから。
私は、失って初めて気づく大切さの逆を体感したようだ。
失ったものは、失う前は宝物だと自負していたものが、
実はありきたりで、私が絶対的に好きなものではなく、外からの評価に揺さぶられる相対的なものでしかなかった。
好きなことを早く見つけなきゃ。
私は自分が熱狂するほどのものがないことに気づいて、自分には何かが足りないと焦ったり憂鬱になったりを繰り返しながら、いろんなものを齧っては試し始めてみた。
でも、中々ビビッとくるものは見つからずもの足りなさは解消されない。
それでも諦めずに、散歩をしたり、本を読んだり、動画を見たりしていたがやっぱり見つからない。
そんな毎日の中でふと思い出した。
「好きなことを仕事にしようなんて思うな、人の役に立ってこそ仕事である。だから自分を満たせば満足できる好きなことなんて、一人でやっていればいい。それに好きなことが人の評価のもとに晒されると楽しくなくなる、純粋じゃなくなる。だから両面から考えてやっぱり別にすべきだ」と。
そんな話をどこかで読んで、妙に納得した覚えがある。
好き = 自分を満たすこと
仕事 = 他人を満たすこと
であるならば、仕事が楽しくないというのは問題じゃないのかもしれない。
好きなことで自分が満たされて、他人を満たすために仕事をする、この論理だとするならば仕事に楽しさを求めていたのがそもそも間違いであった。
では、仕事に私を満たすものを求めないのだとしたら、いよいよ私は依存し切っていた仕事以外の領域で本物の"好き"を見つけなければ。
ん?…
いや、待てよ、
私はそもそも、食べることは好きだし、本を読むことも好きだし、音楽を聴くことも好きだし、何よりこうやって文章を書くことも好きだ。
そして今全てできている。
じゃあ何が足りない?
共有したいのだ。伝えたい。この思いを。
これだ!!
この同じ感覚をみんなにも味わってほしいというこの"想い"が満たされなさを感じているのだ。
自分はすでに満たされているのに、一人だと味わい切らないから外にまで伝えたいのだ。
物足りないと思っていたことは、足りないのではなく余っていたのだ。
これが、よく自己啓発などである、今あるものを見つめなさいってやつのなのか!
ふっと体の力が抜け口元も緩んだ。
かけていたメガネを拭き直したような、視界が数秒前よりくっきりした、そんな体感だった。
つまり私は、足りないのではなく、中途半端に余っているのだ。
シャンパンタワーの1つ目のグラスはすでに満杯で、2つ目のグラスにちょっとだけ入っている状態だ。
でもこの状態では、2つ目のグラスからしたらありがた迷惑だ。
そう、私のこの中途半端なお裾分けじゃあ人を満たすことはできない。
自分満たし以上他人満たし未満。
そこに怠慢があったのだ。
だから必要なのは、魂の願いでも運命の出会いでもなく、好きを届ける技術とそれを磨く勇気だった。
今すぐ転職して好きを仕事にする気はない。
でも好きを自己満足では終わらせたくないくらいのステージには来ているらしい。
私の好きの原点。
私が書くことを好きになったのは、ある女性からの手紙がきっかけだった。
幼い頃から本は好きだった。
中学生の頃軽いイジメにあってもっと本が好きになった。
いつか私もあの時私を救ってくれた本のようにそんな言葉を世界に残せたら、そうぼんやりと小さな想いは本を読むたびに少しずつ根付き始めていた。
高校生の夏休みの宿題で書いた作文が県で大賞に選ばれ、新聞に全文が掲載された。
『私の読書論』というテーマで、一番好きな本との出会いについて本のタイトルを明かさずに書いた。
賞が取れたことよりも嬉しかったのは、その新聞を見た方から直接手紙が届いたことだった。
あなたの言葉に元気をもらった、その本のタイトルをぜひ教えてほしい
手紙にはそう書かれていた。
私の言葉で、誰かの心が前を向き、行動まで起こさせた。
そのたった一つの出来事で、私は自分の才能に自信を持ってしまった。
これをいまだに握っているなんて、傲慢だし、根拠もないし、頼りない。
でもそれでいい。その一欠片に、私の熱狂がまだ残っている。
というかもう、これしかないのだ。
さて、ここからです。
改めまして。
私が好きなことは、私が見えている世界を人に伝えること。
今までは私が見えているだけで良かった。それで満足できていた時もあった。
でも途中から伝えたくなって。で、伝わらなくて悲しんで。本当にやりたいことだからこそ、本命だからこそ、伝わらないことに傷ついて。
いつからか私は逃げるようになっていた。
本当に、本当に、心の底から好きなことから。
それが"書くこと"だったんですね。
もちろん伝える方法はたくさんあると思う。
でもね、色々やってみたんだよ。
料理してみたり、写真撮ってみたり、DJまでしたり。
でもそれはことごとく自分より上手な誰かと比べて、もしくはAIによって、簡単に手放すことができた。
自分じゃなくてもいいかもって。
逃げたその先で、手っ取り早く人から求められることで、私はその物足りなさを埋めようとしたのに、AIのせいでそれすら奪われた。
崖っぷちまで追い詰められた私に、文章だけは、書くことだけはなぜかどうしても消えなかった。
私にしか見えない世界があって、そしてそれは私にしか書けない言葉で世界に届けるべきだと、心の片隅で手放せなかった。
26歳の誕生日まで2ヶ月を切った今、
社会人も4年目に突入してマンネリ化してきた今、
お酒も、恋も、趣味も、なんかいまいちパッとしない今、
AIに中途半端を全て分取られた今、
私は"書くこと"と向き合うことにした。
自分が気持ちよく書けたらいい、書きたいときだけでいい、目標なんてないし、別に本気でやらない、傷つくのが怖いから。
そんな気持ちは封印して、書くことをここから本気でやってみようと思う。
最後に
好きなことがない、毎日がなんだか物足りない。
そう思ってる人は結構多いんじゃないかな。
そして人間の脳は、大人というものは、変に賢くなるもので。
虚無感を正面から認めずに、その辺に転がってるなんとなく刺激的な誘惑的なもので暇を凌いでしまう。
でも、このAI時代、そんな自分への巧妙な嘘も明るみに出ます。
好きだと気づいているなら素直になってしまいましょう。
今こそ、本気を出す時かもしれません。
足りないと外側を探し回るのではなく、実は自分は有り余っているのではないかと、意識を反転させてみてください。
実はずっと握りしめていたりするものですよ。
熱狂し始めた私をどうか暖かく見守っていただけると幸いです。
というより、私の熱が少しでも伝染してあなたなりの熱狂に飛び込んでたりしたら最幸です。